第13話 夜中の居酒屋にて


「近衛部長、お疲れ様でーす!」


 共にテーブルを囲む部下たちが、皆笑顔で一斉にそれぞれのグラスを持ち上げた。中に入っているのはビールであったり、ハイボールであったり、ウーロン茶だったり、オレンジジュースだったりとそれぞれまちまちだが、ぶつかり合って心地よい音を立てる。


 僕も両隣の村上君や島田君と乾杯していると、遠くの方に座っていた他の部下たちも、わざわざ立ち上がりこちらに来て、乾杯を求めた。


「部長、お疲れ様です」

「おめでとうございます……って言うのは、可笑しいですかね?」

「今まで大変お世話になりました。ありがとうございます」


 この日、定年退職を迎えた僕に、彼らは一言ずつ労いや感謝の言葉を述べて、去っていく。

 それに対して僕は、何とか笑いながら、ありがとう、ありがとうと繰り返すことしか出来ない。


 退職パーティーの主賓でありながら、僕の心はぽっかりと穴が開いたようだった。

 四十年近く勤めた会社を辞めたことによる、燃え尽き症候群かと最初は思ったが、それとはまた別のもののようにも感じられる。


 乾杯の波が引いて、おいしい日本酒や肴を口にしても、周りとの雑談に花を咲かせても、部下たちの余興が始まっても、まるで目の前の出来事と自分が切り離されているような感覚だった。

 率直に言ってしまえば、場違いな気持ちになっている。


 しかし、それは今日に始まったことではなかった。

 僕はおもむろに立ち上がる。


「あれ、部長、どこに行くんですか?」

「ちょっとお手洗いに」


 左隣の島田君が不思議そうに尋ねたので、適度に答える。

 そのまま、僕の会社の者たちしかいない大座敷を出ると、後ろ手で襖を閉めた。






   △






 二階の大座敷から、奥にあるにトイレを通り過ぎると、居酒屋のベランダに出られる箇所がある。

 そこは四角い外用灰皿が置かれた、喫煙スペースとなっている。


 僕はワイシャツのポケットの煙草箱から一本取りだして、それを咥えて火を付けた。

 今日はまだ吸っていなかったが、やはり久々のニコチンに舌が喜んでいる。


 灰皿の隣に立っていても、鉄製の柵越しに商店街を歩く人々の姿が見えていた。夜も更けても、人の足が途絶えることは無い。

 この人たちにも、それぞれ自分の人生があるんだろうなと、ぼんやり考えている時だった。


「部長、トイレじゃなかったんですか?」


 ガラガラと窓が開く音がして振り返ると、部下の梶井君が少し驚いた様子でこちらを見ていた。


「ああ、ちょっと吸いたくなってね」

「そうなんですか」


 僕の言葉に納得した様子の梶井君だったが、そのままベランダへと出てきた。

 今度はこちらが驚く方だった。


「どうしたんだ」

「いや、俺も吸いたくなったので。あ、一本貰えますか?」

「君、禁煙したんじゃなかったっけ? 子供が出来た時に」


 高校卒業後にこの会社に入ってきた梶井君とは長い付き合いのため、彼のことはよく知っている。

 現在三十八歳で、係長である彼は、二十代前半で結婚して、息子もいた。


「たまにはいいじゃないですか。……ありがとうございます」


 苦笑する彼に煙草一本とライターを渡すと、少し不慣れな手つきで吸い始めた。


「あー、久しぶりに吸うと、結構喉にきますね」

「君の息子、何歳になったんだっけ?」

「十六ですね。今、高校生です」


 梶井君は口元から煙草を話すと、ふわりと白っぽい煙を吐いた。


 そうか、もうそんなに立つのかと、僕は彼の横顔を見ながら思う。

 アラフォーになる彼の黒髪はふさふさとしていたし、黒い目は老眼とは無縁だったが、口元や目元に老いを感じる。


「初めて会った時、君はまだ十代だったね。礼儀作法どころか、敬語すらまともに使えなくって……」

「そんな昔の話はよしてくださいよ」


 ぷはっと梶井君が噴き出した。


 僕よりも背の高い彼が、黒のスラックスのポケットに左手を突っ込んだまま煙草を吸う姿は、まるで俳優のようだった。

 だからこそよくモテたし、結婚も早かった。


 今は大分落ち着いているが、入社当時は本当に酷かったなと、彼の教育係だった僕は、しみじみと思い出す。


「無礼というより、破天荒だったねえ。危うく、立ち消えそうになった商談がいくつもあったし。君が営業部にきたのは何かの間違いじゃないかと、人事部を疑うほどだった」

「あの頃は、社会とか全然知らなくて、生意気だったですから」


 梶井君は煙草の灰を灰皿の角で落としながら、何度も頷いている。


「……お互い、年を取ったな」

「そうですね」


 しばらく、二人とも押し黙った。煙が夜空へと登って、段々と薄くなっていく様子を眺めていた。


「梶井君、君は今、自分の人生に満足しているかい?」

「突然ですね」


 煙ってあっという間に消えてしまうなと考えていたら、自然とそんなことを口にしていた。

 梶井君は目を瞬かせていたが、にっこりと笑って即答した。


「満足していますよ。妻と子供とも円満ですし、最初は嫌でしたが、この仕事も楽しいです」

「やっぱり、嫌々働いていたんだな」

「昔の話ですよ。もう十年以上も前の」


 彼は上を向いてあははと笑った。

 その朗らかな笑い声には、全く影など感じさせないものだった。


「部長はどうですか?」


 しかし、こちらを見た梶井君の眼差しは、口元は笑っていても射貫くような鋭さで、僕の方も絶対に本当のことを言わなければならないと感じさせた。


「僕が子供の頃、フタバスズキリュウの発見が大きなニュースとなってね、いつか自分も恐竜の化石を発掘したいと思っていたんだ。だから、大学では恐竜について勉強していた。しかし、父が急死して、大学卒業までの学費はあったが、下に学生の弟がいたことがあって、研究者になる事を諦めたんだ」

「ああ、フタバスズキリュウ、フィーバーしてましたからね」

「……君、まだ生まれてなかったんじゃないか?」


 梶井君が、突然懐かしそうに頷くので、そう指摘すると、彼は慌てて、「いえ、昔のニュースを紹介する番組で見たんですよ」と言い返した。

 その割には実感がこもっているように聞こえたが、「それから、どうしたのですか?」と促されたので、続けることにした。


「それからこの会社に就職して、がむしゃらに働いた。弟が大学を卒業した後も、今度は自分の家庭を支えるために必死だった。そうして気付いたら、定年の日だった。ただ、今振り返ってみると、夢を諦めて働き続けて、結局、自分には何も残っていないのだと思ってしまって」

「つまり部長は、今の人生に不満があるのですか」


 梶井君は臆せずに真正面から尋ねてくる。

 僕は、言葉に窮しながらも、正直に語り始めた。


「……そうだね。いつも、心のどこかでは、恐竜の研究者になった自分の姿を思い描いていた。この年になっても、夢を叶えていたらという後悔を消せないままなんだ」

「確かに、誰にだって後悔はありますよね」


 そう言って梶井君は煙を長く吐き出した。

 彼は同年代の部下達よりも、少し達観している所がある。


「でも部長、きっと夢を叶えたら叶えたで、また別の後悔が生まれると思いますよ。結局、今の人生がベストなのだと、納得するしかないです」


 二十歳以上年下の部下に諭されて、僕は思わず吹き出してしまった。

 もちろん、そのことは僕自身分っていたことだが、今日くらい愚痴りたくなってしまった。


 吸っていた煙草もなくなりかけていたので、大座敷に戻ろうと灰皿の中に落とした。


「悪かったよ、自分のおめでたい日にこんなことを言ってしまって。そろそろ座敷に、」

「部長、夢を叶えてみませんか?」

「……え?」


 突然梶井君に言葉を遮られた上に謎の提案をされて、僕は彼の顔を見た。

 すると、梶井君は不敵に笑っていた。その二つの瞳は、真っ赤に輝いている。


「梶井君、その目は……」


 彼にそれを指摘しようと、その赤い瞳を指差した瞬間、僕の背後から「グオオオオ」という謎の鳴き声が聞こえた。


 僕はその低い声に驚いて、反射的に振り返った。

 すると居酒屋は、太古のシダ植物が生い茂る森に変化して、からりと晴れた空の下、見上げるほど首と尻尾の長い恐竜が立っていた。


 思いがけない出来事に、僕はぽかんと口を開けて、その恐竜を見上げていた。

 しかし、頭は冷静に、高さは四十メートル近くあり、四本の足で地響きを起こしながら歩く姿から、これは世界最大の恐竜、アルゼンチノサウルスではないかと予想した。


 なるほど、アルゼンチノサウルスの肌は灰色で、薄く緑っぽい模様が入っているのだなと、向こうの方へと歩いていく姿に感心していたが、やっと気が付いた。

 一体何が起きているんだ。酔って変な幻を見ているのか、まさかタイムスリップしてしまったとか……。


 振り返ってみたが、そこにも僕よりも遥かに背の高く、本やテレビでしか見たことないような古代の植物が生えていて、今まで一緒に話していたはずの梶井君の姿が見えなくなっていた。


「梶井君?」


 試しに名前を呼んでみたが、返事がない。


「おーい、梶井くーん」


 今度はより大声で呼びかけるが、全く変化がなかった。


 一体どうすればいいんだ。こんな、謎の世界に一人取り残されて。

 途方に暮れようとするが、足先は自然とアルゼンチノサウルスの方に向いていた。


 ……僕はこの状況に、全く絶望していない。戸惑いは確かにあるが、それよりも興奮している。子供の頃から憧れ続けていた恐竜が今、目の前にいるのだ。

 アルゼンチノサウルスに近付きたいという一心で、その最大の尻尾を追い掛けて歩き始めていた。


 左の茂みからがさがさという音がして、僕は立ち止まった。

 顔を上げたのは、トリケラトプスだった。


「おお……!」


 九メートルはある体長、盾のように張り出した頭部、つぶらな瞳の上から生えた二本の鋭い角と鼻先の角、嘴のような形の口は、草を咀嚼している。

 どれもトリケラトプスに共通する点だ。色はオレンジと茶色の中間のようだが、化石しか見つかっておらず、肌色が不明な恐竜の中では、イメージ通りの配色にも思える。まあ、緑色っぽいトリケラトプスの絵も見たことあるのだが。


 確か、トリケラトプスは群れで活動する説もあったはずだ。しかし、ここにはこの一匹しか見当たらない。

 そして、僕とトリケラトプスとの距離は一メートルちょっとくらい。手を伸ばせば簡単に届きそうだが、まだ少し怖くて、そんな勇気は出ない。


 だが、何故かトリケラトプスは斜め左を見ていて、僕の方を全く気にしていないようだった。

 そっと手を伸ばせば……と考えていると、後ろからばたばたと何かが走ってくる音がしてきた。


 それは、人の股下くらいの大きさの肉食恐竜、ヴェロキラプトルの群れだった。二本の後ろ足で走り、前足の鋭い鉤爪が特徴である。

 体は小さくても、鋭い前歯がはっきりと見えて、とてもかっこいい。


 ヴェロキラトプルはそのまま、僕のことが見えていないかのように通り過ぎていった。

 肉食恐竜が背後から迫ってきたのに、僕は全く恐ろしさを感じなかった。


 それよりも、あの群れがどこに向かうのかが気になった。もしかしたら、狩りの瞬間を見られるのかもしれない。

 僕は小走りでヴェロキラトプスの後を追いかけた。本当は全力で走りたかったが、老いた体ではこれが精一杯だった。初めて自分の年齢がもどかしく感じる。


 しかし、その途中に、右の方から、何か波音が聞こえてきて僕は立ち止まった。音のする方へ顔を向けてみると、茂みの向こうが白い砂浜になっているのが見える。

 その先には広々とした海が、太陽の光を眩しく反射させている。その波の合間に、何か黒い影が見えた。


 まさか、と僕は目を見開く。

 今までのは、全て白亜紀後期にいた恐竜たちだった。それならば、僕が恐竜を好きになるきっかけとなったあの首長竜も、海の中にいるのではないのか。


 先程までとは比にならないほどの速さで、心臓が鳴っていた。ごくりと唾を呑み込み、右手で目の前の大きな草を掻き分ける。


 すると……






   △






「あ、部長、戻ってきた」

「遅かったですねー」

「どうしたんですか?」


 ……そこは、元いた居酒屋の、大座敷だった。

 座ったままの部下たちが、襖の向こうで立ち尽くしている僕の顔を見上げている。


「部長、中に入りましょうよ」


 背後からそう話し掛けられて、はっと振り返った。


 僕の右隣には、いつの間にか梶井君が立っている。こちらを見て笑いかける彼の目は、いつもと同じ黒色だった。


「ああ、そうだね」


 僕は未だ戸惑いながらも頷いて、座敷の中に入った。

 さっきまで見ていたジャングルの中の恐竜たちは一体何だったのだろう。ただの夢だったのか。だが、シダ植物の緑や悠然とした恐竜たちの姿は、はっきりと目に焼き付いている。


 自分の席に戻る僕に、部下たちは笑顔を向けてくれている。

 そうか、ずっと自分の後悔ばかり見詰めていて気付かなかったが、これまでの人生の積み重ねや、この会社で彼らと出会い、共に働いてきたことも、フタバスズキリュウよりも素晴らしい宝物ではないのだろうか。


「近衛部長、改めて乾杯しましょうか?」

「いいですね、やりましょうよ」


 かなり酔っている様子の村上君が、三分の一ほど残ったビールのジョッキを持ち上げながら提案すると、僕の斜め前の席に座った梶井君も同調して、ジョッキを持った。


「そうだな、もう一度乾杯しよう」


 僕も頷く。今なら、素直に笑いながら、ジョッキを掲げられる気がした。





























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