5-4

 しんと鳴るような、耳に痛い静寂。

 窓の外の蒼い月だけが、冷たい光をこの部屋へと差し込んでくる。その寒々しさから、エルフォンソはプリミを守るように強く抱きしめた。腕の中の震えが、荒い呼吸で薄い胸を上下させている。

「さて、プリミ。大丈夫かや? エル、見せてみよ」

 顔の返り血を手で拭って、伊那が近付いてくる。その表情はまだ、興奮に火照って赤みがさしていた。耳はピンと天を衝き、尻尾は毛が逆立っている。

 伊那は闘争の余韻もそのままに、普段と変わらぬ呑気な声だ。

 だが、エルフォンソはもう、半ば正気ではいられない。

「そっ、そそそ、そうだ。プリミ、しっかり……傷は浅いさ、大丈夫。しっかりしてよ」

 エルフォンソが余りにも情けない声を出すので、プリミは弱々しく笑って見せた。エルフォンソの胸に手を当て、立ち上がろうとさえしてみせる。その身を引っ張り抱き寄せたのは、他ならぬ伊那だった。

「ふむ、深手じゃなあ。このまま出血すれば二時間ともつまいよ。どうする、プリミ?」

 淡々とした伊那の声には、同情の欠片も感じられない。そう思ったのはしかし、エルフォンソがあまりにも戦を知らないから。そして、火ノ本の獣人を、さぶらいを知らな過ぎたからだった。

「今なら楽にしてやれるが、どうしたもんかのう?」

 にべもない言葉だったが、伊那の声色が優しくなった。憐憫にもにた情と、一種の敬愛の念さえ入り混じる。その意味するところは、エルフォンソでも何とか解った。

 割って入る間もなく、プリミは小さく首を横に振る。

「であろうな。わしとて犬死は御免じゃて。……酒が匂うの。エル、近くにあるかや?」

 エルフォンソは慌てて立ち上がり、周囲を見渡す。先程の乱闘にいまだ揺れる天井のランプと、月明かりだけが頼りだ。我を忘れて彼は、目を血走らせながら壁面の戸棚に駆け寄った。片っ端から戸を開け放ち、その中身をぶちまける。

 酒気の強そうな蒸留酒が並ぶ列を見つけるや、エルフォンソはその琥珀色を満たした瓶を引っつかんだ。

「お伊那さん、これでっ!」

「よかろ。エル、少し向こうを向いておれ。……こっちを見るでないぞよ? 絶対にじゃ」

 エルフォンソから酒瓶を受け取るや、手際よく伊那はプリミのエプロンドレスを引き裂いた。

 何がおこるのか察して、エルフォンソは慌てて背を向ける。そうして、部屋の入り口まで下がって、外の様子を伺った。その横には、いまだ唸り荒ぶる迅雷がのっそり寄ってくる。

 迅雷の闘争本能を刺激する、敵意が扉のすぐ向こうまで迫っていた。

「銃を前へ! ええい、早くせぬか! 一斉射の後、全員で突入。旦那様を救出せよ! いっ、急げよ! 全衛兵をここへ集めよ!」

 半狂乱で声を張り上げるのは、あの化かされた執事だ。

 ガシャガシャと外が慌しく、僅かに開かれた隙間から垣間見れば、廊下の向こうに甲冑姿が並び重なるのが見えた。どんどん階段を昇って、敵の数は増えてゆく。

 恐らく城中の衛兵が集まっているのだろう。

「お伊那さん、敵がきますっ!」

「聞こえておる。しかしプリミよ、ぬしほどの者が不覚を取ったのう……しみるぞよ?」

 とくとくと酒の零れる音に、噛み殺したプリミの悲鳴が重なった。続いて布を裂く音と、それがプリミの傷口を覆ってゆく音。それを背中で聞きながら、エルフォンソは気付けば拳を握っていた。

 自分の愚かさを痛感すれども、その痛みはプリミの傷に足りない。

 エルフォンソの無策な平和主義は、ただの日和った平和ボケだったのだ。彼は今、己が間違っていたのだと認めなければいけない。手段を誤り、恐らくは目的も。

「ふむ、これでよいじゃろ。後はぬしの体力次第じゃあ」

 背後でガシャリと具足が鳴って、伊那の立ち上がる気配がした。それでエルフォンソは、茫然自失の自分を奮い立たせる。今やるべきことを見失わぬよう、気負って気合を入れた。

 ともすれば泣き喚きそうになる自分を、何とか支える。いままで多くの人間に支えられてきた、甘ったれの根性なし……そんな自分を、今度は自分自身で支える。

「お伊那さん、プリミをお願いします」

「何じゃ? ぬしは何をするつもりぞ」

「外に出て、この城の兵を説得します」

 一瞬表情を失った伊那は、次の瞬間にはエルフォンソの襟首を引っ掴んでいた。そのままグイと身を寄せられ、エルフォンソは鼻先に伊那の呼気を、その怒気を感じる距離で見詰められる。

 すぐ目の前にある深紅の瞳が、大きく見開かれていた。

「エルッ! ぬしはあほうか、このたわけっ!」

 痩身を震わし搾り出された叫び声に、エルフォンソは身を硬くした。

 思わず、伊那の白面から眼をそらす。

「説得じゃと? うぬが愚策、笑えんぞよ。感じぬのか、この殺気! 敵意!」

 伊那はエルフォンソを半ば吊るすようにしながら、もう片方の手でドアを指差す。その向こう側では、今にも突入して主を救わんとする、衛兵達の足音が増え続けていた。

「わしはの、エル。ぬしの言うことは嫌いではない。むっ、むしろ、す、好きじゃあ……民草が平和に暮らし、何事も語らい協議して片付けば、それにこしたことはないからの」

 意外な告白に、エルフォンソは言葉を失った。

「だがの、この世の理は今、力ぞ。わしを見よ! 戦国乱世に生まれ、長き刻を戦に生き抜き……今ではもう、そのことに悦びすら感じおるわ。わしはもう、戦狂いの戦人いくさびとよ」

「お、お伊那さん」

「世を変えたくばの、エル、エルフォンソ……世の理から逃げるだけでは駄目ぞ。理が力なら、力もまた必要となろう。その覚悟がぬしにはない。じゃからプリミに手間をかけさせたのじゃ」

 返す言葉もない。

 しかし、納得もできない。

 まるで身を捩り搾るように心中を吐露する、伊那の眼は僅かに潤んでいた。その深紅の輝きが今、月明かりで真っ白な少女の顔に対となって瞬いている。

「じゃから、もうあほうは抜かすでない。……ここはお伊那に任せあれ、じゃ」

 エルフォンソを放すや、伊那は腰の太刀を抜いた。そうして迅雷を呼ぶ。彼女は手際よく執務室を一目見渡すと、黙然と公爵の生首を見つけ、その白んだ髪を鷲掴みに拾い上げた。

 そうして、ついと窓の外へ視線を走らせる。

「窓からは無理であろうな、この高さでは。ではやはり、正面からじゃなあ」

 エルフォンソは一瞬、耳を疑った。

 固まるエルフォンソを置いてけぼりに、自分の提案を確認するよう、伊那が扉へ寄って開け放つ。その先へと首を巡らす。

 自然と、露になった伊那へと、衛兵達は怯えて銃口を向けた。

「おうおう、狭い中をご苦労なことじゃ。聞けぃ! わしに鉄砲は効かぬっ!」

 そうして彼女は、この絶体絶命の状況で、にんまりと無邪気な笑みを浮かべた。

「なんじゃあ、エル。酷い顔をしとるのう? ほれ迅雷、もう一仕事ぞ?」

 エルフォンソは確かに、今にも泣きそうな顔をしていた。彼我の趨勢は明らかだ。

 そんなエルフォンソを無視して、迅雷が伊那へと擦り寄った。獣とて、この状況を敏感に察知しているらしい。押し寄せる敵に今、歩み出んとする伊那の覚悟をエルフォンソもまたはっきりと知った。

「どうしたのじゃ、迅雷。ぬしも聞き分けのない甘えん坊じゃのう。人に育てられたから、そうも意気地がないのじゃ」

 友の巨体を全身で抱きしめ、その毛並みを優しく撫でながら伊那が呟きを零す。

「ぬしは虚にまみれておった……檻の中で人の見世物など、野を生きる獣の虚じゃあ。それをちっくとわしは化かしたが、ぬしがいてくれて助かったぞよ? 今もの、助かっておる」

 一声小さく鳴くと、迅雷は雄々しく吼えた。そうして、エルフォンソへとゆっくり近付いてくる。有無を言わさずエルフォンソは、鼻先で押されて、伊那と共に扉の前へ立たされた。

「さて、少々戦働きするかのう。くぞよ、迅雷! どれプリミ、わしが――」

「ぼっ、ぼぼ、僕が! プリミは僕が抱えて行きます! プリミは僕の近衛女中……かっ、家族だ!」

 応急処置が済んで身を横たえる、プリミをエルフォンソは抱き上げた。小柄なその身は、両手に抱けば驚くほど軽い。軽いのに、ずしりとエルフォンソに存在感を訴えてくる。

「ほう? 少しはらしい面になってきたではないか、エル」

 にんまり笑って、伊那は踏み出した。その歩調は強く、迷いが微塵も感じられない。

 迎える衛兵達が身を固くする、その気配が空気の振動となって伝わってきた。

「お伊那さんっ! 無茶だ、真正面から討って出るなんて……そんな、恐ろしいことが」

「わしは怖くはないぞ? 兵を蹴散らし堂々と出てやるわ。手勢の百や二百がなんじゃ」

「……お伊那さんらしいや。お伊那さんには、怖いものなんてないんですよね」

 エルフォンソの問いにしかし、意外な答えが返ってきた。

「わ、わしとて恐ろしいものくらいある。……た、例えばそうよの、あっ、あれじゃ」

 衛兵達と睨み合いながらも、僅かに言葉を濁し俯く伊那の顔が……乙女になった。

 並み居る敵から顔を背けて、少しだけ俯き頬を朱に染める。

「とっ、とと、殿方は恐ろしいぞ? 夜更けに忍んでこられれば、思わず剣もむけようて」

「……はあ。いや、でも、お伊那さんは……え、もしかして」

「わっ、わしは正直、そういうのは嫌じゃあ。じゃ、じゃからこう、つい……」

「それで、あの人に……陛下に、斬りかかったんですか!? あの夜」

 伊那が小さく頷いた。

「あれは大した漢じゃが、わしは好いた殿方以外に躯を許すのは……嫌じゃあ」

 意外な一面を見せる伊那に、エルフォンソの中の悲壮感が薄れてゆく。自然と込み上げる笑みが、そのまま声になった。慌てて押し殺しても、口をふさぐ指の間から零れ出る。

「わっ、笑うでない! ……これでも気にしておるのじゃあ。ま、此度はディッケンの首を取ることを代わりに、あの男に、よ、夜伽よとぎは勘弁してもろうたが……きっ、緊張したのじゃあ」

 エルフォンソの笑い声に、伊那は嫣然えんぜんと笑い返してみせた。それは死地へ赴く者の笑みではなかった。どこまでも抜けるような、さわやかで朗らかな笑顔だった。

「ま、全てはわしに任せよ。一騎駆けは戦の華ぞ? 思えば、あの男の火ノ本攻め以来、負け戦の連続じゃったが……わしはまだまだ、死ぬ気はないのう」

 ――あの男の首をとらねばならぬと、伊那は一層眼を細めて笑った。

 彼女もまた、公爵と……そして、あの人と同じなのに。どこか決定的な部分で違うような気がして、エルフォンソは奥歯を噛んだ。滲む視界の中で、白い輪郭がぼやけて歪む。

「お伊那さん……」

「なに、悠々と出てやるわ。かようなところで捨てる命は、ハナから持ち合わせておらぬぞよ? わしはなあ、エル……」

 一瞬だけ伊那が表情を引き締め、エルフォンソの視線を残らず拾うと……再び頬を崩した。

「また、ほれ、あの薄揚げとかいうのが食べたいのじゃ。今度はたらふく、の。……いざっ!」

 伊那の気勢に乗るように、迅雷が身をバネに躍り出た。

 続いて静かな歩調で歩く伊那が、居並ぶ衛兵達をぐるりとねめつけた。右手には太刀、左手には公爵の生首。

 伊那が一歩踏み出せば、気圧され誰もが後ずさる。

 不思議と誰も、撃ってはこなかった。

「え、ええいっ! ななな、何をしておる! 旦那様の仇じゃ、あの女狐めを……討ち取れ!」

 執事の発狂したかのような声が上がったのは、伊那が剣の距離へと、斬り込むのと同時だった。気付けばエルフォンソは、プリミを抱いたまま、暴れる迅雷を追って飛び出した。

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