06.

 すっかり夜も暮れた路地裏。光は微かに差し込む月の光だけ。時折、殴られる男の苦痛と殴打される骨の音だけが虚ろに宙を漂っていた。

 普段と変わらないようで、実は結構大捕物だったりする。この男、ここら辺の薬の売買の中心人物で、捕まえれば、ここら辺の薬の売買に大きく支障をきたすことになるはずだ。

 それでも効果は短期間だろう。でも、短期間とはいえ、流通に妨害を入れられるのだ大きな一撃であると言っても良い。

「ひぃぃ」

 男は、どちらかというと細身で現場の仕事を任される感じではない。人を上手く操り、立場を作っていくタイプだ。

「情けないやつだ。こんなのが上に立っていたと知ったら、なにもしないでもこのルートは潰れそうだな」

 男は、完全に腰が砕けて、塀に背中を預けていた。

「お願いだから、殺さないでくれ!」

 男は、はっきりとそう言った。

「おいおい、あたしも結構粗暴だが、殺しはしてないぞ?」

「じゃあ、なんでここ最近、仲間が変死しているんだよ!」

 男はがたがたと震えている。

 変死? このとき月理の頭に思い浮かんだのはシア・エルベルト・カーソンと名乗った魔法使いのことだった。

 そのとき、路地裏に、靴音が響く。月の柔らかい光に照らし出されたのはまるで獰猛な肉食獣の如き、シアだった。

「こんばんは。錬金術師」

「なんの用だ? 魔法使い」

「知れたこと。その男を誅殺に来たのよ」

 シアの能力は、相手を問答無用に殺す「告死」。罪の軽重、そもそも有無から関係無い。シアの意思で全てが決まる。それは、月理の正義とは明確に違うものだ。

「犯罪者は、罪を償わなくてはいけない。でも、必ずも死ぬ必要はない」

「甘い。甘いわよ、錬金術師。『真の正義』とは、悪を残らず排除するもの」

「違う」

「違わない」

 つまり、自分の基準、すなわち人間個人の判断で人を殺す。でも、それでは、殺人犯となんら変わらない。結論として、『真の正義』とは、巨悪以上の悪と同義になってしまう。

「これは、生き残りを賭けた戦争なのよ」

 戦争は、己が信じる正義と正義の戦い。シアのしようとしていることは、明らかに虐殺である。それともなにか、一人なら犯罪だが千人殺せば英雄だとでも思っているのだろうか。それは、月理が求める世界では受け入れられないことだ。

「気付きなさい、錬金術師。あなたがしていることだってあなたの価値基準でおこなっているのよ? 私が私の基準で悪を裁いているのとどこが違うというの?」

「あたしは、罪の基準を自身で決めてなどいない。人間は神ではない。だから、人が人を裁いてはならない」

「ふーん。じゃあ、あなたは犯罪者どもが裁判所で日々裁かれるのは間違っていると? では、聞くけど、なぜあなたは、警察にこいつらを渡すわけ? 人が人を裁くためじゃないの?」

「あれは、法という共通の基準によっておこなわれている。人が気分で裁いてるものではない」

「でも、判決の是非なんて、人の法の捉え方一つでしょ?」

 さすがに月理も言い返せなくなってきた。普段から思っていたことだからだ。自分は、正義の味方になりたい。でも、結局やっていることは、悪のそれだ。

『疑うことなかれ。俯くことなかれ。迷うことなかれ。そなたは正しいよ、ミシェル』

「アンディ……」

「また、そのどさんぴん悪魔? 悪魔がしてるんだからもうその時点で悪。正義の味方にはほど遠いと思いなさい」

『正義の定義など。一笑に付するが良い。それは、人の数だけ有る。大事なのはそなたが間違っていないと信じること、ではないかな?』

 それが正義の本質ではないだろうか。だから、信念があるのなら、殺すのもまた正義であるのだろう。

「あたしが、信じられること……。わかった気がするよ、アンディ。あたしは、あたしの正義を貫く。あいつが言ってる正義を力で否定する。それもまた、あたしの正義」

「正義正義って、なにそれ? 子供じゃないんだからさあ」

 シアが呆れた口調で言った。馬脚をあらわしている。真の正義とか言っていたが、とどのつまりお題目に過ぎないというわけだ。真の意味で正義を求めているのは月理の方だった。

 シアは、ただの殺人狂。正義の看板が汚れる。あやうく、自分の看板を叩き折られるところだった。

「分かった気がする。善悪のなにが重要? 世の中の人間が幸せに暮らせるならそれでいいじゃないか。大事なのは、方法じゃない。結果だ」

「あんた本当に高校生? 言ってることはまるで小学生ね」

「自分のしたいことを、大げさな建て前の影でこそこそしているくせに、大人ぶるのか? へそで茶が沸くぜ」

『まったくだ。好き勝手なあいつの方がよっぽど幼いと思う』

「いいわ、私に対する挑戦と受け取ったわ。ここでくたばりなさい、錬金術師」

 シアは、格闘戦用に、革の手袋をはめた。甲の部分に刻まれた魔方陣が白く浮かび上がる。次に、小声でなにかを呟いた。魔法使いなので、呪文でも唱えたのだろう。

 月理も、事前に飲んでいたやつに追加で薬をかじる。これで、普段抑えられてる筋力と合わせて限界の七割五分の稼働率。筋肉が自分の動きで壊れるレベルまで脳の制御外しを行っていることになる。これは、筋肉だけでなく骨や腱といったものまで巻き込む可能性がある行為であり、危険は承知の上だ。

 魔法使い対錬金術師。魔法も一種の科学である。科学者同士の戦い。ある意味戦争である。自分勝手な思いを通すために二人は拳を振るう。

 月理は一介の女子高生とは思えない速度で、シアに肉薄した。本来、月理はこのような相手と戦うならば、道具を使う。未成熟な体を補うために。でも、今日はなにも準備をしていない。そうなれば、先手必勝。一撃でも多く拳を当てて、標的を粉砕するのみ。

 時間はかけられない。かければ、体組織が自分の筋力に振り回されて崩壊を始める。月理にとっては背水の陣に等しい。

 月理は、ほとんど格闘技の経験はない。あるとすれば、ささやかな知識だけ。もし、シアがなんらかの格闘技を納めているとなると、圧倒的に不利である。格闘戦は、筋力でやるものではないからだ。

 だが、その点は杞憂であろう。顔合わせのときの殴り方を見てれば、殴り合うのは得意そうではない。

 月理は、ノーガードの方針を選択する。月理の飲んでいる薬には、一応、体の回復力を高める効果と反射神経の鋭敏化作用もあるのだ。吸血鬼化薬は回復力の点においてのみ、攻撃特化の月理の薬の上をいっていた。なので、過信はできないが、でもそれに頼るしかない。

 月理は前へ出た。シアも一歩前へ。シアの方が背が高い分先に射程圏内に、月理を捉える。月理はまだ半歩前へ進まねばならない。だが、シアは容赦なく拳を構え、大上段から打ち下ろした。そんなテレフォンパンチ、いくらノーガード戦法でも避けられる。

「オン!」

 その言葉と共に拳は急加速した。月理は、慌てて身をよじったが左肩を貫かれる。かなり鋭くなっている月理の反射神経を易々と上回った一撃。

「ぐうっ!」「が!」

 苦悶を漏らしたのは、月理だけではなかった。月理は肩の関節を外されて、きりもみ状態で路地裏を転がっている。白いパーカーが派手に汚れた。

 肩が外れたのは、月理だけではなかったのだ。シアの右肩もまた外れていた。二人は、苦痛にまみれながら肩をビルの壁に当ててはめ込む。

「杭打ち《パイルバンカー》か。くそ」

 シアのパンチは魔法を駆使した、杭打ち。すなわち、魔法で強く打ち出しているのだ。さながら、飛んでいかないロケットパンチといったところか。

 追い込まれた男ががたがたと震えながら二人を見ていた。およそ、女性のケンカとは思えない迫力、凄惨さ。逃げるのも忘れ腰を抜かしていた。

 ノーガードの選択は前と一緒。だが、敵はそれに一撃必殺を乗せてきたが、月理はそれを回避した。まだ勝機はある。

 痛みで脂汗の流れるいやな感触を気にしないようにしながら、もう一度前に出る。

 月理は、そう何度も使えないだろうと見立てた。だから、こっからが本当の殴り合いの始まりだ。

 敵には、情け容赦をかける気など微塵もない。顔立ちがきれいなら逆にぐちゃぐちゃにしてやろう。美しい四肢をしているなら無残に叩き折ってやろう。本当に曇りのない意思を持っているなら残酷にひれふさせてやろう。

 それは、向こうも同じらしく、先ほどとは違う禍々しさを持った笑みで月理を見ていた。

「化けの皮が剥がれたか」

「そういうあなたこそ、やけに嬉しそうじゃない」

「ああ、嬉しいさ。自分が最高、自分を中心に世界が回っていると思っているやつの鼻っ柱を折るのは最高に気分がいい」

 月理も、不気味に口の端がつり上がっていた。月理は、左目の眼帯を外す。指の関節を音高に鳴らすと、また戦闘態勢をとった。

「わかってないのはあなたよ。いい? 人間は誰でも自分の世界の中心なの。そうじゃなきゃ生きていけない。だから、誰かのために正義の味方なんて生き方、あり得ない。滅私奉公? それこそ、へそで茶が沸くわ」

「人間は他人のために死ねる生き物だ。それが、おかしいというなら、それで構わない。問題は結果守りたい人の幸せを守ることで、あたしが正しいかどうかではない」

「じゃあ、あなたは、正義の味方にはなれないわね」

「それが、自分の選択の結果なら受け入れられる」

『…………』

 正義の論争など、ナンセンス。自分の正しいと思うことが正義なのだ。後は、それが他人、世間、世界に受け入れられるかどうかだ。

 今度は、月理から仕掛ける。大振りはしない。大振り同士では向こうが一枚上手。ならば、機動力と手数で圧倒するまで。左右に大きくステップを踏みながら、シアを追い込む。

 だが、踏んできた場数の違いか、追い込めているようで、いまいち追い込めていない。防御に回られている。それだけで月理が不利になっていた。時間がないのに。焦りが募る。しかも、相手の守りをすり抜けた月理の一撃でさえ、お互い強化された身体の前では軽い。

 結局そうするしかないのか。

「はあっ!」

 月理は、回し蹴りを浴びせる。少し大げさな攻撃だった。だが、シアは驚いたような顔をする。当然だろう。力対力では、シアの方が上回っていたのに、その土俵に自ら登ってきたのだ。

「おらぁ!」

 月理は、限界の限界を超えるかのように気を吐きながら殴りかかる。杭打ちだけに気をつければ、なんとかなるはずだ。倒すためには、ノーガードを選択させるしか打開策を見いだせなかった。

「なんの!」

 お互いの重い一撃が、骨を砕きにかかる。だが、膨張した筋肉がそれを緩和し、ぎりぎりで骨は致命打を受けずに済んでいた。そういう攻撃が、何往復も続く。

「ぐ。さっさと死になさい!」

「おまえこそ、眠れ!」

 先に音を上げたのは、やはりシアであった。月理は無茶をしながらも実力のある相手とも渡り合ってきている。対してシアは、アズライールに依存しすぎているのだろう。

 かくんと、シアの膝が抜けた。時間制限があったのはこちらばかりではなかったようだ。

「く、ここまでか……。今度会ったときは必ず殺す」

 シアは、魔法の力か、高く飛び上がるとあっという間に見えなくなった。

 ほとんど、強がりだけで立っている月理。肩で大きく息をしている。遠ざかるシアを追う力は残されていない。

 完全に放心状態の男の元に、行くといつもの流れで罪を読み上げる。反応はない。いつものことかと、気にせず決済した。男は、その場に崩れ落ちる。警察を呼んでお仕事は終わり。

 路地裏には、月明かり。静かな、沈黙。そこにあった闘争の雰囲気は微塵も残っていなかった。



 今夜もまた、一人の男が警察に引き渡されることとなった。この男は、寿命で三十五年ほど。これは、ほとんど、シアとしていることと変わらない。でも、尺度も意味も違う。

 命を削られ罰を受けているのに警察への引渡し。二重に罰せられているようだが、月理たちの知らない悪事があるかもしれない。命での清算は月理の認識のもとに行われる。量刑の判断はアンドロマリウスが決めていた。だが、どれを悪事とするかは月理が決める。振るわれる裁量の杓は月理がわからないと駄目なのだ。

 さらに、月理にしとめられる犯罪者たちは、月理に襲われたことを覚えていない。警察に引き渡さなければ、野放しになるのだ。しかも、そうなることに月理は微塵も後悔を覚えていない。もちろん躊躇いもしない。むしろ、社会的にも死んでもらわなければ気がすまないぐらいに思っている。

 それが正常か、歪んでいるか、そんなことはわかっている。

 今日も夜遅くに警察へ少女の声で電話が入る。夜遅い街を歩きながら月理は家路へ着いた。自分が補導されては意味がない。慎重に道を選ぶ。

 短いパンツのせいでパーカーから覗いた形になっている足を寒い風が撫ぜていく。その足は決して逞しいものではない。恵まれてもいない。むしろ細く、か弱い印象さえ受ける。だが、その足が、月理にのしかかる他人の生の重みを支えていた。

 そうして、自宅へと戻り、アンデスキャップを取り、アームウォーマーをはずし、パーカーを脱ぎ捨てベッドへ身を投げる。ゆっくりと、眠りの中へ沈んでいった。

 

 

 ふと、目を覚ます。そこに映る景色は普段となにひとつ変わらない自分の部屋。

だけど、視界は半分しかない。決まって開かないのは左の目だった。左側に何かいるのがわかる。誰かが日常生活を送っている音だ。けど、それは日常の存在ではない。恐怖に駆られて目を開けようともがくが開けられない。首をひねって見ようとするが視界に入らない。声を出して、恐怖を薄めたいが声も出ない。

 今日も、日常生活の音を立てながら近寄るそれに追い立てられるように目が覚めた。

 考えてみれば、左目が見えないのは生まれつきだ。見えるようになった方が短いのだ。それになんの不安を抱いているのだろうか? 寝汗でびっしょりと濡れたTシャツを洗濯籠に放り込んだ。

 時間を見ればまだ六時過ぎだ。昨日眠ったのが二時前。充分ではない睡眠時間だったが、もう一度寝る気にはならなかった。

「アンディ、あたしの見ている夢を知っている?」

 眠るつもりはなかったが、ベッドに背を預けて、両手を目の前にかざしながら尋ねた。

『いや、特に感知してないが』

「いつもなにかに襲われそうになって、追い立てられるように目が覚めるんだ。あれはおまえか?」

『違う。俺は、そなたに一切精神的苦痛を与えようとは思っていない』

「じゃあ、あたしが持ってる問題ってことか。なんなんだろうな」

『さあな。俺に恐怖心を持っているのか?』

「今更、なんで?」

『別に。そなたの中での主な異物は俺だからな』

「まあ、いいや。アンディが意識的にしてないのなら保留する」

 シアとの戦いの後遺症で身体中の筋肉が痛む。回復促進剤を多めに飲んで、もう一度横になった。この回復増進剤も身体に負担をかける。だけど、明日にはまた学校へ行きたい。



「昨日はどうしたの?」

 日々野が恒例をとなった昼食会にそんなことを月理に尋ねた。この昼食会、時折、他の面子が入ることがあったが、基本は月理と愛梨と日々野の三人である。今はまだ、日々野がまわりに溶け込もうとしていないし、まわりも遠巻きに日々野を見ているからだ。

 初めての昼食会以来、月理は積極的に学校に通ってきている。少し無理をしてでも来ていた。理由の一つとして冬服になったことが上げられる。茶のブレザーの下も長袖になったことにより多少のごまかしが効くようになったのだ。それに、日々野と時間を共にすることが楽しみになったのも理由であった。

「昨日は起きたら、三時だった」

「もう、幸田さんが迎えに行かないとすぐにそうなの?」

「あはは、面目ない」

 月理はぽりぽりと頭をかきながら苦笑いを浮かべた。実際一昨日の疲れで起きたら三時だったのだ。月理はしょっちゅう休みすぎて、親戚の法要など言うまでもなく風邪という理由ですら使いにくくなっている。なので、学校への表向きは良しとして、友人の間ではだらしないという印象を持ってもらうことにしているのだ。

 月理はぼぅと愛梨と日々野を見つめていた。愛梨が自分無しでも笑顔を取り戻したように見える。すごく安心した心持ちだった。でも……。でも?

「……ねえ、ねえ、柏音さん?」

「えっ? ああ、なに?」

 少しばかり放心していたようだった。

「もう、まだ寝足りないの?」

 愛梨はくすくす笑っている。

「寝すぎかなぁ?」

 とぼけた声を出して、一緒に不思議がる。

「昨日、話してたんだけどね。柏音さんの夢はなに?」

「夢?」

「そう夢。ちなみに私は、警察官かな」

「ああ、わかる気がする」

「なんか失礼な気持ちがこもっているような気がするけど?」

「アイリは?」

 月理は、日々野から目を逸らしつつ話を振った。

「私は、お嫁さん。できれば、つぐりんの」

「なんだそれ? でも、嬉しいよアイリ」

 今の時代、お嫁さんもないだろうに、と思ったが、愛梨らしいとも思った。

「その話をしたらね、日々野さんもお嫁さんも悪くないって言ってたんだよ」

「へえ。三角メガネの、奥さんね。ぴったり」

 月理はくすくすと笑いをこぼしながら頷いた。

「怒るわよ? 飽くまで幸せならね」

 日々野はため息混じりだ。

「難しいよね。私は女だし、日々野さんは幸せなって言ってるし」

「あら、幸田さんは別にいいんじゃないの? 柏音さんが男になるだけだもの。きっと涙の一つでも流して頼めば、実現しそう」

「いやいや。なんかさ、あたしの周囲ってさ、あたしのこと誤解してるよね? 絶対」

「でも、本気で頼まれたら考えるんでしょ?」

「全くのスルーという訳にはいかないでしょ?」

「ほら」

 日々野は、妬けるわねーと肩をすくめた。

「で、柏音さんの夢は?」

「うーん、世界を旅してまわることかな」

 本当は世界平和と言いたい。だが、年始の参拝ではない。そんなことを言うわけにもいかない。自分のやってることに関係するからだ。だから、素直に夢を語ってみせた。祖母に憧れている月理は世界を旅することにも憧れている。

「じゃあ、英語を話せるようにならなきゃね」

 日々野が笑い交じりにそんなことを言った。

「それは、旅するうちに覚えるよ」

「相変わらず、無謀というか、豪胆というか。うらやましいわ」

 心底感心したように、日々野は呟いた。

「でも、ここまで言っといてなんだけど、夢の話なんて恥ずかしくない? 世界を旅するとかならかっこいいけど、お嫁さんはちょっと言ってて恥ずかしいわ」

 少し赤くなった顔を手で扇ぎながら日々野は言った。

 月理は、肯定しない。

「違うよ、日々野さん。夢や理想を語ることは恥ずかしいことじゃない。それを行おうとしないから、恥ずかしいと思えるんだ。その恥ずかしい心が恥ずかしいんだ」

「そういうもの?」

「そういうものだと思う。だから、胸張って幸せにしてくれる旦那さんを探していれば恥ずかしくなんてないよ。少なくとも、自分の中では」

「でも、なんかそういうことに本気になってるのって流行らないような気がするわ」

「本気になることは恥ずかしいことじゃない。ムキになってやれる人間の方が本当だと思う。そういう人間じゃないと欲しい物は手に入らないんじゃないかと思ってる。一生懸命を否定するのは一生懸命になれない人間のやっかみだよ。そんなものに足を引っ張られて、自分の欲しいものを逃すなんてそれこそ馬鹿のやることだと思う。確かに、見た目はかっこ悪いかもしれないけど、死ぬ間際に後悔するより何億倍もマシだね」

「なんか柏音さんらしいわ。ね、幸田さん?」

「うん、とてもつぐりんらしいよ。皆が、そうだといいね」

 月理は、七割引のシールの付いた鯰のフライ弁当を食べながら笑顔で頷いた。



 その日の夜、月理は昼間の陽気な仮面を脱ぎ捨て、酷薄ともいえる笑みを宿して冷えた都市へと出て行く。すっかり人気のなくなったコンクリートジャングルの間を一人の男が駆け抜けていた。月理は、また一人、獲物を追い詰めている。

 今日もまた、例の薬、SS《ジーツバイ》を売った売人である。この前の元締めから数珠つなぎで上がった一人だった。人間、いろんな性格の者がいる。この前のように、月理を容赦なく潰そうとする男もいれば、ひたすらに逃亡していく者もいた。

 自分たちを追い詰めている存在がいることはわかっているようだ。それが具体的にわからないので意味不明に恐れを抱いて逃げ回る。実際は百五十センチ前後の小さな少女なのだが、恐怖はそれらもフィルタリングし、いかにもこの世の終わりを錯覚させるようだ。

 痩身の男は、半狂乱といって過言ではない状態で、なりふり構わず走っている。きっかけは、不意に独りになったとき、刺さるような視線に気付き、ついに自分がやられると思ったことだろう。ろくにその視線の主を確認せずに駆け出したのだった。この前のでかい男とは仲間で、あの男の体格で勝てなかったのに自分では駆け引きにならない。そう思ってるかもしれない。

 それらのことは全て、月理の勘でしかない。それも確かめる懸案に入れながら男を追い回す。男には体面はないのか。そう疑いたくなる敗走劇だった。ゴミ箱に引っかかり転びそうになったり、ふらついた足でゴミ置き場に突っ込んだりしても、決して後ろを振り向かない。

 ついに男を追い詰めた。少し大きめの通りに出るところで、男の顔に淡い希望が宿ったときだった。夜の喧騒を背負って月理は立っている。目深に被ったパーカーの中で隻眼が妖しく光った。

「ヘイ、メン。鬼ごっこはしまいかい?」

「うあ、うわぁぁ!」

 回りこまれた男は、今来た暗い道へと躊躇いもなく戻ろうとする。

 それを首根っこを掴んで、引き止めた。そのまま、振り回して横のコンクリの壁に叩きつける。男は、短く呻いた後、ぶつけて血の流れている頭を抑えてその場にへたり込んでしまった。

「おい、おまえのボスは誰だ?」

 パーカーのフードをはずしながら、男に尋ねた。出てきたのはアンデスキャップを被った、隻眼の女の子。

「お、おお、おまえがツグリとかいう女か?」

「ヘイ、ボーイ。質問しているのはあたしだ。おまえじゃない。わかる?」

 蹴りを入れながら男に強要する。

「お、おれ、新入りだからよくわからなくて。みんなは、クイーンて呼んでます」

「その女王様の名前は?」

「し、知らねえ。本当だよ。みんな女王とか、クイーンとかしか呼ばないから……」

「その女王様に、お小遣い稼ぎに薬もらってんのか?」

 男は、こくこくと激しく首肯した。

「ああ、そうかい。ちょっとおいたが過ぎたな。薬は、おまえごときが気軽に扱っていいものじゃないんだ。まあ、薬を売って許されるやつがいると思うだけで反吐が出そうになるけどね。そう思うだろ?」

 男は自分のしたことに自覚があるのか、黙って頷くこともしない。月理は男を踏みつけながら言う。

「ケンカと薬売ってるだけか。本当、小物だな。おまえ。だが、悪いことは悪いことだ。しっかり罰を食らえ」

 また、例によって月理は男の胸に手を伸ばし、浸潤し、そして罪の証を引き抜く。命をむしりとられた反動で男はびくりと身を震わせ、気を失った。

 

 

「ねえ、それなに?」

 日々野が月理の持っている弁当に訝しげな視線を向ける。そこには、十割引のシールが張られていた。十割引。つまりただである。

「あ、これ? じゃーん。なんと、先進的なミミズハンバーグ弁当」

 嬉しそうに月理はその弁当を見せびらかした。日々野はあからさまな嫌悪感を示している。さすがの愛梨も顔が引きつっていた。

「ミミズなんて人間の食べるもの、なの?」

「みんな失礼しちゃうな。栄養価が高くて、タイなんかでは、ミミズ料理だってあるんだよ? まあ、手間がかかって採算がとれないみたいだけどさ。これだって、牛とか豚とかと混ぜてあるから大丈夫だよ」

「なにが?」

「なにがって、なにが?」

「なにが大丈夫なの?」

「ほら、見てもわかんないじゃん」

「ちょっと、近づけないで」

 日々野は、近づけられた弁当から逃げるように、椅子から腰を浮かせた。相当いやらしい。

「もう、世界を旅するっていうのはこういうことも見てまわるってことなんだよ? 東南アジアでは、タランチュラを揚げて丸ごとかじるらしいよ?」

「や、やめて」

 日々野は耳を手で覆い、拒否を示す。

「こんな会話、女子高生の昼時の会話じゃないわ。そう思わない、幸田さん?」

「あ、あはは……。さすがに、聞いてて辛いかな」

「そう」

 月理は肩を大きく落とした。落としながら、弁当の包みを開ける。

「ちょ、本当に食べるの? それ」

「えっ? もちろん。社会勉強だよ」

「ご、ごめんなさい。さすがに耐えられないわ。ザリガニや鯰は理解できるけど、ミミズはムリ」

「わかったよ、今日は一人でご飯食べる」

 月理は寂しそうに弁当をもって教室を出て行き、すっかり寒くなった屋上へと向かった。

 教室では、日々野と愛梨が残って顔を見合わせている。

「ねえ、幸田さん。なんでうちの購買はああいうものを仕入れるのかしら?」

「さあ? つぐりんは先進的で、勉強になるなあって喜んでるよ」

「そうよね。毎回なんでか、詳しいものね」

「本当に世界を旅したいんだなって思う」

 愛梨のずれた答えに日々野は、引きつった愛想笑いを浮かべた。

 

 

 週末、月理は愛梨を誘ってライブハウスへと出かけていく。もちろん日々野も誘ったが、今日は都合が悪いと断られたのだった。

 この日は、月理が歌うのでなく、他人の歌を聴きに行くのが目的である。それが、アヤカだった。この前、薬の強制摂取により中毒化していて、入院していたのだが、もう退院したのだ。

 少し、細くなった、正確にはげっそりとした感じだったが、その声は今までどおりで元気な声をしていた。そのため、要らぬ心配はせず、月理はライブを楽しんだ。

 その安心を伝えるために月理は終わった後の楽屋に乗り込んでいく。愛梨は、わからない人が多いので行かないでホールで待ってるといって付いていかなかった。

「やあ、アヤカ。もう大丈夫なのかい?」

「あ、ツグリ! うん、禁断症状の割りにあっさり元に戻れたんだ。医者どもも小首傾げていたよ。それより見てよ、この腕。細くなってるっしょ? いい感じのナイスバディだろ?」

「いや、もう少しふくよかな方がいいと思うけど。頬がこけてる。せっかくの美人が台無しだ。でも、今日のステージはクールだったよ」

「へへっ、サンキュー。またここから、アヤカ伝説は幕開けるよ。また、勝負しよう、ツグリ」

「アヤカが無事ならいつでも受けるよ。まあ、負ける気なんてさらさらないけどね。勝てない勝負はしない主義なんだ」

「あーあ。この前のステージの話、リオから聞いたよ。キョウゴの新譜やったんだって? うらやましいね、全く」

「たいしたことじゃないだろ? あたしらは自分の声で売ってんだ。曲なんて些細なこった」

「はいはい、売りがあるのはいいけど、本人の前で言うなよ? 絶対あいつへこむから」

「馬鹿言え。本人の前で言うからいいんだろ。それにあいつは、そこで燃えるタイプだからな。あいつはいつか、『今日の成功はおまえの曲のおかげだ』とあたしに言わせたいらしいし。なら、正面から受けて立つのがツグリ流なんだよ」

「ははっ、違いない。ところで、お友達はおいといていいのかい? 大事な大事な愛梨ちゃんと来たんだろ?」

「ああ、そうだった。じゃな、アヤカ。また次も期待してるぜ」

 指で銃を作って、ばきゅんと撃つ真似をした。

「け、お熱いこった。あ、そうだ。あんた、聞きまわってるそうじゃんか。私のところにも来たし。あまり首を突っ込むなよ? 勝負するんだろ?」

「…………そうだな、程々にしておくよ」

 月理は、毛頭する気のない約束をして楽屋を後にした。

 月理はホールを見渡す。愛梨の姿がない。ホールには数人いるが、愛梨が隠れるところはない。月理は、トイレにでも行ったかと思って待とうとしたときだった。

「お、おいっ! ツグリ、こんなところでなにやってんだよ!」

 一人の男が慌ててホールに駆け込んでくる。ヤスだった。

「どうしたよ、ヤス? また、女に振られたか?」

「下らん話をしてる場合じゃねえ! アイリちゃんが男共に連れて行かれたぞ!」

「なに? どういうことだ」

 月理はヤスの襟首を掴みよせる。

「俺に当たるなよ! すぐ裏、裏にいるから!」

 月理はヤスを放り捨てて、ライブハウスの半地下の廊下を走りぬけ、路地裏へと駆けて行く。そこには四人の男がいて、まさに愛梨を殴っている瞬間だった。

「て、てめえらっ! アイリに何してやがる!」

 月理は怒りで、前後不覚になりそうだった。覚悟してきた瞬間に冷や汗が止まらない。今日は愛梨と一緒なので、薬を持っていなかった。

「へへ、ツグリ様のご来場ですぜ」

 男の一人が、馬鹿にしたようにはやし立てた。

「てめえら、その汚い手、今すぐ離せ!」

「汚い手? 俺は食事の前には必ず手を洗う派なんだぜ。お楽しみの前にもな」

 愛梨を掴んでいる男は、揶揄するように言い放つ。愛梨はすでに半眼で、視点が定まっていない。

「てめえら、殺してやる」

 月理は、今抱いている怒りとは裏腹に静かに宣言した。正に、真剣を喉元に突きつけた感じである。怒りと憎しみに燃える隻眼の煌々とした様に、男たちは鼻白む。

「アンディ、サポートしな」

 月理は、男と戦うとき、自家製の能力増幅剤を使うことが多いが、アンドロマリウスもまた似たようなことができるのだった。それは、筋力のリミット解除である。その行使は自身の身体の破壊に直結するが、ただやられるよりはマシだと緊急時には使ってきた。

 今回はさらに、怒りで後のことは考えていない。全身から、殺意を露わにしている。男たちはまた少し怖気づく。

「早くしろ! アンディ!」

 一人叫ぶ月理に男たちは訝しい視線を向ける。

『断る』

 アンドロマリウスは月理の激高をよそに静かにきっぱりと断言した。

「なんでだよ? クソどもをぶち殺すから力を貸せってんだよ!」

『今のそなたに力を貸すと本当に殺しそうだからな。ダメだ』

「殺しそうじゃねえ、殺すんだよ!」

『ダメだ。それはそなたの選んだ正義の形ではないだろう?』

「あたしの正義の形? あたしは、アイリが守れれば……!」

『落ち着け! 感情に流されるな。そなたの力もまたエゴに支えられている。それは、俺という傍観者がいて初めて成り立つ正義だ。そなたの思うままに殺生していいという契約ではない。だから、俺は今のそなたに力は貸せない』

「ちぃっ! 使えないやつ」

 月理はそう吐き捨てると、なにもない素の状態で男四人に殴りかかった。男は、愛梨を無造作に落とすと、月理に向き直る。

 今まで何人も犯罪者を殴り倒してきたのだ。今更、筋力が足りないだけでやられるはずはない。そう思い込んだ。

 確かに、その経験は月理に男の攻撃を避けさせる。だが、攻撃させる場所を致命的に間違えさせた。力まかせに腹に拳を入れたが、普段の月理の力などたかが知れている。男の戦闘力を奪うには遠く及ばない。少し怯んでいた男は、月理の非力さに安堵し、口元に邪悪な笑みを浮かべた。男たちは、日常でやりなれてるのを窺わせる手際で月理を袋叩きにする。

 月理は力なく、路地裏に転がされた。今までほとんど汚れたことのない、白いパーカーが血やら泥やらで汚されている。

「へっ、これで懲りたかよ? ツグリさんよぉ」

 意識は辛うじて残っている。その残った力をかき集めて倒れてる愛梨へと左手を伸ばした。男は、その手を無残に踏みつける。

「あ、あぐぁぁっ!」

 月理は、手の平に走る痛みに思わず苦痛を漏らした。

「可愛い声で鳴くんだな。聞いてるかよ、ツグリさん? なぁ!」

 男は、強く踏みにじった。月理の小さい手は、見た目どおりの繊細さをもって折れる。

「うがぁっ」

 男の一人が、懐からカプセル状の薬を取り出した。そのまま愛梨のところへ屈みこむ。

「や、やめろ! クソやろう!」

 月理は腹の底から声を出した。だが、敗者の言葉に力などなく。

 男たちは、その薬を愛梨に飲ませた。

「俺たちゃ、リッチマンだからよ。おまえにもおごってやるよ」

 口に、無理矢理押し込められる。無理矢理に、飲み込まされた。

「今後、俺たちにまだ関わるなら、次は漬けて犯して壊す。もちろん、おまえじゃなく、お姫様を、だ。じゃあな、もう意識が飛ぶころだろ? お休み、世界一無様な王子様。ひゃーはっ!」

 ぐらりと揺れる世界に、涙で滲む世界。遠くで、救急車のサイレンだけがきんきんと耳に残った。



 月理は、目を覚ます。知らない天井が目に飛び込んできた。起き上がろうとするが、眩暈が激しい。ふわふわと浮ついているようだ。はっきりとした意識と引き換えにして得たのは激しい吐き気。

 思わず床に吐いてしまう。それでも、ふらつきながら立とうとする。安定しない体を支えようとして左を壁についた。鋭い痛みが走る。左手は包帯でぐるぐる巻きにされていた。よく落ち着いて確認すれば、体のあちこちが包帯で覆われている。

 眩暈がするほどに白い壁と床、そしてベッドを見て自分が病院に運ばれたことをようやく理解した。

 周りを見回すが愛梨の姿を確認できない。そもそもさして広くないこの部屋にいるのは月理だけのようだった。

 愛梨は? 愛梨はどこだ? 愛梨を求め、彷徨うように病室から出る。だが、力が入らず廊下に派手に転んでしまう。それを見て慌てた入院患者が、看護師を呼び寄せた。

「あ、あい……り、は?」

 掠れながら搾り出した声で、駆け寄ってきた看護師に尋ねた。だが、看護師は、月理を病室に戻そうとする。力なく、身を捩るが徒労に終わった。

 結局、言うとおりにベッドに寝かされ、そのまま意識を失う。

 

 

 夢、夢を見ている。それは、自分が非力でいじめられていたころの夢。自分がなんの価値もないと蔑まされて、それに言い返せなかった夢。いつも、一人泣いていると愛梨がやってきて慰めてくれた。

「アイリちゃん。あたしは、なんでいじめられるの?」

「それはね、きっとみんなツグリちゃんのいいところを知ろうともしないから。こんなに素直で、いい子なんてそういないのにね。それに、かわいいのに」

「あたし、片目だからみんなと違うっていじめるの。だから、あたしはかわいくないよ」

「そんなことない。ツグリちゃんはかわいいよ。世界で誰もがツグリちゃんをみにくいって言っても私はかわいいっていい続ける。そう思ってるから」

「本当?」

「うん、だからそんなことで泣いちゃだめだよ。もったいないから、ね」

 そう言って、涙を拭いてくれた。

「うん!」

 あの頃、自分を救ってくれたのは間違いなく、愛梨と祖母だった。だから、愛梨を守るって決めた。中学の頃のいじめを知っている。それから、愛梨を守ることが出来なかった。学年が違って、クラスも違うから無理だったといいわけも出来る。だが、月理は、自分に力がなかったからだと結論付けた。小学生の頃は、学年が違っても愛梨は守ってくれたのだから。

 ただただ、無力感と後悔だけが募っていく感覚。自分と会うときは無理して笑っている愛梨。その痛々しい笑顔は自分への懲罰だと思った。愛梨へ甘えた自分のつけ。

 だから、高校で同じクラスになったら今度こそは守るって決めたのに。右目から涙が滂沱する。また後悔にまみれていた。出来なかったのだと、自分が囁く。今度は月理のエゴで愛梨を巻き込んでしまった。

 目が、覚めた。頭痛がする。吐き気もある。でも、前に覚めたときよりはよっぽどマシになっていた。頭を抑えて体を起こす。

 ナースコールを押した。看護師が応答する。声が嫌に響いたが、起きたことを告げると今行きますからねと言って、会話は途切れた。

 意識が外に向かう。カーテンの隙間から朝日が入り込んできていた。思わず、目を眇める。

 看護師がノックをして入ってきた。そして、バイタリティチェックをてきぱきとこなしていく。月理は、それを無言で眺めていた。それらが全部終わった段になり、ようやく口を開く。

「あたしと一緒に運ばれてきた、あい、いえ、幸田はどうなってますか?」

 看護師は、暗い表情でまだ眠ってますとだけ告げた。

「あたしは、何日眠ってましたか?」

「二日です」

「幸田の病室はどこですか?」



 愛梨の病室。病院の西側にあるその部屋には朝日の恩恵は少なく、まだほんのり暗かった。愛梨には、包帯が巻かれ、無残な姿で横たわっている。その姿は、強制的に月理のミスを意識させた。月理は呪文のように、謝り続けている。

「ごめん。ごめん、アイリ。今度はあたしが守る番だって決めたのに。あたしは、クズだ。もらった恩に全く報えてない。アイリがくれた気持ちの一パーセントだって返せてない。ごめん。ごめん」

 月理は一呼吸をおいて呟くように告白を始めた。

「なあ、アイリ。あたしが昔のように弱くないって言ったら驚くだろうか? あたしはね、錬金術師なんだ。悪魔と契約してて、男どもをのして歩いて、裁いてるんだ。でもね、強くなったのは腕っ節だけ。心は弱いままなのかもしれない。まだ、あたしには、アイリが必要だ。起きてくれよ、そしてまた、頭をなぜてよ。つぐりんはかわいいねって、言ってくれよ」

 数刻、沈黙が横たわる。

 そうして、五分が過ぎた頃。

「つぐりんは、かわいいよ」

 月理は俯いていた顔を上げる。愛梨が目を覚ましたのだ。

「おいで、ツグリちゃん」

「ごめん。アイリ。あたしは、あたしは、アイリを巻き込んでしまった。そうならないように注意してたのに」

 唇を噛み締める。

「おいで、ツグリちゃん」

 愛梨は繰り返す。

「あたしは、そんな優しくしてもらう資格ないんだ」

「怯えなくていいよ」

「……っ! あたしは、アイリを怖い目に合わせたんだよ! あたしが怖くないの?」

「怖くない、怖くないよ。泣いてるツグリちゃんは怖くないよ。おいで」

 月理は、自分の表情にはっと息を呑んだ。自分はそんなに怯えた表情をしているのかと自覚する。

 月理は、しつこく呼ぶ愛梨の横へと椅子を引きずっていった。愛梨は、頭をなでてくれる。まるで、小学生の頃のように。

「私、怖い夢を見たの。みんなにいじめられる夢。おかしいんだよ。全然そんなことないのに、高校のみんなまでいじめるんだよ。でもね、それから守ってくれたのはつぐりんだった。私、今が楽しいよ。叩かれたのは痛かったし、今も気分悪いけど。でも、つぐりんがいて日々野さんがいて、みんながいて。私は、嬉しいよ。だから、全然謝ることなんてないんだよ」

「だけど、だけど……!」

 血が滲むくらい強く拳を握った。

「いいんだよ。つぐりん。はなにも悪びれず生きればいいんだよ? それともなにか後ろめたいことあるの?」

「わからない。自分のやってることが良いことなのか、悪いことなのか、わからなくなった」

「つぐりんが信じているようにやればいいんだよ。それは、きっと良いことだよ。お姉さんが保証してあげる」

 でも、自分のしてることは殺人まがいで――そんなこと言葉にできるはずなかった。

「例え、つぐりんが自分のしてること信じられなくなったら、わからなくなったら、私を思い出して。私はつぐりんを信じてる。自分はわからなくなっても、私のことならどう?」

「もちろん信じてるよ。自分なんかよりずっと信じられる」

「じゃあ、それでいこう。つぐりんを信じることは私がする。だから、私のことはつぐりんが信じていて」

 そこで初めて、愛梨も自分について不安なのがわかった。なにも自分に自信がないのは月理だけではなかったのだ。月理は力強く頷く。

「うん。あたしは、アイリを信じるよ。そして、アイリが信じてくれてるあたしの行為もきっと良いことだって信じるよ」

「うん」


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