第7話 積もる雪と気持ち

 病院を出た私は、すぐに結太くんのマンションに向かった。今日は休みだった気がする。近くまで着いたところで連絡していない事に気がついた。とりあえず行ってみよう。最近は連絡も返していなかったが、彼はきっと居るそう思った。

 彼のマンションに着いた。インターホンを鳴らしたが返事がない。連絡しようとスマートフォンを取り出したところで声をかけられた。

 「湊?どうした?」

後ろを振り向けば、コンビニ袋を手にした結太くんが驚いた表情で私を見ていた。何か言わなきゃと思ったけれど、声が出ない。

 「湊?大丈夫か?って大丈夫じゃないよな。」

そう言って優しく抱きしめてくれた。私はその手を振り払わないといけない。でもできない。心と身体がチグハグで頭の中が真っ白だ。彼は私の手を取って、自分の部屋まで連れて行ってくれた。

 部屋に着くと、ソファーに座らせてくれ、コーヒーを出してくれた。

 「また何か嫌な事言われた?」

私は首を横に振った。

 「じゃあ何?」

彼は小さな子どもをあやすように優しく話しかけてくれる。

 「なぁ?もう俺とずっと一緒にいよう。これ以上お前のそんな顔見たくない。知ってる?お前の笑顔って周りの人を幸せにするんだよ。俺はその笑顔を守りたい。一生、必ず守る。だから、俺と結婚しよう。」

 私はこれから、こんなに優しくて、包容力もある素敵な人の心をメッタ刺しするかの如く、傷つける。そう思ったら涙が溢れて止まらない。ダメだ。私が泣いちゃだめなのは分かってるけれど止まらない。何か言わなきゃ。そう思えば思うほどに涙が溢れる。

 「ご、めん、なさい。」

やっと出た一言は何を言っているかよくわからなかった。

 「湊、俺らの始まりは確かに好きとかそういうものではなかった。ちゃんと言葉にしたこともなかった。それは言葉にすれば消えてなくなると思ったからで。でも、俺はお前が好きだ。愛してる。ここで結婚して湊が仕事を辞めたって逃げた事にはならないよ。頑張ってる事は誰だって知ってるから。」

 「ごめんなさい。本当にごめんなさい。私、結婚できない。今日だって、終わらせようと思って...。」

 「え?別れるって事?なんで?理由ちゃんと言って。」

結太くんの声が1オクターブ下がり、少し恐怖を覚えた。

 「私、やっぱり、彼が好き。結太くんも確かに好きだった。でも、やっぱり浩之には敵わなかった。だから...。」

 「やり直すのか?」

 「やり直さない。でも、今は彼のそばにいたい。浩之が事故にあった。それから私の事だけ覚えてないの。彼の中から私だけすっぽり抜け落ちた。その時思った。私はやっぱり彼が好きだって。

 「忘れられたのに?なんで好きだと思う?お前最近疲れてる。だから思考回路おかしいんじゃないか?」

 「おかしくない!私は、私は、気づいただけ。目が覚めただけ。」

言ってから気づいた。今のは言ってはいけない言葉だって。

結太くんが見られない。思わず下を向いていたが、結太くんの視線だけが突き刺さる。

 結太くんは私の右手をおもむろに掴んで立ち上がった。そのまま引きずられるように寝室のベットに押し倒された。

 「目が覚めた?何言ってんの?振られた相手に記憶なくされたのに目が覚めたってどういうこと?お前今、夢見てんだよ。ここで目を覚ませ。」

そういうと、私の顎を掴んでゆっくり顔を近づけてくる。唇が触れそうになった時、まぶたを強く閉じた。

それに気づいた結太くんは、キスするのを辞めた。そして今までで一番力強く私を抱きしめた。

 「俺のこと、捨てるの?」

力とは裏腹に、悲しそうに、切なげに訴えてくる。

 「俺、諦めないよ?」

 「ごめんね。私、結太くんに、答えられない。でも、結太くんには幸せになって欲しい。」

 そう言って、結太くんを突き放して部屋を出た。

一方的だって分かってる。でも、私はずるい。はっきりと言えなかった。嫌いになってもらうくらいの気持ちで行けなかった。

 マンションを出て駅に行こうとした時、頭の上から声が聞こえてきた。

 「湊!俺は諦めないからな!!お前がなんと言おうと俺が幸せになるにはお前が必要だ!!さっきお前は幸せになれと言ったから、俺は湊と幸せになる!!」

 結太くんが叫んでいる。でも、もう振り向いちゃダメだ。

私はそのまま一回も結太くんを見ることもなく駅まで歩いて行った。


  家に着いた私は、退職願いを書いた。地元に戻ろう。そう決意した。

ただ先のことは何も考えていない。バカみたいな話だけど、何もかも捨ててでも浩之と一緒にいたい。それが自分で決めた未来だ。拒絶されたって絶対後悔しない。何もしないほうが後悔するから。

 翌日さっそく課長代理に渡した。特に何も言われなかったが、部長室に呼び出された。しかし、私の決意は固い。ただただ早く帰りたいという気持ちだけだった。人材不足は百も承知だったけど、とりあえず3月まで働くという条件で話はまとまった。今は1月、帰れるまであと2ヶ月だった。

 私は休みのたびに浩之のところまで足を運んだ。私のことを思い出す様子は全くない。もう無理かもしれないと毎回思う。でも、私は私の心に負けない。いや、負けるわけにはいかないんだ。

 タケちゃんも休みの時は顔を出しているらしい。ただ、会うことが無かった。

この日も休みだった私は、彼のところにまで足を運んだ。私の記憶以外順調に回復している彼は一般病棟に移っていた。病室に着くと先客がいた。彼の大学の同期たちだった。

 「湊ちゃん!待ってたよ」

その場にいた彼のお母さんが私を呼び寄せてくれた。

 「あの、私、ちょっと席外しますね。」

 「いいのいいの。あなたはここにいて。私も湊ちゃんに話があるから。」

そう言われ、私はお母さんの近くに行った。

 「ヒロ、湊ちゃん来てくれたよ。」

そういうお母さんに彼はまたかよ、っとため息をひとつこぼした。

 「あんたねぇ、バカも休み休みしなさいよ。せっかく来てくれるのに。」

 「もしかして君がこいつの?」

同期の一人の方が目を見開いて私を見る。よくわからないが、とりあえず挨拶してみる。

 「新村 湊です。私は、高校のときに一緒だったんです。」

 「そうかそうか。浩之よかったなぁ。戻って来てくれたんだ?」

 「はぁ?お前なに言ってんの?ってか俺知らねえし。」

 「え?お前こそ何言ってんの?知らないことないだろ?お前の忘れられない人ってこの子だろ?」

 「俺、そんな人いないよ?」

 「はぁ?お前、告白されるといつも言ってたじゃん。元カノ以外興味ないって...。」

 「だから、知らないって。そんなこと言ってた?!」

あぁ、まただ。今日はなんかきついなぁ。心がズタズタになりそう。そう思っていたとき、お母さんが口を開いた。

 「ごめんなさいね。このバカ、一番大事なこと忘れちゃって。まだ思い出せないの。」

 彼の同期の子達はみんな言葉を失った。

 「私のことは気にしないでください。分かってますから。私は大丈夫なんで。」

そう言うと、彼らは何かを察したように提出課題の話を始めた。

 「湊ちゃんごめんね。あのバカまだ思い出せない見たい。でも最近、剛史くんと昔の話してる時、たまに頭が痛いみたいで、記憶の断片はあると思うの。」

 お母さんはそう言ってくれた。そんな話をしていたら、タケちゃんがやって来た。

 「ヒロ!生きてるかぁー!!」

そう大きな声で入って来た。なんて不謹慎なやつ、そう思っていたら、私を見つけたタケちゃんはおもむろに私を睨みつける。

 「湊、お前、ちょっと来い!」

そう言って私の手を掴んで病室から引きずり出された。

 「ちょっと、痛いってば。離して!なに急に...。」

 「湊、お前、結婚するのか?」

ちょっとなに言ってんの?意味がわからない。

 「お前、婚約者いるんだってな。なのにどう言うつもりだよ。なんで言わなかった。」

 「剛史くん。ちょっと落ち着きなさい。みんなに聞こえてるから。」

そう言いながら浩之のお母さんがやって来た。

 「なんとか言え。おばさんだって気になるだろ?!」

 「剛史くん、だからってそんな言い方はよくない。湊ちゃんには湊ちゃんの人生がある。剛史くんには剛史くんの。浩之には浩之の、それぞれの人生がある。これから先、長い年月を生きないといけないの。それを決めるのは自分自身でしょう。違う?」

そう言ってタケちゃんを宥めてくれた。

 「タケちゃんが何を誰から聞いて、何を信じてるか分からないけど、私はそんな人いない。」

 そう言うと、タケちゃんは1枚の名刺を差し出した。

 「この人、お前の婚約者だろ?先週ここに来たよ。これ以上、湊を巻き込むな。そう言って帰って行った。」

 名刺には、正岡 結太と書いてあった。

 「なんで?どうしてここを知ってるの?ここの事何も言ってないのに。」

 「とりあえず、誰?」

 「本当は、浩之がこんなことになるまで付き合ってた。あの日、浩之と向かい合うと決めた時に、別れた。」

 「じゃあなんでこうなってんの?」

 「わかんない。全く仕事がうまくいかなくて、ずっと悩んでた。それを結太くんは知ってた。年末くらいに一回、仕事辞めて一緒に暮らそう。そう言ってくれたけど、断った。彼との未来なんて全く見えなかったから。それから連絡するのも躊躇するようになってた。浩之が事故にあった日にようやく目が覚めた。あたしは浩之と一緒にいたいって思ったから、病院から出た足で、彼のところに行った。なんて言えばいいのかと思ってたら、プロポーズしてくれた。でも、あの時ちゃんと断った。こんなことになってるなんて思わなかった...。結太くんには幸せになってほしいって思ってる。でも、それは、あたしではできないって言ったの。正直、付き合い出したのだって、お互いが振られて、忘れられなくて、寂しくて、その時隣にいたから利用した。それがきっかけ。最低でしょ?結局また結太くんは傷ついたんだもん。きっと、自己中な私に神様が罰を与えてるんだよ。」

 私はもう、全て話した。タケちゃんには軽蔑されると思って言えなかった。わがままで、自己中心的な考えはただの甘えだって分かってる。

 「湊、なんで今まで言わなかった?どうせお前のことだから嫌われるとか、軽蔑されるとかそんなくだらない事思ってたんだろ。本当にバカだなぁ。ちゃんと理由もその結太くんにも言えてないんだろ。」

 「私はちゃんと言った。でも、正直あたしはそんなに愛されてると思ってなかった。確かに好きな気持ちはあった。でもそれは所詮、利害関係が一致した恋愛ごっこだと思ってた。」

 「バカ、本当にお前バカ。どうしようもないくらい鈍感で、どうしようもないくらい自分のこともわかってない。お前、昔から結構マニア受けいいんだよ。知ってた?自分が思ってる以上にそこそこ可愛い方だし、人当たりもいい方だし、だからちょっとはモテるの。わかってる?そりゃあ最初は利用してただけかもしれない。でも、男は単純なもんだから、好きになっちゃうんだよ。3年ってお前なぁ、それは愛にだって変わる。」

 「うん。そうだね。でもね、もうあたしは連絡しないって決めた。会いもしない。あたし、ずるいの。」

 「湊ちゃん。浩之がなぜあなたを振ったのか私にはわからない。だから、あの子には結太くんのことは関係ない。だってそれは浮気じゃない。だから私は、あなたは悪くないと思ってる。だから、あなたが浩之のことを思ってるなら応援する。」

 そう言って私の頭を撫でてくれたお母さんの手は、浩之の手と同じ暖かい手だった。

 「あたしは、今まで、愛してるって思った人は、ヒロだけです。」

 「あぁーあ。結局ノロケかよ。本当にお前らめんどくせぇわ...。」

タケちゃんが、呆れながらも笑っている中、私は恥ずかしくなって、俯いた。

 「そんなこという剛史くんだって彼女と仲良くしてるんでしょ?!」

 「おばちゃん...。俺のことはほっといて...。」

お母さんの突然の口撃は、タケちゃんを一発KO負けにさせた。


 3人で話をしていると、浩之と、大学の同期たちが出てきた。もう、帰るみたいだった。軽く挨拶を交わして帰っていくのを見送った浩之は、私たちのところにやってきた。

 「なんか楽しそうだな。なんの話してんの?」

そういう浩之は、私が大好きでたまらなかった頃と同じような笑顔だった。

今まで何度も面会に来ても、私の前で笑顔を見せることは無かったのにタケちゃんや、お母さんの前では笑うんだ。そう思えば思うほど、寂しくて、私だけが受け入れられてないと痛感させる。

もし、私のことを覚えていてくれたら?そんなことを考えてしまう。

彼の笑顔は、私の心に棘が刺さったかのようなチクチクするような痛みを残した。

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