伍・その手を今こそ汚すのか
6-1
エルフォンソとプリミの重さをものともせず、迅雷は一昼夜を走り続けた。その背に揺られるエルフォンソはただ、傍らで時々苦しげに呻く、プリミの手を握ってやることしかできなかった。
エルフォンソは、ひたすらに無力だった。
命からがら王都へ逃げ帰るなり、頼れる場所を探して、意地も見栄も捨ててそれにすがった。
身の内にこみ上げる、自身への強い怒りも今は鎮めて。
「殿下、プリミは大丈夫ですわ。もともと近衛女中は、銃士として厳しい訓練を受けておりますので。深手ではありますが、骨や内臓までは達してませんし」
プリミの包帯を取り替えてくれた、元近衛女中の言葉には説得力があった。
エルフォンソは結局王宮を素通りして、全てを胸の内に秘めたまま密かに後宮のサフィ
ーヌを頼った。目立つ迅雷を快く匿ってくれるのも、彼にはここしか思いつかなかった。
ベッドのプリミを見下ろしながら、エルフォンソは頭を抱えて椅子に座り込む。
「サフィーヌ様、何から何まで申し訳ありません」
「いえ、どうかお気になさらずに。しかし、何があったのですか? 私に、他に力になれることは……」
エルフォンソはまだ、全てをサフィーヌに語れないでいた。
サフィーヌを信用しないわけではない。ただ、真実はエルフォンソを打ちのめしたのと同様の痛みを、目の前の筆頭寵姫にも刻み付けるだろう。いや、もしかしたら、それ以上の激痛が、サフィーヌを襲うかもしれなかった。
エルフォンソは一人、俯き黙った。
「そういえば、お伊那さんはどうしたのかしら? まさか……」
「お伊那さんは……公爵領に残りました。僕達を逃がすために。僕は、彼女を置いて来てしまった」
謀叛を企て、その準備も周到だった公爵の城だ。目算でも、警護の衛兵は百や二百をくだらなかった。いかな伊那とはいえ、それだけの数を相手に一人で、エルフォンソ達が逃げる退路を守って……
エルフォンソは、込み上げる身震いに己の肩を抱いた。
質素なサフィーヌの部屋を、静かなプリミの寝息だけが満たした。あの逃走劇以来、迅雷も大人しく、まるで牙を抜かれた獣のように部屋の隅でじっと動かない。餌さえ食べようとしない。
「殿下、今は話せないのなら、それでも構いません。ですが、いずれは陛下の知れることになりましょうし」
「あの人は、心底残念に思うでしょうね」
アルビオレは、伊那の死を知ったら落胆するだろう。それを面には、おくびも出さないだろうが。生まれて初めて、真正面から堂々と自分を殺しに来た獣人の姫君……その気高さと勇ましさを、天帝アルビオレは愛したんだとエルフォンソは思う。多分、己自身も。
エルフォンソは今、失って初めて、自分の胸中の疼痛が何だったかに気付いた。
自分は伊那になりたかったのだ。全てを超え、砕き、踏破して……真っ直ぐ父に、力の権化へと向かってゆく伊那に憧れたのだ。
「陛下はまた、愛する者を失ってしまったのでしょうか」
「まだ、お伊那さんが死んだと決まった訳じゃ……もののふ姫が、そう簡単に」
奇跡を、祈り願った。ねだった。
しかし同時に、それにばかりもう、今はかまけていられない。ここでプリミを見守り、サフィーヌのスカートに隠れ、ただ息を潜めてもいられない。エルフォンソは毅然と椅子を蹴った。
意を決したエルフォンソの顔を見て、その全てを察したかのようにサフィーヌも立ち上がる。
「殿下。どうか自棄だけは……お命を大事になさってください。このサフィーヌ、あえてお止めはしませぬが。我が身を粗末になさっては、亡きマリアルデ様も悲しみましょう」
サフィーヌは静かに視線を床に落とすと、長い睫毛を僅かに濡らした。
「その母上を、先日夢に見たんです。母上は……一つだけお教えください、サフィーヌ様。母上は、僕に戦えと、必要とあらば戦えとおっしゃったんでしょうか?」
まだ幼いころの、死別の記憶。悲しみは深々と刻まれているのに、ただその喪失感ばかりを抱えて、エルフォンソは大事なことを忘れていた。それを今、彼は伊那のお陰で取り戻しつつある。
「母上は、争いを好まぬ優しい人でした。でも、死の間際に僕に、何か大事なことを残してくれたような気がするのです。それを僕は、ずっと忘れていた」
「マリアルデ様は、確かに争いを好まず、戦に心を痛めておりましたわ。ですが殿下、同時に優しくもお強い方でした。大切な何かを守るための、避けられぬ戦いからは逃げなかった」
「母もまた、戦っていたと?」
「お傍にいた私には解ります。望まぬともマリアルデ様は、この後宮で立派に戦い、その身を削っておられました」
寵姫がひしめく後宮は、策謀渦巻く魔物の巣だ。美しくもしたたかで残酷な女達の、男には見えぬ刃が光る戦場なのだ。その中でマリアルデは戦い、病に蝕まれながらも、尚戦い続けた。
恐らく、その後に筆頭寵姫となったサフィーヌも。
この後宮の危ういパワーバランスは、張り詰めた日々の見えない戦いに支えられていたのだ。
「僕もまた、戦わねばならないと感じています。母上の教えを、お伊那さんが思い出させてくれました。ですから」
いとまを告げ身を正したエルフォンソを引き止める声が、その時か細く響いた。
「エ、エル……まずは、着替えてらっしゃい? それと、ちゃんと顔も洗って。だらしない格好ではいけなくてよ?」
プリミだ。
いつの間にか眼を覚ましていた彼女は、眉根を寄せて歯を食いしばりながら、身を起こした。
「プリミ……よかった、意識が」
「あたしは大丈夫。これくらい……」
「プリミ、まだ縫ったばかりなの。動かないほうがいいわ……と、言っても無駄かしら」
サフィーヌはプリミをじっと見詰めて、その口元を緩めた。昔の自分を見るような、懐かしむような目線がプリミに注がれている。
「お伊那さんが破いて包帯に使ったから、貴女のエプロンはもう駄目ね。でも、銃も剣も持ち帰ってあるし、エプロンなら私のお古でよければ。少し大きいけど。ええと、これから行くなら、下は午後服ね」
「ありがとうございます、サフィーヌ様」
エルフォンソは二人が、何を言っているのか解らなかった。ただ、起き上がろうとするプリミを止めれば、背後ではサフィーヌがドレッサーを開く。出てきたのは、少し前のデザインの、しかしれっきとした近衛女中のエプロンドレス。宮中での正装も一緒だ。
鮮やかに彩られた、真紅の龍の紋章が純白に踊る。
「エル、あなたが行くならあたしも。止めても駄目よ? あたしはあなたの近衛女中、これしきの怪我がなんですか」
「でも……」
「あたしがここで寝てたら、お伊那さんに笑われちゃうもの。あたしは近衛女中、銃士よ。主が戦うというなら、その一歩前に常に立たなければいけないわ」
でも、と再度言葉を探すエルフォンソの前で、彼女はベッドから飛び起きた。肌も露な包帯姿に、慌ててエルフォンソは背を向ける。
「サフィーヌ様、思い出の一着、確かにお借りします。必ずお返ししますわ」
「ええ、そうして頂戴。血で汚しても構わないけど、ちゃんと貴女自身が私に返すのですよ」
衣擦れの音を聞きながら、エルフォンソはプリミの精神力に驚き、そして感謝した。
正直、身の震えが先程から止まらないのだ。小心のエルフォンソは、臆病と言う名の病気を決意とともに患っていたのだ。だが、一人でないことが確かに、その症状を和らげてくれる。
そして、共に並び立つのは、プリミだけではなかった。
「ん、何だ? お前……一緒に来てくれるのかい?」
先程まで伏して沈黙していた、迅雷がすっくと立ち上がった。その巨躯がゆっくりと、エルフォンソの前へ歩み出る。獰猛な人食い虎とは思えぬ、つぶらな瞳を初めてエルフォンソは覗き込んだ。
エルフォンソの鼻先、互いの吐息が感じられる距離で鼻を鳴らすと、迅雷はべろりと彼の顔を舐めた。
「ほら、迅雷も言ってるわ。エル、身だしなみ。さっさと整えてらっしゃいな」
「はいはい、解ったよ……ありがとな、迅雷。頼りにさせて貰う」
エルフォンソは袖口で顔を拭うと、改めて迅雷の頭を撫でた。思えば、この獣に初めて、自ら触れた。その手触りは、つやつやとした毛並みが心地よく、その下で盛り上がる筋肉が頼もしくもある。
「お前の友の名にかけて。僕なりに戦ってみるよ」
首肯するように一声、小さく迅雷が唸る。
とりあえずは、これ以上プリミがお小言で血圧を上げないよう、エルフォンソは一度部屋を辞することにした。宮廷に戻り着替えて、先ずは身をさっぱりと洗い流そう。決戦を前に、だらしなくば己も笑われるだろう……伊那に、それはもう気持ちのいい大笑いで。
「と、そうだ。サフィーヌ様、お手数ついでではなはだ心苦しいのですが」
エルフォンソはもう、迷わない。
目的のために手段を選ばない。いや、選ばないのとは少し違う。逆に、自ら進んで選ぶ。
今の今まで、エルフォンソは理想を胸に、何も選択してこなかったのだから。
「剣を、もしあれば……お貸しいただけませんか」
「私の、近衛女中時代のものでよければ」
黙って頷くエルフォンソへと、まるで待っていたかのようにサフィーヌが一振りの剣を両手で捧げてきた。手にすれば本物の剣は確かな重みがある。鞘を手に柄を握って、少し抜いてみる。
長い年月を眠っていたにしては、その刃は鋭く光って、一日を折り返した陽光を反射した。
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