第六章 明日を創る笑顔

 警護の仕事に、ウィルはすっかり慣れてきた。カリムとの関係は、打ち解ける、ということはなかったが、仕事上の話ぐらいは普通にするようになった。それに、メリアの警護という点に関しては、カリムはこれ以上ないくらい信用の置ける人物だった。ルイザとは剣の訓練を共にする間柄で、少しくらいなら冗談も言い合えるようになった。最初の頃に比べれば、天と地の違いだ。

 パメラは、ウィルの言動にいちいち口うるさいところはあるが、基本的にはウィルのことを認めてくれている。メリアと親しくすることについても、きちんと礼節を持って、一線を越えなければ特に何も文句はないらしい。そもそも、今までにメリアから色々と聞かされていたこともあり、二人の再会自体は歓迎してくれている・・・ということだ。メリアはそう言っているのだが、果たしてそれが本当にそうなのかどうかは、ウィルにはよく判らなかったが。

 そして、メリア。

 メリアはアークライト王国の第二王女として、毎日忙しく過ごしていた。ウィルが想像していたよりもはるかに、王族というのは大変な仕事だった。頻繁に公務で出かけることになるし、執務室にいても山積みの書類が処理を待っている。警備兵としてメリアの近くにいられるのは良かったが、二人でのんびりと話をする余裕などほとんどなかった。

 それでも、ウィルが警護担当の時は、メリアは無理にでも話をする時間を作ってくれた。何か文句を言いたげにしながらも、パメラがお茶を淹れてくれる。二人で向かい合って座っていると、ウィルはそれだけでここに来て良かったと思えた。


「こうしてウィルとお茶を飲んでいる時間が、私は一番落ち着く」

 優雅にお茶の香りを嗅ぎながら、メリアはそう言って微笑んだ。ウィルにしてみれば、メリアが公務から解放されてリラックスしている姿を見るのが、何よりも落ち着いた。

「メリア様はいつも忙しそうだな。休んだりはしないのか?」

「王族に休みはないな。まあ、私の決裁をお父様に丸投げすることはできるが」

 メリアはそこで言葉を切ると、ふふ、と笑った。

「それは、私が結婚でもしてこの城を出る時だろう」

 余計なことを訊いたな、とウィルは顔を伏せた。

 第二王女として、メリアは何処かの国の王族を相手に、政略結婚の道具にされることが当たり前の立場だ。カリムもそのために騎士団から派遣されてきているし、実際にはウィルもまた、義勇兵団の代表として似たような看板を背負ってしまっている。

 どう足掻あがいても第二王女という肩書から逃げられないメリアが、ウィルには哀れに思えた。

「ああ、ごめん。難しく考えないでくれ」

 カップを置いて、メリアは身を前に乗り出した。ウィルの左手を取る。そこには、金の鎖に鉄の鎖を継ぎ足した、少々不格好なブレスレットが巻かれている。その表面を、メリアは指先でそっと撫でた。

「ウィルがいてくれれば、今はそれでいい。メリアとウィルでいられるこの時間が、私にはとてもいとしいんだ」


「何言ってるんですか、メリア様がしょっちゅうサボっているせいで仕事がたまるんじゃないですか」

 デスクの横で書簡の入った箱を整理していたパメラが、きぃっと声を上げた。

「あー、パメラ、せっかくいい雰囲気だったのに」

 メリアは小さい子供のように、ぶー、と唇を尖らせた。

「二人の世界も良いですけどね、カリム様が警護の時はまだしも、ルイザ様の時はおしゃべりしたり、抜け出して剣の稽古けいこをしていたりで。ぜぇーんぜん決裁が進まなくて困ってしまうんですけどね」

「いや、まあ、一応優先順位をつけて、急ぎのものから片付けるようにはしているよ?」

「それでも書類の数は減りません。忙しいとお嘆きなら、一日でもいいですからガッツリと決裁を進めてください」

 「それから」とパメラはウィルの方を凝視した。ウィルは椅子の上でびくん、と跳ね上がった。

「ウィル様も、メリア様のご多忙を憂慮ゆうりょなされるのでしたら、一緒にお茶をしながらでもいいですから、さっさとお仕事を進めるようにおっしゃってください」

「えー、お茶ぐらいゆっくり飲みたいー」

 メリアのやる気のない発言に、パメラの怒りの矛先は再びメリアの方に向けられた。

「お黙りください。こうやってお二人がお話をする便宜べんぎを図っているだけで、本来私は国王様にお叱りを受ける立場なんですよ?」

「だってカリムはお茶すると怒るし」

「本当ならそっちの方が正しいんです!」

 そこまで言って、パメラはぴたっと黙り込んだ。手に持った書簡に、じっと目を落としている。なんだろう、とウィルとメリアが顔を合わせると、パメラは深いため息をいた。

「では、メリア様、久し振りに息抜きをしていらっしゃいますか?」

 メリアの前に歩み寄って、書簡を手渡す。書かれている文面に目を通すと、メリアは少し考える仕草をして。

「ウィルにも味方になってもらおうか」

「この場合は共犯、でしょうメリア様」

 二人の様子から、ウィルは面倒事に巻き込まれたことを自覚した。




 市街視察の公務の日、ウィルはカリム、ルイザと並び、騎乗してメリアの乗る馬車に従った。今日は午後いっぱいをかけて城下を巡り、馬車の中から街の様子を見て回ることになっている。警護の三人の他に数騎の兵士が続き、ちょっとした隊列を形成する。幸いに天気も快晴で、良い気晴らしになるだろうとカリムも清々しい顔をしていた。

 城を出て少し進んだところで、随伴する一騎が大きく後れを取った。ウィルがその馬に近付き、乗っている兵と二言三言言葉を交わした。ウィルはカリムに馬を寄せると、どうも馬がへばっているらしいと伝えた。

「とりあえず水を飲ませて休ませてくる。俺が付き添うから、馬車の方は気にせず先行してくれ」

「了解した。すまんな」

 ウィルと、遅れていた騎馬が隊列から離れて道の脇に並ぶ。しばらくそこにじっとして、馬車の姿が見えなくなったのを確認すると、馬に乗っている兵士がフードを脱いだ。

「やー、毎度この手でなんとかなるものだねぇ」

 白金プラチナブロンドがきらきらと輝く。颯爽さっそうと馬にまたがったメリアの姿に、ウィルは呆れて言葉も出なかった。

「ウィルも協力ご苦労様」

 ウィルに向かって、メリアは片目を閉じてみせた。

 今馬車に乗っているのは、メリアに変装したパメラだ。市街視察の公務は馬車からは出ないので、よほどのことがない限り正体がばれることはない。

「そもそもパメラは影武者というか、私の身代わりになれるように一緒にいるんだ」

 幼少の頃からパメラが専属の侍女としてメリアのそばにいるのは、メリアについて良く理解し、いざという時にはメリアの代わりを務められるように、という理由がある。その場しのぎの代役では無理だとしても、パメラの変装ならおいそれとは見破られることはない。実際にメリアの扮装をしたパメラを目の前にした際、ウィルはぐうの音も出なかった。

「女ってのは化けるんだな」

「パメラの場合はそれも仕事だからね」

「メリア様が城から抜け出す手伝いをする仕事、ではないだろう」

 以前、カリムが漏らしていたことがある。メリアとパメラが結託しているふしがあると。それはこういうことであったのかと、ウィルは納得した。これでは尻尾を捕まえるのは容易なことではない。それに。

「馬に乗れるんだな」

 これも意外なことだった。城の中で、王女と育てられたメリアが、単独で何事もなく軍馬を乗りこなしている。メリアはふふん、と胸を張ってみせた。

「まあね。なんなら国境まで早駆けとしゃれ込もうか?」

 メリアが手綱を引くと、馬が大きく前足を上げた。これがお姫様のすることだ。アークライト王国とは空恐ろしい。

「用事があるんだろう?メリア様」

 ウィルに言われて、メリアはぶぅっとむくれた。

「なんだ、久しぶりに二人だけなのに、つれないなウィルは」

「だからこそ、何かあったらただ事じゃ済まないんだ」

 メリアと二人だけで城の外に出たのは、確かに嬉しい。執務室では常にパメラが目を光らせているし、そうでなくても城内には常に他人の目がある。メリアには第二王女としての立場があって、ウィルはその警護担当だ。色々と我慢していることは沢山ある。

 しかし、だからと言って今羽目を外して、何かあったらそれこそ一大事だ。脱走のほう助までしておいて、メリアを無事に城まで連れて帰らなければ、掛け値なしに国家に対する反逆だ。パメラに説教されるどころでは済まされない。

「連れて逃げてくれるんじゃないの?」

「メリア様は城から逃げたいのか?」

 ウィルの返答を聞いて、メリアはにっこりと微笑んだ。

「意地悪だな、ウィルは。姫様なんてむいてないのに」

 くつわを並べて、ウィルとメリアはゆっくりと市街を進んでいった。



 メリアに案内されてやって来たのは、街外れにある建物だった。石造りの立派な塀で囲まれていて、その中からわいわいと歓声が聞こえてくる。どうやら子供たちが騒いでいるようだ。

「ここは?」

「孤児院だよ」

 さらりと応えると、メリアは馬を降りて手綱を引いた。

「ウィルも降りて。間違って子供を蹴散らしちゃマズいでしょ」

 言われるままに、ウィルも馬を引いて歩いた。門をくぐって中に入ると、うまやがある。そこに馬を繋いでいる最中に、どうやら発見されてしまったらしい。

「わー、ひめさまだー!」

 一人の声が上がると、後は連鎖的に膨れ上がっていく。

「ひめさまー!」

「ひめさまいらっしゃーい!」

 小さな子供たちが、わらわらとメリアの方に駆け寄ってくる。メリアはしょうがないなぁ、とそちらの方を向くと、膝を折って子供たちに向き合った。

「こらこら、大声出さないで。バレるとマズいんだから」

 口に人差し指を当てて、しーっと声を出す。子供たちがみんな真似をして、しーっと言って笑う。一人一人の顔を見て、頭を撫でて。メリアは楽しそうだった。

「こいつなにー?騎士ー?」

 メリアの後ろに立っていたウィルを、一人の子供が指差した。他の子供も、なんだなんだと視線を向けてくる。好機の視線にさらされて、ウィルはなんだかくすぐったかった。

「ウィルは騎士じゃないよ」

 メリアの返事を聞いて、女の子が首をかしげた。

「じゃあなにー?ひめさまのカレシー?」

 ウィルは思わず吹き出し、メリアはあっはっはと声を上げて笑った。

「姫様の彼氏だったら大変だ。私に恋人がいたなんて話になれば、それこそ国中大騒ぎだ」

 大げさな感じでメリアがそう言うと、子供たちはきゃっきゃとはしゃいだ。恐る恐るウィルに近付いてくる子供に、ウィルは優しく笑いかけた。大人気のメリア様との、大切な時間を邪魔するわけにはいかない。一歩引いて、ウィルはメリアが子供たちとたわむれる姿を眺めた。

「メリア様、こんなところまで申し訳ありません」

 建物から出てきた初老の女性が、メリアの前にやって来て頭を下げた。子供たちは口々に「せんせー」と呼んでいる。この孤児院の職員だろう。

「いいんだ。私も久しぶりにみんなの顔を見たかった」

 その言葉は社交辞令でも何でもない。メリアの表情は、城の中では見たことがないくらい生き生きとして、輝いていた。

「こちらは護衛の方ですか?」

 職員の女性が、ウィルの方をうかがった。ウィルが姿勢を正したのを見て、メリアはにやりと笑った。

「ああ。救国の英雄、義勇兵団のウィル・クラウド殿だ」

 子供たちの口から一斉に「おおー」という声が上がった。



 応接室のソファに腰かけて、メリアは窓の外で遊ぶ子供たちを見やっていた。後ろに控えるウィルも、同じ方向に視線を投げる。まだ年端もいかない者から、もう背の高い者まで。沢山の子供たちが、元気に走り回っている。その様子に、メリアは目を細めた。

「この孤児院は、私が出資して経営しているんだ」

 メリア王女が、その名前を用いて開いている孤児院。ウィルも、聞いたことはあった。長い帝国との戦いで、アークライト王国には無数の孤児が存在している。何とかして彼らを救いたいということで、メリアが私財を投じて開設したということだ。

「ところがまぁ、お金というのはなかなか思い通りには流れてくれなくてね」

 孤児院ができるまでには、幾多のトラブルがあった。手抜き工事、支払っているはずの賃金の消失、逆に、使われてない資材や工事に対する請求。メリアが投じた大金のうち、実際に孤児院のために使われた金額は半分にも満たなかった。

「しかも、不思議なことに私のところに上がってくる報告書では、きっちりと数字が揃っている」

 メリアは激怒した。気が付かないと思って、不正が横行している。工事に関係していた貴族や業者を、メリアは厳しく取り締まった。そして、今まで自分がしてきたことも、こうやって食い物にされてきたのかもしれないと推察し、悲しくなった。

「馬車の中から街を見たって、何も判りはしない」

 メリアが普通の王族として、馬車から外を眺めるだけの市街視察をしていたのなら、この不正を明るみに出すことはできなかっただろう。実際に自分の足で孤児院を訪れて、自分の目で見て、孤児院の職員や子供たちから話を聞いて。それで初めて、メリアは何かがおかしいと感じ取ることができた。

 決裁に関してもそうだ。きちんと目を通しておかなければ、小さな不正を見逃す恐れがある。メリアは決裁に関する書類を他人任せにしたりせず、どんなに手間がかかっても自分自身で精査するようになった。

「私はこの孤児院だけは、私が経営していると、自信を持って言いたいんだ」

 自分の名前を冠した孤児院を、汚職の餌食になどさせたくはない。メリアは孤児院と個人的に書簡のやり取りをし、何か問題があればこうやってすぐに駆けつけて、直接話を聞くことにしていた。何でも、遠慮せずに言ってほしいというメリアの言葉に、職員たちも、子供たちも大いに助かっているという。

 今回の書簡の要件は、施設の老朽化に関する陳情だった。ボロボロになったベッドや机、椅子を見て回って、メリアは愉快そうに笑った。

「子供っていうのは元気だな」

 あっさりと、メリアは増資を約束した。子供たちとも話をして、新しい洋服や玩具を買うことも約束した。そして、それらの品物がきちんと孤児院に届けられることを確認するため、再度孤児院を来訪することも、職員と子供たちの両方と約束していた。

 沢山の約束をして「さて、また忙しくなるぞ」と、メリアは満足そうに伸びをした。



 一通り用事を終えて、メリアとウィルは孤児院を後にしようとしていた。うまやから馬を連れてこようと外に出たところで、何人かの子供たちがウィルのところに駆けてきた。

「ウィル様」

 背の高い女の子を中心に、四、五人の子供が並ぶ。続けて、わらわらとその辺から子供たちが寄ってきた。気が付いたら、ウィルの前には孤児院中の子供たちが集まっていた。

「なんだ?」

 メリアの真似をして、ウィルはその場にしゃがみ込んで視線を合わせてみた。目の前にいる女の子は、十歳くらいだろうか。だとすれば、あの時のメリアと同じくらいだ。癖のある茶色い長い髪は、くるくるしていて愛らしい。肌も身なりも綺麗だし、言われなければ孤児だとは判らない。これも、メリアが奮闘している成果なのか。ウィルがそんなことを考えていると。


「ウィル様、みんなを護ってくれてありがとう」


 その言葉と共に、花冠が差し出された。色とりどりの花びらが揺れる。小さな手の中で、その彩りは虹のように輝いていた。

「これは・・・」

 戸惑うウィルの肩に、メリアがそっと掌を置いた。

「受け取ってあげて、ウィル」

 手を伸ばすと、ウィルは花冠を持った。軽いようでいて、ずしりと重い。この重さは、なんだろう。女の子が手を後ろで組んで、微笑みを浮かべる。そうだ、これは。

 平和の、重さだ。

「みんな知っているよ。義勇兵団のウィル・クラウド。この街を、この国を護ってくれた英雄」

 一年前、帝国が目の前まで迫って来た時。この孤児院にいる子供たちも、みんな王城に避難した。孤児院の建物も、街も、城も。友達も、先生も。メリア王女も。何もかもが失われるかも知れなかった時に。

 助けてくれたのは、義勇兵団。英雄、ウィル・クラウドだった。

「ウィル様、ありがとう。孤児院を護ってくれて」

「ウィル様、ありがとう。姫様を護ってくれて」

 子供たちが口々に「ありがとう」の言葉をウィルに投げかける。ウィルは立ち上がると、そこにいる子供たちの顔一つ一つを見まわした。

 みんな、ウィルが護った命。ウィルが護った笑顔。

「ウィル」

 メリアの方を振り返ると、メリアも微笑んでいた。懐かしくて、それでいて、昔とは違う。ウィルのよく知る、メリアの笑顔。そして。アークライト王国第二王女、メリアの笑顔。

「ありがとう、護ってくれて」

 ウィルはうなずいた。命を懸けてでも護りたかった笑顔。ウィルは、メリアとその全てを護ることができたのだ。そのことがとても誇らしく、手に持った花冠は、どんな勲章よりも価値があるものに思えた。

「ウィル様、メリア姫様をよろしくね」

 女の子がそう言って、悪戯っぽく笑った。ひゅー、と大合唱が起きる。ウィルは不意打ちを食らって言葉を失い、メリアは顔を赤くして「こら」と大声で怒鳴った。

 蜘蛛の子を散らすように走り去っていく子供たちの背中が、二人にはとてもまぶしく感じられた。




 城に戻るのは、また造作もないことだった。パメラが偽造、というか用意しておいた本物の出入り業者の証書を見せて、裏口からあっさりと中に入る。馬を戻して、メリアは王族用の秘密の通用口に向かった。

「じゃあ、執務室で」

 こんな簡単に出て戻っているとなると、「最近は城外への脱走を許していない」と豪語していたカリムのことを、ウィルは可哀相に思えてきた。しかし、これをカリムたちに話せば、メリアはあの孤児院を訪れることができなくなってしまう。

「共犯、か」

 やれやれと独りごちて、ウィルは執務室の中に入った。デスクに向かっていたパメラが、ぎょっとしてウィルの顔を見て。

「あああ、もう遅いですよ。生きた心地がしませんでした」

 ぐにゃり、と突っ伏した。

「カリムとルイザは?」

 室内には、パメラしかいないようだ。パメラ自身ももう変装を解いている。いつもの侍女姿で、パメラはぐったりと椅子に身体を預けていた。

「色々と用事を申しつけて、ここから遠ざけてます。それももうそろそろ限界ってところでした」

 なるほど、とウィルは感心した。パメラとメリアが協力すれば、入れ替わって半日程度ならなんとか気付かれずに済ませられるのだ。そこに、警備兵であるウィルまで加わってしまった。カリムとルイザには申し訳ないが、メリアの脱走癖はもう押し留めることはできないだろう。

「こんなの、報酬がないとやってられないですよ」

「報酬?」

 あれのことか、と考えたところで、奥の部屋の扉が開いた。

「やー、パメラ、お疲れさん」

 何事もなかったかのように、普段通りのメリアが登場した。先ほどまで兵士の格好をして馬にまで乗っていたのが、落ち着いた上品なピンクのワンピース。何処からどう見ても良家の子女、お姫様だ。

「約束の品だよ」

 メリアは手に持った紙袋をパメラに渡した。ごそごそと中身を確認して、パメラはぱぁ、と明るい表情になった。

「これですー。裏通りにあるベーカリーの限定商品。うひゃあ、お茶を淹れましょう」

 急に元気になって、いそいそとお茶の支度を始める。余程嬉しいのだろう、鼻歌まで飛び出していた。

 いざ城に戻ろうとした時、ウィルはメリアにもう一つ用事があると言われて、裏通りにあるパン屋まで連れて行かれた。下手すれば孤児院にいる時間よりも長く列に並んで、買ってきたのが先ほどの紙袋、中身は幾つもの小さな丸型のパンだった。

「それを買わなきゃ、もっと早く戻れたんだがな」

「これを買わないなら、外に出る意味なんてないじゃないですか」

 パメラは美味しい食べ物に目がない。中でもお気に入りが裏通りのベーカリーだった。このベーカリーは食通の間では人気の店で、長時間並ばないと商品が手に入らない。メリアと違ってパメラは城の外に出れないわけではないが、人気のパンを手に入れるまでの時間はなかなか融通できないということだった。

「文句があるならウィル様は食べなくていいです」

「いや、せっかく苦労したんだから、味ぐらいは知っておきたい」

 王女様を脱走させてまで食べたいと思わせるパンとは、いかなるものか。ウィルは興味があったし、それに、その店だってウィルが護ったものなのだ。ウィルにだって食べる権利くらいはあるだろう。



 お茶を飲んで、一息ついて。ウィルはメリアと向かい合って座っていた。夕日が執務室をオレンジに染めている。二人で城を出て過ごすのは、とても新鮮で、正直楽しかった。

 ウィルの視線に気付いて、メリアははにかんだ。

「今日は特別。いつでもこんなことをするわけにはいかないからね」

「判ってるよ」

 ウィルは、孤児院で子供たちに囲まれていたメリアの姿を思い返した。施設の中を真剣に見て回って、必要なものを聞いて、沢山の約束を交わして。

「むいてないなんて言うけど、立派にお姫様してるじゃないか」

 ウィルに言われて、メリアは顔を赤くした。珍しい反応だなと、ウィルはちょっと愉快になった。

「よせやい。私は子供が好きなだけだ」

 ごまかすようにカップを持ち上げて、紅茶を口に含む。香りが鼻に抜けるうちに、どのような考えがメリアの中を巡ったのか。カップを戻す頃には、メリアは優しい笑顔になっていた。

「子供たちを見てると思い出すんだ。昔、君と過ごした日々を」

 ウィルの前にいるのは、ウィルがかつて出会った少女メリアであり。また同時に、アークライト王国第二王女メリア・アークライト姫だ。そのことが良く判って。

 ウィルは、美しい姫の姿を目に、温かい紅茶を楽しんだ。それは多分、どんなに美味しいベーカリーの限定商品よりも、ウィルにとっては大切で、手に入れがたいものだ。

 メリアのデスクの上に飾られた花冠が、ウィルの功績を誇らしげに讃えていた。

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