第5話 月明かりの下で
楽しい誘いは
一度逃すともう戻ってこない
苦しい誘いは
一度断るとより激しく誘ってくる
たぶん、一生ってその繰り返し
体中の力が、まるで吸い取り紙にでも吸われたかのように抜けきっていた。スパイトは大樹の幹に背を預け、倒れぬように足に力を分配する。
「荷物がなくなれば軽くなる。当たり前の話だ」
頭上の枝でウェルテナが軽やかに踊っている。不思議と、枝は揺れもしないし、音も立てない。
「荷物?」
「早く下ろしたかった荷物を下ろして体がびっくりしているのさ」
「私は、誰かに話してしまいたかったのか?」
「どうだろうな。だが、話したらお前はそうなった。望んでいた可能性は捨てきれないね」
枝から、ウェルテナが空に踊った。月の円の中に入り込み、ウェルテナは影になった。しなやかな体を、月が祝福している。月はウェルテナを歓迎している。ウェルテナの踊りを、月も森も気に入っているのだろう。スパイトは瞬きも忘れ、ただウェルテナに見入った。
なるほど、ウェルテナの言う通り、確かにスパイトはどこか軽くもなっている。力は入らないが、それは疲労からと言うよりは弛緩から来るもので、その弛緩は緊張から発生したものだろう。ウェルテナの言葉通りかはわからないが、張っていた気が一気に緩んだ感じがする。鍵を外された鎖のように、ぽとりと地面に落ちたのだ。
「身勝手だと思うか?自分で招いておきながら、解決したいと願っている私を」
「勝手かどうかは知らない。俺には人間の感覚はわからないからな」
ウェルテナが小さなステップを踏む。土の上なのに、草の上なのに、軽やかに弾む音が聞こえる気がする。たん、たん、と音そのものが踊っているかのようだ。ウェルテナに誘われた草がそっと体を揺らす。つられて葉っぱが歌い出す。枝が手を打ち鳴らす。誘われた森がウェルテナに踊りを促している。応えたウェルテナが小さく頷き、とんと弾んだ。
「踊るのは楽しいか?」
「お前は楽しくないのか?」
「嗜みとして、だな」
「お前の周りはみんなそうなのか?」
知らず知らず、スパイトのつま先がウェルテナと一緒に踊っていた。
「楽しくもないことをよく続けられるな」
「お前の踊りは楽しそうだ」
「もっと楽しくなるコツを知ってるか?」
「いや、知らない。踊りを覚えることか?」
「そんなのは後回しだ。踊れ。心の赴くままに」
月明かりを背負ったウェルテナが差し伸べた手に、スパイトは手を伸ばした。指先が触れたほんの一瞬に、スパイトの内側が突沸した。弾むウェルテナのステップに、スパイトの心が呼応する。
「楽しいものを苦しくするな。そんなのは馬鹿のすることだ」
「苦しくする?」
「お前は心躍る冒険を、わざわざ贖罪の苦行に変えているじゃないか」
おどけて跳ねたウェルテナが、スパイトの胸を指で突いた。ぱりり、と薄氷が割れる時と似た音が、スパイトの全身をつんざく。
「父親の病を治したい?それは結構。だが、どうしてその過程を楽しんじゃいけないんだ?冒険は心躍るものだろう?エルフの森に眠る霊薬探しに、お前の心は躍らなかったのか?」
土を蹴ったウェルテナの音が、月を頂く天頂に響き渡った。
「苦しみに満ちた人生なんか、くそくらえだ。楽しめよ。人生は踊りと同じだ。いつかは曲が終わる。俺の曲は終わらないかもしれないが、鳴り続ける限り俺は踊るんだ」
森が、月が、夜空が、一斉に踊り出した。舞い上がったウェルテナは、星屑を蒔いている。空で星が芽吹くのだろうか。彼女の踊りの果てがどこにあるのか、スパイトは知りたいと思った。そしてまた、知らぬうちにスパイトは自分の体が踊ろうとしているのを感じた。不器用な足運び。それでも、ウェルテナが微笑んだ。
それだけで、スパイトも祝福され、赦されたのだと思えた。
--続く
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