第22話 陽がのぼるとき

 兄が連れてきてくれた場所...。それは浩之のところだった。

なかなか彼のところに行けないあたしを兄は、ほらっと思い切りあたしの背中を押した。この世界で二人きりの兄妹の兄が翔ちゃんで本当に幸せ者なのかもしれない。押された衝撃で彼の眠る病室に足を踏み入れたあたしを見送ると兄はその場を去っていった。

誰もいない二人きりの空間。まだ話せない浩之が、自分と繋がっている機械の音を通じて生きているよとあたしに教えてくれている。

 ただただ、見ていることしかできないあたしは無力だ。身をもってあたしのことを守ろうとした彼のためにあたしが出来る事。それは一生懸命生きる事。

出来る事ならあなたのために生きたい。あなたと共に生きたい。お互いが年老いて、死が二人を分かつまで一生懸命あなたの隣で生きたい。

そう強く願うことしかできないあたしは、無意識に彼の手を握った。どれほどの時間が経ったんだろうか。そんなことも分からないままひたすら手を握り続けて願い続けた時だった。握っている手が一瞬かすかに動いた気がした。驚いてその手を眺めていても何も起こらない。気のせいかと思ったその瞬間、再びさっきの感覚があたしの手に起きた。浩之の手が動いた...。そう確信したあたしは必死に彼の名を呼んだ。戻ってきてほしい、目を覚まして。ただそれだけだった...。

 必死に叫ぶあたしの声に気づいた看護師さんに伝えると、彼女は急いで出て行った。病室の外がバタバタと忙しなくなってきた時、浩之の瞼が少し揺れた。

彼の手を握っているあたしの手に力が入り、指先が少し白くなる。叫び続けたあたしの声は止まっていた。すると、ゆっくり少しずつ彼の瞼が上がっていく。

天井を見上げる彼の瞳があたしの方に向いた時、主治医の先生がやってきた。

「中村さん、わかりますか?」と言いながら一通り彼の体を見ていく。

浩之はかすかに頷き、その瞳を再びあたしに戻した。

いつからだっただろう...。あたしの瞳から涙が溢れていたのは...。

目覚めたばかりの彼があたしの涙をそっと拭った。枯れることを知らないあたしの涙腺は留まることを知らなかった。

彼は、左手であたしの頭を自分の胸に抱き寄せた。あたしの不安で凍りついた心は、その温もりを心音で溶けていく。

何を話しかけたらいいのか分からないあたしはただ嬉しくて、浩之の胸で良かったと泣くことしか出来なかった。

 それからは、月日が流れるのが早く感じた。

浩之は、殴られた衝撃で側頭葉に損傷が生じた。特に左側のダメージが大きく、失語症と記憶障害が残った。簡単な会話は出来るけど、理解できないことが多かった。そして、新しいことの記憶ができない。事件前のことは覚えているが、それ以降のことは覚えられなくなった。そんな状況でも、彼は卑屈になることなくリハビリに励んでいる。前向きで負けず嫌いな生まれ持っての性格が変わることはなかった。

そんな中、逮捕された森崎は殺人未遂及びストーカー規制法違反で起訴され、懲役10年の判決を受けた。この後に及んで否認を続け、裁判でも自分が正しいと主張する姿は哀れだった。あいつは、あたしが浩之から逃れ、自分の元に戻れるようにしてあげたんだと叫び続けていた。浩之が出廷することはできなかったが、証人として後輩の瀬戸くんが証言してくれた。あたしはもう逃げも隠れもしないと決めていた。あいつに会うのは怖いけど、立ち向かうと決めた。周りのは反対されたが、証言台にパテーションをつけず森崎の目を見て真実を明白に告白した。それが功を奏したのか、被告側は控訴しなかった。

世間から何を言われてもいい。全てに変えても守りたいものがある。それは浩之と共にある今の日常だ。

 結局、入籍することはできていない。結婚式も新婚旅行もお預けだ。でもそれでいい。だって浩之が生きているという現実があるから。

この1ヶ月、全く生きた心地がしなかった。何度も後悔した。何度も死にたいと思った。人生何があるか分からないけど、今ある日常がどれだけ幸せで、当たり前じゃないということを学んだ。

もう好きとか愛してるとかじゃなく、だたそばにいたい。

言葉では表すことのできない感情...。

出会ってから今まで決して平坦ではなかった。でも全ての1日1日が幸せだった。

浩之は、これから起きる1日1日を覚えてないかもしれない。

でもそれでいい。あたしが全て覚えているから。

あたしがずっと隣で、浩之の側頭葉になる。

そう強く、決して揺らがない思いを胸に生きていく...。


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