5-3
天井に灯る数々のランプで、その部屋はほんのりと明るかった。
そして、もうエルフォンソでも鼻腔を刺激される、血の臭いで満たされていた。それは伊那の言う、公爵の血ではない……純白のエプロンドレスを朱に染める、プリミからとめどなく溢れる鮮血だった。
「おやおや、もののふ姫。殿下も……どうされました? 寝付けませぬかな?」
公爵は執務室の中央で机に腰掛け、哄笑でエルフォンソ達を出迎えてくれた。その手には、血に濡れた剣が握られている。周囲を固めるのは、プリミが言っていた門閥貴族達。公爵と縁の近い者達だ。皆一様に、固い表情でエルフォンソを……何より、愉悦に笑みを湛えた伊那を睨んでいる。
「こ、公爵閣下、これは……」
「いえ、わたくしもなかなか眠れませんで。鼠が騒ぐものですから」
次の言葉も待たず、エルフォンソは我を忘れてプリミに駆け寄る。彼女は今、肩口の出血を手で押さえながら、壁にもたれて血の海に沈んでいた。
エルフォンソを見るなり、光の失せた瞳が潤んで揺れた。
「エル……ごめん、なさい……あたし、やらかしちゃっ……帝國の銃士ともあろうものが」
「喋るな、プリミ!」
近衛女中を、剣も銃も抜かせることなく斬り伏せる。そんな芸当ができるのは、相当の手練、剛の者だ。もしくは、プリミに隙があったのか。その両方か。
「油断、したの……あたし、馬鹿ね。いざ、知ると……解って、ても、動揺、しちゃって」
震えるプリミの手が、エルフォンソへと紅く濡れた紙片を押し付けてくる。
そんな二人を見守る、公爵の冷ややかな声は続いた。
「皇室の近衛女中は、最近では盗人の真似もするのですか? いやいや、そうではありますまい……殿下、わたくしが斬ったのは、殿下の近衛女中なのではない筈ですなあ?」
エルフォンソは肩越しに振り向き、公爵を睨んだ。公爵を囲む者達を見渡し、その顔を胸に刻んだ。
真実を知るのが遅かった。早くから察知していたにも関わらず、暴くのが遅過ぎた。
「ディッケン! よくもその傷で剣が振るえたものよのう。ぬしもまた、武人であったか」
伊那の声が凛と響いた。エルフォンソと公爵との、交錯する視線を遮るように、間に立つ。
公爵はぴくりと片眉を跳ね上げ、僅かに口髭を揺らしながら笑った。そうして、手で左肩を押さえて、喉をクククと鳴らす。
「利き腕でなかったのが幸いでした。昼に、そこな鼠に一撃貰いましてね。されど、わたくしとて古くから帝國に仕える武門の男。さらには、かつてはあの天帝と戦った一軍の将ですぞ」
「ふむ」
短く頷き、伊那が手にした槍を自身へと立てかける。そのままトントンと肩を叩きながら、彼女はさして興味を示した様子もなく、公爵の高説を続けさせた。
「本来なら、まずは殿下をと思っておりましたが。順番が逆になりましたなあ」
エルフォンソは悔しさに唇を噛んだ。
あの人は……天帝は正しかった。今回もまた、正しかったのだ。そしてそれを、伊那は最初から解っていたのだ。虚が見えるというなら、まさしく彼女には最初から見えていたのだ。
だから、常々斬ると言っていた。
それを留めて事態を悪化させたのは、エルフォンソだったのだ。
「エル……」
「プリミ、今手当てを」
「それ、より……これを。……真の、敵は……」
先程からエルフォンソの胸には、プリミが弱々しく伸べる手が当てられている。そこには、どこかで見た紙が握られていた。
そっと受け取り、ところどころ血で染まったそれを開く。ランプの明かりを頼りに、綴られた文字を目でなぞる。間違いなく、見慣れた者の直筆だ。
文章をたどり、その意味を脳裏に反芻して、理解する。
それを終えたエルフォンソは、鈍器で殴られたような衝撃によろけた。
「お解りいただけましたかな、殿下……では。古くよりブレインド王国の血に連なる者達よ。今こそ、失われし栄光を奪還する時ぞ! 我等は帝國より離反し、再び王国の領土を取り戻すのです。全ては、あのお方がよきように計らってくれましょうぞ」
公爵の声を合図に、周囲の男達が一斉に腰の剣を抜いた。
瞬間、その一番端で鈍い音が響く。骨を断ち割り、肉を引き裂く調べだ。見れば、門閥貴族の末席が、胸から槍をはやしていた。そのまま彼は、自分に穿たれた傷を見下ろし、信じられぬというような顔で白目をむく。そして、そのまま後へと倒れた。
「しばし。もうしばし詠えい、ディッケン」
伊那だ。
彼女は、今しがた槍を投擲した手を下ろすと、腕組み尾を揺らして立ち尽くす。耳がピンと、正に聞き耳を立てていた。
背後に控える迅雷は前傾に身を低めて、唸り声に牙を剥いている。
「これ以上何を? 死にゆく者達へのたむけには、我等が栄華なる未来は無用かと。今更真実を知ったとて、何になりましょう」
血族の一人が無残に瞬殺されようとも、公爵の声色は落ち着いていた。そこにはありありと、勝利を確信した者の、驕りにも似た自信が満ち溢れていた。
「いかなもののふ姫といえど、所詮は蛮族の獣人。戦場にての武勇も、このわたくしと剣を交える機会がなかっただけのこと。フッ……小娘がほざくでないわっ!」
「ふむ。じゃから?」
「ほう。この期に及んでもまだ、獣の頭には大陸の言葉が通じぬとみえる」
公爵は剣を静かに下ろすと、空いた左手で腰の短銃を抜き放った。僅かに痛みに顔を歪めながらも、ぴたりとその銃口を伊那へと向ける。その距離、僅かに数メートル。素人のエルフォンソでも容易であろう、必中の間合いだ。
「未開人風情が。貴様には解るまいっ! 半世紀もの間、民心を奪われ、誇りを踏みにじられ……何より、愛する者を奪われ! それでも、仕えて機を待った我々の辛苦が!」
公爵が激昂に眼を見開いた。その本性も露に、震える銃口を伊那へと突きつける。
エルフォンソは、激痛に呻くプリミを抱えて、自然と伊那の傍らに下がった。
「わしも民を統べる長なれば、理解はできるがの。死ぬまで戦わず屈した、それがぬしの弱さよ。例えいかな覇王、善王と言えど侵略者。それを前に折れれば負けよのう」
伊那の言葉には、一寸の迷いも躊躇もなかった。
ただ冷たく、突き放すように、哀れむように言い放つ。それでもう、公爵の昂ぶりは頂点に達した。人差し指が銃爪にかかる。周囲の者達からも、構える剣に力を込める気配が伝わってきた。エルフォンソはただ、徐々に冷たくなるかのような、華奢なプリミの矮躯を抱きしめた。
「わしはぬしとは違うぞ? 例えこの身を捨ててでも、あの男の首はわしが貰う」
「黙れ、小娘っ! 貴様には解らぬのだ……あの男の恐ろしさが! 恐ろしい、あの男は恐ろしい……天帝と崇めることすら生ぬるいっ! 世界を飲み込む、あれこそ魔王ぞ」
「駄目じゃな。ぬしはもう、あの男の覇気に呑まれておる。それでは刃向う資格もなかろうぞ」
諦観にも似た、溜息を伴う一言がトリガーを呼んだ。
銃声。
エルフォンソは硬く目を閉じ、暗闇の中でその音を聞いた。硝煙の臭いが鼻を刺す。だが、僅かばかりの間もおかず、かぶせるような金切り声をも耳にした。
恐る恐る眼を開ければ、太刀を振り上げた伊那が、すぐ傍に立っていた。
「な……ば、馬鹿な」
公爵の表情は凍り付いていた。その手に握られ、煙を上げる短銃が震えている。
何が起こったのか、その場の誰もが理解できないでいた。勿論、エルフォンソも。誰も理解できない不可能をしかし、伊那はやってのけたのだ。目の前に迫る弾丸から、彼女は逃れてみせたのだ。
「ぬしらが火ノ本を攻めてくれた時、わしらが何度鉄砲にしてやられたと思うてか。それは、あれじゃろ? 撃てば真っ直ぐ、鉛の弾が飛んでくるのじゃろ? 違うかや?」
平然と伊那は、高々と掲げた太刀を両手で構えて、その身を半身に半歩下がる。刃を矢にみたてて、全身の筋肉を弓に振り絞る。
エルフォンソは唐突に悟った。
伊那は発砲の瞬間、弾丸を切り上げ弾いたのだ。そして今、返す刀で公爵を斬ろうとしている。この地に赴いてより一貫して主張していた、天帝の勅命を果たそうとしている。
「では、わしの番じゃなあ? ――ジンラァァァァァイッ!」
友の名を叫ぶや、伊那が床を蹴った。その身は一足飛びに、茫然自失の公爵へと吸い込まれてゆく。慌てる周囲の者達は、瞬発力を爆発させた迅雷の牙と爪で、刹那の間に切り裂かれた。
「さらばじゃ」
「ひ、ひっ! か、母様っ!」
半世紀耐え忍んで、再起せんとした男の末期にしては、しまらない台詞だとエルフォンソはぼんやり思った。それ以外の感慨もなく、ただ刮目して惨劇を見詰めるしかできない。
伊那の太刀が、おろおろと剣を構えなおす公爵の首を刎ねた。
驚愕に強張り凝固した、ブレインド公ディッケンの表情が宙を舞う。それが床に転がるより速く、吼え荒ぶ迅雷の一暴れで、部屋は朱に染まっていた。壁に、天井に、床に、大量の血が浴びせられてゆく。
伊那が太刀の血糊を振り払うと、ことんと公爵の首が床に転がり、胴体が崩れ落ちた。
嵐のような
「これにて了っ! あっけなや……眠れ、ディッケン。あの男もそのうち、ぬしと同じ場所へわしが送ってやろうぞ。涅槃にて待つがよかろ」
剣を鞘へと納めて、伊那は凛烈たる言葉を切った。返り血を浴びたその白い顔が、くるりとエルフォンソを、その腕のなかのプリミを見下ろしてくる。
エルフォンソは、もののふ姫の、もののふ姫たる由縁を思い知った。
込み上げる恐怖の中にも、凄絶なる美しさに震えて、しばしエルフォンソは言葉を失った。
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