第3話 月明かりに混ざって
最近、お水が固いのさ
なんで?月光が強すぎるからかな?
いや、違うね、梟が説教臭いのさ
新月の輝きで目をやられちまったよ
森の夜は闇が深い。幾重にも重なった枝や葉が星も月も覆い隠してしまうからだ。静かな夜。スパイトは鞄からランプを取り、種火から明かりを灯した。橙色の光が眠そうに揺れる。スパイトとウェルテナは、大樹の根元で夜を明かすことにした。二人はともに大樹に背を預ける。
「エルフたちは随分と森の奥深くに住んでいたんだな」
「人見知りなのさ。それに、俺も最後に森に入ったのはかなり前だからな。道を間違えたのかもしれん」
「最後にお前が森に入ったのは何年前だ?」
「そんな数え方はしたことがないからな」
「そうか」
「ちょっと来てくれ」
ウェルテナがランプを取り、スパイトの肩を叩いた。暗い道を、ウェルテナが進む。足下の草がランプを怖がって道を開ける。やがてウェルテナが足を止めた。ウェルテナが見上げる。スパイトはそれにならうように、ウェルテナの横に立って見上げた。
感嘆の息をスパイトは漏らした。開けた夜空が広がっていたのだ。銀粉を散らした刷毛で引いたような星の帯が伸びている。山にかかる西側が明るいのは、月があるからだろう。横に並ぶウェルテナの横顔を月の光が照らしている。
じっと空の銀粉を見つめていたウェルテナが、一点を指した。
「あの赤い星がもっと西にあった頃だな。俺が最後に森に入ったのは」
「あれは白わし座の心臓だ。星の場所が違うのか」
大きな話だ。スパイトは幼い頃から星を見るのが好きだった。夜になると、神様が夜空に飾りを付けて楽しませてくれているのだとスパイトは思っていた。毎晩同じようにしていると思っていた。
(長い年月の間に、星の場所まで変わるのか……)
ウェルテナにとって、エルフにとって人間とは、国とはどれほど虚しく見えているのだろうか。星の並びが変わるのを見続けてきた彼らにとって、国の栄枯盛衰も人の死もほんの一時の白昼夢にしか思えまい。
父親の命をほんの少し長らえたいとやってきたことも、スパイトはほんの少しだけ、虚しく思えた。
「時間が経つのは早すぎる。残酷だね」
「人間の知り合いはいるのか?」
「生きてるのはお前だけだろうな。他はたぶん死んでるよ」
「会いたいと思わないのか?」
「向こうが思わんのだろうさ」
「なぜそう思う?」
「自分が年寄りになった時に、若いままの知り合いには会いたくないからさ。俺にはわからんが、昔の知り合いにはっきりそう言われた」
ウェルテナが目を伏せた。微笑みが自嘲に変わっている。スパイトにはそう見えた。ウェルテナの心にわずかな泡が立った。氷のようにぴんと静まった心に泡ができ、水面を揺らす。
「……辛かったろうな」
「自分が身動き出来んのに、俺はぴんぴんしてるわけだからな。気の毒なことをしたよ」
「いや、私は辛かったのはお前だろうと言っているんだ」
「俺が?言っただろう。嫌なこともいいことも長い間に平になっていくんだ」
「忘れようとしているだけだ」
「そうだったとして、だ」
息が止まりそうな沈黙が流れた。ウェルテナがスパイトの目を見据えた。
「案内人の俺の、何を気遣う必要がある?お前が気にするべきなのは霊薬と、霊薬に辿り着く道筋だろう?余計なところに目が行っていると、足下の沼にはまるぞ?案内人の肩書きがなくなれば、それっきりだ」
「何を怒っている?」
「怒る?俺がか?」
「怒っているじゃないか。腹を立てている」
「違うね。そんなものはとうの昔になくした。俺はそのまま、気ままに生きるんだ」
「感情はそう簡単になくせるものじゃない。お前は自分にそう言い聞かせているんだ」
「お前こそ、なんでそこまでむきになる?」
「辛かったことを辛かったと思えないのは、不幸だ」
「俺は辛かった、なんて一言も言っていないがね。お前の思い込みだ」
「辛いから、さっき私が辛いかを聞いた時にあんな悲しそうな顔をしたんだ」
ウェルテナの感情が溢れ始めている。ウェルテナはそれが怖いのだ。ウェルテナが目を泳がせた。
「お前の偽悪は、辛いことから逃れたい一心からだ。人を遠ざけて、触れたくも触れられたくもない」
自分を壊される怖さ。人を壊す怖さ。スパイトが積み木で作った城を、父は壊した。遊んでいる暇にやるべきことがあるはずだ。本を読め、体を鍛えろ、次代の王たる心構えを持て……。
次代の王の役目が自分を待っている。後ろから剣先をちくりと刺しながら、少しずつ追われていく。逃げようとすると、剣は先回りをして逃げ場所を壊して回る。優しかった使用人……お菓子をくれた乳母……花を分けてくれた庭師……。玉座だけが行き着く場所。それ以外には目を向けず……。
ウェルテナも同じだ。人間と親しくしても彼らは瞬く間に老い、死んでいく。若々しい姿を見せつけられながら。エルフと人間の越えようのない時の流れをまざまざと思い知らされて。だから彼女は、感情を覆ったのだ。頭のおかしい偽悪趣味のエルフとして……。
「これからもずっと、そうやって自分を欺くのか?偽るのか?」
泳いでいたウェルテナの目がぴたりと止まり、哄笑が聞こえそうな笑みを浮かべた。
「お前も人のことが言えた口か?偽らざる願いから霊薬を求めてる?本当かな?」
「私は」
「お前は!」
ウェルテナの首が、まるでさびついたからくり人形みたく震えながら揺れる。歪んだ口から犬歯が覗く。
「本当に父親を助けたいのかな?」
見えない切っ先が、スパイトの喉元に突きつけられた。氷のように冷たく、カミソリのように鋭い切っ先……。
「なにを」
「いやなに、お前からは真剣味……というよりは狂気だろうな。言い伝えの、伝説の霊薬を求めてまで父親を助けよう、って奴の割りには狂気が足らんのさ。どことなく他人事で、どことなく冷笑してる。幼子がそこら辺の草をすりつぶして万能薬を作っていて、お前はそれを冷めた目で見ている大人だ。普通は、幼子の側になるんだがね。取りすがってでも手に入れたい、とね」
「私が、父を助けたくないと思っているだと?」
あるはずのない切っ先が、喉の表皮をほんの少し突き破る。引きつっていた皮が、その破れ目に引き寄せられるように裂けていく。
「俺を気遣うのも、言わば逃避だ。お前は霊薬が見つからない理由の一つとして棚に入れてる。求めずして与えられるものなんか、この世では不幸と愚かさだけだ。お前は霊薬を求めているくせに、愚かさに目をやっている」
裂け目が足を破裂させた。
「私は……」
裂け目が顔に迫っている。
「お前が本来目を向けるべきは、必死に目を背けている場所だ。見たくもないし、聞きたくもない、思い出したくもない掃き溜めだ。清潔は結構だろう。だが大事なのは、捨てたがっているものほど、そいつを如実に現してるものはないってことさ」
眼球が、耳が、頭蓋が裂ける。永遠の森の穏やかな大気が、裂けたスパイトを霧に変えていく。霧が覆っていたもの……。スパイトが目を背けている、父とスパイトの関係性……。
「隠し事は永遠には続かない。いつかは暴かれるんだ」
突風が霧と化したスパイトを巻き上げた。ぽつんと残されるのは、うずくまるスパイト。銀色をした月の光が、必死に目と耳を塞ぐスパイトに降り注いだ。許しとも、断罪ともとれる、鋭い光だった。
―― 続く
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