2-4
どよめくコロッセオの民へ恐怖と混乱が浸透してゆくのに、そう時間は掛からなかった。
伊那は自らを殺さんとする人喰い虎を、化かしてしまった。そればかりか、名を与えて今、ゆっくりとこちらへ向かってくる。その横には、ぴたりと寄り添う迅雷の眼光があった。
「天帝アルビオレ! 先程の言、覚えておろうな……わしは命など惜しいとは思わぬぞ?」
聞き馴染んだ大陸語だ。噛み締めるようにゆっくり紡がれる、その一字一句に闘気が漲る。
先行して抜きん出た迅雷が、軽々とコロッセオ外縁の鉄柵を乗り越えた。その巨体からは想像もできぬ身軽さと俊敏さ。たちまち観客席は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。誰もが安全と信じていた場所に今、帝國一の猛獣が主を……友を振り向いている。
トン、と静かに伊那も大地を蹴る。次の瞬間には彼女も客席に降り立っていた。舞うように尻尾が、ゆるゆると揺れている。
「今こそその首、頂戴するっ! 天帝アルビオレ、お覚悟よろしいな?」
悲鳴が幾重にも響いて、客達の波が左右に逃げ割れた。それでもう、観覧席へと駆け上る、一本の道が開かれた。立ち尽くすエルフォンソ達は、すぐ目の前の伊那から目が離せない。
グイと引っ張られて我に返れば、エルフォンソの前にプリミが立ちはだかり、腰の銃に手をかける。
エルフォンソはプリミに庇われながらも、伊那の目線を追った。観覧席を見上げ、天帝の声を聞く。天帝アルビオレは一声、
「よかろう、こい」
「おうともよ」
二人にもはや、長ったらしい言葉のやりとりは不要だった。
観覧席の玉座に身を沈める、天帝には僅かばかりの揺るぎもなかった。その周囲から腹違いの兄弟姉妹が、それぞれの近衛女中へと、あなやあなやと逃げ惑う。
僅かに身を屈めた瞬間、身をバネにして伊那が客席を駆け上がった。追従する迅雷の怒号が、更なる混乱を呼ぶ。エルフォンソに背を向け押し付けながら、プリミが銃を抜くなり撃ち放った。その銃声は、伊那の揺れる耳を掠めて消える。
一際高く跳躍すると、伊那はズシャリと天帝の前に降り立ち、僅かによろめいて手を床に突いた。それでも、ゆらりと身を起こすや、エルフォンソのナマクラを両手で構えて腕を引き絞る。
「弧黍火ノ守統代っ、伊那! 推参!」
高らかに名乗る彼女と、座して尚揺るがぬ天帝の間に割って入る人影があった。
「陛下の首が欲しくば……わたくしがお相手いたしましょう」
天帝の右腕、第九皇女ルベリアが腰の剣を抜く。この祭事の中にあってすら、彼女は戦場で用いるような、飾り気のない広刃の長剣を帯びていた。
「ゆっくり喋らぬか、小娘。ぬしの首など、わしはいらん」
「お黙りなさい。これ以上の狼藉、陛下が許してもわたくしが許しません」
ぶつかる視線と視線とが、激しく交差し火花を散らす。
「どけい」
「なりません」
「どかぬば、斬る」
「其方こそ、おひかえなさい」
押し問答も長くは続かなかった。
二人は互いの切っ先が触れ合う距離まで、じりじり迫っては睨み合う。
両者の顔には、法悦にも似た笑みが浮かんでいた。
「ば、馬鹿な……こんな、状況を悪くするばかりじゃないか。伊那姫は――」
「下がって、エル。誰か! 誰かここに! 殿下はここよ!」
銃を収めたプリミが剣を抜く。銃士の持つ細剣は、見た目こそエルフォンソの模造刀と同じだが、細工や装飾がない代わりに鋭い刃で小さくしなった。
プリミの小さな背に押されながらも、エルフォンソは食い入るように観覧席の様子を見詰める。
伊那とルベリアは、互いに息を大きく吸い込み、長く吐き出す。その呼吸が止まった瞬間、二人の目は大きく見開かれた。両者の間に凝縮された空間に、何かが弾けた。
「おうう!」
「はああ!」
気勢が上がった。金切り声を歌い、剣と剣とが不協和音を奏でる。二合、三合と斬り結びながらも、伊那はその時苦しげに口元を歪めていた。
両者の得物には、明らかな優劣があった。
エルフォンソの剣は、剣の形をした装飾品だったから。それは研がれた刃もなく、ただ刀身に華美な細工が刻まれているだけ。宝石をあしらった柄も頼りなく、火ノ本のさぶらいが振るうには脆弱過ぎた。が、それを握る伊那の攻め手は激しい。
「二度までも……でも、相手が悪いわ」
「武器も。クソッ、僕はあんな物をぶらさげて毎日」
ついにプリミを押しのけ、エルフォンソは観覧席へと駆け上がった。その視界の隅で、身を低く唸っていた迅雷がゆっくりと忍び寄る。思わず声をあげようとしたエルフォンソの呼気は、全力疾走に痛む肺腑に奪われた。
「やはりやりおるのう、ぬしっ! 気が変わった。その首、貰い受ける!」
「笑止……天帝の右腕、安くはありません」
ルベリアの剣をかろうじていなすや、伊那は声を限りに叫んだ。
「来いっ、ジンラァァァァァイッ!」
瞬間、両者の頭上を影が覆った。観覧席が激震と共に傾く。伊那の呼ばう声に応えて、迅雷がルベリアの背後を襲ったのだ。
流石のルベリアも、咄嗟に身を横へと投げ飛ばす。そうして転がり着地して立ち上がった、その時にはもう……伊那はひび割れた剣を手に、仇敵の眼前に立っていた。
その顔に浮かぶ歓喜と恭悦が、エルフォンソ達の立つ場所からでもはっきりと見える。
「天帝アルビオレ! よくも千年の禁を破り、火ノ本を攻めてくれたな」
息切れ一つしていない。伊那の声はむしろ、弾んでいる。
それに応えるように、ゆっくりとアルビオレが席を立ち上がった。その巨躯が今は、いつにも増して大きく見える。怯まぬ伊那の胆力にエルフォンソは感嘆した。彼自身、天帝が発する闘気に呑まれていたから。風もないのにマントがはためく。
「六つの氏族が互いに争う戦国乱世……そんな火ノ本を見れば、攻めたくもなろう」
「それを責めはせぬ、が。わし等は火ノ本の民。大陸人にはなれぬ」
「なれぬか」
「なれぬな」
伊那が剣を上段に振りかぶった。対する天帝は素手だ。
「火ノ本を蹂躙した罪、その首であがなえ! 天帝アルビオレ!」
軌跡を描いて、剣が振り下ろされた。
しかし、アルビオレは難なく片手でそれを受け止め掴む。初めて伊那の顔に驚愕の表情が浮かんだ。揺れていた尻尾がピンと緊張に伸びきる。
「小娘の顔に手を上げるは、気がひけるがな。……惚れたぞっ!」
剣を押し込み身を強張らせる、伊那へとアルビオレは平手を振りかぶった。
まるで落雷のような音と共に、伊那が吹き飛んだ。彼女は剣を握ったまま、客席に落下し、何度も弾んでずり落ちてゆく。ルベリアと対峙していた迅雷が、尾を翻してその後を追った。
周囲の喧騒が収まり、逃げ惑う民の足が止まった。そして響く、天帝の声。
「まことに重畳っ! これにて余興は終わりぬっ! もののふ姫、その気骨と気概、見事也……今日より後宮に入るがよい。いつでも我が寝首をかく権利をさずけようぞ」
思い出したように衛士達が集まり、突っ伏す伊那と、それに寄り添い牙を剥く迅雷を囲む。それも、恐る恐る遠巻きに槍の穂先を向けながら。
天帝は満足げに豪快な笑い声をあげると、マントを翻してきびすを返した。
その背にたなびく、帝國の紋章……真紅の龍の刺繍が、エルフォンソには父の翼に見えた。
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