弐・平和を求めて

3-1

 あの日から、エルフォンソは多忙を極めていた。

 宮中の事務処理能力には、彼なりに僅かばかり自信があったのだが。木っ端微塵に砕かれた。

 後宮入りして天帝の寵姫となった、伊那によって。

「エル、いましたわ。お庭の方に。でも――」

 広い後宮、廊下の向こうでプリミが手を振っている。

 流石のエルフォンソも、堪忍袋の緒が切れた。今日こそは直接、文句の一つも言ってやるつもりだった。

 古いしきたりや複雑な寵姫間の派閥、人間関係が渦巻く後宮。その中にあって、新参者の伊那は、蛮族の名に恥じぬ非礼っぷりで今や有名だった。やれ、だれそれの茶会を台無しにしたとか、舞いの席で武芸の演舞をはじめたとか、例を挙げればきりがない。異文化の姫君は、傷が治るや、やりたい放題だった。

 それだけならまだいい。エルフォンソの事務仕事が増えるだけだ。だが――

「あら、エル。今日は剣を……鞘だけ?」

「伊那姫がまだ持ってる。彼女は中庭だな? どこの派閥に顔を出してるんだ」

「さあ? 群れるのは嫌いみたいだけど。それよりエル、あの剣はもう駄目よ。新調しなきゃ」

「下げとくだけなんだし、多少痛んでても構わないよ」

 プリミに追い付き、追い越し急ぐ。そんなエルフォンソの後を、気の利く近衛女中は追い駆けてきた。

 お針子衆と一悶着あったとか、他の寵姫から苦情が殺到してるとか、まだ可愛い方だ。しかし、彼女はとうとう昨夜やらかした。

 しとねに訪れた天帝アルビオレに三度斬りかかったのだ。

「いた! あんなところに……それに、何て格好をしてるんだ!?」

 手摺に手をかけ、広い中庭へと躍り出る。

 茂る木々の香る、夏の風が頬を撫でた。

 白亜の姫君を見つけて、エルフォンソは胸中に滲んだ思いへ否定を呟いた。

 伊那に会う口実ができただなんて。

 コロッセオの事件以来、伊那の顔を見るのは久しぶりだ。もっとも、回されてくる書類の上で、その名は嫌と言うほど目に焼きついていたが。

「伊那姫! お話があり、ま、す、けど。……何です? 今度は何ですか、その格好は」

 目の前に今、火ノ本のさぶらいがいた。

 己を強調するような純白の戦衣を羽織り、朱色の具足と篭手を身につけている。どれも漆を塗った木製だ。腰には朱塗り鞘の太刀を佩き、紅白の比率がぐんと赤く傾いていた。傍らには、これまた後宮の平和と秩序を乱してくれている、迅雷が伏している。

「おう、わっぱ。ひさしいのう」

 以前より流暢な大陸語で、酷く明朗快活な声音だ。

 エルフォンソが何故ここに来たのか、まるで理解していない様子だ。彼もまた、伊那のいでたちに、軍装に全く理解が及ばないが。満面の笑みに、化かされているのではとさえ思う。

「あの人に……陛下に、また斬りかかったそうですね」

「うむ。しかし、二度あることは三度あるものよな。返り討ちにおうたわ」

 少しも悪びれた様子がない。三度目の正直では困るというのに。

 文句を言うのも忘れて、呆れかえったエルフォンソは頭をかいた。

「それより、そこな下女。そう、ぬしじゃ」

「あ、あたし、ですか?」

「おうよ。それが先日、わしを狙うてくれた短筒じゃな? ちっくと貸してみせぬか」

「あ、ちょっと! ……ゴホン! 伊那姫、どうかご容赦を。あ、危ないですからっ」

 伊那はエルフォンソそっちのけで、今度はプリミに絡みだした。銃が珍しいのか、彼女の腰から盛んに取り上げようとしている。小さなプリミとて近衛女中、立派な銃士だがまるで子供扱いだ。

 楽しげに耳はピンと立ち、尻尾が千切れんばかりに揺れている。

 エルフォンソはその先端の朱色に目を奪われていた。

「お伊那さん、もう発たれるのですか? 荷造り、お手伝いしましたが良かったかしら」

 不意に、おっとりとした優しげな声が背後で響いた。

 振り向いて、唖然とするエルフォンソ。

「おおう、かたじけない。言葉や文字の習いといい、サフィーヌ殿には世話になりっぱなしじゃ」

 百をくだらぬ天帝の寵姫。その頂点に現在君臨する後宮の支配者。筆頭寵姫、サフィーヌ・グレイデルの姿があった。女達の情念渦巻く後宮にあって、最も天帝に寵愛されている人物だ。

 エルフォンソは、大荷物を手に静々近付いてくる貴婦人と、目の前の伊那とを交互に見やり、頭の上に大きな疑問符を浮かべた。

「お伊那さんの嫁入り道具は面白いわね。火ノ本の武具ばかり……槍とか弓とか。それと、この剣は? ずいぶんと傷んでるようですけど」

「おお、それよそれ! 忘れておったわ。丁度良い、わっぱがおるしの」

 プリミを解放するや、伊那はガシャガシャと歩み出た。

 二人はまるで、旧知の仲のように言葉を交わす。いよいよもって訳が解らない。

 サフィーヌと懇意になることは、この後宮では特別な意味がある。サフィーヌ派は、最も巨大で強力な一大派閥なのだから。数多の寵姫が何とか取り入ろうと、日々を暮らしているというのに。伊那のそれは、無礼と思えるほどに親しげで馴れ馴れしい。

 派閥に加わったという雰囲気はなく、ただの知己のようにさえ見えてくる。それは普段よりもどこか、サフィーヌ自身が打ち解けた空気を発散しているからかもしれない。

 伊那はサフィーヌから大きな大きな包みと、見慣れた一振りの剣を受け取る。

 あのエルフォンソの剣だ。

「わっぱ! 返すぞ。ナマクラとはいえ助かったわ」

 ストンと伊那が、エルフォンソの足元に剣を突き立てた。ところどころはつれて、もうボロボロだ。

「しかし珍妙な。かように用をなさぬ剣を、何ゆえぬしはぶら下げておるのじゃ?」

「……必要ないからです。それより伊那姫、どうしてサフィーネ様と? この方は――」

「ん? いや何、気持ちのいい奴での。同じ武門の出じゃし、気が合うのじゃ」

 そう言えば確か、サフィーヌは後宮に入る前は、姉の……ルベリアの近衛女中だったとエルフォンソは思い出す。それを知ってか知らずか、伊那は「それに比べて、他のおなごときたら」などと、文句をたれてはサフィーヌを笑わせていた。

 確かに彼女から見れば、権力闘争に奔走する寵姫達は別世界の人間に見えるだろう。

「それより……必要ないと申すか? ぬしはあれか、鉄砲の方が得意な性質かや?」

「い、いえ。武器は、苦手です。僕には戦の道具は無縁のものだ」

 ふむ、と僅かに首を傾げる、伊那の深紅の瞳が細められた。

「では、まだ借りおくぞ? でかい借りじゃあ、いつか返すが……これはこうじゃ!」

 伊那が手にする大荷物を、そっと迅雷の傍に降ろした。次の瞬間――

 剣気招来けんきしょうらい、伊那が腰の太刀を抜き放った。それは彼女の頭上で翻るや、真っ直ぐ振り下ろされる。エルフォンソの剣は縦に両断され、石の刃が抜けきるや……一拍の間をおいて粉々になった。

「必要ないんじゃろ? わしは好かぬぞ、かように飾っただけの醜い剣は」

 ひゅん、と刀を一振りすると、伊那は鞘へと刃を納めかけ、固まったエルフォンソの視線に鼻をピコリと動かした。

「これか? これなるは弧黍の家宝。名刀、威綱丸いずなまるよ。黒耀石の塊より、太刀の形を削り出すのに七年。そこから火ノ守のまじないに三年、最後に五年かけて職人が研ぐのじゃ。……美しかろ?」

 火ノ本の獣人文明には鉄器がない。プリミが詳しいが、火を使わぬ民だかららしい。

 確かに彼女が鼻を鳴らす通り、その蹟剣が帯びる輝きは陽光を鈍く反射して美しかった。

「その太刀で今度は、陛下やわたくしのみならず……ブレインド公を斬ろうという訳ですか」

 不意に、頭上から声が降ってきた。

 振り向き見上げれば、二階のバルコニーに、男装の麗人が立っていた。ルベリアだ。

「まあ、ルベリア! 元気そうね。心配したわ、火ノ本侵攻では最前線に何度も出たとか」

「……サフィーヌ様も、お変わりなく。このルベリア、嬉しく思います」

 ルベリアとサフィーヌの視線は、互いに求め合うように紡がれて、一本に収斂されてゆく。しかし、そこを行き交う感情に大きな温度差をエルフォンソは感じ取った。隣のプリミにもそれが伝わったのか、彼女はぎゅむと主の袖を指で握ってくる。

 大勢の寵姫が遠巻きに見守る中、ルベリアは目線を外すと腕組み伊那を見下ろした。

「昨夜、陛下より勅命を賜ったようですね、伊那姫。ブレインド公に叛意あり、と」

 納刀しながら睨み返す、伊那の顔には廉潔な笑みが浮かんでいた。

「また首を取り損ねたわ。で、あの男はディッケンとかいう奴の首を所望じゃ。なんじゃあ、帝國というても一枚岩ではないんじゃのう。ま、ちっくと斬ってこようと思っておる」

 ブレインド公、現在の当主は確かディッケン公爵。この王都に隣接する、ブレインド公爵領を治める人物だ。早くから天帝アルビオレに屈し、その後は同志として現在の地位を築いてきた家柄でもある。元はブレインド王国、天帝アルビオレが最初に滅ぼした国。

「姉上、それは……ブレインド公はでも、今や帝國の重鎮じゃないですか。そんな馬鹿な」

「真偽の程は定かではありません。が、陛下はこうも申されました。謀反離反は世の常、覇道のたしなみ、と。そのことでわたくしがわざわざ、そこの猪武者を止めにきたのです」

「むむむ、聞き捨てならん。わしは猪ではないぞ、狐じゃあ」

 ルベリアの大陸語は、その言葉の意味は正確に伝わったらしい。もっとも、火ノ本では猪突猛進を例える言葉は違うようだ。それでも揶揄する気持ちが伝わり、伊那は鼻の頭にしわを寄せた。

 しかし構わず、ルベリアは言葉を続ける。

「伊那姫、ここは火ノ本ではありません。わたくし達に万事任せて、少しは寵姫の勤めに励んではいかがでしょうか。蛮族の獣人には覚えることが山ほどありましょう」

「好かぬ奴じゃあ。わしは昨夜直接、あの男より善処するよう言われたのじゃがのう」

「それで、斬るのですか」

「斬る! 斬られる前にの。あの男の首はわしのものじゃ。無論、ぬしのもじゃ」

 緊張感が高まり、空気が張り詰めた。が、それを先に解いたのはルベリアだった。小さく嘆息して首を横に振ると、その瞳を今度はエルフォンソに向けてくる。

「エル、そういう訳で埒があかないのです。わたくしは王都を離れる訳にはいきませんし」

「はあ。あ、では姉上」

 たまには外の仕事もいいだろうと、エルフォンソは思った。

 それに、ルベリアが大勢の兄弟姉妹の中から、わざわざエルフォンソを頼ったのにも訳がある。後宮が女の確執で澱むなら、王宮はさらに濁っている。齢七十を数えんとする、天帝アルビオレの後継者……その座を望まぬ者は少ない。正直、武芸嫌いの第十七皇子くらいだろう。

 エルフォンソは猛る伊那を横目に、面倒事の調整役を買って出ることにした。

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