序・白亜の姫君、参上

1-1

 広がる空は青く高く、たゆたう雲は白く遠くに煙る。

 見下ろせば若葉香る緑に、初夏の草花。

 少年は式典で賑わう王宮の大庭園を、執務室のバルコニーから眺めていた。行き交う女官や給仕、招待された王都の貴族達の中に、一際目立つ荘厳な巨漢が一人。王冠をいただく、この国の……この世界の覇者、天帝アルビオレ・ジル・クーラシカ。

 彼の父だ。

「エル、こんなところにっ! もう輿入れの儀が始まりますわ」

 不意に聞き慣れた声が響いて、同時に背後で扉が勢いよく閉められる。エルと呼ばれた少年が振り向けば、書類の束で埋まった机の向こうに、姉気取りが眉根を吊り上げていた。

「エル、エルフォンソ・ミル・ラ・クーラシカ。早く着替えなさい? まったくもうっ」

「どうしてまた。今日も宮中の雑務が溜まってるんだ。こう見えて僕も忙しいんだよ?」

 その息抜きに、こうして平和の到来に目を細めている。エルフォンソはそう言いたげだ。

「あら、とてもそうは見えませんわ。だいたい何です、そのだらしない格好は」

「僕はあの人に、天帝陛下に招待されてないんでね」

 着崩したしわだらけのシャツを、その胸元をエルフォンソは指でつまんでみせる。

「それでも、普段からもう少しシャンとして頂戴! 皇子ともあろう人が剣も帯びずに」

「優秀な近衛女中がいるんだもの。少しおせっかいで、口うるさいのが玉にキズだけど」

 くすんだ濃紺の前髪をかきあげ、それでもエルフォンソは緩めた襟元を正した。

 そんな彼に詰め寄り見上げてくるのは、近衛女中のプリミ・テルミル。幼い頃より共に育った、八つ年上のお目付け役兼世話係だ。多くの姉達の誰よりもエルフォンソに姉貴面する、気心知れた小柄な幼馴染でもある。

 近衛女中とは読んで字のごとく、皇族の身の回りを世話するオールワークスメイドだ。その仕事は家事全般から身辺警護、果ては一騎打ちや決闘の代理人まで……もっとも、エルフォンソはプリミに、そんなことを頼んだ記憶はないが。純白のエプロンドレスに仰々しく描かれた帝國ていこくの紋章、翼を広げた龍が示す通り、彼女は立派な騎士階級の銃士でもある。

「また減らず口を。あたしだって、四六時中あなたに引っ付いてはいられないんですからね? ほら、襟が曲がってる。ちゃんと帯剣して。……またこんな、おもちゃみたいな剣を下げて」

「プリミが言うから、嫌々ぶら下げてるんだ。飾りの剣で沢山だよ」

 それは、覇権主義を有限実行する父への、僅かばかりのささやかな反抗。

 どうせ抜いても振るえないのだから、模造刀でエルフォンソには十分だった。そのことを告げると、プリミは切りそろえられた短い黒髪を僅かに揺らして、腰に手を当て怒り出す。呆れ半分で身を僅かに反らして。

「クーラシカ帝國第十七皇子ともあろう人が、どうしてこう腑抜けなんでしょ」

「誰かさんが甘やかして育てたからじゃないかな? それにほら、御覧。もう剣のいらない時代の到来さ。……数多の剣と銃、血と汗によって、ね」

 嫌に軽い儀礼用の剣を受け取り、しぶしぶエルフォンソは腰に吊り下げる。そんな彼を尚も咎めるように、プリミは口を尖らせた。第十七皇子が相手でも物怖じしないのは、幼少期からの彼女の美点だ。

 そのプリミ自身は第一種礼装でもある近衛女中の正装で、腰に細剣と短銃を帯びていた。

 僅かに身をずらして隣にプリミを招きながら、エルフォンソは再度庭園へと向きなおる。眼下の歓声が絶え間なく浮き上がり、彼の耳を掠めて空へと吸い込まれ続けた。

「大陸全土、いや、全世界統一万歳! クーラシカ帝國に栄光あれ!」

「アルビオレ陛下、万歳! 前人未到の覇業達成、まことにおめでとうございます!」

「未開の地である極東の蛮族共、火ノ本まで鎮定なさるとは……流石にございますな!」

 エルフォンソの父、アルビオレが己が身ひとつで統一戦争をはじめて、今日で丁度半世紀。その間、おびただしい流血の時代を経て、この世に唯一の大陸は一つのクーラシカ帝國となった。のみならず、遥か東方に浮かぶ獣人達の島国、最後まで頑強に抵抗した火ノ本まで征服してしまった。

 時に帝國暦五〇年、夏。王宮はどこもかしこも、祝祭の活気に満ちていた。

 へつらうような貴族達の中、父は黙って強面も崩さず杯を傾けている。

 圧倒的な武力と知略による、戦につぐ戦の日々……その終わりを惜しみ、退屈している。エルフォンソには何故かそう見えた。同時に、その想像が当然にも思えるのだ。

「手法はどうあれ、これで平和になるってのに。何が気に食わないんだか、あの人は」

「皇子とはいえ、さっきから不敬よ、エル? 陛下はきっと、戦乱の世に散った人々に鎮魂の意を感じてらっしゃるのだわ」

 どっちが不敬だか、と苦笑するエルフォンソ。だが、兄弟姉妹が連れる近衛女中のように畏まってかしずかれても、それはそれで面白くない。二人の関係は、宮中では異色と言えた。

 それに、父親がそんなタマでないことは、帝政の末席とはいえ実子のエルフォンソが一番よく知ってる。

 父は動乱と闘争をこそ最も愛する、生まれもっての覇王なのだから。

「戦う相手がいよいよいなくなって、それですねてるだけさ。あの人は。……ん?」

 空へと差し出す手に、ぽたりと雫が一つ。また一つ。

 雨だ。針のように細い雨粒が、音もなく晴天の蒼穹から零れ落ちた。再度声に出して、

「雨だ」

「あら、狐の嫁入り」

「何だい、それ」

「火ノ本の古い言い伝えですわ。本当だったんですのね」

 同時にファンファーレが鳴り、輿入れの儀を告げる声が響き渡った。

「火ノ本より六氏族が一つ、弧黍氏こきびうじの姫君、ご到着!」

「これより、輿入れの儀を執り行います」

 身を乗り出すエルフォンソの視界に、白無垢の人影が浮かび上がった。

 これより後宮へ送られ、天帝アルビオレの百をくだらない寵姫が一人となる、獣人の姫君だ。嫁入りといえば聞こえはいいが、最後まで奮戦した火ノ本が、屈服の意を示すために差し出した人質だ。

 彼女はしずしずと、しかし臆することなく堂々と皆の前に歩み出る。自然と誰もが、祝福の声と共に道を譲った。アルビオレも席を立つと、その厳つい巨躯で出迎える。

「火ノ本でも花嫁衣装は白いんだな。しかし飾り気がない……花の一つも挿せばいいのに。あれじゃまるで、死に装束だ」

「四方を海に囲まれた火ノ本では、風習や文化、価値観が違いますわ。それよりあれは」

「ん? ああ、尻尾があるんだっけか。あの人も酔狂なことだよ。獣人の人質を後宮入りさせるなんて。僕の仕事が増えなきゃいいけど」

「そうかしら? エル、あれはあたしには……」

 華やかな光景をぼんやり見詰めるエルフォンソには、プリミの語気が僅かに尖るのが不思議だった。彼女は身を乗り出し、腰の銃に手を添えている。

 異国の花嫁は全身を、頭から真っ白な長衣で包んでいる。火ノ本独特の着物はしかし、その下で何かが後方に突き出ていた。戦に出たこともないし、獣人など初めて見るエルフォンソは、尻尾があるという獣人の伝承をそのまま鵜呑みにしていた。

 花嫁が父の前で歩みを止め、楽隊の指揮者がタクトを振り上げた。

 しかし、祝いのマーチが奏でられるよりも早く、花嫁は被る白布を脱ぎ捨て――

 しん、と静かに雨があがった。

「天帝アルビオレ! わしの顔を覚えておろうな!」

 淡雪のように白い人影が、つたない大陸語で吼えた。研ぎ澄まされた刃のような声色だ。

 突然のことに周囲は静まりかえる。その静寂を、鞘走る抜刀の音が切り裂いた。

 プリミの抱いた違和感の正体は、尻尾などではなかった。花嫁は腰に、火ノ本特有の片刃の蹟剣、太刀を下げていたのだ。

 投げ捨てられた朱塗りの鞘が、からんと乾いた音を立てる。それを合図に、式場の大庭園は悲鳴と怒号に支配された。そのさなか、アルビオレの目が歓喜に見開かれるのをエルフォンソは見る。

「忘れようものか、狐の姫よ。火ノ本攻めの際、何度も我が首を狙い、最後の最後まで足掻いてくれたな! あれこそまさに、火ノ本千年の歴史に詠われたさぶらいよっ!」

「おうともよ! 此度改めて、その首頂戴しに参った! いざ尋常に、勝負っ!」

 放った白無垢より尚白い、透けるような白い肌。そして純白の長髪をなびかせた頭には、ピンと突き立った獣の耳。それと背後で揺れる尻尾の白毛の、その先端だけが鮮やかに紅い。白い小袖にたすきがけの姿は、紅白入り混じる椿の如き美貌を思わせた。何より遠くこの場所からでも、深い紅を湛えた大きな双眸が輝くのが見えた。遠目にもすらりと通りのよい鼻立ちに、蕾のような桜色の唇が結ばれている。

 蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う参列者に代わって、王宮の衛士が集まりはじめる。ニイイと口元を歪めて笑うアルビオレが、甲冑姿の群をかきわけ、肌身離さぬ腰の剣を抜いた。

「天晴れ! 大儀である……素晴らしき余興となろうぞ! かかって参れ」

「火ノ本六氏族が一つ、狐黍火ノ守統代こきびひのもりとうだい伊那いなっ! 推して参る」

 深紅の瞳を燦々と輝かせて、両手で握って構える太刀を振り上げ、蛮族の姫君はアルビオレへと踊りかかる。

 息を飲むエルフォンソは、それを吐き出し呼吸するのも忘れ、美しき暗殺者に魅入っていた。隣でプリミが銃を抜き、射撃が無理と知るや剣を手に飛び降りるのも、気にとめない。

 狂気じみたアルビオレの笑みを、分厚い甲冑を着込んだ衛士達が幾重にも覆い守る。その槍ぶすまへと、迷わず獣人の少女は翔んだ。

 そう、自分と年端も違わぬ、華奢な少女にエルフォンソには見えた。

「陛下を守れ! 陛下を!」

「陛下、どうかお退きを!」

「おのれ、蛮族の獣人め! 何と不埒な!」

 ガシャガシャと音を立てて、次々と衛士が殺到する。その矢面で、まるでつむじ風のように少女は剣を振っていた。鋼鉄製の槍が切断され宙を舞い、斬り伏せられた男達の絶叫がこだまする。

「寄らば斬るっ! わしが望むはただ一つ、天帝の首ぞっ!」

 まさしく獅子奮迅。屈強な男達からえりすぐられた、近衛の衛士達が押されている。数を頼みに、鋼の甲冑で圧しているにも関わらず。

 それでもついには奮戦むなしく、悠揚たる天帝の眼前、あと一歩というところで花嫁は組み伏せられた。火ノ本の言葉で何かを、呪うように叫んでいる。

「口惜しやっ! この身朽ちて辱められようとも……天帝アルビオレ! うぬの喉笛、いつかわしが噛み千切ってくれよう! ええい、放せっ! 放さぬか!」

 精鋭の巨漢揃いが、たかが一人の少女にじりじりと押され、慌てて槍を突き立て押さえ込む。荒げた声で叫び続ける、彼女の白い着衣が赤く染まっていった。

 この惨劇が火ノ本、狐黍氏の姫君……伊那とエルフォンソとの最初の出会いだった。

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