第4話 同居中のふたり
暗闇が近付いている町の中、早くも明かりを灯している街灯の下で、斜め前にあるマンションの自分の部屋を見上げる。
電柱に備え付けられた、蛍光灯丸出しの心細いこの街灯でも、見ると家がもうすぐだと分かってほっとしていたけれど、今はそれには頼らない。
今の私の部屋には、黄色くて暖かい光が、溢れていたからだった。
あれを見ただけで、どんなに心身ともにヘロヘロに疲れていても、それが吹っ飛んでしまう。さらに、自然と笑みを浮かべていることもある。
少し坂道になっていて、二十代半ばになった私には少しきつく感じ始めたこの家路も、膝に力が漲って、ぐんぐんと登っていける。家に持ち帰る宿題や、買いすぎてしまった料理の重さも忘れて歩いていく。
五分も経たずに、私は自分の家の玄関の前に来ていた。鍵を開けて、ドアを押す。
「ただいまー」
「おかえりー」
馴染み深い我が家のにおいと、紗世ののほほんとした声で、私の心は完全にだらけきってしまう。
廊下を渡って、リビングへと向かう。いつも通り、紗世が出入り口のすぐそばのソファーでごろごろしながらテレビを見ていた。
いつもはパリッとしたスーツを着て、バリバリと仕事をこなす彼女の面影は皆無で、ジャージ姿にすっぴんで、付けていたバラエティー番組から目を離して、私を見上げていた。
「今日は遅かったね」
「ある子のお母さんが、中々お迎えにこれなくてね。ま、仕方ないと思うけれど、最近残業続きだったから、ちょっと辛かったなあ」
「その点、うちはホワイトですよ。この一週間、残業なしでっせ」
自慢げにピースサインを送ってくる紗世を横目に、テーブルの上に勝ってきたものをどさりと置く。
「だから今日も料理作れないけど、勘弁してね」
「おお、ご飯ですか?」
今まで寝転んでいた紗世が、むくりと起き上がる。
知っていたけど、中々現金な奴である。
「デパ地下で色々買ってきたよ」
「やった」
マイバッグをガサゴソ言わせて、買ってきたものをテーブルの上に並べていると、私の前にきた紗世が小さくガッツポーズをした。
それを受けて、私も一応怒るフリをする。
「私の料理は、あまりおいしくないの?」
「えっ、いや、そういう訳じゃあなくて、たまにはデパ地下の物も食べたくなるよっていうことで……。あっ、そうだ、私、ご飯入れるよ」
紗世はそう言うと、慌てて炊飯器の方へと向かった。
私はその様子を眺めながら、思わず吹き出しそうになるのをこらえる。
紗世には痛い所を突かれると、率先して自分から家事をしようとする癖があって、私はわざとそうするように仕向ける時がある。
本当は、私が遅くなる時は、紗世が料理を作ってくれた方がいいのだが、彼女はとんでもなく不器用なので、あまり包丁を持たせたくない。
今も、ご飯をよそっているだけなのに、しゃもじからぽろぽろとご飯粒が零れてしまっている。
その間に私は、それぞれのお皿に料理を盛り付ける。チキン南蛮と海藻のサラダを二人分。
せめて見栄えだけは良くしようと精一杯心を込めて。
にこにこしながら二つのお茶碗を持ってきてくれた紗世が向かいに座り、私もいつもの席に着く。
それから、二人同時に手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
どんなに忙しくてもどれほど疲れていても、挨拶を欠かさないことは、私たちが一緒に暮らし始めた時に、一番最初に決めたルールだった。
ぼんやりテレビを見ながら、それぞれ箸を口に運んでいた私たちだったが、突然紗世が切り出した。
「そういえば、私、最近言い寄られている」
その一言に、私は驚いてご飯粒が喉にかかりそうになった。
「え? いつから?」
「ほんと、ここ最近一週間くらい。多分相手は、私のこと、今はフリーだと思ってるっぽい」
「どんな人?」
「同じ課の、男性社員。確か、一つ上。こっちはのらりくらりとかわしてるんだけどね、なかなかしつこくて」
紗世は苦笑しながら話すが、私は心配になってくる。
頭の中では、少し前に聞いたストーカー事件のことを思い出していた。
「大丈夫なの、それ? もう、思い切って本当のことを言ったら?」
「平気平気。しつこいって言っても、食事に誘うくらいだから」
「へー」
「そうそう、彼が連れて行ってくれた沖縄料理屋さん、すごく美味しかったから、今度一緒に行こうよ」
次は私のほうが吹き出してしまった。
「いいの? 仮にも彼が連れてってくれた所でしょ?」
「気にしないよ。その料理屋さんに、罪はないんだから」
彼女は本当になんでもないように言う。
現金を通り越して清々しいその態度は、私には眩しく見える。
「ああ、でも、紗世は前々から、沖縄に行きたいって、言ってたよね」
「うん。幸子も好きでしょ、沖縄」
「高校の修学旅行で行ったきりだけどね。紗世と二人きりで行ってみたいな」
彼女と一緒に、那覇の街を歩いたり、ジンベエザメの水槽を見上げたり、青い海を見ながら深呼吸したりしている自分を思い描いて、私は知らず知らずに微笑んでいた。
「……また、妄想デートしていたでしょ?」
「え? してないよ」
慌てて否定するが、長い付き合いの彼女には、私のことなどお見通しだ。
「そういうのはさ、その時までとっといた方がいいよ」
「そうだね」
笑いながら頷くと、「ああ、でも」と紗世は言い直す。
「明日、何が起きるか分からないよ? 空に巨大クジラが現れるのかもしてないし、近所で宇宙人の卵が発見されるかもしれないし、このマンションがジャングルのど真ん中にテレポートしちゃうかもし」
紗世の空想を、保育園の子の話と同じように微笑ましい気持ちで聴いていると、私はあることに気付いた。
「でも、私たちが別れる未来は、想像できないんだね」
「あ……」
紗世はその指摘に、頬をうっすら赤くする。
「そっか、全く思い付かなかった」
「幸せボケしてるねー」
「幸せボケ、しちゃっていますねー」
紗世は照れ臭そうに笑いながら、チキンを箸で掴む。
私は、彼女が別れる未来を一瞬でも頭によぎらなかった事が、ただただ嬉しい。
でも流石にそれを口にするのは気恥ずかしくて、海草サラダのレタスと一緒に噛み砕いて、呑み込んだ。
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