第七章 英雄と呼ばれた男

 夜が明ける。地平線から昇る太陽の光が、アークライト城に続く緑の平野を照らしていく。いつもなら、そこには肥沃ひよくで豊かな大地を象徴する、美しい自然が広がっている。だが、今日に限っては違う。ウィルは黙って目を細めた。

 どこまでも連なる人の群れ。一糸乱れぬ隊列で、草を、花を踏み荒らして進む帝国兵の行軍。砂糖菓子に群がるアリに例えられることは多いが、丘の上から見下ろしていると、まさにそうとしか思えない。

 アークライトという甘い蜜に向かう、帝国という名の貪欲な害虫。見渡す限り、ありとあらゆる風景が帝国兵の姿で塗りつぶされている。斥候の報告では数千人。凄まじいほどの大規模な侵攻だ。

 ウィルは後ろを振り返った。丘の陰で整列しているのは、義勇兵団の全戦力。その数はせいぜい数百。どう足掻あがいても千には届かない。それに、騎士団とは違って生まれながらに戦闘の訓練を受けているわけではない。この戦いのためだけに駆り出されてきた者すらいる。初めて持つ剣や槍に、戸惑いを隠しきれない様子だ。

 頼みの綱の騎士団は、予想通り間に合いそうにはない。東にあるバイア要塞に大規模な侵攻の気配あり、との報を受けて、騎士団はほぼ全ての戦力をそちらに向けてしまった。確かにバイア要塞が攻略されれば、北方の守りは大きく乱れることになる。しかし、それが陽動だと判った時には何もかもが手遅れだった。

 城の中には、まだ少数の騎士たちが残っている。彼らにはメリアを護ってもらわなければならない。ウィルはそっと左手のブレスレットに触れた。ちゃり、と金属のこすれる音がする。なけなしの金で彫金師に頼んで、無骨な鉄の鎖を継いでもらった。これをしていれば、ウィルはどんな苦しみにも耐えられた。自分は何処かでメリアと繋がっていると、信じることができた。

 メリアと別れて、ウィルは強くなりたいと願った。メリアを護れるように、誰にも連れ去られることがないように。村の自警団で剣を学び、義勇兵団の呼びかけに応じて王都に参じた。騎士になりたいと思わないこともなかったが、残念ながらウィルを騎士に推薦してくれるような貴族の知り合いには心当たりはなかった。それに、ウィルはできることなら、騎士からもメリアを護りたかった。

 ウィルは、メリアただ一人のためだけの力になりたかった。

 そのメリアがいるアークライト城に、危機が訪れている。すぐそこにまで迫っている帝国の侵略。これがアークライト王国を、アークライト城を、メリアを傷付け、蹂躙じゅうりんしようとするのならば。

 命に換えてでも、ウィルは戦い、退しりぞけなければならない。そのために義勇兵団に入ったのだ。アークライトを護ることが、メリアを護ることに繋がると思った。それならば、今度こそ護ってみせなければならない。

 あの時護りきることができなかったメリアを、このウィル自身の手で。

 ウィルは剣を高くかかげた。子供の頃の自分にはなかった力。そして。

 今ここで、護らなければならないもの。

 護るために、戦う。

 義勇兵団の兵士たちの前で、ウィルは大声で叫んだ。その声は義勇兵団の兵士たちだけでなく、丘の下に展開する帝国兵たちのところにまで届いた。




 いつものように朝が来て、いつものように一日が始まる。問題など何もない。いや、むしろ今日はいつにも増して平穏だ。ルイザと打ち合わせをした際も、綺麗に予定が埋まっていて、いっそ清々しかった。

 こういうことを考えてしまう辺り、自分もまだまだだな、とカリムは反省した。ウィルのこととなると、どうもむきになってしまう。自分でも意識し過ぎだと思うし、そんなことで平常心を失ってしまうようでは、騎士として未熟だ。

 それに、メリアはウィルと一緒にいる時が一番自然で、今までにない表情を見せるようになっていた。一年前のあの侵略の時、メリアは王女として凛とした風格を持っていた。それに比べて、今のメリアは、王女としての顔ももちろん持ってはいるのだが。それにも増して、年相応の少女のような、柔らかくて暖かい雰囲気も持ち合わせている。メリアをそう変えたのはウィルだ。そのことは認めるしかない。

 果たして、メリアはどちらのメリアであるべきなのだろうか。いや。

 カリムは、メリアにどうあってほしいのだろうか。

 そんなことを考えていると、執務室の前に辿り着いた。とりあえずは、仕事をしなければならない。今日のところはサボる原因もなくなっているわけだし、しっかりと決裁を進めてもらう必要がある。メリアがウィルと落ち着いた時間を過ごしたいというのであれば、なおさらだ。自分の中に浮かんだ言葉で、カリムは自分で不愉快な気分になった。本当に、余計なことばかり浮かんでくる。

「失礼します。おはようございます」

 ノックして執務室に入ると、デスクの横の椅子に腰かけたパメラが顔を上げた。読書の最中であったらしい。左右を見渡してその主の姿を探したが、パメラ以外に執務室の中には誰の姿も見当たらなかった。

「メリア様は?」

 張り切って来た時に限ってこれだ。パメラに悟られないように、カリムは心の中でため息をいた。

「今日は体調が優れないということで、奥の部屋で休まれております」

 カリムにだけ気合が入っていても、そういうことであるならば仕方がない。ふむ、と一声漏らして、カリムはメリアの様子をうかがおうと奥の部屋に近付こうとした。すると、パメラが慌てて椅子から立ち上がり、カリムの行く手を阻んできた。

 しーっ、と人差し指を口の前に立てる。

「先ほどようやくお休みになられたのです。今はお静かに」

 パメラの顔と、奥の扉を交互に見比べて、カリムはがっくりと肩を落とした。大方「ウィルがいないせいで、今日はやる気が出ない」とでも言うのだろう。結局いてもいなくても同じ。困ったものだとは思うが、無理強いをしたところで成果は上がらない。

「判った。外で控えている。必要であれば声をかけていただきたい」

 ここでパメラに食い物にされるつもりはないし、本当に寝込んでいる場合、ぎゃあぎゃあと騒いでいては迷惑だろう。カリムは一礼して執務室から退出した。

 扉が閉まるのを確認してから、パメラはほぅっ、と息を吐いた。

「メリア様はホントにもう・・・」




 アークライトの城下町、裏通りにある酒場『孤高の牡鹿』亭を、ウィルは久し振りに訪れた。まだ陽が高いというのに、店の中は薄暗く、酒とたばこの臭いが充満している。それが懐かしくて、ウィルは肺の中の空気が汚れていくのをむしろ楽しんだ。

 前に来たのは、アークライト城に勤めるのが決まった時だ。義勇兵団の仲間たちが開いてくれた酒宴。あれからそれほど経ってもいないのに、すっかり昔のことのように感じられる。城での生活はそれだけ新鮮で、毎日が驚きの連続だった。少なくとも、この店の雰囲気は城にはない。何しろ汚くて、散らかってて、薄暗くて何処に何があるのかがよく判らない店だ。綺麗に掃除されていて、丁寧に片付けられていて、まぶしくらいのあかりに満ちた空間なんて、ここからは想像もつかない。

「いよーう、久しぶりじゃないか!」

 ウィルの姿を見て、筋肉質の髭だるまの男が声をかけてきた。義勇兵団師団長のバーク。相変わらず、という様子で、ウィルは安心した。その周囲にいる男たちも、揃って盃を向けてくる。みんな、ウィルと共に戦場で戦った仲間たちだった。

「おう、久しぶり」

 大声で応えて、バークのいるテーブルに着く。周囲のテーブルからも、手が伸びてきたり、声をかけられたりで、ウィルはいきなりもみくちゃにされた。この店は常に義勇兵団の貸切状態だ。笑顔でそれらに応えて、ウィルはバークたちと盃を合わせた。

「あれ?酒じゃねぇのか?」

「日没には城に戻るんだ。酔い潰れたら洒落にならん」

「お城勤めはお堅いねぇ」

 バークはガハハと派手な笑い声を上げた。

 ウィルが城に入ってメリアの警護任務に就いてから、今日は初めての休日だった。カリムやルイザも交代で休暇を取ることは可能なのだが、それこそお堅い騎士団の二人は休みなど一切返上している。せっかく休みをくれるというのだから、ウィルは久し振りに義勇兵団の仲間たちに声をかけて、外出許可を取ってこの店に顔を出したのだ。

「良くこんなに集まったもんだな」

「英雄ウィル・クラウドの人徳ってヤツだ」

 暗いので判りにくいが、昼日中ひるひなかだというのに店の中はほぼ満員状態だ。騎士団に比べれば、義勇兵団は確かに自由すぎるのかもしれない。カリムの仏頂面が浮かんで、ウィルは思わず苦笑した。

「今日は好きなモン何でも頼めや」

「いや、俺がおごるよ。城の中ばっかりだと金の使い道がなくてな」

 ウィルにもしっかりと城から給料は払われている。しかし、城の中にいると生活にはほとんどお金を使う機会がない。食事は食堂で何も払わずに出てくるし、衣類や生活に必要なものは申請すればすぐに支給される。毎日普通に生活する分には、何もかもが経費でまかなえてしまえる。特に趣味などを持たないウィルは、実際にお金の使い道に困っていた。

「景気が良さそうだな。どうだい? お姫様ってのはそんなに多忙なものなのかい?」

「思っていたよりはずっと忙しいよ。王族っていうのも楽じゃないな」

 メリアのそばにいて、ウィルは王族が多忙であるということを理解した。よく、偉そうにふんぞり返っているだけ、という評価を耳にすることもあるが、それは正しいものではない。確かに、王族の中には、様々な決裁や仕事を大臣などに全て任せてしまっている者もいるかもしれない。ただ、少なくともアークライト王国においては、王族は自らの職務を真っ当にこなし、日々忙しく生活していた。

 今日も、メリアは大量に溜まった決裁の書類と格闘しているはずだ。カリムが警護担当なら、サボることも難しいだろう。もしこれで仕事が一段落したなら、パメラに嫌味を言われずにのんびりと二人でお茶ができるかもしれない。自分がいない方が仕事がはかどるというのも、それはそれで問題がある感じだ。ウィルはデスクに噛り付いてひいひい言っているメリアを想像して、可笑おかしくなって笑みをこぼした。


「おーい、ウィル」

 入口の方から、仲間の一人が声をかけてきた。薄暗いので見づらいが、誰かがその横についてきている。小柄なその人物は、ローブのフードを深くかぶっていて、よろよろと不安定な感じだ。

「なんかこいつが店の前でちょろちょろしててさ、お前に用事だと」

 狭い店内で人の波に押され、散らかった足元につまずきながら、ローブの人物はウィルの前にやって来た。これだけ暗くてごちゃごちゃしている中で、なんでフードなどかぶっているのか。挙動を見るからに、不慣れ、というか場違い感が全開だ。用事というのが何なのかは判らないが、ここに連れ込まれてしまったのは少し可哀相な気がする。こんな荒くれの巣窟そうくつからは、さっさと開放してやった方が良いだろう。

「俺がウィル・クラウドだ。用事ってのは何だ?」

 猫なで声というわけでもないが、ウィルはなるべく優しく問いかけた。ウィルの言葉に、ローブの人物はびくん、と震えて。そろそろと、フードを取り払った。

 この空間にまったく似合わない、白金プラチナブロンドの輝きがこぼれ出る。

 ウィルは驚きのあまり、自分がどういう表情をしているのか全く判らなくなった。

「や、やあ、ウィル」

 ざわり、と店の中が騒然とした。ウィルの前に、突然見目麗しい婦人が現れた。それも、この店が始まって以来初めてのレベルでの超美人。一体何者なのかと、二人の周りにはあっという間に人だかりができた。

「こりゃびっくりだ。ウィル、誰だいこの美人?」

 バークの問いかけにウィルは応えられなかった。思考が完全に停止してしまっている。「どうして」とか、「なぜ」とか。そんな言葉が頭の中のあちこちに引っかかって、何一つまともに考えをまとめることができない。

 ウィルのそんな様子を見て、メリアはくるり、と身体を回転させて、周囲全体に向けて優雅に挨拶してみせた。

「はじめまして、義勇兵団の皆様。アークライト王国第二王女、メリア・アークライトと申します。先の戦争における皆様のご活躍によって、こうして生きてこの場にいられることに対し、深く感謝の意を表します」

 その場にいる全員が、ぽかーんと口を開けて硬直した。



「ウィルが休日に何処かに出かけるというからさ、行き先が気になっちゃったんだよ」

 店の一番奥、なるべく外から見えない席で、メリアはあっけらかんとそう言った。とりあえず二人で話をさせてほしいとその席に移ったのだが、そこかしこから好機の視線を感じる。それはそうだろう。本来民衆の前に姿を現すことすらまれな王族、それも王女様が、こんな場末の小汚い酒場におわすのだ。珍しいとかいう話ではない。奇跡だ。

「こんなところにお姫様が一人で来るとか、普通に危ないだろう」

「一人じゃないよ、ウィルがいるよ」

 どうやら城を出た時から、メリアはずっとウィルをつけていたらしい。尾行に全く気が付かなかったこともショックだったが、メリアがあっさりと城から抜け出していることも驚きだった。

 その後、ウィルが『孤高の牡鹿』亭に入るのを見て、流石にどうしようかとウロウロとしているところを、義勇兵団の一人に見つかった、という流れだった。声をかけてきたのが義勇兵団で、ウィルの顔見知りだから良かったものの、この裏路地はそんなにお行儀の良い場所ではない。これでメリアに何かあったら、責任の半分はウィルにあるとされるだろう。

「とにかく城に戻ろう。メリア様はこんなところにいてはダメだ」

「なんで?」

 メリアはあっけらかんと聞き返してきた。ウィルは頭を抱えた。

「ご覧の通り、ここはお姫様がいていい場所じゃない。ガラも悪いし、乱暴者の溜まり場なんだ」

「義勇兵団ってのは、そんなに危ない人間の集まりなのかい?」

 澄ました顔でメリアが訊いてくる。ウィルは「うぐっ」と声を詰まらせた。

「一本取られたな、ウィル」

 愉快そうに笑いながら、バークがやって来た。メリアが丁寧に頭を下げる。掃き溜めに何とやらだ。こんな場所であっても、メリアはいるだけで美しく輝いて、辺りを明るく照らし出している。『孤高の牡鹿』亭は、普段なら若い女性が店に入ってきただけで、目も当てられない惨状になるのが当たり前だった。だが、メリアに対しては、あまりにも現実離れし過ぎているせいか、義勇兵団の男たちはすっかり毒気を抜かれてしまっていた。

「とはいえ、血気盛んな兵隊たちです。騎士団とは違って礼節もない。色々とご無礼はあると思いますが、ご勘弁ください」

 メリアに向かって、バークがいつになく真面目に、かしこまって頭を下げてみせた。メリアはそれににっこりと笑って応えた。

「こちらこそ、みなさんの憩いの場に押し掛けてしまって申し訳ありません。新しい警護の者と、その朋友ほうゆうについて良く知りたいと思ったものですから。どうかお気になさらず、いつも通りにおくつろぎください」

 二人のやり取りを聞いて、そこかしこから声が上がった。「王女様だ」「本物だぞ」「ホーユーってなんだ?」ウィルは頭が痛くなってきた。

「よし、お前ら、王女様に失礼がない程度に、いつも通りに楽しんでくれ」

 バークのその言葉で、店の中はようやく元の雰囲気に戻ってきた。「おおー!」と合いの手が上がり、そこかしこで笑い声が弾ける。ウィルはやれやれ、と肩の力を抜いた。ふとメリアの方を見ると、メリアは男たちが賑やかに騒いでいる様子を、まぶしそうに見渡していた。

「お望みの義勇兵団の連中の姿だ。満足していただけたかい?」

「うん。みんな、この国のために立ち上がってくれた人たちだよね」

 義勇兵団は、志願制だ。ここにいる全ての義勇兵は、自らの意思で義勇兵団にやって来た。元々はその辺にいた普通のアークライト王国の国民であり、兵士でも何でもない普通の男たちだ。

「そうだな、国とか、暮らしとか、家とか。家族や子供、それに恋人。みんな護りたいものがあったんだ」

 帝国との戦いは、長い間続いてきた。戦争は騎士団がおこなっていて、アークライトの国民はただ守られて、おびえているだけだった。それではいけないと、一部の貴族たちがげきを飛ばし、資金を融通して創設されたのが義勇兵団だ。

「まあ、最初は無職とヤクザ者の集まりでしかなかったんだがな」

 できた当初は、金目当てであったり、犯罪者が身を隠すために入ってきたりと、義勇兵団はならず者の集団でしかなかった。入団のための身元確認や、厳しい訓練によるふるい落としを経て。義勇兵団は、ようやく軍隊としてそれらしい形を得るに至った。

 そこで迎えた初めての大舞台が、一年前の帝国軍の大侵攻だった。

「そういえば、メリア様は、ウィルがどうして英雄と呼ばれているか、ご存じですか?」

 バークの質問に、メリアはきょとんとして首をかしげた。

「帝国軍の侵攻の際、数多くの敵兵を打ち倒したからでは?」

 帝国との戦闘において、生き残った義勇兵たちは揃ってウィルの名を上げて讃えていた。それは、戦場においてウィルが人一倍の働きをした、ということだろう。戦争における功績といえば、詰まるところ敵を倒した数、ということになる。

 ふふん、とバークは含みのある笑みを浮かべた。

「倒した数だけなら、他にも沢山の兵が勲功を立てていますよ」

 戦闘の結果の報告書に関しては、メリアはあまり細かくは目を通していなかった。何しろ自己申告に基づいた数字だ。過去には百人の敵軍に対し、二百人を倒したと報告されている例もある。そんな数字は何のアテにもならなかったし、メリアにとってはウィルの名前がそこにあることの方がずっと大事だった。

「ちょっと飲み物を取ってくる。メリア様に酒はまずいだろう」

 そう言うと、ウィルは席を立った。自分の話をされるのは気恥ずかしい。特に、メリアの前でその話をされるのは、耐えられそうになかった。ウィルの背中を見送ってから、バークは怪訝な顔をしているメリアに向かって話を続けた。

「最初に帝国の軍勢を前にした時、我々は正直あきらめていた。勝てるわけがないと」




 数千の帝国兵を前に、数百。それも、まともに戦うのは初めてという者が大半だ。普通に考えれば、勝てるはずがない。数で勝る帝国軍に蹂躙じゅうりんされて、全員犬死するのが関の山だ。

 義勇兵団はかろうじてまとまり、戦列を維持していたが、戦う前から戦意を喪失しつつあった。及び腰になって、今にも逃げ出そうとしている。これではまともな戦闘にもならないだろう。

 誰もがあきらめて、絶望していた時。

 先頭に立つウィル・クラウドが、丘の上で剣を高々とかかげて、兵たちを鼓舞こぶした。


「護れ! 俺たちの護るべきものを!」


 その声は周囲に響き渡り、義勇兵たち全員の耳に届いた。


「ここで敗れて、ここを抜かれればどうなる。俺たちの街はどうなる」


 帝国に侵略された街がどうなったか。避難してきた人々から、話は伝わっていた。その仕打ちは酷く残忍だ。抵抗する意思をなくすために、帝国はおよそ考え付く限りの苦しみを被征服民に与えてきた。


「ここで逃げてどうなる。俺たちの帰る場所、逃げる場所ですら、あいつらは残さない」


 朝日を受けて、ウィルの手元で何かがきらめいた。金属の鎖、ブレスレットが光を反射している。その場にいる全員が、ウィルの姿をまぶしく見上げた。


「誰かに護られてばかりで、俺たちはどうなる」


 騎士団はやってこない。今アークライト王国を護ることができるのは、ここにいる義勇兵団だけだ。


「俺たちの家はどうなる」


 皆、アークライト王国の国民だ。住む家はこの国にある。それを護るのは誰なのか。


「俺たちの家族はどうなる」


 家に戻れば、家族がいる。年老いた両親、愛しい妻、幼い子供。それを護るのは誰なのか。


「俺たちの愛する人はどうなる」


 ウィルは強く左の拳を握った。ちゃり、とブレスレットが音を立てる。


「護れ! 本当に大切なものは、俺たちの手で護るんだ!」


 雄叫びが上がり、どよめきは大きな波となった。義勇兵たちは武器を強く握り直した。

 義勇兵団は、帰る場所を持つ男たちの集まりだ。厳しい訓練を乗り越えてきたのは、アークライト王国に護りたいものがあるからだ。今ここにいる義勇兵たちは、強いこころざしを持って集まっている。

 ウィル・クラウドの言葉は、それを思い出させてくれた。


 帝国の軍勢に果敢に飛び込んだ義勇兵団に対して、驚いたことに帝国兵はあっという間に総崩れとなった。

 主たる理由の一つは、帝国側の誤算だった。帝国側は騎士団が不在のアークライト王国が、本気で反撃を仕掛けてくるとは想定していなかった。大軍を持って脅しをかければ、大した戦闘もせずにすぐ降伏すると高をくくっていたのだ。そのため、数千の軍勢の半数近くは、実際には数を揃えるための間に合わせに過ぎなかった。


 そしてもう一つの理由として、ウィル・クラウドの言葉があった。


 捕虜してとらえた帝国兵の一部が、ウィルの言葉を聞いて戦意を失くしたと証言した。帝国は間に合わせの兵士として、支配地域の男たちを徴用していた。彼らの耳に、ウィルの語る内容は深く響いた。護るべき国を、自分の家を、家族を失った者たちの多くは、自らのおこないをかえりみて、武器を捨てて投降した。中にはその場で帝国に反旗をひるがえした部隊もあった。

 戦端が各所で開かれ、兵たちは口々に「護れ!」と叫んだ。その胸には、かつて彼らが護ることのできなかった、祖国の光景があった。ウィルの言葉が戦場を駆け巡り、支配した。帝国軍は、最早何と戦っているのかすら定かではない状況におちいった。


 なまじ大規模な軍勢であるがゆえに、混沌としてしまった戦場を整理、維持することを不可能と判断し、帝国軍は国境から撤退した。


 後には、英雄ウィル・クラウドの名前だけが残された。




 『孤高の牡鹿』亭を出ると、もう陽が落ちかかっていた。日没までに戻れるだろうか、とウィルは少し心配になった。騒ぎになると困るので、メリアは再びフードを深くかぶっている。その奥から、ぼそっと声が漏れた。

「・・・そんな話、初めて聞いた」

「戦争で大事なのは勝敗と、戦果だ。恩賞の大きさはそれで決まる。メリア様には報告の必要がないと判断されたんだろう」

 ウィルの言う通り、戦争においては勝ったか負けたかが問題であって、勝ち方などはどうでも良かった。王国は、その働きに対して報酬を与える。働きの大きさを測るには、具体的な数字を用いなければ不公平感が増すだけだ。

 それに、義勇兵団のスポンサーである貴族たちは、帝国との戦いの勝因を「義勇兵団の強さゆえ」としておきたかった。そうでなければ、せっかくの義勇兵団の勇名が半減してしまう。帝国が勝手に自滅したなどとは、口が裂けても報告しないだろう。

 ただ、書類には残らなくても、人々の口伝には残った。英雄、ウィル・クラウドの名前が。

「ウィル」

「なんですか、メリア様」

 二人は城下の大通りに出てきた。日暮れが近付いて、街にはぽつぽつと灯りが点き始めている。民家の窓から、夕食の美味しそうな匂いが漏れてくる。家路を急ぐ子供たちが、ぱたぱたと走っていく。荷物を積んだ馬車が、ごとごとと通り過ぎる。

 これが全て、ウィルの護ったもの。ウィルの護った、アークライト王国。

「君は英雄だ。君のおかげで、この王都が戦場にならないで済んだ。多くの人が死なずに、孤児が産まれずに済んだ。君にはいくら感謝の言葉を述べても、足りることはない」

 メリアはウィルの横に寄り添うと、その手を強く握った。

「まずいんじゃないのか?」

 心配そうな顔をするウィルに向かって、メリアはふるふると首を横に振った。フードの下で、金髪がきらきらときらめく。光の粒子が飛び散るようで、ウィルにはそれがとても美しく思えた。

「ウィルが護ってくれなければ、私はここにはいなかったんだ。私の手をこうして感じられるのも、ウィルのおかげ。まずいことなんて何もない。これは、君が護ったもの、君の力の証だ」

 小さなメリアの手。ウィルの手を握るその掌を感じるのが、ウィルには本当に懐かしかった。子供の頃、メリアの手を引いたことを思い出して、ウィルはメリアの手を優しく握り返した。

「俺は、君を護る剣になりたいと思ったんだ」

 幼い誓い。それでも、ウィルはその誓いだけを頼りに生きてきた。ブレスレットが、ちゃり、と音を立てる。二人の絆。それが残っていると信じて、ウィルはただひたすらに戦ってきた。

 ウィルが護りたかったのは、たった一人の女の子。メリア。美しい、夏の日の思い出。

「ああ、十分だ。ウィル、君は私を護る剣だ。その役目を、立派に果たしてくれた。だから」

 メリアが、ふわり、と動いて。

 ウィルは、自分の腕が暖かさと柔らかさに包まれるのを感じた。メリアはウィルの腕を抱いていた。力強く、身体全てをからませて、すり寄せて。もう離さないとばかりに、メリアはウィルの肩に顔をうずめた。

「ありがとう、ウィル」

 メリアの手が、ウィルのブレスレットに触れた。ここまで二人を結んでくれた、大切な絆。

 ――この継ぎ足された鎖のように、二人も、一つになれれば良いのに。

 メリアはそう思ったが、口には出さなかった。

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