第2話 雨はやむことを知らない
20歳の誕生日、私は1人見知らぬ土地にやって来た。今日から大人だ。すべての行動の責任は自分で取る。守ってくれる人は誰もいないんだ。
働いて働いて忘れよう。新しい日々が始まった。
私が配属されるスパ・フィットネス課は、フィットネス部門とスパ部門とキッズクラブ部門とホテルショップ部門が1つになっている。
わたしはフィットネスのインストラクターとトレーナーとしてメインで働くが、ホテルの事もしなければならない。それに、会員様や、宿泊客、その日だけのビジター様がやって来る。そんなお客様を楽しませるイベントも良くある。スパにはエステもマッサージも委託会社が入っている。キッズクラブは託児所や一時預かり、習い事教室、様々なイベント。ホテルショップは孤立しているが、ヘルプがいることもある。
そういうことをしていく一番忙しい部署だった。
入社日4月1日から一ヶ月は、他の総合職の同期達と人事部預かりで研修を受けるはずだったが、私はフィットネスの専門職で人の手が足りないとの事だったので、一ヶ月早い3月に入社し、即日配属となった。
実際、莫大な仕事量で、目が回るかと思った。仕事を覚えるのも一苦労。
大変なところに来てしまったと思った。
住めば都と言うけれど、都会で育った私には田舎という壁と、家族や友達や知っている人がいないという孤独は大きな問題だった。ホームシックになったことが無かったのに、2日で根を上げそうになった。でもこんなにすぐに辞めて帰ってしまえば、彼の思いも、私の決意も全て意味を成さなくなってしまう。そんな思いでひたすらに耐え、働いた。
唯一の救いは、職場の上司や先輩がとても良い人達で、20歳の誕生日が初出勤の日と被っていたので歓迎会と誕生日会をかねて小さなパーティーを開いてくれた。そして、不安でいっぱいの私を心配してくれ、休みの日には遊びに連れていってくれたり、家に招待してくれたり仕事でもプライベートでもたくさん面倒を見てくれた。
恋愛にうつつを抜かしている暇すらなかった。春休み、ゴールデンウィーク、夏休みには繁忙期を迎えた。当然の事ながら私の職場は稼ぎに稼ぐと同時に休みはほぼ無かった。2日連続遅刻した日には怒られるどころか心配されたほどだった。
そんな日々の中、彼の事を忘れられると思っていた私は甘かった。お客様としてやってくるカップルを見るとフラッシュバックしてくるあの日々が、私の心に雨を降らすのだ。
今、浩行は何をしているのかな?誰と過ごしているの?彼女は出来た?
悶々と過ごしているのにも限界がやってくる。ある日を境に私のキャパは越えてしまった。
返事が来ることはないと分かっていながらメールをしてしまった。0.1%の確率に賭けてみたくなったのだ。
やはり、来る日も来る日も返事が来ることは無かった。
そんな事を繰り返しているうちに、季節は秋の足音が聞こえようとしていた。
そんなある日の事だった。一人の男子大学生がバイトとしてやって来た。
彼は2回目の大学4年生だった。単位を何個か落とし、夏までに卒業必要単位を取ったのち残りの学生生活はバイトしようと思ったそうだ。
就職先は大手旅行代理店に内定していたため、リゾートホテルのうちのホテルにやって来た。
上司は、即採用したそうだ。
私の所属のスパ・フィットネス課としたら猫の手も借りたいくらいの忙しい部署。
課長が欲しいと名乗り出たのだ。
そんな経緯の持ち主、正岡 結太。私の3歳年上だった。
課長は、私を指導係として選んだのだ。
理由は年が近いからだった。
繁忙期を3回も越えてきたから大丈夫。仕事内容とホテルの事を教えてあげて欲しいとの指令どうり行動を共にし、1ヶ月間いつも一緒にいた。
その間、いろんな話をした。仕事の事、友達の事、家族の事、恋愛の事。
すっかり意気投合した私たちが、仲良くなるのは必然の事だった。
気がつけば、仕事だけではなくプライベートでも一緒にいた。
お互い同じ時期に大切な人と別れ、立ち直れず、寂しい思いを胸に抱いていた。
その寂しさや虚無感を少しでも忘れるために利用しようとした。
恋人ではなく、かといってセフレのような身体だけの関係ではなく、友達以上恋人未満。
ただ、私たちの関係はすごく脆いもののような危うさがあった。
愛をささやき合うことはない。そういうことを言えば終わってしまうと思う。
そんな一ヶ月だった。
彼が一人立ちし、業務も別々になってからも関係は変わることはなかった。
休憩が被れば一緒にカフェテラスに行ったり、上がり時間が近ければ一緒に帰ったりしていると、みんな何も言わなかったが、シフトを一緒にしてくれたりした。
ある日、人事異動があった。私が入社してからたくさんの事を教えてくれた先輩が異動してしまったのだ。森崎先輩は無愛想で怖い顔をしていて取っつきにくい人だったけど、同じ質問をしても何度も諦めず教えてくれた。苦手だったけど彼なりの優しさで接してくれた。
そんな森崎先輩が一人のフィットネス会員のお客様とトラブルを起こしてしまったのだ。
突然の事でみんな驚き、課長はすぐに先輩を手放した。
部署が変わっても、バックスペースで会ったり、カフェテラスで会ったりして顔を会わせる事がよくあった。最初は部署の情報交換をしたりしてよく話していた。
正直、異動してからの方が話す機会があったような気がした。
そんな日々を過ごしていたら、徐々に森崎先輩の態度が変わってきた。
最初は、手を繋ごうとするくらいだった。カフェテラスでは結太くんがいたからしてこない。
なんだろう?とは思っていた。でも徐々に手が腰に変わってきた。さすがに不信感を覚えて、結太くんに言うと、今まで以上に一緒にいてくれた。森崎先輩の部署に行かなければいけない時はできる限り代わりに行ってくれたりして、遠回しに少しずつ避けるようになった。
しかし、それが逆効果だったのかもしれない。
「なんで連絡くれないの?最近避けてるでしょ?」
たまたまバックスペースで顔を合わせてしまった時に声をかけられた。
本能で逃げないといけないと脳が警告しているけど、強張った身体は動かなかった。
とっさに出た一言はうまく声にできずにかすれてしまった。
「避けてないし、連絡することありません。」
きっとこれがいけなかったのかもしれない。森崎先輩は私の手首を掴み、壁に縫い付けた。
「正岡くんとは仲良いのにね。別に俺2番目でもいいよ。誰のために異動したと思ってんの?」
それだけ言って森崎先輩は去っていった。
それから私は、仕事を辞めて実家に帰ろうと決意した。
早速課長に辞意を伝えた。もちろん課長は豆鉄砲をくらった鳩のような顔をして驚いていた。
理由を聞かれても、本当の事は言えない。私はただ、子どものような言い訳を重ねるしか出来なかった。
「もう限界なんです。実家に帰りたい。」
そう言うと「石の上にも3年と言うだろう。新村はまだ半年しかたってない。社会人として半人前のお前が今辞めてどうするつもりだ?俺に任せろ。一人前の社会人として認めたら辞めさせてやる。そのときはお前の背中を押すから。」
結局辞めさせてはもらえなかった。当たり前だ。課長の言っていることは正論で、ただただ私自身が子どもなんだと言われているようで、惨めだった。
森崎先輩のことは私自身でなんとかしよう。そう思い直した。
それからといえども、どうすればいいのかは分からなかった。
結太くんは課長から私の事を聞いたみたいで、彼なりに心配してくれた。彼は本当の理由に心当たりがあるからだ。
しかし、あんなことを言われたたらこれ以上頼れない。彼に何かあったらどうしようという思いが私の心を支配する。
それに、一番に助けて欲しいと思ってしまったのは浩行だった。
今一番近くにいる結太くんより浩行の声が聞きたい。きっと彼は今の私の心に一番の栄養をくれる。涙は拭いてくれなくても、手を伸ばしてくれる。
そう思った私は浩行に電話をかけてみた。万にひとつの思いだった。
やっぱり出てくれる事は無かった。
私が浩行に想いを馳せていても、現実は変わらない。
働いていれば出会う森崎先輩。利用し続けている結太くん。だんだんこんな自分に嫌気がさしてくる。でも一人になるのが怖い。負のスパイラルだ。なんでこんなことになったのか?考えても分からない。
こんなことになる前は、すごく充実した日々だった。
忙しいが楽しかった仕事も、先輩方と過ごすランチタイムも、結太くんと過ごす毎日も。
今は何をしていても楽しくない。視線を感じるだけで怯える日々。
もう、何もかもが嫌だ。
それでも、森崎先輩の手が緩むことはなかった。
あの日以来、私の事を威嚇することは無かったが怖くなるくらい優しい。
何を考えているのか分からない。私の仕事がしやすいようにサポートしてくれいたり、私を見つけても柔らかな笑顔を向けてくる。カフェテリアでも相席することは無くなった。
結太くんでさえ「もう大丈夫。きっともう諦めたんだよ」と言ってくれていた。
安心しきっていて警戒も溶け始めたときだった。
私の社員寮の部屋で、結太くんと一晩を過ごした時の朝、カーテンを開けたときだった。
3階だった私の部屋の下に見覚えのあるバイクを見つけた。
そう、森崎先輩のバイクだ。でも彼はいない。とっさにカーテンを閉めた。
「なに?どうしたの?」と窓際までやって来た結太くんがもう一度カーテンを開けた時、バイクを見つけた。もう私は窓の外は見られなかったが、彼は私を咄嗟に抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だから。」と子どもをあやすように優しく頭を撫でてくれる彼に、なぜか私も安心してしまった。
その日は、私はお昼からのシフトで、結太くんは休みだった。
部屋を出る頃には、彼のバイクは無くなっていたが、徒歩5分圏内の職場まで、結太くんは送ってくれた。
幸いにもその日は忙しく、定時の休憩に行く暇もなく、ずっと事務所に籠っていた。
やっと休憩に行ったのは夜になってからだった。
カフェテリアでコーヒーでも飲もうと足を運んだときには誰もいなかった。
すると、いつもは絶対に来ない時間帯にあの人がやって来たのだ。
そう、森崎先輩だ。私を見つけた瞬間、鋭い目付きをした。近づいてくる時には嫌に微笑んでいた。
広いカフェテラスの隅に私と森崎先輩の2人が向かい合って座っている。
彼は机に手を組んで前のめりに私を見つめる。端から見ればまるで恋人同士だろう。
しかし、私の顔はひきつり、怯えている。
長い沈黙を破ったのは森崎先輩だった。
「湊ちゃんさぁ、昨日誰といたの?」
私は結太くんといたことは、ばれていないと思っていた。
「ひとりですよ?先輩には関係ありませんよね?」
「そっかぁ。そういえば今度の火曜日休みだよね?付き合って欲しいところがあるんだけど。」
「その日は予定があるので無理です。」
「じゃあ次の日曜日は?」
なんで私の休みを知っているのだろう。確かに私の職場は社内サイトに自分の休みや、その日の行動を入力する事が義務付けられているが、私は入れていない。
よく怒られるが、彼に知られることは嫌だったからだ。
「なんで知ってるんですか?」
「だから、日曜日行こうよ。」
「日曜日も、他の休みの日も行けません。」
「休みの日は何してるの?」
何も言い返せなくなった。こんな日に限って結太くんはいない。
「湊ちゃんさぁ、正岡結太と付き合ってんの?知ってる?社員とバイトは恋愛禁止だよ?知ってるよねぇ。正岡くん、飛ばされるよ?下手したらクビかもね。もう一度聞くよ?昨日の夜なにしてた?」
この人は、もしかして知ってる?確かにバイクはあった。でも彼の姿は無かった。
「湊ちゃんさぁ、ダメだよ。純粋そうに見えてやることやってんだね。今日の朝、迎えにいったら正岡結太と抱き合ってんだもん。俺、驚いたよ。」
正直、私の方が驚いた。なんで?どこから見てたの?私の部屋は3階だ。寮にも入れる訳がない。もう泣いてしまいたい。
「どこから見てたんですか?」
「まぁ一人は寂しいよね。でもなんであいつなの?泊まってたんだよね?夜な夜なあいつとヤってんだ?」
「そんなんじゃありません。先輩は何がしたいんですか?」
「そんなんじゃありませんって。じゃあ何であいつ裸だったの?そういうことでしょ?何がしたいって?正岡結太を潰そうか?」
この人は狂ってる。話にならない。そして全部バレてる。
全部私が撒いた種だ。結太くんを利用して浩行を忘れようとした。
結局忘れられず、抱き合って虚しい思いをして、優しい結太くんに私という汚点をつけようとしている。
結局、結太くんだって別れた彼女を忘れられず、苦しんでいるはず。
だって私たちの間に愛を確かめ合う言葉はなにひとつない。
言葉にしたら終わり。分かっているお互いの暗黙のルール。
そんなことを考えていると、森崎先輩の右手が私の涙を拭った。その手は私の顎にあてられた。
いつの間にか泣いていたのだ。今まで必死に堪えていたのに。
近づいてくる先輩の右頬を叩いて私はカフェテリアを出ていった。
そんな中、高校の同窓会が開かれることになった。幹事はあのタケちゃんだった。
久しぶりに連絡をくれたと思えば同窓会。浩行に会えるかもしれないという淡い想いもあった。当然二つ返事で行くと言った。彼に会えば何かが変わるかもしれない。
そんな期待が胸に広がった。
同窓会の日、待ち合わせ時間より早く高校時代の親友と再会した。
仲の良かった親友と合うとあの頃に戻ったみたいで、とても楽しかった。
久しぶりに心から笑ったような気がした。でも、やっぱり今の現状を打ち明けることは出来なかった。そんな楽しい時間もつかの間、同窓会の集合時間になった。
仲の良かったメンバーがそこにいた。しかし、浩行の姿は見えなかった。
幹事のタケちゃんに連絡が入った。連絡した主は彼だった。
「お前今どこ?えっ?遅れる?そうか。それは仕方ないなぁ。来てるよ?分かった。」
と言って電話を切った。電話を切ったタケちゃんは、行くぞと言ってみんなを引き連れて店に向かっていった。
私は、さっきの会話で気づいた。もう浩行には会えないんだ。もしかしたら二度と。その場から動くことは出来なかった。すると何か察したのかタケちゃんが戻ってきた。
「湊なにしてんの?早く来いよ!あいつなら遅れてくるってよ。」
そういって私の手を掴んで歩きだした。店についてからも浩行が来る気配はなく、1時間程経っていた。その時、タケちゃんの携帯が再び鳴った。
「遅そいよ。え?来れない?なんで?お前そんなんでいいのかよ!待てって。湊だってそれを乗り越えて、だから!お前も前に進めよ!!おいっ」
そのままタケちゃんは携帯を見つめていた。
私のせいだ、浩行が来ないのは。きっとこの場のみんな分かっただろう。さっきまで盛り上がっていた場が一瞬にして静まり返った。そんな空気を打破したのはタケちゃんだった。
そんなタケちゃんが私の隣に座った。
「あいつさぁ、気にしてるんだよ。あんな別れ方した事。気にするなよ?あいつは結局、湊の事応援したかっただけなんだけど、不器用だからそれが出来なかった。別れないと湊も思いっきり仕事できないだろ?湊はきっとあいつに嫌われたと思ってるんじゃない?でも本当はそうじゃないんだ。あいつも湊が気になって気になって仕方ないんだよ。メールも電話も出ないのは、出てしまって声を聞くと自分の気持ちが押さえ切れなくなる。あいつの気持ち汲んでやって?大丈夫、きっと運命があるのならもう一度会えるから。それにあいつ、彼女作らないよ。だって湊のことしか考えてないもん。」
タケちゃんの綴る言葉たちは私の心に刺さっていく。
「私、一番辛いのは私だと思ってた。今でも好きで堪らなくて、会いたくて仕方なくて、でも、浩行は私の事なんて忘れてるんだと思ってた。」
「今の私じゃ浩行に胸張って会えない。良かった。今日来なくて。」
私は本当になにも知らなかった。こんなにも浩行に思われていたなんて。それと、私の被害妄想。でも、私はもうあの頃の私ではない。真っ黒に汚れてしまったんだ。こんな私、浩行に愛される資格なんてない。それからの私はほとんど友達との会話も覚えていないほど上の空だった。
あれからずっと考えている。わたしは勝手に悲劇のヒロインだと思い込んでいた。私だけが悲しくて、辛くて、やりきれない想いを少しでも楽にしたくて結太くんを利用した。
あの日、浩行に会わなくて良かったのかもしれない。こんな私を彼に見せられない。
どんな顔で会うつもりだった?なにを話すつもりだった?
浩行はきっと、自分の気持ちより私の事を考えてくれたんだ。
タケちゃんのいう、運命があるのならばいつかまた必ず会える。
その時、彼の胸におもいっきり飛び込めるような人間になろう。
そう胸に誓った。
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