2-3
驚く臣民達の波をかきわけ、エルフォンソは夢中で走った。後を駆けてくるプリミが追いつき並んで、その行く先を先導してくれる。礼を言う暇もなく、エルフォンソは鉄柵にかじりついた。大きく上体を屈めて、身を乗り出す。
「伊那姫っ、お逃げなさい! いかなあなたでも徒手空拳で……無茶だ!」
だがしかし、密閉された円状のコロッセオの、どこへ逃げよというのだろうか?
あの恐るべき死から……解き放たれた、巨大な猛虎から。
そう、現れた獣は血に餓えた虎。漆黒の闇が無数の稲妻を纏ったかのような、縞模様がゆっくりと歩み出る。その常軌を逸した四肢は軍馬よりも大きく、どしりと身を低く構えてさえ、目線が伊那に並ぶ。しなやかな巨体を揺らして、その獣は天へと吼えた。響き渡る絶叫。
品定めするような伊那の横顔へと、エルフォンソは口早に呼びかけ続ける。
「じゃから、もっとゆっくり喋らぬか。難儀なのじゃ、大陸の言葉は」
「ですから、逃げて……そう、逃げ回ってください! 僕がもう一度、陛下に――」
「ほう? わっぱ、ぬしはわしに逃げろと? 聞き間違えではなかろうな」
さほど歳は違わぬように見えるが、向こうは完全にエルフォンソを子供扱いだ。
自分でも何故そこまで必死になるのか解らないが、エルフォンソは何度も繰り返し、伊那へ逃げるよう諭す。その間にも、獣は忍び寄るように近付いていた。高まる周囲の歓声。
「しかし、これが虎かや? わしも実物ははじめて見るのう。猛々しや」
近寄る牙と爪に、伊那は呑気に腕組み、しげしげと眺めている。
焦れるエルフォンソの手は思わず、腰に下がる剣を引き抜いていた。それをコロッセオの中央へ、伊那の足元へとエルフォンソは投げつけた。地に刺さることなく、刃のない剣がからんと転がった。
「せめて剣を。伊那姫っ!」
「ん、まあ、必要ないがのう。どれ」
伊那を中心に円を描きながら、唸る処刑者がその半径を徐々に狭めてゆく。圧縮されてゆく死地の中心で伊那は、億劫そうに屈むや、エルフォンソの放った剣を拾い上げた。うろんげな表情でその刀身を指でなぞり、眉根を寄せる。露骨な不快感を浮かべて、彼女はエルフォンソに振り返った。
「なんじゃ、これは! 竹光ではあるまいな?」
「そ、それは確かに、装飾品だけど……ないよりはマシですっ」
「左様か。しかしわっぱ! 随分と酷い物を佩いておるのう」
「好きでぶら下げてる訳では!」
エルフォンソの返答に、意外そうな表情を浮かべる伊那の姿が遮られた。巨大な黒と黄の獣によって。巨虎は尾を揺らしながら、のっしと伊那へ近付いてゆく。
再び視界に現れた伊那は、くるりと飾りの剣を宙で翻すと、それを大地に突き立てた。そうして柄へと、両手を重ねて立ち尽くす。
「エル、もうよくて? さあ、観覧席に戻って。……始まるわ」
傍らのプリミに二の腕を抱かれて、エルフォンソは鉄柵から引っぺがされた。同時に観衆が静かになる。ただ息を飲んで静観する気配が、広いコロッセオに満ちた。
「クソッ、兎に角もう一度あの人に掛け合ってみる。死なせるものか……こんな地でっ」
「エル、どうしてそこまでこだわるの? 火ノ本の獣人相手に、少し変じゃなくて?」
「もう沢山なんだっ! みんな、戦、戦、また戦……それで命を粗末にして! 彼女を蛮族と言うなら、僕等だって十分野蛮だよ。平和な世を迎えてまで、やることじゃない。それに――」
自分で理由の半分を口にして、唐突にエルフォンソは気付いた。そうまでして異国の姫を庇い立てする、もう半分の訳に。
父の戦狂いに呑まれてゆく……それは、エルフォンソの母がそうだった。
戦に剣を振るう人ではなかったが、母もまた父の覇道の犠牲者だったから。
「そうだ、あの人が駄目ならせめて姉上に」
「待って、エル。……何か様子が変」
誰もが固唾を飲んで見守る中、異変は静かに、しかし確実に目の前に広がりつつあった。
件の虎は、このコロッセオで数多の闘士をほふってきた古強者だ。御前試合と称して挑み、天帝の前で散っていった騎士達も少なくない。気性は荒く、性格は残忍。獲物をなぶるように追い詰め、その牙にかけるまで決して檻に戻ることはない。
生粋の殺し屋が今、一人の少女を前に固まっていた。
「どうしたぁーっ! 噛み千切れ!」
「極東の蛮族を八つ裂きにしろぉーっ!」
「せがれの仇だ! 食い殺しちまえ!」
次第に周囲から野次が飛ぶ。それは幾重にも折り重なって、四方から一人と一匹に浴びせられた。
しかし、まるで彫像のように、獣は動きを止めてしまった。すぐ鼻先に伊那を捉えたまま、真っ直ぐ視線を交わして。まるで見えない糸に絡め取られるように沈黙してしまう。
伊那はただ、先程と変わらず不動のたたずまいで、じっと眼前の獣を見詰めていた。
「あれが……まさか、でも。エル」
小さなプリミが背伸びして、エルフォンソの耳元に囁く。
「御伽噺だと思ってたわ。でもあれ……ひょっとしたら、化かすのかも」
「化かす?」
オウム返しに聞き返すエルフォンソへ、より声がひそめられる。
「帝國学術院で昔、火ノ本の伝承を少し調べたことがあるの。獣人達は六つの氏族に別れ、六つの国に住んでる。そして……それぞれの長は、特別な超常の力を持つとあったわ」
にわかに信じがたい話だ。
だがエルフォンソは、その話よりも何よりも、信じられない事実を目の当たりにしている。
「弧黍氏の長には、モノを化かす……つまり、何かしらの妖しい術で、誑かし、騙す力が」
「つまりプリミ、彼女はそれを今、獣相手に?」
黙ってプリミは頷いた。
そのことを裏付けるように、罵詈雑言の中から諭すような声が聞こえてくる。
火ノ本の言葉は、伊那から発せられていた。
「ふむ、生まれてよりずっと、この狭い場所と檻とでのう……難儀な話じゃあ」
伊那は、そっと右手を虎へと伸べる。ビクリと身を震わす、猛獣の毛が逆立った。低く唸るその巨体が僅かに身構える。しかし構わず、伊那はわっしと虎の頭を撫でた。
「もったいないのう。ぬしは本来、野に生き竹林に住まうのではないかや?」
包帯で真っ白な少女は、滲む血と、耳と尾の先端だけが赤い。だが何より、深紅の瞳が妖しい輝きで見開かれていた。その光に帝國随一の獣が気圧されている。
「ぬし、名は?」
伊那の声色が、絹のような優しさを帯びた。
天帝の余興にと飼われ育った、あの虎には名前がない。名前のない怪物。
「何と、ないと申すか。それは不便じゃあ。わしが困る」
再度困ったと呟き、伊那が虎へと歩み寄った。そのまま太い首を抱くと、その顔を覗き込むように撫で続ける。その表情には、ぞくりと背筋が震えるような、えもいわれぬ色気があった。
獣人の姫が、虎と言葉を交わしている。
既に周囲の野次は収まり、代わって恐れるようなざわめきが、コロッセオに広がっていった。
「闇夜に走る稲光……そうじゃなあ。――
先ほどからずっと、火ノ本の言葉だ。エルフォンソをはじめとする、周囲の者には解らない。解らないが、意味だけは誰にも確かに伝わった。ジンライ……帝國が、天帝の趣味が育んだ、恐るべき猛獣に名が与えられた。
伊那は、身を摺り寄せてくる迅雷の喉を撫でながら、きしりと鋭い視線を翻す。
その先には、うろたえる多くの民と……天帝アルビオレが鎮座する観覧席があった。
「あれが、ぬしを閉じ込めてきた男の面じゃあ。……さて、
傍らに突き立つ、刃のない剣を伊那は引っこ抜いた。それを手にすれば、傍らで迅雷が咆哮に首を巡らす。沸騰する空気の中、エルフォンソは漠然とだが察した。
これから、恐ろしいことがおこる、と。
あの日の、三日前の再現が、現実として迫った。
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