参・待ち受けるは波乱と窮地

4-1

 体が強張って、節々が少し痛い。やはり、慣れないことはするものではない。

 朝日を浴びて小鳥がさえずる、街道の馬上でエルフォンソは首をコキコキと鳴らした。

「どした? はよう付いてまいれ。このままではまた日が暮れて、今夜も野宿ぞ?」

 伊那は朝から元気がいい。エルフォンソとプリミの少し前で、尻尾を翻して振り返り、そのまま迅雷を連れながら後歩きに笑っている。両肩に通してかけた槍に、しどけなく両手を絡めて預け、背には大荷物をしょっていた。

「そんなに急がなくても大丈夫ですよ。夕刻にはお城に――はっぷし!」

 弾んだ声に応えるエルフォンソは、くしゃみを一つ。夏とはいえ、朝方の野外はそれなりに身が冷えた。

 とはいえ、近衛女中に添い寝してもらう歳じゃない。まして……

「あら、エル。風邪? だから言ったのに、毛布に入れって」

「冗談じゃない。どうせ誰かさんに蹴り出されるに決まってるんだ」

「まっ、失礼じゃなくて? あたし、そんなに寝相悪く、悪くは……悪くなんてないわよね?」

「今はどうだか」

 エルフォンソは幼少期の頃を思い出していた。

 母は後宮の寵姫故に夜はなかなか会えない。病弱だった晩年は尚更。一人寝が恋しいエルフォンソの相手は、毎夜毎晩プリミの仕事だった。彼女は身の回りの世話全般もそうだが、よく尽くしてくれたものだ。子守唄を歌い、寝物語を読んで聞かせ、時には添い寝もしてくれた。

 それでエルフォンソは、先に寝付かれた挙句、ベッドから蹴り落とされた思い出を懐かしく振り返る。よく覚えているのは、それが一度や二度ではないからだ。

「プリミの寝相は悪いぞ、エル。わしはの、昨夜何度も毛布を剥ぎ取られたわ」

 からからと声をあげて伊那が笑った。それで手綱を引くプリミは、頭から湯気をあげて歩調を強める。馬が僅かに揺れて、睡眠不足のエルフォンソはその上でよろけた。

「それは毛布が小さいからよ」

「当たり前じゃ。一人用のものに二人で包まれば、狭いは道理であろ?」

「なら……」

「エルを間に挟んで寝れば、わしもあんなに蹴られなんだろうなあ」

 友の愉快そうな声に、呼応するように迅雷が身を摺り寄せている。伊那はそうして、プリミをからかいながら歩いた。

 エルフォンソは一瞬、自分の背に身を寄せて寝息をたてる伊那の姿を想像してしまった。

 思わず、赤面。

 あの白い肌は、やはりひんやりと冷たいのか、それとも柔らかいぬくもりがあるのか。一見して華奢に見えるその身の芳香は、どのように鼻腔をくすぐるのか。つい、そんなことばかり考えてしまう。

「とりあえず、お城に着いたらお風呂に入りたいわね。……なんか、臭うもの」

 プリミが、今朝方変えたばかりのカフスを鼻先に近づける。

「そんなに臭うかや?」

「獣臭い……迅雷を寝床にしたからだわ。それに、寝汗をかいたから」

「わしは気にならんがのう。……やっぱり気になるもんかの。後宮のおなご共もちっくとな」

 伊那の懸念……いや、多分気になどかけてはいないが。迅雷に関する苦情は、それこそ山のように噴出していた。頭がくらくらするほど香水を纏って、嗅覚が麻痺してるのではと思う一部の寵姫でさえ、神経質になるくらいだ。

 勿論それを処理するのはエルフォンソの仕事だったが、これにはほとほと手を焼いた。

 結果、早急に善処しますとだけ言い、今日まで先延ばしにしてきただが。兎角、伊那は四六時中迅雷を連れて歩く。それも、所構わずだ。

「サフィーヌ殿は可愛がってくれるのにのう? 迅雷や。ぬし、嫌われておるぞ」

 大真面目な困り顔で、伊那が相棒の顔を覗き込む。迅雷はただ喉を鳴らして、友の視線に恐縮した様子も見せない。

「そういえばお伊那さん、どうやってサフィーヌ様と懇意になったんですか?」

 エルフォンソはこれを機に、先日から気になっていたことを伊那に聞いてみた。サフィ

ーヌは筆頭寵姫、いわば事実上は正室のようなものだ。後宮内での発言力も強く、一大派閥を形成している。

「うむ、何でじゃろうなあ。わしもよう解らん! が、サフィーヌ殿は何かと親切での」

「きっと、見てられなかったのね。お伊那さん、あんまりだもの。礼儀も作法も、あと言葉も」

「そんなに酷かったかや?」

 エルフォンソは頷くプリミに同意した。

 寵姫は本来、天帝のために女性としての品位を磨き、教養を身につけるものだ。どこかの誰かさんのように、日々武芸の鍛錬に励んだり、獣を連れて気ままに過ごしたりはしない。薄氷を踏むような権力争いにだって忙しい筈だ。

「そういえば、サフィーヌ殿は妙なことを言うてたぞ?」

「はあ、それはまた何と?」

「うむ。わしを見てるとな、昔の自分を思い出すんだそうな」

 まさか。いやしかし。サフィーヌは元は、第九皇女ルベリアの近衛女中だ。

「での、何といったかのう……確か、マリアルデとかいう者の話をよくするのじゃ」

 一瞬、エルフォンソは吸った息を胸に留めた。吐き出すのを忘れる。

「サフィーヌ殿も後宮入りした時はの、随分と苦労したそうじゃ。それを助けておったのが、マリアルデ殿という訳よ。じゃからの、同じように遇したいと言っておったわ」

「……そうです、か。サフィーヌ様がそんなことを」

「エル……」

 振り向くプリミが、気遣う視線を投じてくる。その向こうで、再び前を向いた伊那の尻尾が揺れていた。

 マリアルデ……マリアルデ・スェイン。元筆頭寵姫にして、エルフォンソとルベリアの母親だ。エルフォンソはなんとなく事情を察して、サフィーヌに感謝を感じると共に、亡き母へと想いを馳せた。

「お優しい方だったものね、エル。マリアルデ様は」

 黙って頷く。

 例えば、完璧に教育されているとはいえ、近衛女中のプリミを後宮に放り込むとどうなるだろう? 彼女とて、全くの異世界に右往左往する筈だ。きっと、サフィーヌも最初はそうだったのだろう。そこへ救いの手を差し伸べたのが、エルフォンソの母だったのだ。

 だからきっと、サフィーヌも。

「誰なんじゃ? その、マリアルデ殿というのは」

「エルとルベリア殿下の母君ですわ。もう亡くなられましたけど」

「ふむ、なるほど。感謝せねばなるまいな。エルの母君のお陰で、わしは随分とサフィーヌ殿に助けられたぞ。今では大陸語もほれ、この通りじゃ」

 肩越しに振り向く伊那が、顔をほころばせて笑った。その無邪気な笑みに、深紅の瞳が朱色の筋となる。

 エルフォンソもぎこちなく、曖昧な微笑を返した。

「しっかし、後宮とは珍妙なとこじゃあ。サフィーヌ殿とおるとの、どのおなごも、こぉんな目をして睨んでくるのじゃ。その癖、サフィーヌ殿にはへこへこと……わからぬのう」

 伊那が両の人差し指で、目を吊り上げてみせた。

「火ノ本には後宮というか、そういう物はないんですか?」

「うむ、ないっ!」

 エルフォンソの問いに伊那が即答する。

「一族を治める長も、伴侶は一人よ。六氏族のどこにも、女を囲うという話は聞かぬの」

「火ノ本の獣人は、長寿だからかしら。じゃあ、お伊那さんにも?」

 プリミの素朴な疑問に、急に伊那は目を点にした。その赤さが、頬に伝播してゆく。

「わ、わしには、そういう男はおらぬっ! こっ、ここ、こう見えてもわしは偉くて忙しいんじゃあ。しばらくは子を産む気もないしの。そ、それに、弱い男は嫌いじゃて」

 それっきり、プイと前を向くと、迅雷を連れ立って伊那は歩調を強めた。

 エルフォンソ達を置き去りに、ずんずんと進んでゆく。

「まあ、女だてらに弧黍氏の長だしなあ。でも何だ? あの態度は」

「勉強不足ね、エル。そっか、お伊那さんにも可愛いとこあるじゃない」

 クスリと笑って、プリミが手綱を引く。

 エルフォンソは何故か憮然として、自分の気持ちに理解が及ばない。ただ、あの人は……天帝アルビオレは弱い男ではないと思うと、ますます面白くなかった。

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