3-2

 ぽくりぽくりと歩く馬の上で、エルフォンソは抜けるような青い空を見上げていた。

 白い雲は高く、遠くへとゆっくり流れてゆく。

「エル、あの町を越えれば、明日には公爵のお城につきますわ。ほんとは、馬車を手配できればよかったんだけど」

 手綱を引いて歩くプリミは、いつものエプロンドレスだ。もっとも、その下は平時の午前服や午後服ではない。格好こそスカートだが、近衛女中の黒い正装は機能美が集約されていた。

 メイドそのもののプリミが愚痴を零しているのには理由がある。

「まあ、のんびり行くさ。あれじゃ、馬車は無理だしね」

 後方へ親指を向けて、エルフォンソは苦笑を零した。それでプリミも小さな溜息を吐き出す。

 馬が怯えるからと、迅雷を連れた伊那は少し後を歩いてついてきていた。何やら物騒な大荷物を背負い、手には槍を握っている。どこか意気揚々としてて、楽しげなその歩調。肩越しに振り返るエルフォンソは、その槍が振るわれないよう、腰の剣が抜かれないよう祈った。

 胸に手を当てれば、その奥にはルベリアがしたためてくれた書状がある。ようは、ブレインド公ディッケンに叛意なし、と証明されればいいのだ。あの人は、天帝アルビオレは残念がるだろうが。何事も穏便に、平和が一番。それに、

「それに、たまには王宮を出てみないとね。少し、興味もあるし」

「まあ。エルったら伊那姫に首っ丈ね」

「ちっ、違うよ」

 何故そうも焦る? 静まれとエルフォンソは、己の心臓に言い聞かせた。首っ丈、まではいってないと思う。まだ。

「それもあるけどね、プリミ。天下泰平が成った世を、民の暮らしをじかに見ておきたいのさ」

 そうして、エルフォンソは街道沿いに民家が増えだすのを見渡した。この辺りはもう、何十年も前から帝國領だ。既に外敵に備えるような堀も塀もなく、町は開けて賑わっていた。

 そこに暮らす人々の顔には、確かな活気があった。その向こうに、豊かな毎日を感じる。アルビオレの治世は、悔しいがその手腕は認めなければいけない。あの人は賢王で、善政を布いている。それが広がるならと、民の大半が素直に軍役に応じるのも頷けるし、天帝は農期を考えていつも戦を起こしていた。

「おおう、賑やかになってきたのう! 王都もそうじゃったが、大陸人が沢山おるわ」

 具足を鳴らして、伊那がエルフォンソ達を追い越していった。その後を、まるで猫のような軽やかさで迅雷が追う。その姿は二重の異様な光景として、周囲の民を驚かせた。皆が皆、伊那と迅雷に後ずさりながらも、プリミのエプロンに刻まれた紋章へと頭を垂れてくる。

 エルフォンソは適度に応じながら、小さくなってゆく伊那の背中を見送った。

「まるで子供ですわ。あんなにはしゃいで。あの虎は危なくないのかしら?」

「不思議な娘だ……あ、いや、平気じゃないかな。後宮でも大きな事故はなかったし」

 小さな事故は頻発したが。伊那はどこにでも、それこそサフィーヌの部屋にも、堂々と迅雷を連れて現れるそうだ。迅雷は昔の獰猛さが嘘のように大人しかったが、寵姫達は皆戦々恐々としてエルフォンソに苦情を言ってくるのだ。

「さて、伊那姫を追いかけよう。あれはそうだね、呼吸してるだけでトラブルの元だ」

「同感ですわ」

 肩を竦めるプリミが、少しだけ速度をあげる。揺れを増す馬上でエルフォンソは、早速往来の先で大きく手を振る伊那を見つけた。その横では壮年の男が距離を取りつつも、苛ただしげに足踏みをしている。しかし、手綱を引くプリミの姿を見るや恐縮して身を正した。

「いや、そのままで。お忍びの身ですから」

 近衛女中に連れられておいて、お忍びも何もあったものではないが。

「連れが何かしでかした……みたいですね。どうされました?」

「はあ、殿下。じゃあ、その、本当にお連れさんでしたか。こ、こちらの、獣人様は」

 ぺこりと頭を下げる親父とは正反対に、伊那はしれっとした顔で、何かを美味そうに頬張っている。その深紅の瞳は今、感動に潤んでにんまりとしていた。

「わっぱ、大陸は凄いのう! かように美味い物は、初めて食べるわ」

「へえ、そりゃありがたい話なんですが……殿下、こちらのお連れさんが、その、御代を」

「何じゃ、あれで足りぬか? ……ふむ、そうであろうな。これほどの美味なら。よかろ、しばし待つがよい」

 親父が手にしているのは、小さな石の貨幣だ。不揃いに丸く切り出されたそれらは、真ん中に穴が開いている。火ノ本の通貨らしいが、どれほどの価値かは流石のプリミも首を傾げるばかりだった。

「親父、これも取らすぞ。その代わりもう一つ貰えまいか? わしはこれが気に入ったぞ」

 伊那は今度は、とんでもないものを懐の小袋から取り出した。それを、駄賃を渡すような気軽さで親父の手に握らせる。

 それは、親指ほどの大きさの金剛石……大陸で言うところの、ダイヤモンドだ。

 親父は絶句し、一瞬くらりとよろめいた。

「伊那姫……いったい何を食べたんです? 火ノ本の経済はどうなってるんだ、まったく」

「うむう、何を食べたのであろうな。美味に過ぎたわ。わしは感動してしまったのじゃあ」

 両の頬に手を当て、うっとりする伊那の耳がぺこりと垂れた。

 エルフォンソが目線で頷くと、プリミが財布を取り出し親父に語りかける。恐る恐る伊那の支払いを返してくる親父は、どうやらこの町の職人らしかった。

「あら、豆問屋さんなのね。エル、伊那姫は豆をつまみ食いしたみたい」

 呆れ半分でプリミが、銅貨を何枚か少し多めに親父に握らせる。

「ふむ、ではあれは、豆で作るのかの? 親父、どうなのじゃ?」

「へえ、豆乳を固めて、それを薄切りにして、油で揚げるんでさあ」

「むうう、では火を通すのかや? 油で、揚げるとな……大陸は凄いのう」

 火ノ本は、その名に反して火のない文明らしい。以前プリミが、獣人達が魚肉を生で食べると言っていたのを、エルフォンソは思い出していた。

 親父は両手で代金を包むと、何度も頭を下げた。そうして、店の方へと指を立てる。ジェスチャーが伝わり、奉公人の少年がおかわりを持って駆けて来た。獣人の伊那が怖いのか、おっかなびっくり、遠ざけるように手を伸ばす。

 嬉々として伊那が受け取ったのは、薄揚げと呼ばれる庶民の食べ物だった。

「美味いのう。舌がとろけて抜けそうじゃあ。……むっ!」

 二枚目の薄揚げを、伊那はぺろりと丸呑みにした。そうして、頬を膨らませてもぎゅもぎゅと咀嚼しながらも、鋭い目つきで街道の奥を睨む。次の瞬間には、傍に控えていた迅雷が立ち上がり、一人と一匹は町の奥へとズンズン進んでいった。

「まあ、次は何かしら? ちょっとした社会勉強ね。エル、よくて?」

「構わないさ。僕等も行ってみよう」

 馬上で再度、豆問屋の親父に礼を言うと、エルフォンソは伊那の後を追った。その姿は鼻を鳴らし、何かを察知して目指しているのに、あっちにこっちにと店先を通り過ぎるたびに止まる。お陰でエルフォンソもプリミも、全く急ぐ必要はなかった。

 やがて伊那は、煙突から黒煙を吹き上げる大きな建物の中へと消えていった。

 エルフォンソも、伊那の姿に驚く町人に謝りながら後に続いた。

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