第九章 雨上がりの虹

 目を覚ますと、さぁーっという雨音が耳に入ってきた。ベッドから身を起こして窓に歩み寄ると、ガラスを叩く無数の雨粒が認められた。夜は明けているはずなのに、空が暗い。流れていく厚い雲を、メリアはぼんやりと見上げた。

「おはようございます、メリア様」

 パメラが一礼して寝室に入ってきた。起床の時間だ。メリアの部屋に断りなく出入りできるのは、パメラだけだ。権限的には国王である父も可能だろうが、メリアも年頃の女性であることに変わりはない。隅々まで行き届いたメリアの私室の片付けは、全てパメラ一人の手によるものだ。

「おはよう、パメラ」

 挨拶して、部屋の真ん中に立つ。パメラがメリアの寝巻を脱がせて、せっせとたたむ。衣装棚からその日に着る衣服を取り出し、メリアにそでを通させ、ボタンを丁寧にとめていく。

 着替えに関しては、メリアが自分で出来ないわけではない。むしろ自分でやりたかったのだが、毎回パメラにダメ出しをされてしまう。ボタンが止まってない、あるいは中途半端。シャツがしわになっている、まくれている。スカートが前後逆。王女という立場なのだから、着こなしはしっかり、隙がないようにと、結局パメラが面倒を見ることになっていた。

「今日の公務はなんだっけ?」

「天気が良ければ剣術大会の観覧だったのですが、生憎あいにくの天気ですね」

 城下の闘技場で開かれる剣術大会で、開会の言葉を述べるのと、優勝者に祝辞を送る仕事だった。一生懸命考えた文面だったが、延期された次の開催日が決まるまではお蔵入りだろう。

「そうか、ちょっと興味あったんだけどなぁ」

 ルイザに稽古けいこをつけてもらっているし、メリアは剣術に興味があった。ウィルも義勇兵団の英雄なんて言われているし、カリムだって相当な使い手だ。剣術大会ともなれば相当な手練てだれが参加するだろうし、みんなそれなりに楽しみにしていたのではないかと、メリアは大会の中止を少々残念に感じた。

「飛び入りとか、そんなことたくらんでいませんでしたよね?」

「あはは、まさか」

 メリアの目線が、ひょろっと泳ぐ。優勝者とちょっと対戦してみたいとか、ウィル辺りと戦わせてみたいとか。そんな思いつきがないわけでもなかったが。どちらにしても、この天気では全て水の泡だ。

「今日は一日かけてたまっている書類に目を通していただきます」

 最近はデスクワークをサボり気味だった。執務室の未処理の書類入れがパンパンになっている。優先順位がどうのこうのなどと言っている余裕はまるでない。

「ええー、マジかぁー」

「メリア様、最近言葉遣いが」

 元からフランクな口調が多いメリアだったが、このところは輪をかけて酷い。公務でボロを出されてしまっては、これもまた王女としてのイメージに影響する。

「あー、ウィルの口調が移ってるのかも」

 ウィルの方も、頑張って丁寧な話し方にしようとはしているのだが、まだどこか怪しいし、危なっかしい。油断をすればすぐにメリアのことを呼び捨てにする。親しき仲にも礼儀あり、とパメラは事あるごとに説教していた。

「カリム様が良い顔をなさいませんので、お気を付けください」

 メリアは、うぇ、という顔をした。言葉だけじゃなくてそれもだな、とパメラは内心でため息をいた。




 警護の交代時刻が近付いて、カリムは執務室の前までやって来た。いつものように最後の身だしなみチェックしていると、扉の向こうから賑やかな声が聞こえてきた。

 確か、ルイザが警護担当であったはずだ。パメラもいるとなれば、女性三人、まさかしましいという状況か。執務室の外にまで騒ぎが漏れ聞こえるのはあまり好ましくはなかったが、雨で色々と欲求不満がたまったりもするのだろう。ある程度のことには目をつぶる度量も必要だ。

 どっと笑い声が上がる。うん、やはり物事には限界がある。少々時間よりも早い気がしたが、注意も必要だろうと、カリムは扉をノックして開け放った。

「失礼します。警護の交代に参りました」

 室内に足を踏み入れた途端、三人の目線がカリムの方に向けられた。予想通り、メリアとパメラ。それから、椅子に座っているのは。

「カ、カリム様」

 ゆったりとした青いドレスに、赤毛が綺麗にえている。普段は何も手入れしていない頬に、うっすらと化粧をほどこして、唇にもうっすらと紅を引いて。意志が強そうな目元の、整った顔立ち。見慣れていたからこそ、そこにいる人物が誰であるのか、カリムには一瞬では判別できなかった。

 メリアの友人の貴族の娘が遊びに来た、と言われても何の違和感もない。少し悩む程度でその女性がルイザだと判ったのは、以前観劇の際に一度メリアに変装した姿を見ていたからか。カリムは自分の中に生じた色々と複雑な感情を、まとめて一つの息にして吐き出した。

「あれー、思ったよりも早かったねぇ」

 メリアはデスクの前に立って、楽しそうににやにやと笑っている。パメラはルイザの後ろで、丁寧に髪をすいている最中だった。

「何をされているんです」

 頭の中で複数の感情が入り乱れて、どう対処するべきなのかが判らない。とりあえず、カリムは呆れておくことにした。

「この前の観劇の時、ルイザがすっごい可愛かったって聞いてさ」

 なるほど、あの時は五時間静かに座っているのが嫌で逃げ出したメリアが原因であったわけで、メリア本人は着飾ったルイザの姿を目にしてはいなかったのだ。大方もう一度ルイザがドレスを着たところを見てみたい、などと言いだしたのだろう。大まかな話の流れはつかめた気がして、カリムは今度こそ心の底から呆れた。

「おたわむれを」

 カリムに見られたのがショックだったのか、ルイザは耳まで赤くなっている。慌てて立ち上がろうとしたところを、パメラが押さえつけた。

「あ、暴れないでください。今、髪を整えてますから」

 結局そのまま観念して、パメラに髪をいじらせている。その光景を見て、メリアは満足げにうなずいた。

「いいね」

「私の従士に好き勝手されても困ります」

 ルイザはカリムの部下であり、メリアの警護担当だ。警備兵であって、着せ替え人形ではない。すっかり玩具にされている姿を見て、カリムはルイザのことが少々哀れになってきた。

「カリムもルイザが可愛い方が良いでしょ?それとも良くない?」

 無茶苦茶なことを言う。そう思いながら、カリムは改めてルイザを上から下まで眺めまわした。

「う、あ・・・」

 こんなことになるとまでは予想していなかったのだろう。ルイザはかちこちに固まって、椅子の上でうつむいていた。観劇の時はそれどころではなったし、カリムもそこまで冷静には見ていなかった。メリアの変装、というテーマから外れて、今日はあくまでルイザを着飾るという方向性のようだ。以前とは違って、ルイザの赤毛が綺麗にきわだっている。

 ちらり、とルイザが上目づかいにカリムの方をうかがった。その仕草が、いつものルイザにはない雰囲気を感じさせた。なんというか、女性だ。

「そうですね。女性騎士として、女性にしかできない任務というものもあるでしょう。今のルイザなら、王族に招かれた夜会であっても違和感なく溶け込み、任務を果たせると考えます」

 カリムのコメントに、メリアとパメラは揃って「おー」と感嘆の声を上げた。

「騎士的な観点でございますね。新鮮でした」

「遠回しに王族のお姫様に匹敵するって言ってるよね」

 思ったことを素直に口にしただけなのだが、おおむね好評のようだ。ルイザはすっかりオーバーヒートして、何の言葉も出てこない様子だった。

 そこに。

「ずいぶん賑やかだな」

 ウィルが入ってきた。

 城の兵士たちを相手に、ウィルとルイザは剣術指南を行っている。今日はこの後二人とも警護担当ではないので、可能なら訓練場でいつものようにひと暴れするつもりでいた。しかし、城の訓練場は吹き抜けになっていて、強い雨だと色々と面倒なことになる。それをどうしようかと、ウィルはルイザと相談するために訪ねてきたのだが。

 無敗の剣術師範は、ドレスを着て固まっていた。

「・・・あー」

 どうリアクションするべきか、ウィルはしばらく言葉に詰まった。座っているのがルイザだというのは判ったが、これは一体何がどうなっているのだろうか。カリムも、メリアも、パメラも、じっとウィルの反応を待っている。期待値がさっぱり判らなかったが、とりあえずめておけば良いのだろう。

「良く似合ってるよ。とても綺麗だ」

 そのワードはあまりにも直接的で、強烈だった。ルイザの羞恥心は限界に達した。



「いやあ、ちょっとやり過ぎたかねぇ」

「ちょっと、じゃありません。もう勘弁してください」

 デスクに向かって書類を眺めながら、メリアがくっくっと笑う。いつもの警備兵の制服に戻ったルイザは、いじけたように雨にけむる窓の外を眺めていた。


 ウィルの明け透けなめ言葉で、ルイザの心の防波堤はあっさり決壊した。ドレスのまま素早く椅子から立ち上がり、スカートを大きくひるがえす。ウィルの視界が青で埋め尽くされた後、腹部に強烈な蹴りがヒットした。

「ぐぇ」

 油断もあったが、電光石火の攻撃だった。ウィルは執務室の扉まで吹っ飛び、床の上に大の字になって失神した。

 その勢いのまま、ルイザはくるり、と身をひねった。ドレスが輪を描く。演武というより、ダンスだな、とカリムがぼんやりと考えたところで。

 むんず、とルイザはカリムの胸ぐらをつかんでいた。

「ル、ルイザ?」

「お願いします。出て行ってください!」

 とてもお願いをする態度と口調ではなかったのだが。

 カリムは何も言わずにウィルの身体を引きずって、執務室から退散した。一部始終を見ていたメリアとパメラが、ぱちぱちと拍手を送った後、ルイザに睨まれて慌ててそっぽを向いた。


「まあまあ。ルイザ様も女性です。こういう変身も、たまには心地よいでしょう?」

 そう言いながら、パメラが温かいお茶を運んでくる。紅茶の香りを嗅ぐ内に、ルイザはようやく落ち着きを取り戻してきた。だが、そうなると今度はウィルを蹴り飛ばし、カリムの胸ぐらをつかんだ記憶がよみがえってきて、先ほどとはまた違う恥ずかしさに襲われて赤面した。

 とりあえず、二人には後で謝罪しておかなければならない。それに、そもそもカリムはルイザと交代するために執務室を訪れてきたはずなのだ。何もかもがぐだぐだで、ルイザはうんざりとしてきた。


 他に所用があると言って、パメラは一礼して退室していった。雨の音が響く執務室には、メリアとルイザだけが残された。メリアを一人にしておくのははばかられるし、待っていればカリムの方からやってくるだろうと、ルイザは所定の位置で気を付けした。

「ルイザは綺麗だよ。ちゃんと着飾れば、輝く星になる」

 書類を見ながら、メリアがぽつりとそんなことを口にした。

「何が言いたいんですか」

 今日はもう十分にもてあそばれたし、カリムやウィルの前でも恥をかかされた。勘弁してほしいという気持ちが入って、ルイザの言葉にはとげがあった。

 そんなルイザの内心などにはお構いなしで、メリアは手にした書類を置いて、ルイザに向かって優しく微笑みかけた。

「カリムだってそのことを判ってる。もう少し自分に自信を持ってもいいんじゃないかな」

「なっ」

 心の奥底を見透かされた気がして、ルイザは激しく動揺した。

 正直、カリムからあんな褒め方をされるとは思っておらず、ルイザはとても嬉しかった。ルイザはカリムの従士であって、女性であるということは今まで意識してこなかった。というよりも、意図的に排除するよう心掛けてきた。

 周りにいるのがメリアやパメラなのだから、女性としては何をしても負け、という自覚があった。それに、自分にそんなに女性的な魅力があるとも思わなかった。カリムに見てもらおうとするならば、ルイザは強い従士、騎士の候補生としてあるしかない。

 そう考えてきたのが、最近どうも崩れつつある。

 あの観劇の時、メリアに扮してカリムと並んだ時から、ルイザの中でどうしようもない想いが膨らみ始めている。ずっと隠してきたし、これからも表に出すことはないと思っていたのに。今日も、着飾った姿をカリムに見られて、恥ずかしいという気持ちと、嬉しいという気持ちが半々になってしまっていた。

 ウィルまでが、カリムのいるところで「似合っている」だの「綺麗」などと。

 ウィルのことを考えて、ルイザははっとした。

「ウィル殿が現れたからって、そんなことを言うのは卑怯ですよ」

 ここのところ、メリアは矢鱈とルイザとカリムのことにちょっかいを出してきている気がする。メリアはウィルという決まった相手を見つけたがゆえに、カリムをそれとなく遠ざけようとしているのではないか。その為にルイザの気持ちが利用されるのは、ルイザには面白くなかった。

「うーん、ウィルが来てくれたっていうのは、まあ、あってもなくてもなんだけど」

 困った、と言うようにメリアは頭を掻いた。パメラがいなくて良かった。いたら間違いなくお説教を食らう仕草だ。ただルイザにとっては、こういった自然体な感じがするメリアはとても素直で、話がしやすかった。

「私には、カリム様の気持ちの方が大事です」

 口にしてから、ルイザは自己嫌悪におちいった。何を言っているのだろう。まさかメリアが知らないことはないとは思うが、カリムの気持ちをルイザが勝手に推し測って、メリアに対してこんな物言いをするなんて。

 それに、カリムの気持ちのことを考えると、ルイザの心は沈んでくる。ルイザにだって判っている。カリムは、メリアのことを愛しているのだ。着飾ったルイザを見て綺麗だと言ってもらって、ルイザのことを女性として扱ってもらえたとしても。

 ルイザは、カリムに愛されるわけではない。

「気持ち、か。それならルイザの気持ちも大事にしてほしいな」

 やはり見透かされている。ルイザはぎゅうっと掌を握った。

「私の気持ちなんて」

 従士としてカリムに仕えて三年。他人に対してだけでなく、自分にも厳しいカリムに、ルイザはずっと憧れてきた。騎士としてあるべき姿勢、尊敬できる上司。そして、ずっと忘れようとしてきた。自分の中にある女性を刺激してくる異性。朝目が覚めた後、胸に布をきつく巻きながら、ルイザは自分をいましめる。ルイザ・レインハートは、カリム・ファーガソンの従士であると。

 愛する気持ちは、この胸と共に押し潰してしまえと。

「立場にばっかり捕らわれて、気持ちのことを忘れてしまうのは、やっぱりつらいよ」

 カリムの帯びている騎士団の命については、ルイザも知っていた。カリムは、白銀騎士団の騎士として、メリア王女をめとるようにとの使命を帯びている。ルイザは騎士団の一員としてそれを推進し、達成された暁には喜び、祝福しなければならない。だからこそ、ルイザはカリムへの想いを固く封印することにしていた。

 ルイザの想いが、カリムのメリアとの間の障害になるなど、あってはならないのだ。

「立場だって、大事なことですよ」

 アークライト王国が騎士団との関係をより密接に保つ必要があるならば、カリムとメリアが結ばれることは重要な意味を持つ。そこにカリムの想いもあるというのなら、何の問題もない。カリムが幸せになって、騎士団の使命まで果たすことができるというのなら。それで万々歳じゃないか。

「確かにね。でも私は、気持ちの方を大事にしたいの」

 立場をとることで、消えてしまう想いもある。ルイザの、カリムへの想い。そんなもの、何の意味もない。こんな気持ち、誰も幸せになんかしない。ルイザの中だけにある、ルイザの我儘わがまま。ルイザの勝手な、独りよがりな好意。

 知らない間に、ルイザは泣いていた。強く拳を握りしめて、ぼろぼろと涙をこぼしていた。メリアの方に顔を向けると、メリアは静かにルイザを見つめていた。

「自分の気持ちに、正直にね」

 そんなこと、できるわけがない。

 ルイザは涙をぬぐった。この気持ちを表に出すことは、あってはならない。自分は、騎士カリムの従士ルイザなのだから。




 ウィルはルイザに蹴られた腹をさすった。まだズキズキする。気を許すと、昼に食べたものが全部逆流して出てきそうだ。

「酷い目にあった」

「すまん。騎士として従士の所業について詫びよう」

 カリムが丁寧に頭を下げた。カリムにそこまでされて許さないわけにはいかない。「いや、大丈夫」とウィルは慌てて両手を振ってみせた。

 ウィルとカリムは、執務室の近くにある控えの間で、向かい合って座っていた。本当なら、カリムはルイザと交代して警護の任務に就いていなくてはいけない。だが、あの剣幕ではしばらく顔を見せない方が良さそうだ。ほとぼりが冷めるまでは、少々時間を潰す必要があるだろう。

「どうも、私はルイザのことをまだ良く理解できていないらしい」

 そう言って、カリムは額に指を当てた。

 三年前、建前上はメリアも子供ではなくなってきたため、女性の警護が必要だろうという名目でルイザが派遣されてきた。実際には、メリアの脱走があまりにも巧妙化してきたので、カリムでは立ち入りできないような女性用の部屋でも見張ることができるように、という理由だった。ルイザが来てくれたおかげで、婦人用トイレや浴場からの脱走は未然に防ぐことができるようになった。

 従士として配属されてきた時、ルイザは十五歳。メリアと年が近い方が便利だろうという配慮だったが、カリムは不安だった。自分がメリアに騎士の誓いを立てたのが十六歳。それと比べて一歳違いとはいえ、少々若すぎる気がしていた。

 配属されてみると、それは取り越し苦労だった。剣術には優れているし、知恵もまわる。カリムの言うことを良く聞き、メリアとも信頼関係を築いている。ルイザは非の打ちどころのない、優秀な従士だった。しかし。

「あれも女性なのだな。私は彼女を従士としか見ていなかった。難しいものだ」

 ドレスを着て、化粧をしたルイザの姿を見て、カリムは率直に美しいと思った。自分に付き従っていた従士がこんな女性であったのかと、正直驚いた。

 以前観劇の時に見たのはメリアに扮したルイザであって、カリムはそれを変装であり、メリアのまがい物だと思っていた。だが、今日のルイザは違う。炎のような赤毛を揺らし、何処かに凛とした意志の強さをにじませた、ルイザそのものだ。ルイザ・レインハートは、女性としてこんなに魅力的であったのか。そのことに今まで全く気付かなかった自分を、カリムは情けなく思った。

「カリム殿は難しく考えすぎだ」

 ウィルはそう言って笑った。

 ルイザが女性であるということは、ウィルにしてみれば当たり前のことだった。ルイザは優れた剣の使い手であり、よく稽古けいこの相手にもなってもらっている。そして同時に、ルイザは一人の女性だった。

 メリアと話している時などは良く判る。ルイザは、ごく普通の年頃の娘だ。ルイザ本人がそのことをあまり口にしてほしくなさそうなので、ウィルはなるべく態度には出さないようにしている。だからこそ、さっきの対応はマズかったと反省もしていた。

「メリア様のこともそうだ。カリム殿は色々なしがらみで考えすぎている」

 自由すぎるというのはこういうことか、とウィルは自覚した。カリムの中には、様々な規制がある。騎士団の一員、騎士としてこうでなければならないという決まり事。カリムにとってそれはとても重要で、守っていなければ自分が自分でいられなくなってしまうたぐいのものなのだろう。

「私はウィル殿とは違う。立場がある。騎士団としての立場が」

 やはりそうだ。立場。カリムにとってそれは何よりも大事なことで、カリムをカリムたらしめている。そしてそれと同時に、カリムを縛るかせにもなってしまっているのだ。

「立場か。俺は、メリア様を護る剣であれれば良いんだ」

 ウィルの言葉に、カリムは顔を上げた。

「メリア様を、護る剣?」

「そうだ。立場とか、そういうものは関係ない。大事なのは、この手で護れるのかどうか、それだけだ」

 ウィルは騎士ではない。義勇兵団に属していはいるが、それも自分の意思で決めた道だ。騎士だからとか、誓いを立てたからとか、騎士団に命じられたからとか。そんなしがらみなんて何もない。メリアを護る剣になる。その想いだけが全てだ。

「良いな、真っ直ぐで。私もそうありたい。いや、そうあるべきであったのか」

 カリムの中には、メリアへの想いがある。それをさらけ出してしまうことが、カリムにはできなかった。騎士の誓いを立てた主従関係であるとか、騎士団から命を受けているとか、そんな立場が、ずっとカリムの前には立ちはだかっていた。

 そんなものは、無視してしまえば良かったのだ。愛している。ただその気持ちだけを伝えてしまえば。メリアがそれにどう応えるかは、メリア次第だ。それでいい。カリムはただ、ずっと自分を縛り続けて、自分の中にある最も大切な気持ちを言葉にすることができなかった。騎士としての自分に、ずっと捕らわれ続けていた。

 いずれにせよ、もう手が届くことはない。

「さて、そろそろルイザも落ち着いた頃だろう」

 カリムは席を立つと、執務室の方に向かった。その背中を、ウィルは黙って見送った。




 執務室の中には、雨の音と、メリアが走らせるペンの音だけが響いている。雨はまだ止みそうにない。部屋の隅に控えたまま、カリムはじっとメリアの姿を見ていた。

 七年間、絶えることなく見続けてきたメリアは、もう立派な王女だ。初めて会った時には、まだ幼さの残る少女であったのに。今では、うら若く美しい乙女。アークライト王国の第二王女だ。

 大きく息を吐くと、カリムは意を決して口を開いた。

「メリア様、少しお話ししてもよろしいでしょうか?」

「ん、いいよ。何か話をしてくれている方が、気が紛れていい」

 手元の書類に目を落としたまま、メリアは返事をした。今日は少しでもたまっている決裁を進めてもらわなければならない。カリムは構わずにそのまま話を続けた。

「メリア様も、そろそろご自身の婚姻について真剣に考えなければならない年頃であると考えます」

「そうなんだよね。いよいよ面倒になって来たよ。姫様として最悪な時期だ」

 メリアの口調は、心の底から面倒臭そうだった。メリアにとって、結婚はまだ具体的なイメージのない出来事だった。

「メリア様の立場上、政治的な意図を含んだ婚姻が望まれるのは、致し方のないことでしょう」

「第二王女に産まれた以上、そこはしょうがないよね。はぁ、自由意志とはなんぞや」

 ロクにイメージも持てていないのに、その上更にロクに知りもしない相手と一緒になるとか。これではどうしようもない。できる限り考えないようにつとめてはいるが、いつまでも逃げおおせられる話でもない。

 あれこれと駄々をこねていたところで、行き遅れて第二王女としての価値がなくならないうちに、何処かの有力者との関係作りに使われるのが関の山だろう。


「ですが」


 メリアの手が止まった。ペンの音が途切れる。しばらく、雨の音だけが執務室の中を満たした。

 少しの沈黙の後で、カリムは淡々と言葉をつむいだ。


「私は、メリア様には立場に従うのではなく、ご自分の気持ちに正直であってほしいと願います」


 メリアは顔を上げた。カリムの方に視線が動く。カリムは目を閉じていた。端正な顔は冷静で、感情の揺らぎなど微塵も感じさせない。ただ静かに、その場に控えていた。

「・・・それは、白銀騎士団の騎士カリムとしての意見か?」

 メリアの問いかけに、カリムは首を横に振った。

「いいえ、カリム・ファーガソン、一個人の意見です。騎士団のカリムとしての意見は決まっています。それは、以前お話しした通りのことです」

 アークライト王国と騎士団との関係を強固なものとするために、メリア王女を籠絡ろうらくし、妻としてめとるように仕向ける。

 騎士団からカリムが受けている命には、メリアの気持ちなど含まれていない。むしろそれを無視し、誘導せよとの指示だ。

「相反する意見になっちゃうけど?」

 メリアの言葉に、カリムは初めて表情を浮かべた。眉根を寄せて、苦悶の意思を表す。軽くうつむいて目を開けると、カリムは胸の奥から吐き出すようにして語った。

「はい。とても苦しいです。それでも――」

 再び、カリムは目を閉じた。メリアの姿を見ながら、この言葉は口にはできない。それこそ、苦しみに耐えられないだろう。ずっと心の中にしまっていたこの言葉は、出てくるにはあまりにも遅すぎて。

 あまりにも、陳腐ちんぷだった。


「それでも私は、自分の愛する人には、幸せになってほしいのです」


 カリムの耳には、雨音だけが聞こえてくる。目を開ければ、メリアはどんな顔をしているだろうか。

 笑っているだろうか。

 泣いているだろうか。

 もっと早く、この想いを口に出来ていれば、何かが変わっただろうか。カリムが騎士という立場をかなぐり捨てて、そんなもの関係ないと言い切ることができていれば。

 メリアの心に、手は届いただろうか。

「カリム」

 静かで、穏やかなメリアの声。終わりを告げる声。カリムはようやく、自分の中で決着をつけることができる。


「ありがとう」


 その言葉だけで、満足だった。

「いいえ、差し出がましいことを申しました。お許しください」

 メリアがカリムを選ぶことなど、あり得ない。判り切っていたことだ。騎士であるとか、騎士団の命とか、そんな建前で自分を守って、ごまかし続けてきた。

 カリムはただ、メリアに自分の想いが届かないことが、怖かっただけだ。

 今こうして、メリアへの愛を口に出来たのも、ウィルに言われたからだ。どう足掻あがいたって、カリムはメリアの心など手にはできない。それが、カリムの限界。

 カリムは、騎士カリム・ファーガソンであり、それ以外の何者でもないのだ。




 ウィルが執務室に入ると、メリアは窓の外を眺めていた。交代するはずのカリムの姿はない。何かがあったことを察して、ウィルはそのことには言及しなかった。

「やあ、ウィル。雨が止んだよ」

「そうだな」

 雲が割れて、光が差し込んでいる。天使の階段エンジェル・ラダー。大きな窓の向こうに広がる光景は、まるで一枚の絵画みたいだった。

 そして、その前に立つ、美しいメリア。太陽の光を受けて、白金プラチナブロンドがきらきらと輝く。天から舞い降りた女神が、ウィルに向かって微笑みかけている。

 こうしてメリアと共にいられることを、ウィルは心から嬉しく思った。

「そうだ、こんなものが届いていたよ」

 ふと、メリアは一通の書簡を手に取った。他のものと違い、きらびやかに装飾され、立派な封蝋ふうろうほどこされている。メリアはその書簡を、くるくると掌の中でもてあそんだ。


「隣国、リゼリア王国第三王子レビン・リゼリア殿下より、私宛に婚姻の申し込みだ」


 ウィルは絶句した。

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