第三章 騎士の誓い

 カリムが最初にアークライト城を訪れたのは、十六歳の時だった。話には聞いていた歴史ある荘厳な造りに、息を飲んだ覚えがある。これからそこが自分の任地となるということに、興奮を抑えられなかった。

 城内には多くの騎士たちがいた。ここは帝国との戦いの最前線の一つ。当然と言えば当然なのだが、まるでこの城は騎士団のものであるかのようだった。カリムも当たり前のように中に通され、騎士団の仲間たちによってもてなされた。城の衛兵たちとは、あまり親しくする必要はないと言い渡された。

 城に来た目的は、アークライト王国第二王女、メリア・アークライトの警護のためだ。カリムはメリア王女専属の警備兵となり、つかず離れずその御身を護ることになる。騎士団領を出る時にそう命じられた。

 メリア王女がどういう人物なのか、カリムはまるで知らなかった。当時は十歳の少女で、色々と面倒事を起こす性格であるとは聞いていた。カリムが警護として城に入ることになったのも、離宮での脱走事件が原因であるという話だ。お転婆で、少しの間でもじっとしていられない。野性児のような子供を想像して、カリムは気が滅入っていた。

 それでも、騎士としての務めは果たさねばならない。カリムはメリア王女に騎士の誓いを立て、メリア王女の騎士となる。子供のお守り。とはいえ、一応は王族の警護なのだから、出世ではあるのだろう。仕事だと割り切って、腹をくくるしかない。

 城の誓いの間で、カリムは初めてメリア王女の姿を見た。

 白いドレスに身を包んだ、美しい白金プラチナブロンドの髪を持つメリアを目の当たりにして。

 カリムは、またしても息を飲んだ。

 この美しい少女が、幾度となく城からの脱走をくわだて、警備兵だけでなく騎士団にまで手を焼かせた、噂の第二王女だというのか。メリアは静かにたたずみ、カリムの手から剣を受け取った。優美な仕草で、ひざまずくカリムの肩に剣の平を乗せる。騎士の誓い。この儀式を持って、カリムはメリアの騎士となった。

 カリムは顔を上げて、メリアの姿を眺めた。確かにまだ幼さの残る少女かもしれない。だが、美しい姫君の騎士となり、その警護を任されるというのは、名誉なことだ。その相手がメリアなら、それでも良い。

 そう思ってメリアの表情をうかがったが、メリアの視線はカリムとは一度も絡まなかった。

 メリアは、何処かここではない場所を見ている。カリムには判った。王城の中、沢山の配下と、騎士に囲まれて。それでも、メリアの心はここにはなかった。夢を見るように、ただ言われるがままに騎士の誓いの儀式を遂行して。メリアはその場を後にした。

 誓いを立て、メリアの騎士となったのに。

 カリムの中には、奇妙なわだかまりが残った。




 その日の朝、メリアの警護担当はカリムだった。いつものように決まった時間に起きて身支度をし、まだ暗いうちから朝食も済ませておく。七年もやっていればすっかり習慣となっている。ルイザと王女の一日の予定を確認し、朝の鐘と共にメリアの執務室に向かう。余計な人員が一人増えた程度で、この毎日が崩されるようなことがあっては、たまったものではない。

「失礼いたします」

 ノックして執務室の中に入る。メリアは朝が早い。公務の都合もあるので、寝坊だなんだとごねている余裕などない。今日は取り立てて謁見えっけんや外出の用事は入っていないが、決裁処理などの事務仕事は多くたまっているはずだ。可能な限り進めておいていただかなければ、次の公務に支障が出てしまう。

 カリムは執務室の中をぐるり、と見まわした。そこには、パメラだけしかいなかった。

「メリア様は?」

 お茶を淹れている最中であったパメラは、カリムの方を見ようともせずに応えた。

「続きの部屋におります。もう少々お待ちください」

 ふむ、と鼻を鳴らして、カリムは部屋の奥にある扉に顔を向けた。執務室はメリアの私室と繋がっている。そちらはカリムでも簡単には出入りできない部屋だ。それでも一応確認はしなければならない。

「失礼」

 一言断って、カリムは奥の扉に近付いた。パメラの視線がその背中を追いかける。

「メリア様、いらっしゃいますか?」

 軽くノックすると、すぐに返事があった。

「いるよー」

 これでようやく一安心だ。カリムはほっと胸を撫で下ろすと、執務室の扉の横に戻った。

「ご心配ですか?」

 パメラがカリムに紅茶を差し出した。受け皿からカップだけを取り上げると、カリムは一口だけ飲んでパメラに戻した。

「前科もありますからね」

 今でこそだいぶ大人しくなったが、数年前までは酷いものだった。少しでも目を離せば、メリアは執務室から消えていなくなる。広い城内を必死になって捜索する羽目になって、気が付けば何事もなかったかのようにデスクに向かっていたりする。それで済めばいい方で、飄々ひょうひょうと城門の外から姿を現すことすらもあった。何をどうやっているのかは知らないが、メリアは脱走のプロフェッショナルだった。

「第一印象でだまされました」

 騎士の誓いをおこなった際のメリアは、物静かで美しい姫だった。この少女がそんなお騒がせ姫などとは、誰も想像だにしないだろう。最初にメリアが行方をくらました時には、カリムは正体を失うほどに動揺したものだった。

 それが、一年もすれば姿が見えないくらいでは驚かなくなり。二年経ってやっと先手を打って脱走を未然に防げるようになった。七年もすれば、まともに脱走に成功されることなどほとんどない。少なくともカリム自身はそう思っていた。

「メリア様も大人になられましたから」

 大人、ねぇ。

 カリムは口に出かかった言葉をぐっとこらえた。幼少の頃からメリアと共に過ごしてきたパメラ・リースにも、言いたいことは山のようにある。確たる証拠はないが、メリア脱走の一部はパメラが協力し、手引きした気配があるのだ。二人は結託してお互いのことをかばい合うので、未だにその尻尾はつかめていない。

 それはさておいて、メリアのことだ。先の謁見えっけんの間でのウィル・クラウドとの出来事。カリムは今でも思い出すだけで体が震えてくる。一体全体どういうことなのか。二人の事情については、メリアやパメラから断片的には聞かされたが。

 カリムに隠して物事を進め、それがああいう結果を生んだということが、カリムにはどうしてもに落ちなかった。

「カリム様も、ウィル様のことが気になりますか?」

 パメラにそう言われて、カリムはどきっとした。この侍女は、時折妙な鋭さを発揮して、人の心の中を見透かしてくる。イライラする以前に空恐ろしい。パメラは涼しい顔で、冷めてしまったお茶を淹れ直していた。

「騎士団の職務のさまたげにならないか、心配なだけです」

 今までは、カリムとルイザの二人でメリアの警護を務めていた。それが三人体制になって、一人が騎士団以外の人間となるとやり難いことこの上ない。せめてカリムの部下という立場であってくれれば良かったが、義勇兵団がそこに上下関係を持ち込むことを強く拒絶してきた。その心情は解らないでもないが、仕事をする上では実に面倒だ。

 カリムの返答を聞いて、パメラはふふっと口元に笑みを浮かべた。

「せっかく騎士団との繋がりが持てるか、というところでしたのにね」

 まただ。何もかもがお見通し。魔女か、とカリムは内心独りごちた。

「何が言いたい?」

 自然と口調が厳しくなる。これでは図星と認めてしまっているようなものだ。

「いいえ、別に。カリム様は騎士団として熱心であると。そう申しております」

「なっ」

 ポーカーフェースもここまでだった。動揺したカリムの表情を見て、パメラが意地悪く微笑んでいる。大方メリアから話を聞き及んでいるのだろうが、侍女ごときにここまで言われる筋合いはない。

 何かを言い返そうとカリムが口を開いたところで、メリアが室内に入ってきた。

「ごめんごめん、なんかばたばたしちゃって」

 実際慌てていたのだろう、適当に縛った髪の毛が所々乱れてねている。せっかくの美しい白金プラチナブロンドが台無しだ。

 にやにやしているパメラと、眉間みけんに深い亀裂を刻んで口を開きかけたカリムを見比べて、メリアは怪訝けげんな顔をした。

「ん? なんかあったの?」

「いいえ、何も」

 カリムはそう言って姿勢を正した。咳払いして、わざと靴を鳴らして気を付けする。その様子を見て、パメラはくすくすと小さく声を漏らした。

「メリア様、御髪おぐしを直しましょう。そのままでは他の者に見せられません」

「あ、うん。よろしく」

 事態が把握できないまま、メリアは椅子に腰かけた。二人から目を逸らしたカリムの中では、複雑な感情が渦巻いていた。




 騎士の誓いを立てた後、城内でカリムは騎士長である父、デイルに呼び出された。入った控えの間の中には、デイルと、数名の高位の騎士だけがいた。何か重要な話であると察して、カリムは身を固くした。

「カリム、メリア王女の騎士となったお前に、重要な任務を与える」

 仰々ぎょうぎょうしい物言いに、カリムはつばを飲み込んだ。

「よいか、メリア王女を籠絡ろうらくし、お前の妻としてめとるのだ」

 最初、何を言われたのかカリムはまるで理解できなかった。言葉が難しいというのではない。その意味は理解できる。そうではなくて。

 メリアを、妻とする?

「メリア王女を、ですか?」

「そうだ」

 カリムは先ほど、誓いの儀式の時に見たメリアのことを思い出した。確かに美しく、可憐な姫ではあった。だが年齢は十歳であったはずだし、いくら美人とはいえ年相応の魅力という感じだ。結婚などという言葉は到底似合わない。メリアは何と言うか、明らかにまだ子供だった。

 そのメリアを、騎士であるカリムが、どうにかして妻にするという。自分で想像してみて、カリムはあまりのおぞましさに頭を激しく左右に振った。

「それは、いくらなんでも早すぎるというか」

 カリムの様子を見て、騎士たちは顔を見合わせた。

「今すぐ、である必要はない。時間をかけ、メリア王女の心をつかんでおけ、ということだ」

 デイルはカリムにゆっくりと語って聞かせた。

 北方と、侵略者である帝国との戦争はまだ長く続いていく見込みだ。帝国と国境を接してるアークライト王国では、騎士団の力を今後も必要とするはず。騎士団としても、アークライト王国は重要な取引先になるとみなしている。

「今後も、騎士団はアークライト王国との関係を緊密に保っておきたいのだ」

 アークライト王国との繋がりとして、騎士団はメリア王女に目を付けた。騎士団の人間とメリア王女が婚姻関係となれば、今後もアークライト王国と強い関係性を維持していくことができる。

「そのためにカリム、お前はメリア王女と懇意こんいにし、数年後には妻とできるように行動するのだ」

 カリムは「はぁ」と曖昧な返事をした。

 自分が剣を捧げた少女は、護るべき相手であるのと同時に。政治に利用される、一つの駒だった。カリムはメリア王女を外敵から守りながら、その裏では自分のものとするように動かなければならない。

 物語では、正義の騎士はお姫様と結ばれる。それはそういうものだ。疑問を挟む余地のない出来事だろう。

 だが、それが仕組まれた現実であるのだとすれば、どうなのだろう。最初から、妻にするために王女に誓いを立てる騎士。カリムは、自分の中にある騎士という概念が、ぐらぐらと揺れている気がした。

 それに、メリアはカリムのことなど見てもいない。

 カリムは、儀式の間、誰の姿も目に映っていなかったメリアを思い返した。メリアの心はここにはない。少なくとも、カリムのことなどは、まるで意識の中に存在していない。目の前で誓いを立てている騎士のことを、メリアは意味のあるものとして扱ってはいなかった。

 そんなメリアを振り向かせて、妻にする。

「・・・やってみます」

 他にどう答えれば良いのだろうか。メリアはまだ子供だ。もう少し成長して、せめて結婚の意味を理解し、自分の意思で相手を選ぶことができるようになるまで。

 カリムは、その任務を心の棚の中にしまっておくことにした。




 時が流れて、カリムがアークライト城に来て六年が経った年。帝国の大規模な侵略が発生した。数千に届く軍勢が国境を越えてアークライト王国内に侵入し、王城の目と鼻の先にまで迫りつつあった。

 これだけの致命的な侵攻を許してしまったのは、騎士団の失態だった。東方にあるバイア要塞に帝国の部隊が集結しているとの情報を得て、騎士団はそちらにほぼ全ての戦力を集中させてしまっていた。今にして思えば、第一報の時点で情報を精査し、軽はずみに兵を動かすべきではなかったのだ。

 バイア要塞の帝国軍は、陽動であった。帝国の本隊は真っ直ぐにアークライト城を目指しており、騎士団は城に最小限の守りしか残していなかった。急ぎ救援の要請を各地に飛ばしたが、どう足掻あがいても事態は手遅れ。城下が戦場になることは目に見えていた。


「城門を開放し、市民を城内に避難させます。それを最優先としてください」

 騎士団への文句と、絶望の嘆きばかりを上げる軍議の場で、メリアは力強く宣言した。

「しかし、市民など何の役にも立ちません」

「市民無くして何が国か! 護るべきものをはき違えるな!」

 メリアに一喝いっかつされて、大臣や貴族たちはあわあわと会議室を飛び出していった。

「お父様を騎士団領に避難させる手筈てはずを。万一の場合は、お父様だけでもお守りして」

 騎士団にそう指示して、メリア自身は軍議の場にい続けた。市民の避難誘導、食料や寝る場所の確保。城下に帝国軍が侵入した後の伝令、補給路、退路について。決めるべきこと、確認するべきことは山のようにあった。

「メリア様は避難されないのですか?」

 国王の脱出用の馬車の準備を始めたところで、メリアははっきりと言い切った。

「私は逃げません。王族が揃って尻尾を巻いて逃げるなど、アークライトはそんな国ではありません」

 毅然きぜんとしたメリアの態度に、その場にいる全員が敬礼で応えた。


 いよいよ明日には城下に帝国兵が到達するという夜、メリアは城の執務室で書類をさばいていた。籠城ろうじょう戦になったとして、城に備蓄されている食料では、避難している市民全員を支えることなど到底できない。すでに、井戸の数が足りなくて水が行き渡っていない、という報告が上がってきていた。

 こちらから討って出て戦うにしても、兵力があまりに不足している。戦力として頼りに出来るのは騎士団の者だけであり、それがほとんど出払っているというのだから、話にもならなかった。

 騎士団以外の衛兵たちの方も、戦闘であてにならないという以前に、城内の混乱を鎮めるので手一杯だった。今もこんな夜更けまで、避難民の手伝いにと、パメラまでもが現場を走り回ってくれている。城内総出でそちらの手助けが必要な状況で、攻勢に出るなどとは世迷言よまいごとに等しいだろう。

 書類をデスクの上に投げ出すと、メリアは深いため息をいた。やるべきことはやっている。その上でできないというのであれば、それは不可能ということなのか。

 椅子から立ち上がって、メリアは窓の外を眺めた。国境の方面に、ちらちらと行軍の灯りが見える。王城から見えるということは、もうほんのすぐ近くだ。明日には帝国兵が城下になだれ込み、破壊と略奪が始まってしまう。アークライトの街が荒らされる様子を想像して、メリアは目頭を押さえた。

「失礼します。メリア様、まだお休みになられておりませんか」

 ノックの音に続いて、カリムが執務室に入ってきた。

「カリムか、すまないな、色々と苦労をかけて」

「いえ、こちらこそ申し訳ありません」

 カリムはかしこまって頭を下げた。

 この状況を作り出した責任は騎士団にある。軍議ではカリムやルイザを含む、城に残っている騎士たちが槍玉に挙げられた。騎士団の作戦ミスであることは事実であり、カリムは何も言い返すことが出来なかった。

 騎士団で決死隊を結成し、帝国兵を討ち取ってくるべきだ。そんな意見までが上がって、会議の空気が怪しくなってきたところで。それまで黙って話を聞いていたメリアが、一同に向かって大声で吠えた。

「それで事態が収まるというならそうするが良い。だが、そうでないならば、騎士団亡き後は貴様らが戦ってこの城を護ってみせよ!」

 メリアの言葉で無責任な発言は鳴りを潜め、残った騎士たちも協力して城の守りを固めることに専念できた。

「騎士たちの命を無駄にせず済みました。メリア様のおかげです」

「なんの」

 メリアは目を伏せて、それから再び窓の外に視線を向けた。

「しかし、それもわずかに寿命が延びただけ、ということになりそうだ」

 城内に大量の避難民を抱えたままで、数千の帝国兵を相手に籠城ろうじょう戦など。

 最初から結果が見えていることだ。

「メリア様はよくやられています」

「よくやって、結局無駄ってことなんだよなぁ」

 がっくり、とメリアは肩を落とした。どう転んでも、この状況を打開する手段が見つからない。長きに渡って守り抜いてきたアークライト城の歴史も、いよいよここまでなのか。

「カリム」

 メリアに呼ばれて、カリムは姿勢を正した。メリアの声は静かで。

 強い覚悟に満ちていた。

「私の身を差し出したとして、帝国はどの程度足を止めてくれるだろうか?」

「メリア様!」

 驚いて声を上げるカリムに構わず、メリアは淡々と言葉を続けた。

「取引材料には使えるだろう。市街や、市民への安全を保障させる。それくらいにはなるんじゃないか?」

 そう言って微笑んだメリアからは、恐れなど微塵みじんも感じられなかった。あくまで高潔で、凛々しい。アークライト王国を護るため、その身を投げ出すこともいとわない。

 アークライト王国第二王女、メリア・アークライト。

 その姿に、カリムは心を打たれた。自分が剣を捧げた相手が、正しく王族であることを誇りに思った。それならば。

「おやめください。我らには戦う意思が残っております。その決断をなされるのは、まだお早いでしょう」

 カリムは、王女を支える騎士でなければならない。メリアが王女でいられるように。その足で立っていられるように。

 カリムの言葉に、メリアはうつむいた。

「そうか。戦う意思、か」

 ぽつりとつぶやいて、次に顔を上げた時には。

「では迷惑ついでに、カリム、その命、私のために預けてくれるか?」

 いつもの、カリムのよく知るメリアがそこにいた。

「はい。私はメリア様の騎士ですから」

 メリアの横に立ち、共にありたい。それが、カリムの願いだった。




 ルイザと交代し、カリムは執務室の外に出た。あれから一年、短いような、長いような時間が流れて、今のアークライト城は驚くくらいに平和だ。自分やルイザを含めた多くの者が、一度は死を覚悟したことがあるなど、嘘みたいに思えてくる。

 メリアの警護を交代した後、カリムは城内を見回ることにしている。この通路、狭い部屋に至るまで全て、城下の民で埋め尽くされたことがあった。兵たちが右往左往し、騎士たちも浮き足立って目も当てられなかった。

 そんな中で、カリムはメリアの隣に立ち、間近に迫る帝国の行軍を見ていた。あれがここに来た時、自分とメリアの命は終わるかもしれないと、悲壮ひそうな覚悟を決めていた。

 そして来たるべき最後の瞬間、メリアの最も近くにいる者が自分ならば。

 それが一番良いと、カリムはそう考えていた。

「あっと、カリム殿」

 回廊で、前から来る男が声をかけてきた。カリムと同じ、第二王女付きの警備兵の制服を着た、黒い短髪の男。

「えーっと、お疲れ様です」

 ウィル・クラウド。義勇兵団の戦士。救国の英雄。


 あの後、夜明けと共にアークライト城に伝令がやってきた。

 ――義勇兵団が帝国軍との戦闘を開始した。

 確かに、義勇兵団と呼ばれる軍隊が帝国軍に攻撃を仕掛けるという話は、カリムも聞き及んでいた。だが、せいぜい数百という規模の、元々はその辺にいる素人たちの寄せ集めだ。足止めにもならないだろうとカリムは踏んでいた。

 帝国軍は、すぐにでも城まで攻め上がってくる。緊張した時間が流れ、正午を回ろうかという頃になって、再び伝令が駆けつけてきた。その報告内容は、驚くべきものだった。

 ――アークライト城下に迫る帝国軍を、義勇兵団が退けた。帝国軍はそのまま国境を越えて敗走。王国の危機は救われた。

 カリムは我が耳を疑った。

 知らせを受けて、城にいる者は皆一様に驚き、歓声を上げ、近くにいる者と喜びを分かち合った。

 義勇兵団が凱旋がいせんし、勝利が事実であると知れると、城下はお祭り騒ぎになった。侵略者を退けた英雄たち。中でも特によく聞かれた名前が、ウィル・クラウドだった。前線で帝国軍を相手に戦った義勇兵たちは、みなウィルを讃えていた。

 それだけではない。

 ウィルの名前を聞いて、誰よりも衝撃を受けていたのが、メリアだった。

 メリアはことあるごとに義勇兵団の名を口にするようになり、カリムの知らないところで話を進めて。ついには、ウィル・クラウドを自らの警護担当に任命するまでに至ってしまった。

 騎士団の名声や信用は地に落ち、義勇兵団がその勇名をせて。

 メリアの前には、一人の男が現れた。

 カリムが築き上げてきた全てを、軽く飛び越えて。

 ウィルという男は、メリアの心にまで手が届いている。


「ウィル殿、ルイザに剣の稽古けいこをつけてくれているそうだな」

 カリムに言われて、ウィルは困ったような顔をした。

「いやその、迷惑だったか?」

 ざわり、とカリムの心の奥で何かが騒いだ。騎士団の名誉のために、やらなければならないことがある。このままでは、カリムはその存在を忘れ去られてしまう。

「構わん。貴殿の剣の腕前、私も興味がある。一度手合せ願いたい」

 騎士の誓いを立てたあの時、メリアの視線の先にいた人物。

 間違いない。それは、ウィル・クラウドだ。もうあの頃からこの男はメリアの中にいて。

 こうして今になって、メリアの前にやって来た。それまで彼女のそばにいた、全ての者を押しのけて。

「・・・今すぐにか?」

 カリムの口元がゆがんで、笑みが浮かんだ。その笑いは、カリムの意思によるものか、何処か悪意を含んでいた。

「細工が必要だというなら、準備が終わるまで待ってやってもよいぞ?」

 ウィルがむっと顔をしかめる。そうだ、それでいい。自分の中に湧き上がってくる燃えるような感情を、カリムは抑えることができなかった。

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