第15話 ありふれた別れ


 今夜の空気はよく澄んでいて、真上に昇った白い月も美しかった。


 家を出て、見慣れた住宅街をふわふわ夢見心地に歩いていると、いつもの電柱の下に、彼が立っているのが見えた。


「おまたせ」

「ああ、久しぶり」


 ぼんやり夜空を見上げていた彼は、私を見ると泣き出しそうな笑顔になる。

 たったそれだけなのに、私は心に針が刺さったかのように切なくなった。


「今日はどこへ行こうか」

「あっちの方」


 彼の質問に、私は展望台がある公園へ続く道を指差した。

 「いいね」と彼が頷き、二人でゆっくり歩きだす。

 しばらく黙ったまま進んでいたが、彼の方から話しかけてきた。


「……最近、仕事が忙しかったのかい?」

「うん。納期が近かったから。でもちゃんと、仕事は片付けてきたよ」

「そっか。でも、あまり無理はしないでね」

「大丈夫だから。ただ、ずっとほっとかれて寂しかったんじゃない?」

「平気だよ」


 彼と私の視線が交差する。彼の口元に浮かんだ笑みは、寂しさというよりも諦めに近いものだった。


「もう慣れたから」

「うん……」


 私は彼の、優しすぎる眼差しから逃げるように目を逸らした。

 そう、彼は優しすぎるのだ。いつも私のための言葉を選んで、それでも決して嘘偽りは吐かない。だから自分が傷ついてしまう。


 秋の道は寒々としていた。横の塀から乗り出した木々も、茶色い落ち葉を落としている。LEDの街灯の白い光が、アスファルトに落ちている。

 私はわざと白線の上を、自分の足音を刻み付けながら歩いていた。


「君は本当にその遊びが好きだね」

「ありがとう」

「褒めたつもりはないんだけどなあ」


 彼の呆れた声も、私の耳には心地よかった。

 困惑した彼の顔を見上げていると、強い向かい風が彼のマフラーを揺らした。それを見た感慨が、私の口から漏れ出る。


「もう、三年かあ」

「そんなに経つんだね。……どうだった?」


 彼は何気ない様子でその問いを投げ掛けたが、五秒の沈黙が彼の逡巡を物語っていた。

 私も私で、彼の意図をくみ取り、下を向いたままでも答える。


「ゆっくり時間が流れていたような気がしたけれど、振り返ればあっという間だった」


 君はどうなの? という言葉を、私は必死に呑み込んで、突然彼の真後ろを指差した。


「見て。柿がなってるよ」

「あ、本当だ」


 彼が振り返り、ちょっとだけ嬉しそうな声で言う。


 瓦屋根の大きなお屋敷の広い庭に、今年も立派なオレンジ色の柿が、たわわに実っていた。

 彼は懐かしそうに目を細めた。


「秋にここを通るたびに、君はおいしそうだと言っていたね」

「だって、あんなにオレンジ色だもん」

「渋柿かもしれないだろ?」

「それは分からないでしょ」

「……結局、何柿だったか分からないままだったね」

「どっちかに勇気があれば、家の人に訊いてみたんだろうけど」


 もう、そんなことを言っていても仕方ないと、私は無理矢理前を向く。


 彼も同じように前を向いたが、視線は僅かに下になっていた。

 柿の話は、逆効果だったかもしれない。


 少々気まずい沈黙を引き摺ったまま、二人でカーブを歩き、目の前に公園の入り口が見えてきた。


「公園、誰かいるかな」

「こんな時間だから、誰もいないよ。それに、僕もいるから大丈夫」


 私が心配しているのは、誰かに絡まれることではなく、誰かに見られることだったが、彼はあまり気にしていないようだった。

 自分の不安を振り払うために、私は公園の五メートル先から走り出して、車侵入防止の五十センチくらいの台形の石を、跳び箱のように飛び越えた。


「君はその遊びも好きだね」

「遊びというか、癖になってるよ」


 彼は心からおかしそうに笑いながら、肩をすくめている私の方へ来た。

 私の言葉は、半分本当で半分嘘だった。彼を喜ばせるために、道化を演じている部分もあったからだ。


 公園の中は、やはり誰もいなかった。

 道の両方の木が落とした落ち葉を踏んで、かさかさと悲しい音がする。


「この公園に来るのは久しぶりだ」

「展望台はこっちの方だよ」


 彼は懐かしそうに、黒い枝々が張り巡らされた夜空を眺めながら話す。

 私は二手に分かれた道の左側を指差した。そちらの先には階段になっている。

 この道の右側は花壇になっていて、丸い街灯がパンジーの黄色を浮かび上がらせている。


「今日はちょっと寒い?」

「うん。大分冷え込んできたよ」


 彼の質問に答えながら、階段を上がっていく。踊り場で、私は一休みした。


「大丈夫?」

「こういう時に体力が落ちたような気がするね」


 私は二歩分前にいる彼に、そう言って笑いかけた。

 しかし彼は、その瞬間、とてもとても悲しそうな顔をして私を見ていた。口が、何か言おうとして開いたまま、固まっている。


 私はしまったと思って、口をぎゅっと結ぶ。

 こうした失言は、この三年で何度も起きて、かまいたちのように彼と私を切り裂いていく。


 丁度その時、向こうから男の人が一人、階段を下りてきた。

 階段を真ん中で区切っている鉄の棒の柵の向こうで、ウォーキング中らしい軽装の男性は、私の方を一瞥して、そのまま下りていった。


 私たちが階段を上り切るまで、二人とも示し合わせたように黙っていた。数分後、私たちは展望台に辿り着いた。

 そこには町全体が見渡せる高台で、柵の数メートル先にはベンチがいくつか並んでいた。今は誰もいなくてひっそりとしている。


 私たちは柵に体をもたれさせて、町を眺めていた。

 不意に彼がしみじみと呟く。


「この町も、もうだいぶ変わっちゃったね。あのスーパーは無くなっているよ」

「でもね、変わっていないものもいっぱいあるよ」


 私は少し強めに言い返す。

 ここから見える、私たちが出会った高校も、下校中に寄ったコンビニも、地区予選に臨んだ体育館も、海に行くために向かった駅も、そのままだった。


「いや、変わってしまうよ。いつの日か」


 柵の上に頬杖をついた彼は、そう断言した。

 私はその横顔を直視できない。


 そのまま、二人で三十分くらい話しただろうか。私がくしゃみをしたことがきっかけに、彼が帰ることを切り出した。


 私たちは再びゆっくりと、通った道を戻っていく。先程よりも私がゆっくり歩いていたことに、彼はまだ気付いていない。


「あー、少し歩いたから、おなか空いちゃったな」

「太るよ。こんな時間に食べちゃあ」


 彼が苦笑する。


 そんな、何の実もない、どうでもいい話をずっと続けたかった。

 ただ、この瞬間が永遠に続いてもいいのかと尋ねられると、私は戸惑いながらも違うというのだろう。


「今夜もよく冷えそうだから、温かくして寝るんだよ」

「分かってる」

「君は風邪をひきやすいから」

「うん。その時は迷惑をかけたね」

「それはいいんだよ。あと、帰ったら汗を拭くように」

「気を付ける」


 彼がいつものように、母親のようなことを言ってくる間に、彼が待っていた電柱の下に辿り着いた。彼が、再会した時と同じ位置に落ち着く。


 私は自然と彼の足元を見ていた。


「もう、花を持ってくる人もいなくなったね」

「三年たったから、仕方ないよ」


 彼が肩をすくめる雰囲気がした。別にその事を、恨んでいる様子ではなかった。

 普段なら、このまま手を振って別れてしまう。その前に、彼に私の本心を話そう。


「……あのね、会うのは今日で最後にしない?」

「えっ?」

「私、他に好きな人が出来たの」

「……そっか」


 彼が消え入りそうな声で言った。

 今の彼は、置いてけぼりを喰らってしまったかのような顔で、それでも笑おうとしていることが分かっているから、私は見ることが出来なかった。


「三年も、かかったね」

「ごめんね。付き合わせて」

「そんなことないよ。僕のわがままでもあったから」

「うん……」

「僕のことはさ、都合のいい幻だと思ってくれてもいいから」

「うん……」


 喉から血が出るくらいに、「そんなこと言わないで!」と叫びたかった。

 だけれど、私の未練は彼を余計に引き留めることが分かっていたから、私は淡白に頷くだけだった。


 辺りは静かだった。車が走る音も、犬の遠吠えも、世界の外の出来事だった。


「それじゃあ、僕は行くよ」


 彼がそう言ったので、私はやっと顔を上げた。

 彼は穏やかな、すっきりとした笑顔で立っていた。


「ありがとう。さようなら」

「さようなら」


 私は彼の手を掴もうとする右手を押さえながら言った。


 彼の姿が段々と透明になっていく。彼が完全に消えてしまう前に、私は強く目をつぶった。


 三十秒後、目を開けると、彼はどこにもいなかった。私は、どこまでも広がる夜空と、そこに一つだけ浮かぶ白い月を見上げた。


「ありがとう」


 私はもう一度だけ呟いた。これが夜風にのって、彼の元に届いていることを信じながら。



































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