第19話 嵐の前の静けさ

 この前の勉強会から半年が経ち、8月になった。

案の定、4月から浩之は仕事が忙しくなり帰ってくるのが遅くなった。

後輩の指導係となり、同期の中では出世コースに乗っているらしい。

詳しいことは知らないが、たまにくる岡田さんから情報が入ってくる。

私は、相変わらず自由に生活していた。誕生日も終わり、28歳になった。

独身生活を謳歌しようと家族や友達と過ごすことが増えた。

仕事も今までとは何も変わらないけれど、気持ちの面では前向きになったような気がする。

街を歩いていると、高校時代に仲の良かった友達にばったり会ったりして交流も増えた。

今までの人生で、一番幸せかもしれない時を過ごしていた。

気のせいだと思っていた気配も視線も気づかなくなって、安心しきっていた。

今年の夏季休暇には、里紗とタケちゃんがうちにやってくる。

久しぶりに4人で過ごす。楽しみで、楽しみで仕方ない。

この時に、婚姻届の証人になってもらおうと思っている。

私にはマリッジブルーなんて言葉はなかった。毎日が楽しくて、充実して、キラキラ輝いていた。

きっと浩之もそうなんじゃないかって思う今日この頃、仕事から帰ってきた浩之が突然、私に言った。

 「結婚したら、引っ越そうか。家建てたい?それともマンションを買う?」

そしていろんなパンフレットを並べた。

 「うわぁ!!いいの?大丈夫?無理してない?」

 「大丈夫。いつか俺ら家族も人数が増えるだろ?何人増えるかわからないけど、ちゃんと家持ちたいんだ。」

 「家かぁ。考えてなかったなぁ。理想は一軒家で、庭があって、子供達が遊んでるところを二人で見たいなぁ。」

 「そっか。じゃあこっちかな?」

浩之が私に見せたものは郊外の土地のチラシだった。少し離れているけれど、のどかで、いいところだった。

 「仕事も忙しいのに調べてくれてたの?」

 「当たり前だろ?忙しいとか関係ないよ。湊と作る新しい家族のことだからちゃんと考えるし、調べるよ。ここだったら何人でも子供がいても安心だろ?俺は3人は欲しいからさぁ。」

 「え?3人?!いいよそんなに。2人でいいって。」

 「なんで?湊にそっくりな女の子いてみ?俺は頑張って働けるけど?」

 「男の子はいや?」

 「男の子だったら湊の取り合いになるじゃん。」

 「ヤキモチ焼くんだ?」

 「焼くだろ。そうだ!女の子だったら湊がヤキモチ焼いちゃうか?」

 「焼きません。女の子だったらいつか結婚してお嫁さんになっちゃうよ?」

 「それは嫌だなぁ。どこのどいつか知らないけど、絶対嫁になんてやらねぇよ。」

 「何バカなこと言ってんの?自分だってあたしのことお父さんからもらうんでしょ?」

 「それはそうだけど...。」

 「もし、反抗期が来たらどうする?パパなんて嫌いってなったら辛いでしょ?」

 「それは大丈夫。湊にそっくりならならないよ。」

 「それはどうかな?洗濯物分けて洗ってねとかうざいとかキモいとか言われるよ?」

 「なんだよ。そんなことばっかり言って。湊は男の子がいいわけ?」

 「あたしはどっちでもいいよ。浩之との子供ならどっちでも。」

 「ずるいなぁ。そんなこと言ったら俺だって...。湊との子供ならどっちだって可愛いに決まってるだろ?よし。今度の休みにここ見にいこうか?!」

私たちが作る家族。いつか浩之に言われたあの言葉、お前の未来予想図に俺の姿はないって振られたことさえ懐かしい。

あの辛かった日から8年ほど経った今はこんなにも幸せだ。

私たちの未来予想図をリアルに感じられる日が来たんだから。

遠回りした。そのぶん今の幸せがある。きっとそうだと信じてる。


 あの土地もちゃんと見に行った。思ってたよりいいところだった。近所の人たちもいい人で、私たちが見に行った時に出会ったおばちゃん達も歓迎してくれた。

その帰りに婚姻届を取りに役所まで行った。この紙1枚で私たちは夫婦になる。

ペラペラで軽いはずのこの紙は、実は重たくて、責任と覚悟を痛感させた。

 そしてやって来た夏季休暇。タケちゃんと里紗がやってくる日だ。

朝、私たちはあの婚姻届を記入した。書き慣れたはずの名前を書くのに緊張して手が震えた。あと何回、新村と書くのだろう。もしかしたら最後かもしれないと思うと寂しくもなった。

最後、二人で印鑑を押した。あとはあの二人のサインで完成だ。

そうこうしていると、二人がやって来た。

部屋に上がるとすぐに里紗が婚姻届を見つけた。

 「ちゃんと書いてるじゃん。本当に結婚するんだね。」

 「まだ4ヶ月も先だけどね。このタイミングしか二人に書いてもらえないでしょ?」

 「え?なにを?」

 「証人だよ?」

そういうと、少し離れたところにいたタケちゃんまでもが驚いて私を見た。

 「あたし達でいいの?」

里紗が首を傾げながらいうのに対し、私は彼女を抱きしめて言う。

 「他に誰がいるの?あたし達二人のことをよく知ってる人。ねぇ、浩之。」

 「そうだな。なんだかんだお前らのおかげだよ。最初から今まで。」

そして私は、ダイニングテーブルに書面を広げてペンを出した。

 「じゃあ、先に書いて?お願いします。」

 「里紗先に書けよ...。」

 「え?タケが書きなよ!」

里紗もタケちゃんもどちらが先に書くか擦りつけあっている。私も浩之も二人を放置してみた。すると、言い争いに負けたのか、タケちゃんがペンを握って、静かに書き出した。そのあと、里紗にバトンタッチして書き始めた。

 「これ、印鑑いるんじゃん?持ってないけど?」

待ってましたとばかりに浩之が2本の印鑑を差し出した。

 「ほら、これ使って。あ、その印鑑あげるから。記念にして。」

 「本当にヒロは用意周到だな。さすがだよ。」

 「って証人記念とか聞いたことないよ。」

二人とも口々に言いたいことを言うけれど、なんだかんだで印鑑も押してくれた。

出来上がった婚姻届を4人で見た。それぞれに思うところがあったんだろう。誰も何も言わなかった。いや、言えなかった。

 「幸せになれよ...。」

急にタケちゃんが呟いた。

 「そうだよ。あんた達なら大丈夫。」

 「里紗、ありがとう。タケちゃんも、ありがとう。」

 「さぁ、今日は俺らから二人にささやかながらお礼させてもらいますよ。」

浩之が席を立ち、キッチンに向かった。昨日の夜から二人で今日のためにいろんな料理を作った。って言っても私がほとんど作ったんだけど...。

4人で飲んで食べて、いろんな話をした。

今までの思い出話やこれからのこと、今の現状報告まで本当にいろんなことを話した。すごく楽しい時間だった。

用意していたお酒がなくなり、私が買いに行こうとしたとき、浩之が着いていくと聞かなかった為、なぜか4人で買い出しにいくことになった。

近所のコンビニまで4人で行って、いろいろ買い出しもして、マンションまで着いた時だった。

 「おかえり、湊ちゃん。」

私たちの後ろから声をかける人がいた。そう、森崎さんだった。

里紗もタケちゃんもなんだなんだと不思議そうに見つめる。

 「湊ちゃんさぁ、いつまでそうやってフラフラしてんの?結婚するとか言ってさぁ、俺のこと気を引こうとしてさぁ。そんなことしなくても俺は君だけなのに...。」

 「あんた何言ってんの?」

里紗が森崎さんに噛み付いた。

 「何言ってるって?湊ちゃんがいつまでもこの男に騙されてるから言ってるんだよ。俺は湊ちゃんを取り戻すんだよ。」

 「意味わかんないんだけど。あんた湊のなんだってんのよ!!」

 「何って。俺と湊ちゃんは切っても切れない運命だよ。昔からそう決まってたんだ。」

 「違います。人違いじゃないですか?」

浩之が私の前に立って言い返した。

 「人違い?なに言ってんの?違わないよ。間違える訳ないだろ。」

 「どう言うことですか?」

 「出会ってから今まで、湊ちゃんはいつも俺の気を引こうとそうやって違う男と付き合って、見せつける。素直じゃない悪い子だね。8年前だったかな?君が前の会社に入社したときたらそうだ。何もわからず、仕事ができない君を育てたのは誰だと思ってる?同じことを何回も教えて、やっとできるようになった時、客に絡まれて断れない君を体張って助けたのは誰だよ。なのにすぐに男作って...。

それなのに君は俺をつなぎ止めたかったんだよね?それはなんで?本当に好きなのは俺だろ?俺はあの時のキス忘れたことないよ。」

 「何、言ってるんですか...。」

私がやっと発した言葉だった。この人、頭おかしい。

 「湊、あんたどう言うこと?違うよね?」

里紗が私の震える手を握って聞く。

 「とりあえず戻ろう。」

今まで黙っていたタケちゃんが口を開いた。

 「逃げるのか?」

 「逃げませんよ。これ以上続けるようならあなたをストーカー規制法の現行犯で逮捕しますよ。」

そう言って警察手帳を見せつけた。するとそれに怯んだのか森崎さんは黙ってしまった。

その隙をみて、里紗が私の手を引いて部屋に連れて行く。タケちゃんも浩之の背中を押して部屋に促した。

 「湊ちゃん、あと3ヶ月待ってあげる。君の返答次第だよ。」

背中から森崎さんの声が聞こえた気がした。

 部屋に戻って、タケちゃんが言った。

 「湊、どう言うこと?あの人隣の人だろ?ただの隣人じゃないんだな?いつから知ってる。」

口調はただの取り調べだ。警察官のタケちゃんが私を取り調べに入ったようだった。

 「ヒロは知ってたのか?湊の様子で変わったことなかったのか?」

私は気が動転して何も言えなかった。きっと浩之もそうだ。

 「なんで何も言わないんだよ!黙秘か?ここまできて黙秘なんて通用しねぇよ。」

 「タケ、そんな言い方ダメだって...。湊怖がって震えてるじゃん。」

 「里紗は黙ってろ。」

そう言うタケちゃんの声はいつもよりずっと低かった。

 「森崎さんが引っ越して来たとき、湊が言ったんだ。あの人が怖いって。でも、俺はいい人だったから気のせいだって言った。いつもなら誰とでも仲良くできる湊がそんなこというなんてと思ったけど、最後まで聞けなかった。」

 「浩之、お前は湊の何を見て来たんだ。なにしてんだよ!!それはいつだ?!」

 「去年の12月に入った頃。」

 「馬鹿野郎!今もう何月だと思ってるんだ。なんで最後まで聞き出さない?こいつから言う訳ないだろ!!」

 「タケ、言えることと言えないことってあるだろ。無理やり聞き出してどうする?待つのも必要だろ。」

 「甘いんだよ。お前は湊に甘すぎる。それにこれは優しさじゃない。本当の優しさは理由を聞いて、一緒に考えて対処することだった。」

 「俺はただ...。「浩之は悪くないよ...。」

 「湊、お前は何を隠してる。」

私は決めた。こんなことになって、いつまでも隠せるわけがないんだ。

あの人と出会った時から今までの話を包み隠さずに言った。

 「お前、それ...ストーカーじゃないか。」

言い終わったあと、タケちゃんが言った。浩之は何も言わずに抱きしめてくれた。

 「ごめん。本当にごめん。俺、湊にそんな思いさせてたなんて...。俺が悪いんだ。たとえ遠くにいても、お前を守ってやれる方法はいくらでもあったのに。」

 「浩之は悪くない。あたしが悪いの。きっとあたしの態度や言動がいけないの。それに、ずっとあたしは誰かに守られて、自分でどうこうすることができないあたしがいけないの。このままじゃダメだってずっと思ってたけど、結局何もできなかった。あの人が会社を辞めたとき、解放されたって思った。でもそうじゃなかったんだよね。なんでまた出会っちゃったんだろう。どうしたら諦めてくれるの?」

 「大丈夫。湊はそのままでいい。俺らが強くあれば大丈夫。とりあえず明日警察に行こう。それで引っ越そう。早くあの家建てよう。それまで湊は実家に帰りな。タケ、それでいいよな?」

 「そうだな。とりあえずお前も実家に帰れ。それかお前も湊んとこに行けば?家建てるのだってすぐには立たないぞ?」

 そしてその日、タケちゃんも里紗もうちに泊まってくれた。

次の日の警察に行く時もついて来てくれた。タケちゃんがケータイで昨日の音声を録音してくれていて、それが証拠になった。さすが現役警察官だ。

そして、そのあと私だけが実家に帰った。

両親には心配かけたくないので本当の理由は言わなかった。表向きは、家を建てる資金を貯めるために二人で居候させて欲しいと言うと、両親は喜んで部屋を貸してくれた。

荷物は、森崎さんがいない時を見計らって少しずつ運びだした。それまで、カモフラージュとして浩之が住んでいた。

私も、急にいなくなると怪しいと思って週3回、マンションに通った。

完全に引っ越すまで1ヶ月かかったが、ようやく逃げ出せたと思った。

家を出る時、せっかく書きあがった婚姻届を破って、森崎さんのポストに入れて来た。手紙も添えて。

 「婚姻届はこれで無効です。これがどういうことかわかりますよね?でも、私は浩之と結婚できなくてもあなたと一緒になることは決してありません。二度と私の前に現れないでください。私は、私の幸せを壊したあなたを一生許さない。」

これできっと、私たちが終わったと思うはずだ。

私と浩之が引っ越してからは何も起こらなかった。

でも3ヶ月と言った。11月、何かが起きるのか、それとも何も起きないのか。

今の私たちには何もわからなかった。心の隅にいる3ヶ月という期限。

警察も、私の実家と職場あたりを見回ってくれた。何かあったら連絡をくれるはずだ。

両親は、まだ現役で仕事をしている。お父さんは商社マンで出張が多く、母は看護師をしているため、夜勤がある。

あまり家にいないおかげで、私たちはちょっとした新居での新婚生活のシミレーションをしているような気分になった。

お互い心の奥に不安があるとはいえ、この生活を楽しんでいた。

少しずつ結婚式に向けて準備をし始め、土地も仮契約した。

昔のバイト仲間が一級建築士になっていたので、家の設計図を描いてもらい始め、新しい生活に向けて前進していた。

破ってしまった婚姻届はもう一度書き直した。そして里紗にエアメールで送り、証人欄にもう一度サインしてもらい、タケちゃんも家に来てサインしてくれた。

二人とも心配で仕方ないのか、頻繁に連絡してくれる。

私たちは本当にいい親友を持ったと思っている。

そして11月が来た。

森崎さんが言っていた3ヶ月が経った。

しかし、私たちの前に姿を現すことはなく、やっと諦めてくれたんだと思って心の奥の不安は無くなり始めていた。

もうすぐ私と浩之は夫婦になる。一生一緒にいれる。いつか子供が生まれたら、彼と一緒に大切に育てていこう。その子が育ったら、再び訪れる二人の時間を穏やかに過ごしたい。楽しいことや嬉しいことばかりではないだろう。でも、時間が経ったとき、全て笑い話として懐かしみたい。おじいちゃん、おばあちゃんになっても一緒に手を繋いで歩きたい。

それが今の私の夢だ。


 そして、私にとって前からずっと楽しみにしていた日、結婚指輪を見に行った。少しでも安いものがいいと思った私は、気に入ったものを見つけたが、値段に驚き、見て見ぬふりをした。

でも、浩之はそれを見逃してはいなかった。

その指輪を店員さんに出してもらって、彼は私の左薬指につけてくれた。

 「湊にはこれが似合うと思うけど?」

 「これはダメだよ。」

 「なんで?似合ってるのに?もしかして値段を気にしてるの?」

私は何も言えなかった。だって図星だったから。

 「これから一生、湊のこの指に嵌まり続けるものだからこれにしよう。俺だってこれがいい。ほら!!」

浩之は自分の指にも指輪を嵌めて、その手を顔の横で広げて笑った。

 「あぁ、もう二度と外れないなぁ。死んでも外れない。いや、外さないし外させない。これくらいの値段の価値では足りないくらいだって。」

そして強引にその指輪を予約している浩之の後ろ姿はとても楽しそうで、たくましく見えた。

 




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