第9話 偏西風にのって

 あれから私は地元に帰って来た。浩之の事故があって、タケちゃんは証券マンから警察官に転職した。彼は正義の味方になるんだそうだ。きっとタケちゃんなら大丈夫。地元を離れて、おばあさんが住む地方の県警に入った。

 あたしは、仕事を探している最中だった。たまたまハローワークで仕事を探していると、家から近くのクリニックの事務の仕事を見つけた。何も考えずに応募したら、採用されてしまった。仕事関係は人生トントン拍子に進むんだなぁっと呑気に考えていた。

 医療事務の仕事は未経験だし、資格も持っていない。でも、あたし以外の4人の先輩方が優しくて、仲良くて、すごく楽しく仕事ができる環境だった。

 リーダーの小春さん。私たちのお母さんみたいに見守ってくれる。

 とても人のいい、砂羽さん。韓流好きのちーちゃん。ピン芸人みたいにいつも面白いことをしてくれる麻実さん。みんな年上だけど、職場は学校の教室みたいに楽しい。プライベートでも遊びに行ったり、飲みに行ったりした。

いろんな話をした。休みの日のことや恋愛の話、家族の話や子供の話。

小春さんとちーちゃんは2人の子供がいる。

患者さんも面白い人が多く、よく話したりして、人間関係がとてもよく築けていた。

 浩之のことを忘れさせてくれるぐらい楽しく過ごしていた。

月に一回、月曜日の夜診が終わった後、勉強会と言うものがあった。製薬会社の担当者が薬剤や新薬の説明をする会だ。

毎月、その会社は違うが、うちのクリニックで使って欲しいもののプレゼンといったところだ。

街中のクリニックだから星の数ほどある。でもいつか浩之が来るかなぁって物思いに耽る時があったけれど。

 働き出して、半年くらいが過ぎた頃、相変わらず浩之からの連絡はない。

しかし、ある人がやって来た。あたしは会計を出す当番だったので、レセプトコンピュータの前に座って、カルテの入力ばっかりしていたので気づかなかった。

 麻実さんが声をかけていたことは聞こえて来た。

 「初めてですか?保険証お願いします。」

 「はい。」

 「問診が2枚ありますのでお掛けになってご記入お願いします。」

そういってカルテを作っていた。

私は帰って来たカルテをひたすら入力して、会計窓口にいる砂羽さんに会計を流す。

すると先ほどの新患さんの保険証のコピーを持って来た麻実さんが私のところにやって来た。

 「ごめん湊ちゃん。これ新規登録してくれる?」

そういってコピーを差し出した。

 「オッケー。そこ置いといてください。」

そういって、とりあえず今入力中のカルテを捌いてからコピーを見た。

保険者名が正岡結太だった。まさかこんなところにいるはずないし、来るはずもない。同姓同名だって思った。でも、生年月日までが一緒。そう思えば思うほどフリーズする。

「問診、これでいいですか?」そう声が聞こえたので受付を見た。

やっぱり、彼だった。目があってしまった。驚き過ぎて目線が外せなかった。

なんでここを知ってるの?私の実家も知らないはずなのに。

そんなことを考えていても仕事は溜まる。そんな私に診察室から帰って来た大量のカルテを抱えた小春さんが声をかけた。

 「湊ちゃん?どうしたの?カルテ帰って来たけど大丈夫?」

そこで、我に帰れた。「大丈夫です。」そういって私は業務に戻った。

入力チェックをしていたちーちゃんが私の異変に気付いた。

 「どした?あの人知り合い?同級生?」

 「違う。知らない。」

 「おぉ?一目惚れか?」

 「しません。」

 「おかしいなぁ...。明らかにおかしい。」

そういってずっとからかって来る。それを無視していたが、明らかにミスが続いた。

 「湊、マジでどうかした?めっちゃ間違ってる。」

それからちーちゃんが私のミスをずっと訂正してくれていた。会計の砂羽さんに訂正を流してくれていた。

小春さんがとうとう私に「ちょっと事務所で休憩しておいで。」そういってポジションを交代された。

動揺しているのが隠しきれないのは事実。事務所に行こうと受付を出て、エレベーターの前に立っていたとき、レントゲンを撮り終えた結太くんに鉢合わせするように出会った。

無視して行こう。そう決めた。でも彼はそうさせてはくれない。

 「湊、待って!もう一度話したい。」

 「私は話すことない。なんでここ知ってるの?もう来ないで。」

 「今、湊は幸せか?」

そういって来た途端に診察室から結太くんが呼ばれた。

 「呼ばれてるよ。早く行きなって。」

 「わかってる。でも、これだけ答えて。」

何度も呼ばれている。そうしていると小春さんが来た。

 「正岡さん。右側の1診までどうぞ。」

そういって案内されていった。私はとりあえず事務所に向かい、一口コーヒーをを飲んでから仕事に戻った。

 ポジションに戻ると、みんな心配そうに私を見ている。私は笑顔でいなきゃいけない。

 「すいませんでした。もう大丈夫!!」

すると麻実さんが言った。

 「元彼か?そうでしょ?」

そう発した言葉にフロント内の空気が凍りついた。

 「まあまあ。人それぞれいろいろあるよねぇ。」

そうちょけて言った私は痛々しく見えているだろう。

 「でも、ここまで来る?」

ちーちゃんはちょっと怒っている。

 「でも、あの子も必死なんだね。あの答え、ちゃんと答えてあげなさい。あの子を解放すると思って。」

 そう小春さんが言った。

 「でも、もう関わるのが怖いんです。」

 「それでも、ちゃんと伝えてあげなきゃ。」

 「小春さん。あの答えってなに?」

 「あんたたちはもういいから。ほら!!砂羽ちゃん早く会計しなさい。」

そう言ってとりあえずは収集がついた。

 診察が終わり、リハビリを待っている結太くんの視線が痛い。

診察時間も終わり、私の仕事も落ち着いたので、麻実さんとレセコンのところで雑談をしていた。

 「ねぇ、正岡さんめっちゃ湊ちゃん見てる。」

 「知ってる。視線痛い。」

 「もしかして着けられてる?ストーカー?」

 「違うって信じたいんですけど。」

 「でもおかしくない?職場言ってないんでしょ?」

 「うん。」

 「やばいじゃん。私が投げ飛ばしてやろうか?」

学生時代から柔道をしていた麻実さんが言うとリアルすぎる。

 「それこそやばいって。マジで骨折れるかも。傷害事件になるよ?」

そう言って笑い飛ばした。そんな話をしていたら、彼はリハビリの先生に呼ばれて行った。

 私と麻実さんの休憩時間になったので、二人でランチに行こうとクリニックを出たところで、結太くんも出て来た。

 「湊!さっきの答え聞かせて。」

麻実さんと自転車で行こうとした時に大きな声で呼び止められた。

 「湊ちゃん。一緒にいようか?」

そういう麻実さんに「大丈夫、先行ってて。」と伝えた。

麻実さんは心配そうにしていたけど、その場を去って行った。

 「結太くん。もう来ないで。私、今すごく幸せ。」

 「中村浩之。あいつだろ?お前の忘れられない人って。」

 「ねぇ、なんで知ってるの?病院にも来たんでしょ?」

 「あいつ、湊のこと忘れてるらしいな。」

 「それが何?関係ないでしょ。」

 「そんなやつ、もう忘れろよ。お前言っただろ?俺に幸せになれって。」

 「だから、それが何?いつか思い出してくれる。私は浩之を信じる。」

 「一生思い出さなかったら?俺は、お前がいたら幸せだよ。」

 「結太くんには他にもっといい人がいる。もっと幸せになれる。だから、私のこと早く忘れて。」

 「あいつはダメだ。それに勝手に仕事も辞めて、どうなりたいんだよ。」

 「結太くんには関係ないでしょ。どうなりたいって、自分でもわからない。でも、浩之が幸せになるならそれでいい。あたしの運命だって思った人が幸せなら、あたしは一人でも生きていける。それがあたしの幸せなの。だからもうほっといて。」

 「ほっとける訳ないだろ!!いつまでそんなこと言ってるんだよ。もう子供じゃないんだからいつまでも夢見てんなよ。今が現実だろ?目を覚ませって。俺は、お前が一人で生きていけるとは思わない。諦めないって言っただろ?それに、いつも強がって、どうせ一人で泣くんだろ?そんなのほっとけねぇよ...。」

そう言って私を抱き寄せる。自転車を持っていた私は抵抗できない。

 「離して。やだ。もう触らないで。」

 「やだ。離さない。」

 「本当にやだ。それに、ここではやめてってば!!」

一向に離してくれない結太くんを誰かが引き離した。

 「ちょっと、彼女嫌がってません?」

そう言って引き離した人は、うちのクリニックに出入りする製薬会社の担当者の岡田さんだった。

 「新村さん。大丈夫?」

 「はい。ありがとうございました。」

 「誰?湊の何?」

 「なんでそんな言い方すんの?うちの業者さん。製薬会社の岡田さん。」

 「どうも。君さぁ、女の子には優しくしないとダメだよ?嫌がることはしちゃダメだ。そうだ、院長先生いる?」

岡田さんは何も追求しなかった。爽やかに笑って注意してくれた。

 「多分、休憩時間なんでスタッフルームにいると思います。」

 「そっか、今月の勉強会うちがするんだよね。その打ち合わせがしたくて。でも、新人がするから今日挨拶させたくてさぁ。」

 「そうですか。あたし、院長いるか見て来ます。」

 「うん。ありがとう。あっ!その前に、中村!!ちょっと。」

少し離れたところにいた彼を岡田さんは呼び寄せた。

 「うちの新人。俺が教育係なの。よろしくね。」

 「中村です。よろしくお願いします。」

そう挨拶した人は浩之だった。驚いて言葉も出ない。

 「湊、俺、また来るから。とりあえず今日は帰る。」

そう言って結太くんは帰って行った。

 「新村さん?やっぱ俺ら直接行こうか?」

岡田さんは私を気遣ってくれた。

 「あっ。すいません。大丈夫です。えっと、新村です。えっと、院長見て来ます!!」

そう言って走ってスタッフルームまでとりあえず逃げた。

 

 院長は、やっぱりスタッフルームにいた。岡田さんが来ていると伝えると駐車場で会うとのことだったので、二人を案内した。でも、私の心はドキドキと音を立て、浩之に聞こえているんじゃないかと思った。

 浩之に、さっきの見られたよね?本当最悪。今日はきっと大殺界なんだ。そう思って早く逃げようと思った。

 「院長すぐ来ますんで、ここで少々お待ちください。」

 「新村さんありがとう。今日は院長の機嫌いいんだね。」

うちの院長は機嫌が良くないと来客に会わない。うちに出入りする業者さんはみんな知っている。

 「そうですね。いつもすいません。では、失礼します。」

そうだ、私、麻実さん待たせてるだ。めっちゃ時間経ってる。急いで自転車置き場に行こうと思った時、挨拶してから何も言わなかった浩之が口を開いた。

 「新村さん。菅野が帰って来る日、タケもこっち帰って来るから。」

 「えっ?その日、里紗帰って来るの?」

 「なになに?二人もしかして知り合い?!」

岡田さんはそれは驚いている。すると浩之が答えた。

 「高校の同級生です。当時は結構仲よかったですけどね。」

次はあたしが驚く番だ。

 「思い出したの?!あたしのこと!!」

おもわず大きな声が出た。すると背後から声が聞こえて来た。

 「何を思い出したって?なんの話?」

そう言って院長が出て来た。

 「先生。ご無沙汰しております。」

 「岡田くん、久しぶりだね。この前の薬よかったよ。」

 「それはよかったです。次の勉強会なんですが、うちの新人に任せたいと思いまして、今日は挨拶に来させていただきました。」

 「中村と申します。よろしくお願いいたします。」

浩之が名刺を差し出し、院長も名刺を差し出した。

 「君がうちの新村さんと知り合いなのか?」

 「はい。高校の同級生です。」

 「世の中は狭いな。まぁ、これから頑張って。」

 「ありがとうございます。」

 「じゃあ、これから僕、出ないといけないから。これで失礼するよ。」

そう言って院長は車に乗り込んで、出かけて言った。

 「新村さん、俺らこれから昼ごはん行くけど一緒にどう?」

岡田さんがランチに誘ってくれた。

 「えっ?お昼、あたし麻実さん待たせてるんだった!!あたし、もう行きます。」

 「湊!遅いよ!!ランチ終わっちゃったよ。」麻実さんが戻って来た。

 「麻実さん。すいません。別のところに行く?」

 「はい?あたしもう食べて来たし。」

 「ですよねぇ。」

 「じゃあ新村さん、やっぱり俺らと行く?」

 「岡田さんじゃないですか!もしかして今度の勉強会のことですか?」

 「そうだよ。麻実ちゃんもうお昼済ませたんだ。残念だなぁ。」

 「じゃあお茶します?」

 「どっかいいとこある?」

 「ランチ終わったけど、マスターが余ってるって言ってたし、行きますか?」

 「いいねぇ。そこ行こうよ。」

 「じゃあ行きましょう!って後ろの人は?」

 「うちの新人くんだよ。今度、あいつに勉強会してもらうの。」

 「えぇ!もしかして岡田さん異動ですか?!」

 「いや、ただの教育係だよ。」

 「あの、中村です。よろしくお願いします。」

浩之は気まずそうに微笑みながら麻実さんに挨拶した。

 「田中麻実です。よろしくね。じゃあ行きますか!!」

本当に行くんだ。なんか変な組み合わせだなぁっと思いながら近くのカフェに向かった。


 「新村さんと中村って昔、そんなに仲よかったの?」

カフェのマスターにお願いして、余ってたランチを出してもらった。それを食べていたら急に岡田さんが質問して来た。

 「そうですね。」

私は何をどこまでいえばいいのか分からず、黙っていたら、浩之が答えた。

 「中村さんと湊ちゃんって知り合いなの?」

そうだ、麻実さんは何も知らなかった。

 「高校の同級生です。仲が良かったってあたしは思ってますけど。」

 「何その言い方。中村さんに失礼でしょ。」

 「だって...。」

 「まあまぁ。どうせ中村が何かしたんでしょ。こいつ、絶対モテたでしょ。」

 「それはもう。女子生徒の高嶺の花でしたから。」

 「だよねぇ!でも彼女いたんでしょ?なぁ中村?」

岡田さんは何も知らない。麻実さんだって知らない。あたしは覚えている。浩之は覚えていない。少しの沈黙が永遠の時間のように感じた。そんな沈黙を破ったのは浩之だった。

 「高校生の時は彼女いませんでしたよ。」

 「マジかよ。本当はいたんじゃないの?実は新村さんだったりして。」

そう笑いながら言う岡田さんに少しイラっとした。

 「俺にはずっと好きな人がいました。卒業してからその人と付き合いましたが、別れました。でも、覚えてないんです。」

 「なんで覚えてないの?普通は忘れないでしょ。」

麻実さんは呆れている。それもそうだ。青春の甘酸っぱい思い出を忘れる人なんていない。

 「ちょっと待って。ヒロもいろいろあったから...。忘れたくて忘れたんじゃないよね?」

 「実は、今年の1月に事故にあったんです。それもどこで何をしていたか分からないし、何を思っていたのかも正直覚えてません。いつか思い出したいって思いますけど。」

浩之は、私の目を見て言った。いつか見た、彼の決意を含めたような目。

 「そっか。結構大きな事故だったんだね。もう大丈夫なの?」

麻実さんは、ちょっと申し訳なさそうに言った。

 「記憶以外は大丈夫です。体ももう普通に生活できるようになりましたから。」

 「でもさぁ、なんで忘れてるのに好きな人がいたってわかったの?」

岡田さんは、純粋な疑問をぶつけた。

 「それは、幼なじみと新村さんが教えてくれました。高校生だった時の記憶って俺にとって絶対必要じゃないかって、楽しかったと思うんです。」

 「そりゃ一番楽しかった時だろ。俺だって高校生の時はすっげえ楽しかったぞ。彼女の一人や二人くらい...。ねぇ、新村さん。」

 「えっ?!ってかそろそろ時間、大丈夫ですか?」

カフェに入って一時間くらいが経つ。私と麻実さんは夜診まで休憩だけど、彼らは営業マンだ。

 「やっべ!次アポ入れてるんだった。そろそろ行くか!!」

岡田さんが少し焦りながら席を立った。すると浩之が、「湊の分、俺が払うから。」そう言って、岡田さんを追って行った。

 「ヒロいいって。自分で払うから!」

 「いいって、いろいろお世話になったお礼。少しだけ返させて。」

 「ってか、今、名前呼んでくれたよね?」

 「えっ?昔から湊って呼んでたんだろ?」

そう言って笑う浩之の笑顔は、大好きだったあの笑顔。別れてから初めて私に向けられた。

 「じゃあ、また今度。」

そう言って、私の頭を撫でて、颯爽と去って行った。

記憶がなくても、私の頭を撫でるくせはそのままで、私は何も言えなかった。

 「バカ...。」

そう呟いた声は、誰にも聞こえず風に流されて行った。

 

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