6-2

 玉座の間へと続く廊下で、誰もがエルフォンソ達へ道を譲った。

 無言で先頭をのし歩く迅雷を見れば、文官や女官達は、口に手を当て下がるしかない。兄や姉、弟や妹達でさえ、普段のようにエルフォンソへ挨拶をしてはこなかった。

 プリミと共に歩くエルフォンソの顔には、今は普段のゆるんでぼやけた表情が見えないのだろう。

「プリミ、最後にもう一度確認だ」

 エルフォンソは傍らの近衛女中を、見ることなく呼ぶ。血色の悪い白い顔で、怪我をおして随伴してくれる彼女を、今は正視に耐えられない。それだけで歩みを止めてしまうほど、彼は弱い。だから今は、己を奮い立たせて足早に歩く。

「公爵の叛意は真実で、その首はあの人の、陛下の勅命でお伊那さんが討ち取った」

「ええ」

 短く、しかし力強い返事だ。いつものプリミだ。

「だけど例のライフルと、それとこの手紙。……もう答は一つしかない」

 エルフォンソの手には、乾いた血で汚れた、一枚の書簡があった。

 あの日、姉のルベリアから託された物だ。エルフォンソがずっと、平和で穏便な解決をと願っていた一枚だ。

 エルフォンソはその、真実をしたためた紙片を握りながら、玉座の間への階段を昇る。真実はずっと、最初から彼の手にあったのだ。それに気付かなかった、気付けなかった。悔いても悔やみきれぬ鬱積が、忸怩たる思いとなって身を苛む。

「……躊躇わず戦えと母上は仰った。必要ならばいつでもと。僕には、今がその時だ」

 豪奢な重々しい扉の前で、迅雷がエルフォンソを振り返る。

 彼は両手を押し当て、左右の扉へと体重をかけた。背後で何事かと見守る、多くの人達の視線を感じる。遠くで、衛士達の足音が聞こえた。

 音を立てて扉は開かれ、真っ直ぐ先に絢爛たる玉座と、その中央へ身を沈める父の姿があった。

「エルフォンソか。その虎は……もののふ姫の知己だな? 姫はどうした?」

 エルフォンソが始めてみせる決意の表情に、僅かにアルビオレが薄い笑みを浮かべた。

 まるで、新しい獲物を見つけた猛禽の悦びが感じられた。

「姫は、伊那姫は討ち死にしました。僕を助けるべく、多勢を相手に孤軍奮闘して……」

 エルフォンソはいったん言葉を切って、視線鋭く眼差しで刺突を放つ。その先に超然と佇む、事件の黒幕に対して。

「貴女ならそうお考えではありませんか? 姉上……ルベリア・ミルタ・ラ・クーラシカ」

 エルフォンソは震えて上ずる声で、父の傍らに立つ麗人へと向きなおった。

 ルベリアは、エルフォンソ達の突然の闖入にも、アルビオレ同様に動じなかった。眉一つ動かさず、ただ静かに弟を見詰めている。エルフォンソは隣で、唸る迅雷を抑えるプリミの気配を感じた。

「陛下が仰る通り、ブレインド公ディッケンは謀叛を企てておりました。それも大規模な」

 ほう、と口髭をなでつけ、玉座に身を崩す父を横目に。エルフォンソはゆっくりと姉に近付いてゆく。

 真っ直ぐ、瞳を逸らさずに。

「陛下の勅命通り、伊那姫はディッケン公爵を討ち取りました。ですが、姉上」

 すぐ目前、抜刀すれば切っ先が触れる距離でエルフォンソは足を止めた。

 アルビオレはただ、娘と息子とを、楽しげに交互に見詰めてくる。

「陛下に叛意を抱いていたのは、ディッケン公爵だけではありませんね?」

 ルベリアの端正な表情が、僅かに片眉を震わせた。それでも表面上、全く動揺を見せたそぶりもなく、彼女は父を挟むように、エルフォンソと対峙する。

 その手はもう、腰の剣に添えられていた。

「いつ、気付きましたか? エル」

「全てが手遅れになってから。そう、遅かったです。……ですが、遅過ぎはしませんでした」

 プリミが主の名を叫んだ。

 同時に、その手から解き放たれた迅雷が、咆哮と共にエルフォンソの元へと駆け寄ってくる。

 アルビオレはただ、玉座の肘掛にもたれて、ことの次第を静かに見守っていた。

「公爵は王都でも最新のライフルを、大量に生産する技術と知識を得ていた。それは――」

「勿論、わたくしが都合したものです」

「さらには、僕の暗殺まで企てた。……全て、この手紙に書かれた指示の通りに」

 エルフォンソは姉へと、かさかさに乾いてしまった件の手紙を突きつける。既にもう、その文面はおびただしい血で読み取れないが。断片的に拾える文字が、如実に真実を語っていた。

 手紙には確かに、エルフォンソ達一行を密かに始末するよう、ルベリアの筆跡で丁寧に綴られていた。

「――さかしいっ!」

 沈黙を破ったのは、立ち上がったアルビオレだった。見上げるその巨躯は、ルベリアを、次いでエルフォンソを交互に一瞥する。再度、豪胆に、

「さかしいぞ、ルベリアッ! お前ほどの器量が、何故正面から挑んでこぬのかっ!」

 迅雷さえも恐れ慄き身を低くする、天帝の怒声が玉座の間に響いた。

 怒りに満ちた慧眼が大きく見開かれ、そこから発する視線がルベリアを貫く。エルフォンソは父の横顔を見上げたまま、込み上げる震えに身を硬くしていた。

 一瞬の出来事だった。

 アルビオレは玉座に立てかけた剣を取るや、鞘走る刃をルベリアへと向ける。

 エルフォンソが身動き一つできずにいる間にも、ルベリアは即座に後方へと跳ねて剣を抜いた。

「我は言ったな……玉座が欲しくば、挑んでこいと。その意気やよしっ! だが……さかしいっ! お前ほどの剛の者が、小ざかしいと言っておるのだ!」

 ビリビリと空気が震えて、父が一歩を踏み出す。巨大な背中がエルフォンソの視界を覆った。赤い龍が翼を広げるマントの奥から、彼は姉を垣間見る。

 常人ならば取り乱し、発狂してもおかしくない天帝の怒りを前に、ルベリアは冷ややかに笑みを浮かべるだけだった。

「このわたくしが、貴方を喜ばせるようなことをするとお思いですか?」

「何?」

「貴方は、もののふ姫のような勇敢なる者の手にかかるのではありません……ただ、卑劣で下品な謀略にかかって、多くの裏切りに囲まれて死ぬのです。闘争を楽しむことなど、わたくしが許しません」

 厳として揺るがない、静かな、しかしよく通る声でルベリアは口上を謳いあげた。

 騒ぎを聞きつけた衛士達が、玉座の間へと殺到する。だが、ルベリアにはそれさえ意に返した様子が見られない。その顔には、覚悟の程がありありと浮かんでいた。

 ルベリアの表情は最後に見た伊那に似ていながら、決定的に違っていた。違和感が何なのかも解らぬまま、エルフォンソはアルビオレの前に躍り出るや、腰の剣を握る。

 それが合図になって、エルフォンソより先に剣を抜く者があった。

「ルベリア殿下。我が主に代わって自分がお相手いたします。主を守るは近衛女中の務め、陛下を守るは帝國の銃士たる定め……お覚悟を」

 プリミは周囲を取り巻く衛士達にも、短くはっきりと「手出し無用」と告げるや、腰の剣を抜いた。その研ぎ澄まされた切っ先は、しなって揺れるやルベリアへと向けられる。

「主を守るが近衛女中……しかし、よいのですか? 手負いのようですが加減はできませんよ。これからわたくしはエルと、そこの男を……天帝アルビオレを斬らねばならぬのですから」

「殿下が帝國と主に剣を向けるならば、自分が戦いましょう。たとえこの身から肉が削げ落ち、骨が砕け折れようとも……あなたは、あたしのエルを裏切った!」

 プリミの傷口はもう開き始めていた。再び流れ出した鮮血は、服に滲んで純白のエプロンドレスに染みを作ってゆく。その色は、帝國の紋章より尚赤い。

 それでもプリミは凛と剣を構えて、同時に腰の短銃を後方へ投げ捨てた。

「エル、いい近衛女中を持ちましたね。それを失う痛みを、貴方もまた知りなさい」

 ルベリアは両手で剣を構えて、その手元を大きく引き絞る。寒々しく光る刃に映り込む、彼女の表情にはうっすらと笑みが張り付いていた。

 エルフォンソの後ろでただ黙って、アルビオレは動かない。

「エル、貴方は帝國の皇子でありながら、余りに無防備で無邪気だったのです。他の皇子なら真っ先に、わたくしの手紙を自らの目で改めたでしょう。玉座に近付く好機はないものか、と」

 しかし、ルベリアにはエルフォンソがそうしない確信があったのだ。だからこそわざわざエルフォンソに、伊那についていくよう言い渡したのだ。

 ただ、それでもエルフォンソには解らないことがあった。

 ルベリアもまた玉座を狙い、その栄光に一番近い人物と内外に称された第九皇女。それが何故――

「何故、僕を消そうとお思いですか? それだけお聞かせください、姉上っ!」

 エルフォンソには野心など持ち合わせてはいない。玉座など興味もない。

 ルベリアの野望にとってエルフォンソは、無害で無益な筈だった。まして、実の母から共に生まれた、血を分けた姉弟だ。それともエルフォンソは、無自覚に姉の障害となっていたのだろうか?

 答は意外なものだった。

「エル。貴方もまた、わたくしの復讐の対象」

 エルフォンソは一瞬、耳を疑った。

 復讐。

 周囲の衛士達も、互いに顔を合わせては何事かと囁きあう。ざわめきが伝播してゆく中、緊張感を漲らせるプリミの額に、汗が玉と浮かび上がった。青白い顔にはもう血の気がない。

 それでも彼女は、口ごもるエルフォンソに代わって剣をルベリアに突きつける。

「僕が、復讐の……対象? 姉上、僕が何を……僕、も? 僕もというのは」

「わたくしが望むのは、帝國の覇権でも、富でも栄誉でもありません」

 プリミを牽制しつつ、ルベリアがエルフォンソを睨んだ。その眼光は弟を貫通して、背後にそびえる人物へと注がれていた。

「天帝アルビオレと、エル……貴方達の首です。わたくしは貴方達が恨めしい。殺して尚、わたくしの憎しみは癒えないでしょう。それに比べれば、ブレインド公爵の遺恨など」

 ルベリアの気配が激変した。

 口調こそ普段のものだが、そこに潜む殺意には、えもいわれぬ凄みがある。それは見えない刃となって、無数にエルフォンソを切り刻み、アルビオレへと殺到した。

 憤怒の第九皇女に周囲が怯む中、プリミだけが冷静さを保っていた。

「いかなる理由であれ、陛下に、我が主に剣を向けることは……あたしが許さないっ!」

 フリルが舞い、レースが揺れる。

 床を蹴るプリミを、エルフォンソは制止する声を絞り出せなかった。

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