07.

 月理は病室で安静を言い渡されていた。なんの面白みもない天井を見上げて横になっている。なにも考えず、ただ茫然と。なにも考えないようにしているというのが正確かもしれない。怒りを忘れ、悔恨を押しやり、考えない。そうでもなければそれらに押し潰されそうであった。

『怒っているか?』

 運ばれてきた夜から初めて、アンドロマリウスが口を開いた。意識が虚空から戻ってくる。意識の焦点が定まった。

「なんでそう思う?」

 月理は、無機質な声で淡々と言葉を紡ぐ。

「おまえは、おまえの正義に照らし合わせ、あたしに力を貸さなかった。ならば、あたしが怒っていても関係ないんじゃないのか?」

『然り。だが、それは理論上の話。実際は、感情と折り合わせながら相棒とやっていかねばならない』

「だが、あたしは殴られ、アイリも大事に至らなかったとはいえ、薬も飲まされた。それで? 謝る気も曲げる気もないのにあたしのご機嫌取り? それに何の意味が?」

『勘違いしてもらっては困る。これはそなたへの敬意に他ならない。そなたは、自身の正義を見誤らず、冷静になればまた同じ正義を抱けると判断しているから言葉でコミュニケーションをとっているのだ』

「へっ、なにを言ってやがる。おまえは、言葉以外の接触の方法なんてもたないだろうが」

『俺は俺の正義にもとる人間を許容しない。そして、力に溺れてそうなった者は少なくない。さらに、俺はそういう人間とは袂を分けてきたし、分ける手段を持っている。わかるな?』

「正義の伯爵様が、気に入らないからといって人殺しですか。ご立派なこって」

『殺すということは難しいことではないんだよ。殺すと思うまでが難しいんだ。そなたはその壁をあっさりと乗り越えてしまう危うさを持っている』

「おまえも勘違いするな。あたしは、あの四人を許す気はないし、偉そうに上で薬を撒いてるクイーンとやらも許す気はねえ。柏音とかいうふざけた名前らしいが、同情を挟む余地は一片もない」

『おまえの正義は何のためにある?』

「世の中を救うため、そして、アイリを守るため」

『世の中なんて守れたためしはない。愛梨だけ守ればいいではないか。違うか?』

「だけ? だけってなんだよ。いいこと教えてるよ。子供は、わがままだろ? なぜなら限界を知らないから。だから、人間は歳をとるたびに、ひとつずつ限界を知っていって最後には大事な一つを守ろうと頑固になっていくのさ。愛だけとか、子供だけでもとか、だけって言い出したら歳をとった証拠さ。だから、あたしはアイリだけとか言うつもりはない。アイリも世界も救ってみせる」

『世界の救済など。大いなる偽善だ。だが、今の話は面白い。そして、それが虚勢でないのが実にそなたらしい。俺は、ベットしよう。そなたが人生の終わりの間際に絶望して死んでいくことに。自分が歩んできた道に大きな誤解があったってことに気づくことに。そして、それでもなお渇望しながら果てていくことに。そんな喜劇に手を貸すんだ。俺はいまから心躍って仕方ない』

「それで、脅してるつもり? 当たって砕けたら、欠片を集めてもう一度ぶち当たれ。そして砕けて、なにも掬えなくなるまで繰り返せ。その頃には、きっと望んだ成果か、諦めを手に入れてるはずだ」

『ふん、タランダの言葉だな』

「そうさ。納得した諦めを手に入れられたら、きっと絶望なんてしない。それに前人未踏かも知れんが、あたしが最初になる可能性はゼロじゃない。あたしは、それにベットしてるんだよ。おばあちゃんが死んだあの日から」

『だが、世界の平和など得てそなたは何か得るものがあるのか?』

「得るもの? それは平和になってみればわかることさ。なにか欲しくて世界平和が欲しいやつなんて間違ってる。欲しい物があるなら、金を稼ぐことを考えればいい。あたしは、理不尽が嫌いなだけだ。なんで、片目だからっていじめられなきゃならない? なんで、いじめられている少女を守ったらいじめられなきゃならない? おかしいだろ。それは人間が歪んでるからだ」

『気づいてるか? そう言ってるそなたが一番歪んでいることに』

「知ってるよ。だが、誰かが願わなきゃ、叶わないだろ? 想わない思いを叶えてくれるほど世の中は気が利いてない。だから、声を大にしてあたしが代弁してるんだ」

『理想だぞ、それは。理想は掲げるもの。見るためにあるものだ』

「それでもいいよ。理想の一つ掲げられなくてなんの人生だよ」

『強いな。そなたは。そんなそなたが膝を屈するところを見てみたい』

「けっ、言ってろ。あたしは立ったまま死ぬ」

『その瞬間を心待ちにしている』



 次の日、月理だけ退院となった。折られた左手の甲はまだまだ痛むが、無駄に寝てることも出来ない。

「アイリ、あたしはひとまず先に出てく。悪いね」

「なにが悪いの?」

 愛梨は月理の言葉がわからないという顔をした。

「ああ、その顔かわいいよ。アイリ」

 ぎゅっと抱きしめる月理。ふもふもと顔をうずめたまま愛梨は同じことを聞いた。

「ん? こんな辛気臭いところ先に出て行くのは悪いかなって」

「そういう意味なんだ。全然大丈夫だよ。むしろ、いっぱい寝れるから嬉しいよ」

「そうか、じゃあ、満足するまで寝るといいよ」

「でも、つぐりんは私がいないからって学校休んじゃダメだよ?」

「違うよ、アイリ。あたしは休もうとして休んでるんじゃないんだ。結果がそうなってるだけで、決してわざとじゃないんだ」

「その言葉を借りるなら、結果的に学校にいることの方が大事で、渋々行ってるかどうかは関係ないんだよ」

「うっ、アイリも屁理屈がお上手に」

「屁理屈とわかってるなら、最初からこねない、ね?」

「うっ……」

 聖母のようなその微笑に月理は完全にたじろいだ。

「ね?」

「あい」

 がっくりと肩を落として病室を後にした。

 

 

「おおっ! さぼり魔が学校へ来たぞ!」

 その日、午後一から学校へと向かうとそんな声に出迎えられた。

「藤崎。今回は残念ながらサボりじゃない」

「おう、噂によると幸田を手篭めにしようとして返り討ちになりそうなところを武力で相打ちにしたそうじゃないか」

「宇治原。おまえのとりえは人の話を聞くことだ。そうだろう? いいか、よく聞け……」

 宇治原の両肩に手を置き、言い込めるように言った。

「ふっ、おまえの怪我はどうせ幸田を守ったケンカの代償だろう?」

「わかってんなら、茶化すな! あたしは、アイリを巻き込んで落ち込んでんだ!」

「げふあ! なぜ俺がぁ!」

 月理の右ストレートは藤崎の左頬を打ち抜いた。

「つっ……」

 瞬間、左手の甲に痛みが走った。がたんと、月理の後ろで椅子が勢い良く引かれる音が聞こえてくる。月理が振り返ったときには日々野の去って行く後姿だけが目に入った。

「おいおい、大丈夫かよ。柏音が俺を全力殴れないとは、一・大・事!」

 どこのカメラを意識したのかわからない藤崎による決めポーズ。

「おい、あたしはこっちだ。そして、心配してないなら、死んでくれ。今は、おまえという存在の停止が何よりも薬だ」

「なんてひどいことをっ」

 泣きまねしてみせた。

「ひどくねえよ。まだまだ満身創痍なあたしの心配でもうざいのに、そうでないのは正直吐き気がする」

 吐きまねをして、その後、藤崎を睨みつける。

「誰か、誰かー! 幸田を、幸田を呼んでくれ! 柏音が花の女子高生とも思えない表情をしている! こうなったら幸田にしか修正できん」

「ああん? てめぇ、そこに直れ。一遍体にしっかりと教え込まないとわからんようだな」

 言葉の端端に、強い怒りを発している。それが藤崎にも伝播したのか、戦々恐々となっていた。宇治原が慌てて仲介に入る。

「まあ、待て。落ち着け、柏音。ギャラリーの皆様がどん引きでいらっしゃる。それに、幸田にしかその暴走が止められないという感覚には共感できる。な、わかったからとりあえず、椅子を床に下ろせ。そんな女子高生は美しくない、な?」

 ふーふーっと、威嚇する猛獣のように息を荒くしながら、藤崎をもう一度睨んだ。

「俺は、おまえが心配だ。その貧弱な体だけでも心配なのに、怪我までして……。そしてその上ふげっ」

「貧弱というな!」

 宇治原に抑えられている上半身は全く使わず器用に蹴り上げた。

「ち、違う。勘違いするな。体付きのごにょごにょの話をしているのではなくてだな、わー、待て! 椅子はダメだ、俺が死ぬ。そうじゃなくて、よく休むだろ、おまえ! ……だからよ……!」

 椅子で殴られる覚悟をしたのか、藤崎はぎゅっと目をつぶった。

「だから、なんだよ?」

 ごとん、と椅子が置かれる音がした。

「人の好意に牙むいてる、おまえの姿も心配になるって言いたかった……だけだ」

 藤崎は、ふいっと横を向いて、照れ隠しをする。周りで女子がキャーキャーと騒がしいことになっているが、月理は気にしない。

 そこで口を開こうとした瞬間、授業の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。

「悪かった」

 月理は、席に戻るために動く生徒たちに紛れて肩口で藤崎にそう告げた。

 教師が教室に入ってくる。担任の佐伯。彼は、月理を見つけると早速声をかけた。

「おお、柏音。もう出てきたのか。放課後に、職員室まで来てくれ」

 なんの用件かはわかっている。ケンカの件だろうことは容易に想像できるからだ。

「はい」

 粛々と頷いてみせた。

 教師に呼び出されたことよりも、日々野が席に戻っていない。そのことの方が、何倍も気になっていた。

 

 

 放課後。職員室経由で、指導室へと入れられる。担任は、とにかく渋い表情であった。月理は、しょっちゅう学校を休むし、ライブハウスに出入りしているという噂もある。授業態度も、文系の成績も芳しくない。問題行動を起こす問題児との境界に月理は立っていた。だから、学校側の印象としてはとうとうきたかという感じだろう。

「なあ、柏音。今回の事件はケンカが原因なのか?」

 担任が重い口を開く。

「はい」

「おまえから手を出したのか?」

 そんなどうでもいいことを聞いてきた。

「いいえ。あたしも抵抗はしましたが、絡んできたのは向こうです」

「じゃあ、なんであんな場所に居たんだ? しかも幸田まで一緒に。まさか、変なものに手を出してないよな?」

「たまたまです。アイ、幸田さんは仲がいいので一緒に居ました。ところで、先生の言う変なものとは具体的になにを指すのでしょうか?」

「そりゃ、妖しげな薬とか、不純異性交遊とかだな」

「そういうことやるように見えますか?」

 隻眼で睨むのではなく、飽くまで見ている視線。

「い、いや、あまり良くない遊びをしているという噂があったから確認してみただけだ。他意はないんだ、は、はは」

 担任はハンカチで額を拭う仕草を繰り返している。

「いえ、慣れてます」

 教師は言葉をなくしてしまった。そんなことに慣れさせるのを異常ととったのだろうか。それならば、この人間は信用できる。月理はそう思った。

「いや、おまえから手を出したわけじゃないならいいんだ。他に悪いこともやってないようだし。お疲れ、帰っていいぞ」

「はい。失礼しました」

 席を立ち、深すぎない礼をして指導室を後にする。

 廊下に出ると、藤崎と宇治原が待っていた。

「お、来た来た」

「なんだよ? おまえらも用があんのか?」

「ここに? 受験でもないのに? うへぇ、想像しただけで寒気が走る」

「じゃあ、なにしてんだよ」

「いや、藤崎がおまえを待ちたいって」

 なんでもないことのように、宇治原が言って、藤崎が慌てる。

「お、おい、言わねえ約束だろ?」

「でも、そうでも言わないと納得しないって顔だぜ。俺たちのお姫様は」

 月理は、難しい顔で二人を見ていた。

「誰が、姫か」

 月理は、無表情にチョップを藤崎に入れる。

「だよなぁ、姫ってかんじじゃないよな。どっちかというと、騎士?」

「あはは、リボン様か」

「うるせえよ! でも、姫扱いかぁ。初めてだけど、正直嬉しいよ」

 月理は、今日は学校に来て良かったと思っている。一人だと愛梨を巻き込んだ自責の念に潰されそうだから無理して出てきただけだったのだが、思った以上に効果があった。特に、この二人が絡んできてくれたおかげで、変なことを考える暇がなかったのが大きい。

 無造作にはにかんだ。廊下から差し込む、夕日に照らしだされた月理は、片目だとかそんなことは関係なく美しかった。藤崎たちは息を呑んだ。普段は見せないが、確かに少女の顔だった。月理が内包する儚さが、一瞬をより確然たるものとし、美しさを際立たせる。

「あん? どした? あたしに見惚れたか?」

 無防備な笑顔。頷きそうになる藤崎。それに、間一髪で肘を入れる宇治原。その美しさは刹那に過ぎ行き、想いだけが残ろうとするのを友人は止めた。

 藤崎は、素直に受け入れたのだろう。だが、宇治原は危うさに気づいたのだろう。

「はははっ、藤崎は将来に気をつけな。騙されるぞ。宇治原、しっかり見張っておけ」

「言われんでも。だけど、そんな顔できたんだな」

 宇治原の顔は、とても優しい。

「どうした? おまえも藤崎に引きずられてるのか?」

「いや、おまえはいい女だな」

「なにを今更。あたしは、ずっとこのままだったぜ。今、そう感じるということはおまえたちが変わったんだ」

「そう、かもな」

 藤崎もくすぐったそうに笑った。月理は、藤崎と宇治原の肩に手を回した。小さい月理は二人にぶら下がっている。

「おまえたちに礼代わりに、お守りをくれてやろう。このまま教室へ行こう」

「あ? 礼代わりって、俺たちは礼を言われるようなことしてないぞ」

「藤崎も大概罪作りだな。いいから受け取って置いて損はないぞ。得もしないが」

「あ、てめ、言い切ったな。そんなものを俺たちに渡そうって言うのか?」

 しばし無言で廊下を歩く。

 教室の前まではあっという間だった。教室に入り、ぴしゃりと扉を閉める。

 二人の前に立ち藤崎の左手を左手で、宇治原の右手を右手で握った。気のせいか、藤崎の頬が赤い。月理はそれを見てくすりと笑った。

「力を抜け。痛いことをするわけじゃない。ま、期待してるような気持ちいいこともないけどな。こほん……汝、我と友であることを誓うか? 苦難のときも、幸福なるときも、等しく友であることを誓うか?」

「なに言ってんだ?」

 茶化そうとする藤崎に月理は飽くまで真面目に対応する。まるで、大事な儀式であるかのように。

「誓うか?」

「ああ、誓おう」

 宇治原は、大真面目に頷いた。それを見た藤崎も、戸惑いながら頷く。

「誓う」

「よろしい。ならば、汝らにベイルノートの加護があらんことを」

 そう言って、順番に手の甲にキスをした。

 さすがに耐え切れなくなった藤崎が手を引っ込め、やおら詰問する勢いで事情を質す。

「ベイルノートってなんだよ?」

「あたしの名字」

「へ?」

「ドレッドノートが怖いもの知らずなら、ベイルノートは災い知らず」

「いやいや、おまえは柏音月理っていう名前じゃないのか?」

「あたしは、柏音・月理・ベイルノートって言うのが本名だ」

「えっ? おまえってハーフなの?」

「そうだが」

「ふむ、なるほど。この白い肌にはそんな秘密があったのか」

 宇治原は、先ほどから握ったままの手を感慨深く眺めている。

「これ知ってるのは?」

「無論。アイリとおまえたちだけ。メンドイから言ってないんだ。超ベ級の加護だぞ」

「ああ、おまえがたまに言ってる超ベ級ってそういうことか」

 宇治原が一人納得するが、藤崎はわかっていない。

「なあ、どういうことだ?」

「超ど級という言葉があるだろう? あのどはドレッドノートのどだ。だから、ベイルノートだったら、ベ級だ。わかったか?」

「ああ!」

 ぽむっと左の手の平を右こぶしでたたく。

 その後、月理たちは談笑した。今、自分が置かれてる状況、自らに課した義務、大望している理想、それらをすべて脇において歳相応の少女の笑顔で。



 その帰り道。一人、家路についた月理。もうだいぶ陽が低くなり、六時前だというのに夕焼けが別れを告げようとしていた。ひんやりとした風が、月理をなでていく。

 結局最後まで日々野には会えなかった。午後の授業にも出ていなかったのだ。どこへ行ってしまったのか。そればかりを考えていた。

「今夜、あたしは行くぜ」

『急だな。もっと数を減らすのを待っていたのではないのか?』

「あたしは、もう待てない。アイリにあんなことした連中をもう一分一秒たりとも放置できない」

 口元が歪んだ、邪悪をかたちどる。歯が軋むほどに噛み締めた。

「必要な別れも済ませた。あたしに万一が合っても、覚悟は出来た」

『あれが、別れ。そなたは、挨拶が余程に下手なのだろうな』

「ふん、そうかもな。友達と別れるのは初めてだからな」

 部屋に戻ると、すぐさまいつも封印してある部屋の鍵を開けた。中から小道具を引っ張り出す。それらをもって、寝室へ行き制服を脱いだ。

 黒いノースリブのシャツを着た。下には黒のショートパンツと黒と白のストライプ柄のニーソックスを履く。上着にはノースリーブの白いパーカー。腕に黒いアームウォーマーを付ける。最後にアンデスキャップを被って外見は完成。

 素早く、腰の左側に三つのポーチをつける、中身を確認する。中には、手製のスモーク。背中側に特殊警棒型のスタンガンを装備する。右側に、双眼鏡を入れたケースをつけた。

 後は、完全に暗くなるのを待つだけだ。携帯食料を食べる。おなかを満たさず、栄養が取れるように。

 時計は九時を示そうとしていた。素早く玄関に向かい、安全靴を履く。玄関に買い置いてある棒付きキャンディを一つ剥いて口に入れた。

 眼帯ではなく、サングラスをかけ、夜の街へと体を忍ばせる。

 

 

 とある廃ビル。五階建てである。人が使っていないというだけで古くはなっていない。電気も通っているようだ。冷たい蛍光灯の明かりが外に漏れている。それを月理は、道を挟んで反対側のビルの屋上から持参した双眼鏡で観察をしていた。見張りはいない。中で、少年たちがまばらに、不規則に移動している。多分、好き勝手に動いてるだけなのだろう。

 人数は二十人くらいだろうか。一人ひとりの顔までじっくりみるが、自分と愛梨を殴ったやつらは見えなかった。月理は舌打ちする。

「まあ、いい。問題はどこから行くかってことだな」

 隣にビルはあるが十階ある。高さが違いすぎて飛び降りになってしまう。下から入るのは、正面突破過ぎる。そうして、逡巡してると、ビルの奥の影から少年たちが出てきた。どうやら、そこに階段があるようだ。

 月理は、身体能力増強剤の薬を二粒呑んだ。そのまま、五分待機した。気温が低い。口から漏れる吐息は白くなっていた。行動を開始する。細い路地裏に素早く駆け込み階段を目指した。

 だが、そこは結構利用される場所らしく、二人の男たちが降りてくる。月理は、微塵も怯みを見せず、背中からスタンガンを抜くと手早く振ってかっちり伸ばした。話に夢中になっている男のところへ行き、一撃をお見舞いする。一人目の自由を奪い、二人目にも容赦なく電撃を食らわせた。だが、男たちは気絶していない。

 今度は首筋にスタンガンを当て、気絶するまで当て続けた。三秒と二秒だった。見覚えある顔だったが今は決済を後回しにして階段を上る。

 五階の扉に素早く取り付くと、音で中の様子を窺った。誰も歩いている音はしない。そっと、扉を開けた。少し軋む音を上げながら扉は開く。右と左に道が別れていた。右に行けばビルの表側、左に行けばビルの裏側に入っていく。月理は左に行くと決めた。迷ってる時間が惜しいからだ。すっとビルに身を滑り込ませる。

 奥まで行くと、曲がり道があった。そこから覗くようにみると、一枚のドアの前に男が三人いて、だべっている。他に居ないことを確認すると一気に走り始めた。男が気づいたのも関係なく飛び蹴りを顔に決める。そして、スタンガンを振るった。動けないことを確認したら、先ほどのように気絶させる。

 改めてドアをみたが、立派な木製だった。恐らく、このビルのオーナーの部屋だったんだろう。中から、女の声がした。なにをやっているの、騒がしいといっている。

 月理は、コンコンと軽やかにドアをノックした。どうぞの声とともにゆっくりと開ける。

「ハイ、女王様。その麗しき面、拝見しにきてやったぜ。その面、二度と見れないように整形してやるから尻尾振って顔貸しな」

「相変わらず、変な言葉を使うのね、あなた」

 煌々と明るい廊下に対し、薄暗い部屋の奥には、大きなソファに大仰に腰掛けてる女がいる。目が明度の差に順応してなく、顔の辺りがよく見えない。だが、段々と目が慣れてきて、全容がわかり始める。

 そこには、ゴシックロリータのドレスに身を包み、微笑んでる片目の女がいた。月理と同じ様に眼帯をしている。その姿を見て月理は、瞠目し、言葉を失う。自分の見ているものが信じられなかった。

「えっ? なんの冗談だ? なんで、あんたがそこにいる? まるで、この部屋の主のように自然とそこにいるんだ? それに、そのカッコウ、違うだろ? あんたの夢は、警察官じゃなかったのか?」

 一瞬言葉を切る。口にしては何かが終わる気がした。だが、確認するように吼える。

「どういうことだ! なあ! 日々野さん!」

 日々野は、静かに微笑みながらはっきりと言った。

「あたしが、ここの主だからよ」

「えっ? あっ……」

 どうしようもない事実を突きつけられて混乱する。月理は、殺すつもりでここに乗り込んできたのだ。憎悪も燃え滾っていた。だが、一つの事実を前に頭が機能を停止してしまう。

「しっかりしなさい!」

 そう叱責したのは、他ならぬ日々野だった。

「あなたは、あたしを裁きに来たのでしょう? だったら、そんなことに怯んでどうするのよ!」

「あたし?」

 月理は些細な違和感に気がついた。

「日々野さん。あなたをそこまで追い詰めてしまったのは、あたしなの?」

「いいえ、柏音さん。あなたに追い詰められてなどいないわ。〔あたしは〕、救われていたのよ」

「じゃあ、なんで柏音と名乗ったり、片目にしてるんだよ!」

「あたしは、あなたに憧れてるの。あたしは、ずっとずっと前からあなたに憧れてたの。だから、真似して同化することで満足してたの。救われてたわ」

 日々野は立ち上がり、月理のほうへと歩み寄る。

「あたしは、あなたと友達になれて嬉しかった」

「あたしだってそうだよ。あたしだって本当の友達が出来たかもしれないって心底嬉しかった! なのになんで!」

 月理の剣幕に日々野は途中で歩み寄るのを止めた。

「あたしが、腕を痛めて学校休んだとき、お見舞いに来てくれてご飯まで作ってくれたよね?」

「ええ」

「学祭の前、夜遅くまでいろんな話をしたよね?」

「したわね」

「終わった後も、カラオケに行って騒いだよね?」

「そうね」

「他の日だって、なんにもない日だって、一緒にご飯食べたりお話ししたよね?」

「楽しかったわ」

「なのになんであんたは、ここにいるんだよ? ここのトップやめてこの場にさえいなければ! あたしは気づかなかったかも知れないのに! また、あの日が戻ってきたかも知れないのに!」

「ふふふ、負けず嫌いだったのかもね」

「負けず、嫌い?」

「そう。あれは、中学の三年のとき。あたし、薬を売りつけられたの。ここの男たちに。受験もあったし、親の不仲というのが重なって、あっという間に虜になったわ。で、とうとう薬を飲んでる瞬間を親に見つかって取り上げられて、病院送りになったの。人生を棒に振るぎりぎりで戻って来れたけど、帰ってきたところにはなにもなかった。受験はし損ねたし、親は別れちゃうし。だから、あたし、幸田さんと同い年なのよ」

 そう言って、寂しそうに笑った。

「でもね、そうやって失ったものは結構大きくて。悔しいから、ワルの中に入っていろいろしたわ。薬の販売ルートとか抑えて、でも、売り上げは伸ばしつつやっていたらなんか、持ち上げられてね。今の地位を得たの。そうして最初にしたことは、あたしに手を出した連中を粛清したの」

 月理は、唇を強く噛み締め、手を強く握り締める。みしみしと骨が軋む。

「虚しかったわ。望みは達したのに、なにも返ってこないし。そしたら、学校で態度悪いけど出来る勉強があって、みんなに人気者の女の子がいるじゃない。その子は、自分の意見はきちんと言えて、まっすぐに物事に取り組んで。物怖じもしないし、なによりも明るかった。だからあたしは、あなたに憧れて、名前を真似て、口調を真似て、格好も真似てみた」

「そんなことで、満たされた?」

 日々野はまっすぐに月理の目を見ているのに、月理は視線を合わせようとしない。

「いえ、満たされはしなかったけど救われたわ。でも、お話しするようになってからが地獄だった」

 月理はぴくりと身を震わせた。

「あなたは期待通りの人物で。裏で汚いことやってる自分がどうしようもなく嫌で。あなたの夢が世界平和だったらどうしようかと思ったわ」

 月理は、深い絶望を味わう。

「自分が、自分が不幸になった経験がどれだけあろうと、人を傷つけていい理由にはならない」

「そうね、あなたらしい言葉。いじめられても世界を嫌わなかった、強い人の言葉」

 それは、愛梨がいたからだった。

「なんで?」

 月理は、絶望の海の中、その言葉を見つけ縋りつく。

「あなたたちって言ったじゃん! なんで、なんでアイリに手を出した?! あたしはそれを許すことは出来ない! それだって知ってるはずでしょ!」

「事故よ。あんな荒くれ共まとめらるわけないこと、あなたの方が詳しいんじゃない?」

 冷たい視線で、冷ややかに事故よと言った日々野に月理は怒りを覚えるが、だが責めきれない自分がいた。

「隣の部屋に、厳罰を与えて縛り上げてあるわ。好きにするといい。後これ」

 日々野は、一つのファイルをサイドテーブルの上に置いた。

「なにそれ?」

「あたしの、生きた証」

 誇らしげに微笑む日々野。無言が二人の間を横切った。

 静かに、日々野が続きを語り始める。

「あたしたちの周りをかぎまわっていた人間がいるって聞いたとき、特徴を聞いて真っ先にあなたを思い浮かべた。あなたが来るような気がしていた。いいえ、そう願っていたのね。そして、あなたは来た。嬉しいわ。あなたも裏の顔を持っていたなんて」

「日々野さん、残念だ。本当にあたし、あんたが好きだったのに」

「〔私〕もよ。嘘はないわ」

 日々野の顔には優しい表情が浮かんでいた。ささやかに笑みも見て取れる。

「どうしてなんて、聞かないよ。あたしも似たようなもんだから」

 月理だって、自分の正義のために好き勝手にアンドロマリウスを振り回しているのだ。好きに生きたのなら、それが例え他人の人生を踏み躙っていても月理には否定する権利はない。

 欲望に忠実な奴らを戒めるために存在しているのに、当の執行者も権利がない。なんと言う矛盾か。いや、皮肉だろう。

 ただ言えることは、好きに生きたのだから、その代償を求めやってきたと伝えるだけだ。「きっと、あたしもいつか払うから」と言って。先に行っててねと手を振るのだ。

「あたし、死ぬの?」

 日々野の声は躊躇いや抵抗を感じさせない。受け入れるような口調だ。

「多分。でも、一人じゃない。あたしも後から行くから待っていて。少し時間かかると思うけど」

「好き勝手他人を弄んだからね。仕方ない。天罰ね。あたしは一人で逝くわ。あなたがくる必要はないわ。――ありがとう」

 日々野は、目を閉じて受け入れる姿勢だ。

 だが、月理の体が動かない。

 愛梨に対する行為への憎悪も、殺すと息巻いて来たこともすっかりと影を潜めてしまった。あるのは、狼狽。恐れ。そして、運命に対する恨み。

『戸惑うな、ミシェル。やれ』

 アンドロマリウスは冷たい声で命令する。

「あたしに、命令すんな!」

 日々野は不思議そうな顔をする。アンドロマリウスの声を聞き取れるのは月理だけ。

『命令ではない。そなたの義務の話だ。正義を選んでもいいが、罪を選ぶな。いい罪と悪い罪なんてものはこの世にない。罪は償わなければならないものだ。そなたが、罪として定義したものを覆すことは許されない』

「だけど、だけど……」

『その女がそなたの友達なのは知っている。だが、そなたが少しでも正義を振るっていると自覚があるのなら、躊躇ってはいけない。正義を振るうならば、真には平等でなくてはおかしい。もうすでに、ふるって来たならばそれは違えてはならないそなたの義務だ』

 少しの間の沈黙。日々野は、黙って月理を見つめている。

『もう一度言う。そなたは、友人、日々野を独善にて裁かねばならない。殺さなくてはいけない。それが、正義の味方の義務だ』

「せ、いぎの味方の義務?」

『今更、そんなのはいらないとは言わせない。そなたはすでに選んでいるのだ。やれ』

 間をおいて。

『さあ! やれ! 奪え! 千切れ! それが、俺がそなたに力を貸している理由なのだから!』

 がんがんと頭の中でアンドロマリウスの叫びが反響する。頭が酷く痛む。

「あ、あ、あ」

 混乱してなにもかもがわからなくなってきていた。

「ねえ、一度でいいから、愛美まなみって呼んで?」

 日々野がそんなことを言った。

「えっ?」

「私、愛美って言うの。似合わないでしょう? 私もあまり好きじゃない。だって、美しく愛されなかったもの……。でも、あなたに一度呼んでもらいたい」

 月理は、一瞬声に詰まり、顔を苦渋にゆがめくしゃくしゃにして、首を振った。

「それは……できない。それをしたら、あんたに情が移ってしまう」

 情なんて、とっくに移っている。友情という名の情が。だから、本当は今更だった。しかし、今この場で決済しなくてはいけないことの邪魔になる。至極個人的な理由だった。

「そう。そうね。それが正しいわ」

 日々野は、ゆっくりと目をつぶる。もう後悔も思い残すこともないという顔だ。

「できれば早くして。死刑を待たされるのはいい気持ちではないもの」

 そっとサングラスをはずす。赤い瞳が日々野を捉えた。

契約名ミシェル・ベイルノートの名においてアンドロマリウスに命じる。その力を我が望みの為に行、使せよ」

 日々野の体に手が染み込み、なにかを掴む。それを引っ張り出した。

「決、済」

「それがあなたの本当の顔……なのね。きれい……」

 日々野は手を月理の頬に当てながら意識を失い、その場に崩れ落ちる。その落ちていく手に月理は手を伸ばしそうになったが、慌てて引っ込めた。拳を堅く握りしめる。

 初めて、月理は知り合いに手をかけた。その感触は思ったより冷たくて、なんの感傷も浮かんでこない。だが、その感覚を一生拭えることはないだろう。そうするには月理は弱い。これからいつまで続くかわからない人生の中で何度このシーンを思い返すのだろう。何度、その感触に追い立てられるのだろう。

 怒りなどとうになく。愛梨を傷つけた憤懣も今は影を潜めて、まるで始めからなかったようだ。あんなにも胸を焦がしていたはずなのに。名付けられない感情が残った。

 そんな月理を見て、アンドロマリウスは歓悦の感触に総身を震わせるのだろう。

 表で倒れている男たちを見て、数人がばたばたと走り寄ってくる。ドアが乱暴に叩かれ、女王――日々野への安否が問われた。だが、その男たちは悲鳴を残して静かになる。

 扉を軋ませて入ってきたのは、シアだった。

「まさか、それでお仕舞いじゃないでしょうね?」

「どういう意味だ?」

 月理は、俯きながら、底冷えのするような声で質す。今、彼女のしたことから鑑みれば死刑に等しい罰を与えた。なのに、それ以上なにをしろというのか。

「今、あなたが掴み取った彼女の命、十年にも満たないわ」

「え?」

『……』

「黙ってないで説明しろよ!」

『そなたの友人は、薬の販売の大本にいる。その罪は大きい。だが、一方でこいつらを潰すために必要な情報を集めていた。叙情酌量の余地有りだ。むしろ、そのためにこの場所に立っていたとしたら、それは必要悪だったのだ。正義を貫くために行ったこと。と、俺は評価する』

「叙情酌量……」

「だから甘いというのよ。罪には軽重はない。その目的も関係無い。ただ行った罪を悔いて死ねばいいの」

「正義をお題目に、人を好き放題殺しているやつが言うことか! 人を自分の意思で殺すお前みたいのが正義な訳がない! 人間は人間を裁いてはならない」

「私が裁いてなどいないわ。裁いてるのはアズライールよ」

「違う。おまえはおまえのエゴのためにアズライールを振り回しているんだ」

「じゃあ、あなたとの違いはなにかしら?」

「信念。あたしの信念は、人という種を生かすためのもの。おまえのは人という種を滅ぼすものだ!」

 そう。アズライールは強力な拳銃を振り回しているのと同じ。正しく使わなければ、凶器でしかないし、悪そのものを行える。裁く力ではない。

「大言壮語に付き合っているヒマはないの。そこをどきなさい、錬金術師」

「いやだね」

 月理は、日々野を守る。必要な懲罰は終わった。また、日常に帰っていい人なんだ。

 シアは以前と同じ準備を施して、月理の前に立った。月理は、フル装備で対峙している。今回は負けはしない。

 月理は、スタン警棒を構えた。腰のスモークもまだ使っていない。これらがあれば、いくら成長の劣った身体でも戦えるはずだ。

「道具に頼らねば、戦えないとか、本当に唾棄すべき脆弱さね」

「要は、勝たねばならない戦いで勝てればいい。敵からの揶揄など気にして可能性を下げるのは間違っている」

「確率の計算? 錬金術師らしいわね。まったく。そういうところが本当に殺したくなるくらいキモイのよ。あなたたち」

 静かな表情だったのに、急に険しい顔つきになって見下ろすように、月理を睥睨する。「世の中、計算できることなどありはしないのに、あたかもそれがあるように振る舞う。明らかなペテンよね。それって立派な罪だと思わない?」

「優秀な錬金術師の計算は、おまえらがいうところの予知プレコグの域をはるかに凌駕する。確かに、胡散臭さは残るけど、なにもペテン扱いされるいわれはない。見えないもの、理解できないものを魔法とかいって片付けるのが仕事のクセに口がでかいんだよ」

 月理は魔法使いになんら恨みはない。なかった。だが、この魔法使いは異常に錬金術師がお嫌いのようだ。買い言葉に売り言葉。一応、月理にだって錬金術師の矜持くらいある。

「魔法は科学。それがわからずして偉そうな口を」

「その科学の基に錬金術があるのも知らないのか? 呆れた無知だな」

「学んだわ。その無能ぶりを。錬金術ではなにも変えられない。変えるためにはもっと、大いなる力が必要なのよ。だから、死になさい」

 シアは、懐からピルケースを取り出すと、その中身を一粒口に放り込んだ。目が怪しい光を放った。

「まさか、おまえ……!」

「ははは、私にだって力は扱える! 錬金術師の専売特許なんかじゃない!」

 月理は、大きく飛び退って距離を取ろうとしたが、シアはそれを許さなかった。同じ勢いで飛び込んでくる。

「ちぃ!」

 そのまま、いつの間にか大きく振りかぶった右腕が月理に振り下ろされた。

「オン!」

 避けようとするが、間に合わない。

「ぎゃん!」

 月理は、その胸に杭打ちをもろに食らってしまった。息ができなくなる。肋骨の砕ける音もした。床に叩きつけられ、跳ね返る。

 敵の攻撃はそれで終わらなかった。床に落ちた月理の頭を踏み砕かんと空中で一回転して勢いをつけた後、踵を月理の頭に振り下ろす。それをなんとかスタン警棒で受け止めた。

 警棒は、月理を守ってくれたが、その反動で電流が走らなくなる。スイッチを入れても反応がない。月理は、転がるようにシアの踵の下から滑り出た。

 起き上がると、喉の奥からは血がこみ上げてくる。しかも、気管から。血でむせる。口中に血の味を感じながら、その生々しさにさらに吐き気が加わった。

 呼吸が上手くできない。灰が潰れたか傷つけられたのは明白だ。もう、視界すらぐちゃぐちゃになり、思考も乱れ、自分がなにをしているのかもおぼろげになった。

「ぐ、がは。げほげほ!」

 粘りけのある液体を、口から吐いた。胸が熱い。不思議と痛みは感じていない。というか、そんなヒマもない。

『普通なら死んでるかも知れんな』

 なるほど。そういうことか。

「助かる」

『なに、そなたが死ぬときは今ではない。今では面白くない。歓喜がない!』

「もう黙っとけ、変態」

 余裕もなく、口元を拭う。ここまで、呼吸系をやられるともう力は出せない。これを瞬時に治せる薬もない。月理の作った薬の中で対応できる薬は一つ。

 ポーチの一つを開けて、薬の入ったピルケースを取り出す。中に入っているのは一粒の赤黒い錠剤。今服用している能力増強剤ではなく、肉体も変化させる本当の強化薬。

 いわゆる市場に出回っている吸血鬼化薬の改良版である。吸血鬼化薬と呼ばれるそれを月理専用に限定することで、吸血行為に走らずに済むという一品。だが、運用は初めてで飲んだ後、どんな変化が起き、元に戻れるか保証はない。それを握りしめて固唾を呑む。血の味が喉にも広がった。それが後押しになる。

 すでに、ダメージの受けすぎで震えの来ている手でなんとか、薬を口に入れた。ことのほか、不味い。苦くて仕方ないのでさっさと飲み込んだ。

 すると、今までの脳の制限解除とは違った力の充足感が身体を満たす。全身が熱くなってきた。肺の苦しさも若干緩和されたような気がする。

「意識が、暴走する……!」

 激しい渇きと飢え。さらに、超好戦的な思考が脳を意識を浸潤してきた。普段から好戦的な月理だが、それを越える思考、意識、感情が押し寄せてきている。

「あああっ……!」

 月理という器が、その思考を受け止めきれずに、破裂した。爆ぜるように月理は、シアに向かう。

 なにも考えられない。攻撃の基本すら思い出せないまま、本能が赴くままに拳を振るう。ちょっとした暴風のように猛狂った。

「く、おのれ! 錬金術師!」

 シアもそれを受けに回る。シアも同じ様な薬を飲んでいるはずなのに、月理よりは冷静な思考をしているように思えた。

 赤く明滅する視界。およそ、理論的ではない攻撃。有効打が入れば、どこでも良いというような支離滅裂さ。

 小さな台風同士は、激しくぶつかり合い、火花を散らす。普通なら、一撃必殺級の攻撃をその小さな身体に受けながらも、怯まない。身体の底から力が湧いてくるようだ。

 シアもこれだけのレベルになると、杭打ちを使うヒマがないようで、不慣れな格闘戦に懸命に追いすがる。

 お互い、まともなのを一撃食らえば、怒濤の流れで攻撃を食らい、勝負が決するだろう。その際、命の保証などない。

 だが、月理は日々野の命を背負っているので引けない。では、シアはなにを背負っているんだろうか。ふと頭の片隅をそんなことがよぎった。でも、考えている余裕はない。

 決着がつかず、数分が流れた。お互い、呼吸は荒くなっている。その様は、興奮した猛獣のようだった。猛逸る気持ちを抑えるのがやっとだ。特に月理は、異常な発汗と、体温の上昇を感じていた。だが、それとは裏腹に思考は沈静化してきている。本当にわずかではあるが。

「私はね、あなたが仲間になる選択をしなかったことだけは評価している」

「?」

「己の目的のためならば、人間すら使い捨てにする貴様ら錬金術師は、なにがあったって許せるものか!」

 悲痛な叫び。それは、月理の心をわずかに揺さぶった。だが、ここで負ける訳にはいかない。それは、シアという人間の意思を尊厳を踏みつぶしたとしても。

 最後の雌雄を決しようとしたとき。一人の男が乱入してきた。コンクリの壁をぶち抜いて。そいつは、月理と愛梨を襲ったメンバーの一人だった。目は煌々と怪しい光を発し、口元は歪に歪んでいる。

「おまえらだけで、お楽しみかよ。俺も混ぜてくれよ」

 この男の壁をぶち抜いた膂力。ほぼ確実に薬を飲まされているだろう。なのに、明確な意思と言葉。クリアな思考を保っているように感じる。これが、「適合者セレクテッド」なのか。

 月理とシアは、戦闘態勢を取る。が、遅い。シアは一瞬で喉元を掴まれ、吊し上げを食っていた。

「く、がぁ!」

 苦しそうに喉元を掻きむしるようにするが、男の手は解ける気配はない。

 月理は、警棒を構え、それを男の頭目がけて振り下ろした。だが男は、それを流れるようにかわす。

「頭を狙うってことは、狙われても文句は言えねえってことだよなぁ?」

 男は、シアを上手投げで月理に向かって投げつけてきた。避けられないことはないが、シアを受け止める。その勢いはすさまじく、月理の軽い身体は、あっさりと壁にまでシアごと吹っ飛ばされた。

「く」

 月理は、ポーチからスモークを取りだして投げつける。ものすごい勢いで部屋の中に充満する白煙。その隙に、シアをどけて、位置を変えようと試みる。だが。

「ひゃははは!」

 男の薬で得た超感覚の前に、目つぶしはあまり意味をなさなかった。哄笑しながら、月理に迫る。投げつけられたシアが邪魔で動けない。

 男の攻撃は、ガードした腕ごと月理の頭に突き刺さる。次に、男はシアを蹴り上げ、月理の腹に蹴りをかました。それで、終わり。月理は、その衝撃で意識を持っていかれた。

 男は、止めを刺そうと一歩踏み出したが、その足をすぐに止める。月理が立ち上がったからだ。

 男は不審な目を向けながら、月理を観察した。

『おや、どうしたのかね?』

 まるで、今のダメージを感じさせない態で優雅とも取れる身のこなしで立っている。

「てめえ、今確かに気絶させたはずだろ?」

 男は、手応えと、結果の不一致に戸惑いを見せた。白煙が、月理らしいものを包み、おぼろにする。

『ああ、人外魔境には人外魔境で立ち向かわねばと思ったのだけれど。まあ、そんなことはいい。どうした? 呆けてばかりで何も出来ぬのか? 敵はこうしていまだ健在。早く撃退したまえ』

 百五十センチに満たない少女のかっこうをした何かが、歪に顔をゆがめそう言った。

「なめてんじゃねえぞ、おらぁぁ!」

 男は恐怖に駆られた。地を蹴る。ありったけの膂力で。目に見えぬ速度での突進。月理も反応できない、男はそう思っただろう。

『肉はいいなぁ』

 白煙を抜けたとき、月理は心底愉快そうな顔で笑っていた。悦に浸っているとはこのこと。男は、最後に恐怖した顔で躊躇い、少し速度を落とした。

『いい速さだ。だが、ちと俺より鈍かったな』

 だが、実際はそんなことに関係無く、月理らしいものは、あっさりと回り込むと首に手刀を落とした。

「があっっ?」

 男は、コンクリートの地面に半分顔を埋めて気絶した。

 それから数十秒後のことだ。月理が意識を取り戻した。

 男は、地面を食ったまま機能を停止している。

「どういうことだ?」

 状況を訝しむ月理。

『すごいな、ミシェル。そなたは気絶してても戦えるのだな。伝え聞くところの、武術の達人のようだったぞ。だが、本当に人間とは素晴らしい!』

「正直に言え。おまえなんかしただろ?」

『いや』

「本当か? 本当に本当か?」

『ああ、もちろんだとも』

「……なんか釈然としないが、今は信じよう」 

『砕かれたアバラは大丈夫か?』

「ああ。今はおまえのおかげで痛みはほとんどない」

 暴れた男から命を奪い取る。びくんとその体を跳ねさせた。隣の部屋にいるはずの他の男を見に行って、月理は顔をしかめる。

「喉が渇いたら、仲間も関係無しか」

 男たちはみな死んでいた。失血死のようだ。

「安心したか、アンディ?」

『なぜだ?』

「あたしが殺さなくても死んでるからな。結果、あたしのおててはきれいなままだ」

『いや、特段安心などしていない。俺はそなたを信じているからな。こいつらが生きていても、どんな激情に身を焦がしていようと、そなたは殺さない。否、殺せない。そうそなたは先ほど選んだのだから』

 自身の正義に照らし友から人生を削り取った。それは、別の言い方をすれば、そう生きることを決めたと言える。他ならぬ、友からさえそのルールに乗っ取って奪うのだから、憎いという理由で人を殺さないという生き方。あくまで裁くのみ。そういう戦い方。それを高らかに、世界に宣言したのと同じである、そうアンドロマリウスは言っているのだ。

「そう、だな。あたしは、戻ることも立ち止まることさえ許されなくなった」

 隣の部屋に戻る。もうもうと立ちこめる白煙の向こうでシアが立っている。

「錬金術師! 私はまだ立っている。かかってきなさい!」

 はっきりと見えないが、先ほどの感じからもう立っているのもやっとだろう。

「おまえが、錬金術師になんの恨みがあるか知らないが、あんまりいただけないぞ? あたしは、おまえの仇の錬金術師ではない。復讐するならするで、当人にしろ」

「だけど、私は錬金術師が憎い。私の体を、友達を、命を実験道具にした連中が憎い」

「じゃあ、あたしが手を貸そうじゃないか」

「なに、を?」

「そんな人の命を道具扱いする連中、正義の味方が許しておくはずがないじゃん」

「正義の味方など。妄想幻想に過ぎない!」

 月理は、大げさにため息をつく。

「確かに、今まではそうだったかも知れない。でも、あたしは目指す。まっすぐに!」

 月理は、ぴんと張った人差し指で天を差す。

「納得できなくても、納得させてやる。それとも、おまえが代わりにアズライールを振り回して、正義の味方になるかい?」

「私の手は、少々穢れが過ぎる」

 シアは、自分の左腕を見ながらそう呟いた。その呟きを聞いたとき、はっきりとこのシアという人間もまた正義の味方に憧れているのを確信する。無理な悪役も恐らく月理と似たような理由であることが想像に難くない。

 だが、アズライールを振り回しすぎである。その分の罪はいつか精算するべきときが来るだろう。だが、月理は今ではないと感じていた。

「人間生きていたら、多少なりとも汚れるもんさ。なんなら、罪の告白をしてアンディに裁きを頼んでみても良いぞ?」

「いや。私はこの罪をあの世まで持っていく。許されるのならばだが」

「そうか。良いんじゃない? 許すも許さねえも自分で決めろ。正義の味方なら自分で背負え。あたしも、自分の罪はあの世まで持っていく」

 シアは、頷くと部屋を出ていった。月理も動き出す。倒れた日々野をかついで廊下へと出て行った。

 閉め切られたドアを開けて廊下に出る。白煙が漏れた。明るい蛍光灯の光に目を細める。

「さてどうする? ここにいる連中だけでも決済しちまうか?」

 日々野の部屋の前には、恐らくアズライールによって絶命したであろう男が二人転がっていた。月理は苦虫を噛み潰したような顔になる。

『今は、逃げることに集中した方が良くはないか? そなたの傷も浅くはない』

「ふむ。確かに、ものすごく眠い。日々野さんもいるし無理はしないでおくか」

『良し、迅速にな』

 人がほとんど散っていたので、また裏口から外に出て、薬の効果を確認して五階の非常階段から身を躍らせた。軽々と着地に成功する。日々野にも問題はなさそうだ。

「終わったか」

 ビルを出るやいなやそんなことを呟いた。目に眼帯をかける。

 ぱん。聞こえ終わる前に乾いた破裂音がした。音のほうを向けば、銃を持った男ががたがたと震えながら立っていた。

「へへ、やった。次は俺が幹部だ!」

 そう叫んで走り去った。

 なにがいけなかったのか。内心ほっとしたのがダメだったのだろうか。

「ひゃはは、は、なんだそれ。あたしは、まだ、死ねな、い、んだ」

 そのまま倒れこむ。

「はあはあ、もう裁きのときが来た? 天使がラッパ吹くにゃ、まだ、はや、いだ、ろ。もう? あ、たし、まだなん、にも。はじ、めてす、らいな、いのに。ほん、と、にはやい、な。まあ、あいつ、らには、わかれすまし、たから。ああ、アイリ。アイリに、あいた、い。ぜん、ぶ、あやま、るん、だ」

 自信の血で真っ赤になった手を虚空に伸ばす。曇天に覆われた夜空が泣き出しそうだった。

「……アイリ…………」

 そのまま意識を失った。

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