第18話 小説的な、余りに小説的な
ある、冬の日のことだった。上空では風が強く吹いているため、浮雲が猛スピードで流ていく。
斜陽が窓から差し込む、高円寺純情商店街の古い本屋に三四郎は訪れていた。
その理由は、白昼の悪魔のように厳しい文学部唯野教授の出したレポート課題のための参考資料を探すためだった。
本棚に並んだカラフルな背表紙を目で追いながら、三四郎はレポートに使えそうな本を選んでいく。それは、絵のない絵本を探すかのように、途方もない放課後の作業となった。
ふと、知りすぎた男のごとく聡明な三四郎はレポート完成のための、たったひとつの冴えたやりかたが載っている本のことを思い出す。
すぐ右の本棚の上から六番目の段の左から64冊目に、きらきらひかるその本を見つけた三四郎は、周りも見ずにその本に片腕を伸ばした。
隣の人の爪と目を見る。やまなしの香りが鼻を掠めた。
隣に立っていたのは、鴉のような黒髪に
三四郎の方を見ると、彼女は頬を桜桃色に染めて、口元に神々の微笑を浮かべると、すみませんと小声で謝った。兎の眼のようなそれを僅かに伏せる。
彼女はそのまま、限りなく透明に近いブルーのワンピースを翻して、かきつばたのような優雅さでその場を立ち去ろうとする。
石ノ目に見詰められたかのように動けない三四郎だったが、こころは青春デンデケデケデケと鳴り響き、情熱と冷静のあいだを揺れ動いている。
短い沈黙を破戒して、三四郎は「あの、」と声をかけた。
女のいない男たちの一人でもあった三四郎は、このまま彼女とその名を知らないままで惜別したくなかった。
しかし少年の日の思い出まで遡ると、三四郎は女性に関してあまりいい記憶がない。
小学五年生の運動会のリレーで、一瞬の風になれなかった三四郎は、クラスメイトの少女から「芋虫」というあだ名をつけられた。
詳細は省くか、友情を感じていた或る女からは、はっきりと「死ねばいいのに」と言われたことさえある。
このような半生を送っている三四郎にとって、さかなはさかなだと言わんばかりに去ろうとする彼女を呼び止めることは、大いなる決断であった。
鬼の
未だデンデラと鳴るこころを押さえながら、三四郎は果てしなき渇きに覆われた口を開く。
「君、名前は?」
「おぎん」
驚きながらも、彼女はあっさりと名前を教えてくれたので、三四郎はこころの中で、神様、ヘヴンはここにあったのか! と叫んだ。
次に三四郎は、自分の鞄からまるでそれが神様のメモ帳であるかのように、大事に黒革の手帳を取り出した。
「あと、アドレスを教えてくれないか」
あるキングのような雄気堂々とした物言いに、三四郎は満足していたが、おぎんという名前の彼女は挙動不審者を見る目を向けている。
ちんぷんかんなことを口にしたのだと気付いた三四郎は、アリアドネの弾丸よりも速くおぎんに弁明した。
「いや、この本を必要みたいだったから、僕が使った後に貸そうかと思って」
「あ・うん」
おぎんは青い花が開くかのように微笑みかけると、自身のメールアドレスを伝えてくれた。
三四郎は月の裏側をスケッチするかのような心持ちで、黒革の手帳に彼女の告白を一字一句漏らさず書き込む。
「ありがとうございます」
お礼を三四郎が言うと、おぎんはただ頷いて、第七官界彷徨するような足取りで去っていく。
三四郎は電気羊の夢を見るかのように、ぼんやりと突っ立っていてたが、彼女の姿が見えなくなってそれから、本の支払いを済ませて門から出た。
外は日の名残りも消え、細雪が降り出しそうなつめたいよるになっていた。
半分の月がのぼる空の下を、三四郎は陽気なギャングが地球を回すかのように、リズムよくスキップしながら帰った。
▢
7月24日通り沿いのアパートの203号室、三四郎は蒲団にくるまり、笑わない数学者のような顔で自身の携帯電話を握っていた。
おぎんに本を渡すためのメールを、恋愛名人ではない三四郎は、恋文の技術を総動員させて、書き切った。
もちろんそこには、暗いところで待ち合わせをして、直接手渡す約束を書いていた。
あわよくば、星の王子さまよろしく彼女をリードして、夜のピクニックにしゃれ込み、秘密の花園で共に冷めない紅茶を飲みたいという願望が隠されていた。
おぎんからの変身を待つ間、三四郎は住み慣れた部屋が瓶詰の地獄のように感じられた。
さながら心持ちは、悪魔のパス天使のゴールを受けるPK中のゴールキーパーのような、あるいはオセローの相手のターンを待つかのようである。
ようやく仄暗い水の底から届いたメールを開くと、そこには凍りのくじらのようなエラーメッセージが載っていて、頭が真っ白になった三四郎は携帯電話をぽとりと落とす。
まさかおぎんという名前からも嘘だったのか? という疑惑を三四郎は抱くが、結局真相は藪の中であった。
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