第17話 電話が鳴っていた


「ただいま」


 ドアを開けると実家の匂いがした。

 僕はプッシュホンが置かれた靴箱に手をかけて、スニーカーを脱ぐ。


 白い靴下で薄暗くて冷たい廊下を歩く。まだお昼だから、電気は点いていない。

 玄関から上がると一番最初に見える襖を開けた。


 テレビと低いテーブルが置かれた六畳一間の居間、その隣のキッチンダイニングの椅子に、母が座って、退屈そうにテレビを見ていた。


「おかえり」


 母が食べている煎餅の醤油の匂いがする。


 買ってきた本が詰まったビニール袋をどさりと下す。手が微かに痺れていた。

 そのまま座ろうとする僕に、母は分かりやすく嫌そうな顔をする。


「また漫画買ってきたの?」

「いいじゃないか」


 実際は漫画以外の本の方が多いのだけれど、それを指摘するのは面倒だったので、そのままにしていた。

 そう言えば来客者以外が座布団に座ることはめったにないなと思いながら、畳の上に胡坐をかく。


「ああ、そうそう」


 通販番組が包丁のおまけを紹介し始めたタイミングで、母は煎餅を飲み込んで、思い出したかのように僕に話し掛けてきた。


「あんたが帰ってくる少し前に、電話があったよ」

「僕に?」


 目を丸くすると、母ははっきりと頷く。

 大体の知り合いはスマホにかけて来るはずなのに、わざわざ実家の電話を選ぶのはなぜだろうと考えている僕に、母は何か思い出そうとするように足を小さく揺らしながら言った。


「ほら、あの子からよ。あんたの高校の友達で、まからつく名前の、」

「真壁?」

「そうだ、真壁君だった」


 母はクイズに正解したかのようにはしゃいでいる。

 答えたのは僕の方なのにと思いながらも、何も言わずに座っていた。


「かけ直さないの?」


 母は意外そうな顔をする。

 僕は溜め息を吐いて、テレビの方を向いた。今は高枝バサミを紹介している。刃物ばっかりだ。


「いいよ。番号分からないし」

「あの電話、着信履歴が残るわよ」


 僕は顔を顰めて、舌打ちしそうになった。

 あれは僕が小学生の頃から現役なのに、余計な機能が付いている。


 しかしこうなったらどんな言い訳もできない。

 まだ帰ってきてから五分も経っていないけど、嫌々立ち上がった。


「かけてくるよ」


 ぶっきらぼうにそう言って、襖を開ける。

 母はここぞとばかりに、満足そうな顔をして頷いていた。


 あまり、かつての同級生と会ったり話したりしたくないというのが正直な気持ちだった。

 今の僕の状況からは仕方ないとはいえ、プライベートな事も無遠慮に訊いてくるからだった。


 ……真壁は、高校時代の親友だったため、そんなことをしないと信じたいが、信じた分だけ裏切られた瞬間の苦痛が強いのも確かだった。

 今の僕は、真壁のことをどう捉えたらいいのかすら分からなかった。


 このまま電話せずに二階に上がってしまおうかとも思ったが、母が耳をすませている気配がする。

 僕は観念して、受話器を持ち上げた。


 いくつかボタンを押して、着信履歴を見つけると、一番上の番号を押す。

 プルルルルルと無機質な呼び出し音が鳴っている間、電話のすぐ横に積もった埃を眺めていた。しばらくして、ガチャリと電話が取られる音がする。


『もしもし?』

「もしもし、真壁か?」

『あ、宮田、久しぶり』


 真壁の少し驚いたような声が聞こえる。

 と同時に、相手側が僅かに緊張していることも伝わってきた。


「何か用があったのか?」

『用ってほどじゃないけれど、……なんか、同窓会も来なかったみたいだし、元気にしているのかなって思って』

「そう言えば、同窓会、あったね」


 真壁が言葉を探しながらそう告げて、僕はやっと先週に同窓会が開かれていたことを思い出した。

 連絡のメールが見た直後から、今回は行くのをやめておこうと思っていた。今回はと言っても、次に行けるのはいつになるのか分からなかったが。


「色々あって、行けなかった。ごめん」

『それは別に攻めていないけどさ』


 真壁の声の温度が一瞬上がった。

 僕は、ああと気が付く。親友は、僕が彼を信用できない相手と同じように扱ってしまったことを見抜いていたのだと。


「ごめん」

『もうそれはいいけど、おばさんの調子はどう?』

「うん。大分良くなっているよ」


 淡々と答えながらも、一方で、僕は母のことすらももう周りには筒抜けなんだなと考えてしまっている。

 それは真壁のせいではないが、あっという間に噂が広まってしまっていることに嫌悪を抱く。


『……今度さ、会って話したりしないか? メアドは変わっていないから、好きな時に連絡してくれ』

「そうだね」


 やはり僕は気のない返事をしてしまう。

 真壁の優しさや気遣いはよく分かっていたが、まだ僕は彼を色眼鏡無しで見れる自信が無かった。


『じゃあ、また今度。メール、待ってるから』

「わかった。電話、ありがとう」


 真壁の最後の一言が切実に聞こえたので、僕も素直に礼を言う。

 なんだかんだと言っても、彼と話せたことは嬉しかったようだった。


 受話器を置いて、再び居間に戻る。

 襖を占める瞬間、母からの視線が顔に刺さった。


「真壁君と話せた?」

「うん」


 すぐに戻って来なかったから分かるだろと、一瞬だけ思ってしまう。

 どうも最近の僕は、ささくれだっているらしい。


「真壁君、今は保険の会社で働いているみたい」

「へえ」


 最初の電話で母は真壁と話したのか、そう言ってきた。

 振り返ると、僕は結局真壁のことは尋ねていなかった。自分のことで精一杯だったんだ。


「あんたも真壁君みたいに、ちゃんとした仕事に就いた方がいいよ」

「そうだね」


 母がいつもと同じことを言ってくるので、流しながらとりあえず頷く。

 それでも母の方の顔は見れずに、目線はテレビに向けていた。


「そう言えば、真壁が母さんのこと心配していたよ」

「そう。やっぱり真壁君は優しいね」


 そのままの姿勢で母に言うと、母が顔を綻ばせる気配がした。


 通販番組がミシンを紹介しているのを見ながら、そうか、真壁はサラリーマンなのかと何故か思い返している。

 ますます、自分とは縁遠い世界に行ってしまったような気がした。真壁と会う日は、いつになるのだろうか。









































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