6-4

 緊迫感を切り裂いたのは、遠巻きに見守る女官達の悲鳴。それはまるで波紋のように、幾重にも連なり場に伝播してゆく。その根源が今、どよめき道を譲る衛士達の間から現れた。

「よう吼えたの、エル。ちっくと見ぬ間に、随分男を上げたものよなあ」

 ゆっくりと、ゆっくりと声が近付いてくる。いつまでたっても訪れぬ死に、恐る恐るエルフォンソが薄目を開くと……目の前に、驚愕の表情で固まるルベリアの姿があった。その横顔へ目を見張り、視線が泳ぐ先へと首を巡らす。

 そこには、全身を真っ赤に染めた伊那の姿があった。

 尾や耳にあしらわれた朱より、尚どす黒い赤が、全身に染み付いている。その元凶はいまだ、肩口からとめどなく出血していた。いつにも増して白い顔も、その半分が血で覆われている。彼女は片目を瞑ったまま、エルフォンソにへらりと笑って見せた。

「これか? なに、大半が返り血じゃて。それより」

 彼女は手にした何かを、無造作に放ってきた。それは丁度、エルフォンソとルベリアの間に転がる。

 ブレインド公爵ディッケンの首だ。

 思わずエルフォンソは目を背けたが、物言わぬ首は傾いで転がりながらも、無言の視線で無念を語りかけてくる。ルベリアが僅かに息を飲む気配が伝わった。

「天帝アルビオレ! ご所望通り、ディッケンとやらの首を取ってきたのじゃが……取り込み中だったかや?」

「いや、大儀である。何、犬も食わぬ親子喧嘩よ」

 アルビオレは豪快に笑うと、突然現れた伊那へと目を細めた。それから、床に転がる生首へと、ちらりと一瞥をくれる。エルフォンソも改めてみれば、膨れて変色しているが、間違いなく公爵の首だ。先日、伊那が一閃のもとに刎ねたものだ。

「犬も食わぬと申すが、天帝殿。わしは狐じゃからのう。エルには借りもあるし、の」

 ふらりとよろけながらも、伊那はゆっくりとエルフォンソとルベリアの間に割って入った。その顔に張り付く笑みは憔悴の色も露だが、深紅の瞳には異様なぎらつきが煌々と輝く。

「お伊那さん!」

「情けない声を出すでないわ。何じゃあ、プリミもおるではないか」

 完全にエルフォンソの前に立ちはだかると、彼の視界を血に濡れた背中が覆った。背にも無数の裂傷が刻まれ、それを隠すように尾が揺れている。

「お、伊那、さん……お願い、エルを……」

「おうおう、よくあの傷で剣が握れたものよな。ぬし、立派なさぶらいじゃのう」

「エルを、守っ……」

「この、お伊那にお任せあれ! しばし休むがよいぞ」

 エルフォンソは伊那の登場で、金縛りがとけたかのように全身から脱力した。同時に振り向き屈んで、身を横たえるプリミを抱き寄せる。そうして二人で見上げる背中は、どこか頼もしく見えた。

 純白の戦衣を朱に染めた、満身創痍の伊那が腰の太刀に手をかける。

「さて、ルベリアとやら? ぬしに一つ、聞きたいことがあるのじゃが」

「何なりと」

 僅かに動揺しながらも、ルベリアは毅然と剣を構えなおす。

「ぬし、前にわしからあの男を守ったじゃろ? 何故じゃ?」

「知れたこと。あの男はわたくしが姦計で、惨たらしく誅殺するのです。闘争の歓喜を与えることなく、勇ましい勲もなく、最も卑怯で汚らしいやりかたで」

 それがルベリアの、長年練り上げてきた一念だったのだ。天帝の右腕として働きながら、最も近くで殺意も隠さず……寧ろ、それを是とする男への憎しみを募らせてきた。そうして、諸侯の中から同志をえりすぐり、蜂起の日まで耐え忍んできたのだろう。

 アルビオレが、その陰謀の末端に気付くまで。

「ふうむ、なるほどの……ぬしに虚が見えぬ訳じゃあ。最初からずっと、ぬしには天帝殿への敵意が渦巻いておったが。その本質は玉座への執着かと思っておったわ。まっこと、偽りなき純粋な憎悪よの」

 ふむふむと唸るや、伊那が太刀を抜いた。鞘からその刀身を露にする蹟剣は、石より削りだしたものとは思えぬ程さえざえとして、刃こぼれ一つない。恐らく大量の人間を斬り伏せ、この王都に帰りついたであろうに。

「その目に虚を見、それを明かす……人心を化かす蛮族の術、でしたね」

「おうよ。……むむ! 待て、しばし待つのじゃあ」

 伊那は不意に、睨み合う目線を外して、ルベリアの前を横切った。そのまま無防備に背中をさらしながら歩く先には、迅雷が血に伏していた。

 友との再会に迅雷は、獣とは思えぬ哀切の声を発して、ゆっくりと身を起こす。その傍らに剣を突き立てると、伊那は弱々しい迅雷を全身で抱きとめた。乾いた血の上を、獣の血が汚してゆく。

「あの小娘にやられたのかや? ふむう、これは動かぬほうがよいぞ。誰か! 誰か手当てを!」

 伊那の声に、凝固していた衛士達は互いに顔を見合わせうろたえ、アルビオレへとすがるような視線を献上する。天帝が頷くや、周囲は慌しさを取り戻した。

「よしよし、偉いのう迅雷。わしが頼んだ通り、エル達を守ってくれたのかや。ん、何、わしか? 大事ない、掠り傷じゃ。後はわしに任せよ」

 そうして、そっと迅雷から伊那は離れた。再び側の剣を手に、それを引っこ抜くなり翻す。その全身には、半死の怪我人とは思えぬ戦意が満ちていた。僅かに目元を厳しく眉根を寄せて、彼女はルベリアを睨みながら剣を向けた。裂帛の意思が漲り迸る。

「ぬしを斬る理由が増えたわ。天帝アルビオレ! わしはこの小娘を斬るぞ! よかろうな!」

 横目にアルビオレを眇める、その声は怒気をはらんで高い天井に響く。

 いまや伊那は、人へ牙剥く妖狐そのものだった。

「これは愉快っ、面白い! できるものならやってみよ、もののふの姫よ」

「おうよ! とくとごろうじあれ!」

 気勢を叫んで剣を構える、伊那の足元が僅かにふらついている。その身を濡らす出血はおびただしく、呼吸は浅く荒い。しかし意気軒昂の彼女は、耳がピンと天を衝き、尾もびりびりと毛が逆立っている。

 ――エルフォンソに借りを返すと、伊那は先程はっきりと言った。

 それが何かを思い出したところで、エルフォンソは立ち上がった。あの剣だ。エルフォンソが彼女に貸したのは、貸しを作ったのは、以前帯びていたかりそめの剣だった。

「お伊那さんっ! 斬っちゃ駄目だ、姉上は――」

「お黙りなさい、エル。もはやこれまで……せめて蛮族の姫君を斬り捨て、あの男の興を削ぐくらいしか」

 ルベリアの復讐劇は、完全に潰えた。

 そればかりか今、静かに怒りを燃やす紅蓮白狐ぐれんびゃっこの鬼姫が、その命を取らんと迫っている。それでも、ルベリアは戦うのをやめない。まるで取り憑かれたかのように、剣を離さない。

 互いに剣を向ける伊那とルベリアは、じりじりと互いの距離を埋めていった。

「双方実に見事なり! まだ尚復讐心を滾らせ、この我に一矢報いんとするルベリア! 数多の傷にまみれて尚、ただ闘争に踊るもののふの姫! 両雄、天晴れ至極!」

 感動に震えるアルビオレの声の、次の一言が戦いの火蓋を切って落とした。

「敗者には死を! 勝者には……我がじきじきに相手をしようぞ!」

 瞬間、相対する二人が、静から動へと変わった。

 伊那とルベリアは同時に床を蹴るや、激しく斬り結ぶ。

 ただ見守るしかできないエルフォンソは、ずいと身を乗り出したアルビオレと目があった。その双眸にけいと燃える燐光は、齢七十に届かんとする老人のものではない。いまだ猛り狂う、覇王のそれだ。例えるならそう、まさしく闘いだけを求める獣の瞳だ。

「さあ、つわもの達よ、戦えぃ! 望み欲するままに、願い祈る前にっ! 戦うのだ!」

 天帝の声に煽られるように、剣舞のテンポは加速してゆく。

 エルフォンソはただ、弱々しく裾を握り締めてくる、プリミの手を握り返してやるしかできなかった。

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