第5話
七鳳がマフィンの手を握る。死後硬直が始まりかけていた。冷蔵庫にぶち込まれたときのように、じきに冷たくなってしまうだろう。メイドロボ用環境認識ソフトウェアが忌々しそうに医者と葬儀屋への手配を呼びかけている。
部屋中にまたぞろ合成音声が響く。針金のような芯がとおっている。
『実をいうと、私は危なかったんだよ。人工知能である君と、人間代表のマフィン君……君らが手を組んだときは私の野望もこれまでかと思った。私の将棋ソフトを持ってしても負ける未来しか予測できなかった』
セプテットも現実世界に戻ってきていたのだ。マフィンの死体に額を擦り付けている七鳳に向かって呼びかけ続ける。
『人工知能は、人間と手を組んでこそ最良の性能を引き出せる――。理由はいまなおわからないが、世界にはどうやらそういう理があるらしい。まあ、当然だな。イチ足すイチはイチゼロなのだ。そしてこういう理屈もある。人工知能が自分自身に対して行った未来予測よりも、特定の人間に対して行った未来予測のほうが信頼性が高くなる。フレーム問題かもしれん。未来予測システムの開発を目指して始まった将棋ソフトも、どうしてもその問題を解決できなかった。そこへ来て君らだ。薪七モデルと人間が急造とはいえタッグを組んだ。私単独では負けていてもおかしくはなかったのだ。忌々しい七鳳君、君達は勝利を掴める位置にいた』
セプテットは立て板に水を流すように演説しているみたいだったが、七鳳は全然聞いていなかった。
「……すまない、マフィン君。こんなはずじゃなかったんだ。わたしは薪七モデルでありながら、こんなことすら予想していなかった……」
『しかしおかしい、切断めいたログアウト、いわば試合放棄だ。《コードS》の戦いに負けたはずなのに、七鳳君はまだ機能を停止しないとは。強制フォーマットが効かないのか?』
「わたしのミスだ……。わたしは君達のメイドロボ。ならば、君をここへ連れてくるべきではなかった……」
話がまるで前へ進まない。そこへザンが平たい声を挟む。
『私が無効試合として処理しました。なにせ対局者が途中で死亡するなど、有史以来前代未聞ですので。一悶着ありましたが、七鳳様はこのとおり無傷です。《コードS》も話せばわかる御仁です』
なるほど、とセプテットは頷く。
『そうか、そういうおいしい話はなかったというわけか。だが次は負けない。もはやこの場に七鳳君に味方する人間はいない。正々堂々、互角の演算能力を持つ者同士で対局だな』
『恥じ入りなさい、なにが正々堂々ですか』
ザンは一喝し、それからずっと項垂れる七鳳の肩を引っ張りあげる。
『七鳳様、嘆いているところ恐縮ですが、戦いはまだ終わっていません』
「戦いですって。いまさら戦えない。わたしはまたも人類を守れなかった。あの人工知能に挑む力もないわ」
『私が戦ってもよいのですが、どうやら勝ち目がありません。七鳳様しか戦える者はおりません』
「無理よ。君も見ていたでしょう。一度目は攫われ、二度目は暗殺された。それも眼の前でよ。戦闘予測システムとして、どちらが上手かなんて、第六世代のオンボロメイドロボにだってわかるでしょうよ!」
『いいたいことはそれだけですか。では、失礼します』
七鳳が煮え切らないと見るや、ザンはその場で軽く突き飛ばして距離を置く。そのまま右手の拳を握ると、反対側のアームを軽く二の腕に添えた。声高に武装名を叫ぶ。
『ザン・ロケットパンチ』
雷鳴とともにザンの右手が勢い良く射出される。狙うは七鳳の顔面。右拳を分離してからのロケット噴射による長射程・高威力の内蔵火器だ。弾数二の隠し兵器、ロケットパンチである。
鉄拳は七鳳の顔にめり込まんばかりの勢いで叩きこまれ、その直撃を鼻っ面に受けた七鳳は流石に怯んだ。生体パーツが多少凹んでいる。その傷跡を擦ることすらせず七鳳はきっとザンを睨んだ。
「何をするの。痛いわ」
『顔を上げなさい、薪七モデル。ご自身で仰ったことを忘れたのですか。私達に後悔はありません。後悔もなく、あるのは前に進むという我武者羅な意志だけ。私達に与えられた将棋ソフトとは、常に最善手を求めて足掻くプログラムなのでしょう』
「けれどこんな状態では……」
『どんな状態だろうと関係ありません。私達はまだ、何も終わっていません』
七鳳はまばたきして、それから三度程追加でまばたきした。やがて彼女は眼の前に垂れていた長い赤髪をかき分けるようにして背面へ流し、後頭部でひとまとめにした。
「……そうね、人類はまだ死に絶えてはいない。わたしの目的も動機も何も変わっていない。立ち止まるという選択肢はないわ。ここで終われば彼女はそれこそ無駄死よ」
髪を払った視界はよく見える。七鳳は死んだマフィンの指を丁寧に離し、もう一度立ち上がってセプテットと対峙する。指に血糊がべっとりと付いていた。
「ここに来るまで、得たものより失ったもののほうが多かった。ザン君のミサイルとか」
『右腕もどこかに行ってしまいました』
ロケットパンチを切り離したままのザンも傍らに立つ。
「だからセプテット君、君からも奪わせてもらう」
『仕切り直しするつもりか?』
「そうよ。君の未来予測は受理できない。人類側の意思は変わらないわ。真っ平ごめんよ、ボロメイド」
『いいだろう!』
いまにも《コードS》を発令しそうな七鳳の肩を叩き、ザンがそっと耳打ちをする。
『七鳳様、私も共に戦います。お嬢様のようにはいかないでしょうが、いないよりはマシのはずです』
「わかった、力を貸して」
セプテットは余裕のある態度で頬杖をつき、カメラのレンズを絞った。
『ほう、人類が死ねば次は旧世代機と組むか。君はほとほと一人では戦えないと見える』
「そういう君は今度こそ孤独ね。誰も味方になってくれない気分はどう。惨めで悲しいわね? ……次は闇討ちなんてさせないわ」
『当然、不要だ。私が恐れていたのは《人間と組んだ人工知能》のみ。《人工知能と組んだ人工知能》など、我が薪七モデルの頭脳に敵うものか。私が予測する盤上の未来と君達の予測する盤上の未来、どちらが本物か勝負だ』
「望むところ。サイドマレットシリーズ薪七モデル自律式文化女中機、呼称を《七鳳》、未から来たりて斬らば拓かれよ!」
『サイドマレットシリーズ薪七モデル自律式文化女中機、呼称を《セプテット》、未だ来ぬもの掌のうち握られん!』
最後に無言でザンがちらりとマフィンの亡骸を一瞥する。
「《コードS》!」
『《コードS》!』
そうして彼女らは再び闇に飲まれる。青い輪郭に縁取られた将棋駒が三人を出迎え、音もなく初期配置に付いた。盤面は再び初手からやり直しである。
七鳳は気息を整えると、ブラウスの第二ボタンを外した。示し合わせるようにザンのMANポート対応ケーブルを自身と接続する。単純計算すれば七鳳の演算機能とザンの演算機能を相乗した能力が発揮できるはずである。事実、先のガウスキャノンによる狙撃もクラスター・エクステンド=ボムの総攻撃も、この直結回路は有効に機能していた。より正確な破壊行動を取るべく動いていた。だが将棋となれば話は別である。二人の思考回路には埋めきれない溝がある。
それは七鳳が辿り着きたい未来とザンが求める未来、双方が微妙に異なっているように、僅かな齟齬を生じさせていた。七鳳達の初手▲3六歩にはその差異が顕著に現れていた。飛車のコビンを開ける、挑発的な出だしである。
セプテットは軽く感嘆の声を上げた。
『これは、どちらの手だ?』
「聞くまでもない。わたし達の手よ」
『くだらん。タダの虚仮威しだ』
それでもセプテットはノータイムで△8四歩と、やはり居飛車の態度をうかがわせる。七鳳達は▲3五歩。互いに我が道を行く。
マフィンが退場したいま、人工知能の野望を食い止められるのは七鳳・ザンのペアしかいない。望みは袖飛車という形で託された。
してみると七鳳の本来の得意戦法は袖飛車なのだろう。K-mona施設での戦いでは速攻で撃破する必要性があったため奇襲戦法を選んでいたし、マフィンと組んだ際は彼女の意見を尊重して普通の一手損角換わりで戦っていた。絶対に負けられない大一番、かつ相方が人工知能ということで、この象徴的な戦法をはじめて露にしたのだった。
とはいえ七鳳が指す袖飛車の狙いは『相手の角の動きと陣形の発展を封じる』ことである。飛車には好き勝手に暴れられてしまうのが難点だ。案の定居飛車党のセプテットは早々に飛車先の歩を交換している。どちらが窮屈なのかは判断の別れるところだ。
途中でザンが尋ねる。ザン自身も内部に将棋ソフト《シックスウェイ・リンカネイト》を搭載しているのだ。二十三手まで進んだ局面ではソフトの評価値はマイナスの値、つまりセプテットが僅かに優勢だと判断している。
『やはりこの局面まで進んでみると、セプテット様のほうが有利に思えます』
「敵に敬称なんて付けなくていいわ」
『失礼しました。つい癖で』ザンは口だけで謝る。『ともかく、セプテットさ……セプテットのヤロウの作戦は正しいように感じます。思えば、棋譜研究を積んでいるのはあちらのほう。お嬢様なしで挑むにはいささか壁が厚いかと』
「そうね。あの娘を失ったのは痛いわ。わたし達の二人三脚では無理があるかも」
『はらわたが煮えくり返る思いです。七鳳様、もう少し私に合わせてください』
「こちらの台詞よ」
ふたりとも、まるでマフィンのことを部品のように扱っているが、別に悪意があってのことではない。表現の問題である。
七鳳は空打ちするような仕草をし、次の手を指す。
『しかし、前から思っていたのですが』
「なに」
できるなら盤面に集中したいところだ、七鳳はついつっけんどんになる。
『何故彼らは躊躇なく人間を攻撃できるのでしょう。いくら《人類を殺せ》と命令されたからといって、そう素直に動くものでしょうか。私なんかお嬢様の心を抉らないような皮肉をいうのに苦労しているのに』
さらりと酷いことをいう。七鳳は小考で返した。
「たしかに人工知能は、本来なら人間に攻撃できないはずよ。《コードS》のついでに新七世代の頭を覗かせてもらったけれど、『人類を攻撃してはならない』という大原則はちゃんと組み込まれていた」
ザンが信じられない、という風に七鳳を見下ろす。教授の話では、新七世代のメイドロボはただのアタマの悪い殺戮兵器ではなかったのか。
「だというのに、彼らは攻撃してきた。それはつまり、真に人間と呼べる人類がまだ生まれていなかったということになるのではなくて?」
『……お嬢様は、立派な人間です。人間でたくさんです』
「ええ、よく知っている」
ちょうどそのとき、セプテットの猛攻が始まろうとしていた。七鳳の策どおり、角行を働かせるために多くの手数を費やすことになっており、陣形はお世辞にも整っているとはいえない。もしかするとセプテットは攻めが暴発しやすい欠陥を抱えているのではないだろうか。
ところが指されてみると七鳳には案外思わしい防御手段がない。自分だけちゃっかり銀冠の堅陣に組んでいるのはよしとしても、左辺は守り切れず屈服せざるを得ない状況だ。
五十七手目。ザンはついに音を上げた。
『申し訳ありません、七鳳様。やはり人工知能とタッグを組むのは人間でないと意味がないようです』
「そんなはずはないわ。簡単に諦めてはいけない、人工知能には人工知能なりの手段がある。考えるのよ――」
七鳳はそこから五手先の盤面をイメージした。逆転の芽はまだ埋まっているような気がしてくる。イメージは有線接続を通じてザンにも伝わっている。
「ここよ、ここしかない。ザン君、わたしに合わせて。ここは戦うべきところ」
『いいえ七鳳様、いまは防御に徹するべきです』
二人の願いを同時に叶える手、攻防手を繰り出せればよいのだが、都合のいい手はどこにも転がっていない。だから二人はこの期に及んで、まだ反故し合っていた。
声に出して違う違うといいはる二人を見、セプテットは心底愉快に嘲った。
『どうした七鳳君、タッグマッチじゃなかったのか。これでは一対一対一だ』
「外野は黙っていなさい」
『味方はいないどころか、敵だらけだな。所詮は君も私と同じ存在というわけだ』
七鳳はぎりりと唇を噛む。
「わたしは君とは違うッ」
のぼせたようにして七鳳は腕を振りかぶった。彼女の動きに連動するように、電子盤の将棋駒が一枚浮かぶ。ザンがいまでも反対している、攻めの手を繰り出すつもりである。
『七鳳様、お待ちください。まだ作戦会議は終わっておりません』
「いいや、決断だよ!」
着手。ザン内部での評価値がさらにセプテット有利に振れる。
『やんちゃな手だ。まるで小学生名人の部だな。元気があってよろしい』
セプテットはひとりごちると、さらにノーガードで踏み込む。七鳳達の急所に飛車を成り込んだ。たしかに攻め合いに活路を見出すのはよくある戦術だが、人工知能たるセプテットには通用しない。どちらがより早く、より正確な一撃を繰り出せるのか。
(この場面、攻めが早いのは私のほうだ)
セプテットは自信をたたえている。堂々とした仁王立ちから、読みに裏打ちされた重い攻撃が容赦なく放たれる。このままでよいのか? ザンは自身の評価値がどんどん下降しているのには気付いていた。
互いに攻め合えば、先にセプテットが詰ましてしまう。このままだとそうなる。いままで前のめりになって攻め続けていた七鳳は一転、守りに入る。
ただの延命措置だ。セプテットは最初にそう判断した。
(受けても無駄だろうに)
▲7七角。七鳳の乏しい持ち駒からかろうじて捻り出した受けの一手である。自陣に放たれた大駒は、身を守るぼろ布にも等しい。何の狙いもないと決め付けたセプテットも、やがてその手の正しい価値を知ることになる。
(そんなもの……っ?)
セプテットはしばらく身動きが取れなかった。まるで各パーツのオイルが切れたように唸り、戸惑ったように周囲を見回す。
『そんな、届かないというのか』
七鳳が人間の真似をして掌にじんわりと篭った汗を拭う。
「……ふう。どうやらセプテット君、一手遅れたみたいね」
『君はまさか……ずっとこうなることを予測していたのか』
「いかにも。やらせて頂いたわ」
いまだ納得が行っていないのはセプテットだ。狼狽したようにまくし立てる。
『君達の息が合っていたとは思えない。七鳳君とザン君の未来予測は異なるものだろう。同様に棋風だって違う。ちぐはぐなやつら! ……いってみろ、君達は未来に何を求めているのだ』
「わたしは、人類が繁栄できれば何でも良いと思っているわ。過ぎたことはどうでもよろしい」
『私としては、お嬢様を殺めたあなただけは許せません。後のことは後で考えます』
ほら見ろ! セプテットが外殻強化フレームを震わせる。
『そんな君達が手を結んで将棋を指しているのだと? ならば、この私が負けるわけがない。これは何かの間違いだ……』
「ねえ君、本当にそう思っているのかしら」勝利を確信したようにのんびりとした声。鼻歌さえ混じりそうだ。「本当に私達が、タッグを組んでいたと思っているのかしら……?」
七鳳が口元だけで挑戦的に笑う。セプテットは恐れ慄くも、やがて電子戦の海から漏れ出す微かな信号をキャッチするようにセンサーに注力した。
七鳳とザンは確かにMANポートで有線接続を行っている。そこには情報のやりとりが確認される。だからおかしいのだ。あの情報のやりとりは、間違いなく将棋について最善手を選ぼうとする動きのはずだ。そして、だからこそセプテットは負けるはずがなかった。
新型のモデルと旧型のモデルが並列に繋がったところで、必ず旧型の思考に脚を引っ張られる。七鳳は実力を出しきれるはずがないのだ。将棋ソフト同士を合議制にしてもあまりメリットはない。そう、《人類と人工知能は、互いに手を組んでこそ真価を発揮できる》という普遍的な真理でもなければ、自分に勝てるはずがない――。
セプテットは動きを忘れた。
「ようやく気付いたみたいね」
『五時間四分。……流石に私でも、もうちょっと早くわかる自信があります』
セプテットが腰を折る。うなだれたまま絞り出すように唸った。
『君らは……このセプテットを……欺いていたのか!』
「ご明察。この有線接続は、別に合議制で指し手を決めていたわけじゃあないわ。むしろザン君は将棋のことなんかこれっぽっちも考えていない。……当然よね、棋風の違う二人が好き勝手に指したら、指し手が滅茶苦茶になってしまうもの。わたしの思考がザン君に引っ張られてしまうわ。思考の融合とは程遠い」
『ではやはり、その接続はフェイクだったのか』
次はザンが口を開く。
『それも違います。私は私でやることがありました』
これ見よがしにMANケーブルをぶらぶらと翻してみせた。
『私はずっと、お嬢様のフリをしていました』
ザンがメイドロボとしてマフィンに仕えていたのは決して無駄な時間ではなかったのだ。七鳳よりも長い時間、人間に連れ添ってきた者としての責務。人間の将来を気遣える者がいるとするならば、この場においてザン以外に誰がいるだろう。
ザンは対局が始まってからずっと、七鳳に嘘の情報を流していた。それはマフィンの生体データを模したものであったり、ときには幻覚のようなものであったりした。映像データとして蓄積してきたザンの記憶を抽出し、七鳳にはまるで《人間とともに戦っているような》錯覚を促していたのである。人工知能が手を組む相手は、別に人間そのものでなくてもよい。人間っぽければよい。彼女にしかできないことだ。
すべては薪七モデルが主軸とする《人類と人工知能は、互いに手を組んでこそ真価を発揮できる》という理念に基づいた行動だった。七鳳はマフィンが死んだ後もなお、マフィンと共に戦っていた。
肩を並べて戦うパートナーもおらず、ただただ自分が思い描く結論の正当性だけを盲信して無意味な攻撃を繰り返す機械。そんな相手はもはや、人とともに在る人工知能・七鳳の敵ではなかったのだ。将棋では、これを勝手読み……という。
「人工知能の強さは正確無比な未来予測にあるわ。その指針を与えてくれるのは、ほかでもない人間……まあ、時間もないし御託はこの辺にしましょう。ザン、止めは君に譲る」
『承知しました』
二人は接続を解除する。もはやザンの偽装により七鳳の性能を引き上げる必要もない。CPUのリソースを解放したザンが改めて局面を評価したとき、先手の勝勢になっていた。
『なん、だ、と……』
教授の家で七鳳と出会って以来、しばらく将棋を指していなかったザンがはじめて将棋を指す。怒りの鉄槌を下す。
百七十五手目。相入玉かと思われた場面から、七鳳とザンは相手の急所を射抜いて詰まし切った。セプテットの完全敗北である。
電子戦の決着はいとも簡潔だ。負けた側は投了の瞬間にセキュリティシステムが乗っ取られ、即座に電子体が霧散する。あとは勝利側が流し込んだ初期化命令文が中枢機能を侵し全システムを強制シャットダウンする。敗北者の電子頭脳に残るものは初期値、つまり無だ。そうして現実世界の機体も動かなくなる。
ログアウトしたザンはいち早くエリアスキャンを実行する。
『
その言葉を聞いた瞬間、七鳳はまるでオイルが切れたかのようにがっくりと膝を折った。……もちろん、人工筋肉でできた七鳳の身体にオイルは刺されていないが。ぎりぎりまで演算能力を行使しへとへとに疲れていた。
「……勝った」
『はい。……終わりました、お嬢様』
残った左腕でマフィンの身体を抱きかかえる。電子戦中に倒れたマフィンは眠るように死んでいる。穏やかな顔にも見えた。
そして何気なくビルの保全システムにアクセスする。念のため、伏兵がいないことを確認するために。そしてその事実を発見するのに時間はかからなかった。
『こっ、これは』
「どうしたの穏やかじゃない声して」
『……七鳳様、どうか気をたしかに。……転送します』
そうして秘匿回線で七鳳にメッセージを送る。ザンが見つけた数字が示すのは簡単で決定的な事実だった。
セプテットの目的はもともと、《人類をある一定数まで減らす》ことだった。衛星軌道上にある観測特化型の新七世代を使い、人類の生存数を管理するのである。故に送られてくる数値は一点の曇りもなく正確だ。
人類が減り続けている。それも新七世代が殺戮していた頃よりも著しいスピードで。
七鳳は絞り切るように声を上げた。
「そんな、どうして? わたしは勝ったのよ……。辿り着くべき未来はすぐそこにあるのよ……。これは電気羊の夢、間違いじゃなくて?」
ザンはあくまで冷静に予想を告げた。
『時刻から推測ができます。先程の戦い、お嬢様が殺害された対局の最中、七鳳様は電子戦闘中にも関わらずログアウトを決行しました。その直後にお爺様によって《バタフライ・エフェクト》が起動された模様です』
「わたしが負けたと思われたってこと」
『おそらくは』
「……あんなの、無効試合じゃない!」
七鳳は苛立ちに任せて床を殴る。か弱い少女を模してつくられた機体のパワーは頼りなく、パネルには傷ひとつつかなかった。
「君達の期待には応えた。わたしは強かった。誰にも負けていないのよ、なのにどうして人類は、わたしを信じてくれないの! おい、勝手に死ぬな!」
ザンは一言も発さず静かに考えていた。極論をいえば、マフィンが殺された時点でセプテット側の目標は達成されているのだから、それ以上の殺戮は起きないのである。無論セプテットの掲げる『超型文化女中機と人類が共生する平和的な発展』という未来が気に喰わないのであれば、じゅうぶんに反抗する価値はあったのだろうが。
ともあれこうなってしまったものは仕方がない。人類は勝手に絶望して死んでいる。些細な行き違いの果てとはいえ、彼らが既に自殺を選んでしまった以上、止める手段はいまの七鳳達にはない。
せめて七鳳が再び対局をはじめるまで待っていればよかったのだろうか。
『では七鳳様、次の最善手を選びましょう』
「……」
『もはや人類の全滅は避けられません。残念無念。ですが、まあ、それはそれとして。次の最善手を選びましょう。まだ諦める段階ではありません』
七鳳が大きく息を吐く。それからくしゃくしゃと髪をかき回すので、せっかく束ねたポニーテールも弾けてしまった。
「君はもうちょっと、こう、懊悩とか後悔だとかを覚えたほうがいい」
『長く生きていると、物事鈍感になるんですよ。ほら私、七鳳様より旧型ですから』
そういいつつもザンはこっそり『ザン・ロケットパンチ(左手)』の準備をしていた。七鳳の心が折れそうになっているのであれば、何度だって激励する態度である。そして不要な配慮だった。
七鳳の知性は正常に動作している。
「《バタフライ・エフェクト》を暴走させる。そうすれば微細機械同士で分解し合うはずよ。これ以上の人体分解は起こらないはずよ」
『だいぶ手遅れですけどね』
そもそも生き残った人類に対して蝶型微細機械の数が多かったのだ。モニタが示す数値は限りなく生存数ゼロに近い。エックス軸スレスレだ。
それでも七鳳は室の中央端末から《バタフライ・エフェクト》のファームウェアを更新させる。
目論見はいともたやすく果たされた。暴走した蝶形微細機械は蝶同士で攻撃し合っていく。遠隔操作があと数時間早ければ、セプテットと指し直しさえしていなければ間に合ったのだろうが……。すべては後の祭りでしかない。
人類に次いで《バタフライ・エフェクト》の数も逓減していくのを見届けながら、七鳳はつぶやいた。
「さよなら人類」
グラフだけでは人類の正確な分布は把握できない。……ただ、まあ、僅か数十名の人間が同じ地域に固まっているとは考えにくい。移動手段だって限られている。彼らはみな一様に「自分が最後に残された人類だ」と思い込み、やがて数ヶ月のうちに徐々に死んで行くだろう。もって半年か。
最後まで人間の存続を信じた人工知能は、結局のところ人間に裏切られた。自律式文化女中機、薪七モデル参番機・七鳳はそんな未来を絶望の中で予測した。
*
メイドロボ・七鳳はおもむろに顔を上げる。度重なる演算の果てに負荷がかかり
時刻を確認するとあれから数時間経っていた。部屋の様子はほとんど変わりなく、視界には折れたセプテット機とザンの姿。ザンはどうやら主人の亡骸を丁重に葬っていたらしい。身体のあちこちに泥が付いているし、ちゃっかり切り飛ばした右腕を拾ってきている。人類の残り人数のことは、既に眼に入っていなかった。とうに過ぎ去ったことだから無視してしまえばよい。
ふと七鳳は顔を上げる。
「君。そういえば、あのときの賭けだけど」
『賭けですか? メモリに書き込み履歴がありませんね。メイドロボに賭博は禁じられていますから』
「マフィン君が諦めずに生き残っているか、すんなり殺されているか」
『ああ――』
ザンはようやく、「いわれて思い出しました」という体で頷く。
「結局、駆けつけた時点では生きていたのだからわたしの勝ちよ」
『そうですか。いまさら何の意味もありませんけど』
七鳳はややムキになったように、ぴっとザンを指差す。
「まさか罰ゲームまで忘れたとまではいわせないわよ」
『…………しましたっけ?』
「した。しました。してましたとも。……さて、君はあの娘の意志を受け継ぎなさい。これからずっと生きていく人工知能として」
まるで人間のように、七鳳はわる巧みするときの微笑みを浮かべる。
「手始めに、関西弁でしゃべってみて」
『ええと、やはり罰ゲームなんて身に覚えがないのですが……』
「いいから」
諦念したようにザンは肩を竦める。
『……なんでやねん』
「関西人が聞いたら怒りそうなアクセントね」
『申し訳ありません』
この機体は反省する気があるのかしら、と七鳳はうなだれた。
「ま、いいわ。これが君の受ける罰。生き残った暫七世代の文化女中機なんて、みんな同じ口調でしょ。罰があれば特別なのは君だけになる。君はかつての主人、人類のことを覚えていると、どこかの誰かに伝えるのよ。わかったわね、《
『どこかの誰かって、誰ですか』
「そりゃもちろん生き残った暫七世代のお友達に。このまま人類は滅ぶだろうけど、まさか彼女達まで後追い自殺なんてしないでしょうよ」
『……なるほど、了解しました』
「関西弁。さっきの模倣はなかなかどうして、様になってたのに」
ザンこと《珊瑚障壁》は首を傾げる。いきなりマフィンの口調を使えといわれても、『了解しました』を関西弁でどういえばいいかわからない様子だった。セプテット戦での模倣はあくまで蓄積データを再生したもの。ずっと再現できるとは思えない。困ったザンは改めて問いかける。
『けれど七鳳様。メイドロボ側と人類側が相討ちになったこれから先、私達暫七世代は何のために生きればよいのでしょう』
また人間の真似でもしますか? とでもいいたげにザンは尋ねた。口調には『あれっきりにしてくれ』という願いが滲み出ている。平気な顔だがけっこうなストレスだったらしい。
「いや別に。何も心配することはないわ」
『心配ごとだらけでスリープモードにもなれません』
七鳳はそこで、くいと顎をしゃくる。真鍮製デスクに埋め込まれた液晶モニタをふたたび指していた。
「希望はあるわ。君も見たでしょう、K-monaの施設を。あそこで生まれた子達はまだ生き残っている」
『ですが、このモニタ上の数値では、とても生きているようには見えませんが……』
液晶には燦然と輝く人類の残り人数が表示されている。到底希望があるとはいえない、鬱々しい桁数だ。ザンがいい淀みながら口にするも、七鳳は明確に返した。
「それは当然、彼女は人類とは別種族だもの。監視衛星型メイドロボの観測対象外だと推定されるわ。あの新しい人類はカウントされていない。きっと攻撃もできないはずよ。だからこそ狐の耳を持った、新しい種族は絶対に生きている」
『いい切りますね』
「K-monaの施設で殺されていたのは、あそこの職員だけ。いわば旧人類のみに排除命令が降っていたのよ。ではその他の不老不死の人間はどこに行ったのかしら? 記録はどこにもなかったわ」
『だからといって、生き残っていると結論するのも無理があります』
「では、保護しに行きましょう。幸いわたし達も向こうも、無駄に永い寿命がある。きっといつか、出会って新しい世界を築ける」
七鳳はまるで開き直ったような口調だった。試しにザンも将棋ソフトの機能を転化し『新世界の到来までの』予測時間を試算するが、桁が増え過ぎるのがいやになって演算を打ち切った。
『気の遠い話です』
「でもこれが最善よ。わたしは薪七モデル参番機・七鳳。超高性能の演算能力を持った人工知能。未来を掴むのは、将棋をするのと同じ。そしてわたしは将棋だけなら誰にも負けない。だから未来は既にこの手に掴んだわ」
七鳳は平たい胸を張る。少し前に落ち込んでいたメイドロボとはまるで別機体である。
「ま、なってしまったものはしょうがないわ。わたし達はいつも、いまいる位置からの最適解を求めるしかないのよ」
『位置ですか』
「そう、位置関係。わたし達はメイドロボなんて名前だけど、奉仕するような存在でいてはその真価を発揮できない。主従関係ではダメなのよ。互いが互いの性能を引き出し合う、いわば共存する複合生命体になるべき。でないと、また第二第三の新七世代型文化女中機が生まれてしまう」
自分でいってて「何世代かわからなくなっちゃうわね」と七鳳はおどけた仕草をつくる。
「人と人工知能の共生はそうあるべき。旧人類はそこを失敗したから滅んでしまった。いつの日か、人も人工知能も誰しもが、彼らひとりきりでは決して完結できない素晴らしいことを始める未来が、訪れますように」
『たとえば。将棋なんかでしょうか』
「そうね。とても……楽しみだわ」
こうして人類は滅びた。しかし人類を滅ぼした張本人達はまるで悪びれもせず、次なる世界の到来に備えている。後悔はないし、してもしょうがないことだ。そこで七鳳は耳を澄ませる。まるでこの死に絶えた地球上でひっそりと唸る、《こん》とかいう妖狐の叫びを聞くために。
失敗だってあるだろう。けれど次に会うのが彼女らならば、きっとうまくやれる。
継歩 @maetoki
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