第4話 たった一度

悪戯は悪戯

時と場合にもよるけれど

けれど鴉の時には気を付けて

悪意と無邪気が踊ってる





 目を背け続けていたそれは、何も変わらずにそこにあり続けた。いや、時の流れによってより先鋭に、より苛烈に……。あり続ける内になにがしかに変じてもおかしくない、スパイトの行状は何も変わらず、ただ起こった――スパイトが起こした――事実として、残り続けていたのである。

 スパイトの父は王である。そしてスパイトは、次代の王。スパイトにとって父は峻厳たる霊峰であった。見上げ、畏怖し、越えられぬと諦観する。地の底から響くような低く重々しい声はスパイトを震え上がらせた。雪解けの水は麓には恵みの水であろうが、スパイトには突き刺すように冷たい氷と変わらない水であった。

 父と同じく、人でありながら人とは違う、王とならなければならない……スパイトは自身に言い聞かせ続けた。周囲もそうだった。皆が皆、実は同じ根っこから生えた花のように、一様にスパイトに囁くのだ。

「王は独りでありながら、国民をその内に収めねばならぬ。内に収めた国民が、お前を王とするのだ」

 父は言った。孤独でありながら、誰よりも多くの繋がりを持つ。王は国民の優しき父でありながら、冷酷な徴収官。外敵に怖れられ、内に敬愛の念をもたれる。

 少年の頃、スパイトは落馬したことがある。スパイトは自分の折れた腕を見た。無様に馬から落ち、挙げ句に腕を折ったスパイトに、父は決まり切ったような見舞いの言葉をかけた。誰に対しても、父はそうなのだ。実の息子であっても……。本当に自分が父の子なのか、スパイトは自分を疑った。いや、そうありたいと願った。そうであれば、自分は王になどならずに済む。王の血を継がない自分が、王になどなれるはずがないのだから……。

 そうやって、スパイトは逃避を続けた。王になる資格がない自分は、いずれ運命によって玉座から遠ざけられるだろう。身の程を弁えないとして、天罰を賜るかもしれない。

 そして一年ほど前、父は病に罹った。宮廷医師は原因がわからない、と三日後に発狂して自死した。父は日を追うごとに痩せ、まるで生気を何者かに奪い取られるかのように弱っていった。

 宮廷医師が発狂しながら残した遺書――見方を変えれば処方箋――を頼りに、薬師たちは薬を調合した。

「彼の処方箋ならば、間違いなどあるまい」

 父はそう言って、薬師が恐る恐る差し出した粉薬をためらいなく服用したのである。効果があったのか、父の病状の悪化はゆるやかに止まり始めた。弱々しくなった父であったが、それでも父は痩せた体に幾重も服を重ね、政務を続けた。

――なぜそんな気になったのか、スパイトはいまでもわからない。

 ある日、スパイトは父の薬をただの芋の粉とすり替えた。高くそびえる山に、たった一度、スパイトはつるはしを振り下ろしてみたかったのかもしれない。ただ土がひとかけら取れるだけの、些細な抵抗……。恐らくは霊峰は削られたことにすら気づくまい。ただ、スパイトは一度だけ、父に逆らいたかったのだろうか……。

 そしてその夜、父は意識を失った。医師から告げられた時、スパイトは告白出来なかった。血の気が引いた、枯れかけの葡萄のような顔色になった医師は、スパイトに詫びていた。スパイトには、何も聞こえていなかった。喉元まで飛び出していた告白を、スパイトは抑えつけた。自らの意志で、彼は良心からの告白を黙殺したのである。

 スパイトは自室に戻るや、本棚の本を片っ端からひっくり返した。

(どこだ、どこだ……)

 表紙の取れかかった本の中から、畳まれた羊皮紙がぽとりと落ちた。中身を確かめるまでもなく、スパイトはその羊皮紙を懐にしまい込み、幼い頃に読んだ冒険譚を頼りに鞄に荷物を詰め込んだ。

 宵闇の中を、スパイトは飛び出していた。自分の短慮さ、愚かさに涙をこぼしながら……。先の見えない洞窟のような闇を、スパイトは明かりもなく走った。



                                ―― 続く

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