第2話  電気はとても危ない


 俺の弟は幼稚園児の時、プラグにコンセントを刺そうとして、感電したことがある。

 幸いすぐに手を放したため、命に別状はなく、指も火傷しなかったのだが、体の芯まで震わした一瞬の電撃は、弟の頭に恐怖と共に一つの認識を刻んだ。


 電気はとても危ないのだと。






   〇






 俺は数か月ぶりに弟の家に行った。


 マンションの一室で、俺は自分の体を見回す。腕時計はしていない。携帯電話も持っていない。

 八月の半ばなので、ただ立っているだけでも汗が流れてくる。


 チェックした後に段ボールを片手に抱えなおして、ドアをノックした。

 「はーい」と声がして、ドアがわずかに開く。そこから顔を出した弟は俺を見て、驚いたようなほっとしたような顔になった。


「兄貴」

「久々だな」

「え? 今日は母さんが来るんじゃ?」

「まあ、今日ヒマだったし、たまにはいいかなと思って」


 あれこれ話しながら、弟の部屋に入っていく。相変わらず、物が少ない。

 無趣味だから、ではなく、単純に電化製品が一つもないからだ。


 感電してから、弟はあらゆる電気で動くものを怖がった。

 電池入りのおもちゃを捨て、テレビを見なくなり、蛍光灯まで嫌がりだした。


 弟は安全にした自分の部屋にこもりがちになり、家族で食事をするときは皆でロウソクを囲むようになった。

 一日中電気の付いている学校には行かずに家庭教師から勉強を教わった。


 成長しても電気への恐怖心を克服できず、十八歳で一人暮らしを始めたこの部屋にも、蛍光灯は入れてなかった。


「ではお客様、ご注文の品です」


 俺は皮肉を言って、ダイニングのテーブルの上にドンッと段ボールを置いた。


「おー、助かるー」


 俺の向かいに立った弟は、プレゼントを見つけた子供のようにわくわくした表情で、ガムテープをはがしてダンボールを開けた。

 中から出てきたのは、三枚のTシャツに多種多様なカンヅメ二十個、何種類かの野菜、ティッシュとトイレットペーパー一セットずつ、紅茶のパック、歯磨き粉、情報誌などなど、弟の生活に必要なものばかりだった。


 蛍光灯がずらりと並んだスーパーマーケットに、弟は行けない。しかし、電話で通販に注文もできない。

 だから俺や両親が、弟の生活必需品を手紙などで聞き出して用意する。宅配便で送ることもあるが、次の注文を本人から聞いた方が分かりやすいため、今日のように直接持ってくることもある。


「本日のお会計です」


 俺がレシートを渡すと、弟は財布を持ってきて、支払った。

 弟は会社勤めをせずに内職の掛け持ちで稼いでいる。もちろん機械を使わないパーツ作りだ。弟は器用なので、そういう仕事は向いている。

 作った物は事情を知る郵便局員に、わざわざ郵便局外で手渡す。給料も同じようにもらう。


「ご利用ありがとうございました」

「兄貴さー、いっつも配達するとき、そうするよね? なんで?」


 深々と頭を下げる俺に、弟は白けた様子で言った。


「お前が外に出ないでいるから、接客を味あわせようとして、」

「いいよ、わざわざ。結局、嫌がらせでしょ」

「確かに半分は嫌味だけど……母さん心配していたぞ。お前がどんどん世間知らずになっているんじゃないかって」

「あーはいはい。紅茶飲むー?」


 俺が説教を始めようとすると、弟はごまかしながらキッチンに向かった。

 また逃げられたと思いながら、「飲む」と答える。


「紅茶、もうぬるくなっているけど、いい?」

「いい」


 熱い茶を飲まされずに済んで内心ほっとした。

 クーラーも冷蔵庫もないこの暑い部屋で、弟はどうやって体を冷やすのか。窓を全開にしても、シャワーを浴びても足りなさそうだが、夏バテ知らずの弟の体は、意外と健康そうでもあった。


 二杯の紅茶を持ってきて、弟は俺の向かいに座った。

 ぬるい紅茶を口にして、俺は何気なく尋ねた。


「どうだ? 最近何かあったか?」

「ああ……最近、ね……」


 弟の様子がおかしい。顔を真っ赤にして、俯いている。

 まるで恋した女学生みたいだと思っていたら、


「恋人ができた」


 反応通りの答えが返ってきて、思わず紅茶を噴出した。


「いいい、いつ、どこで出会った」


 慌ててティッシュで紅茶をふき取りながら、早口で問い詰めた。

 すると弟はますます赤くなり、体をもじもじさせながら答えた。


「情報誌の、ペンフレンド募集のコーナーで」

「な、なるほど」

「彼女、電気アレルギーなんだ」

「ああ……」


 電気アレルギーのことなら、テレビで見たことがあった。

 うろ覚えだが、確か電磁波の近くに行くと気分が悪くなるらしい。


「電気恐怖症と電気アレルギー。なんか、お似合いだな」

「うん、だから手紙で気が合ってさ。特に、電気は人を殺してしまうほどの力を持つのに、なぜ人間は電気に依存しているのかってテーマはすごく盛り上がったよ」

「壮絶なテーマだな。熱くなるお前が目に浮かぶよ」

「で、つい五日前、山奥に住んでる彼女の家に行ってきたんだ」

「お前が? タクシーに乗ってか?」

「うん」


 弟は平然としていたが、俺には信じられなかった。

 タクシーのメーターすら嫌がるこいつが……。


「アレルギーと恐怖症なら、恐怖症が折れるしかないよ」

「それで? どうなった?」

「お互い写真を撮れないからさ、自画像を送り合っていたんだ。彼女、とても絵が上手くて……。だから、顔を知っていたんだけど、実際会ったらすっごくカワイくてさ……彼女も僕のこと、絵よりかっこいいって言ってくれて……」

「言ってくれて?」

「そのまま僕は彼女んちに泊まって…………それから付き合うってことに……」

「………おめでとう」


 色々すっ飛ばされた気もするが、とりあえず弟を祝福することにした。

 弟はまだ恥ずかしいのか、完全に俯いて、今はつむじしか見えない。


 俺はそんな初々しい弟の姿を見て、にやにやしながら続けた。


「よかったじゃねぇか。お前、友達全然いないし、恋人もいなかったし」

「う、うん」

「母さんも父さんも、喜ぶんじゃないか?」

「そ、そうだよね!」


 顔を上げて、弟ははじけるような笑顔を見せた。

 子供っぽいなーと思いながらも、俺は弟の幸せが自分のことのように嬉しい。


 弟には家族以外に関係のある人間がほとんどいない。学校に行っていないから同級生の友達はなく、職場もないため上司や部下もいない。

 ペンフレンドが数人いるが、電気のある場所に行けないので、会ったことがない。


 だから俺たち家族は、いつも弟のそばにいて、弟をサポートして、弟の一番の理解者でいようと思っていた。

 しかし弟はある日、自分一人だけで暮らすと言い出した。


「みんなのことがうざいって思ったわけじゃない。僕がみんなの負担になるのが嫌なんだ」


 ――なぜ一人暮らしをしたいのかと攻め立てた俺たちに、弟は涙ながらに訴えた。


 どうしても克服できない電気への恐怖と大好きな家族へ不自由な生活を強いていることの板挟みで、弟はずっと苦しんでいたのだろう。

 俺たちは弟への必要最低限の支援を約束して、弟の一人暮らしを許した。


「その彼女とは、これからどうしていくつもりか?」

「うん……お互いの家が離れているから、いつか彼女の家へ引っ越そうかと……。

お金が無いから、ずっと先になるけど」

「そうか。ゆっくりでも、いいんじゃないか」


 弟は一生一人で暮らし続けるのではないのか。ふとそんなことを考えてしまい、俺は不安の渦に飲み込まれたような気分になる。

 しかしもう、そのことを心配しなくてもいい。弟は、自分と似た誰かを見つけることが出来たのだ。


 彼女の前では、弟は電気に煩わされることはなく、自然でいられる。

 これから二人の仲はずっと良好……でもないだろうが、弟が孤独で寂しさを感じることもないだろう。


「まあ、僕のことはこれくらいにして、兄貴の方はどう? 奥さん、元気? 仲良し?」


 うってかわって今度は弟が、皮肉げな笑顔で訊いてくる。

 しかし弟にとって残念なことに、俺には何もやましいことが無いので、ごくごく普通に返す。


「元気元気。たまに喧嘩することもあるけど、それも夫婦円満の秘訣ってことで」


 俺がにっと笑ってみせると、弟は急に眉をひそめていった。


「でもさー、兄貴、食事できないんでしょ? 新婚なのに奥さんの手料理食べられないのって辛くない?」

「いや、あいつのスープはほんっとにウマいから。それが飲めるだけで俺は満足だよ」


 俺もまた――幼稚園児の時に食べ物をのどに詰まらせて死にかけて以来、固形物での食事がとれなくなった、食事恐怖症だった。






























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