違和感のはざま
@ourmiura
領域のうちに ひとつめ
むかしむかしというまでもない昔、友人がほとんどいなかった。
僕、
―――― ―― ―
小太りな――というよりもまん丸と肥えていた――容姿とボソボソ話す聞き取りにくい声。自己主張のできない性格。何に対しても怖がってしまう情けなさ。当時の僕を表すそのすべての要素は、違いなく「いじめられっ子」のそれであった。一つだけ生きがいと呼べる趣味こそあれど、たった三年間の高校生活はほぼあまりよくない思いで埋められている。
されど僕はただの男子高校生だった。大学に入るために勉強をしなければならないし、できることなら成績は良いままを保っていたい。そのためにはやはり学校には行かなければならなかった。憂鬱になればなるほどに食事が喉を通らない。それでもこの体型は標準に戻ることなく、少しだけきつい制服に腕を通して、バスを乗り継いで登校し、教室に入る。途端に制服を着崩して化粧をして、髪の毛をくるくると巻いた可愛らしい女子高生たちが僕に牙をむき始める。どれだけ可愛らしくても僕にとっては悪魔そのものだった。
その視線に怯えながら自らの席に座ろうとすれば、その椅子には画鋲が一つぽつりと置かれていた。どうせやるならもう少し撒いてしまえばいいのにと思いながら目をやると、机の乱雑な落書きはまた一つ増えていた。教室から向けられる視線が恐ろしくてならなかったので寝たふりをする。逃げるためにしたはずの行動だったが、余計に彼女らの声が僕を襲った。聞きたくない声を聞くために僕は耳を澄ますのだ。
「うわ、寝てるよ。きもちわる」
「どうせ勉強しかできないんだから、大人しく勉強してろっつうの」
「てか何あの顔。うける」
彼女たちが僕に向ける嫌悪の声は、僕以外の異性に向ける甘い猫なで声ではなかった。汚いものをみるような塵よりも存在価値のないものを見るような視線だった。人間として認識されていなかったのだろうなと、今では思う。何をしても「気持ち悪い」「大人しくしていればいいのに」、あるいは僕の命を軽視するような言葉ばかり浴びせられたものだ。ひどい時には腹を殴られ背を蹴られていたことを思い出すと、少しばかり胃が痛くなる。あの時についた痣は、悔しくもまだ青く残っている。
あの教室は彼女たちの力が支配する領域だった。教師や保護者も立ち入れない最強の盾だった。そして僕にとっての社会そのもので、それはまた彼女らにとっても同じだったのだろう。スクールカースト上位の彼女たちは自らの心地よい生活を求め、スクールカースト最下位の僕もまた安堵できる場所を追い求めていた。そのためには彼女たちの言うように大人しくしていなければならなかった。しかし、彼女らの「大人しくする」という基準は日に日に、むしろ気分次第で変わっていくもので、僕は高校を卒業できるまでいつまでたっても「大人しい」とは言われなかった。
あのまま友人と呼べる存在がいなければ様々なものに押しつぶされて自ら命を絶っていたかもしれない。ただ一人の友人安村がいたから、僕はこうやって生きているのだと言い聞かせ続けている。
安村というのは、僕と同じように「いじめられっ子」だったクラスメイトだ。少し背が低くて優しい地理の得意な生徒だった。僕以上に「いじめっ子」の女子生徒を憎み、ひどく恨んでいた。その姿はいつもの優しい安村ではないようで少しばかり恐ろしかったが、それを伝えてしまえばまた独りに戻るような気がして、何も言うことができなかったのを今でも覚えている。
「俺らがこうやっていじめられて、あいつらに何もないなんて許せないよ。でも、怖いんだ。だから何もできなくて、そんな自分が不甲斐ない」
そう話す安村の声は震えていた。
――それはさておき。
もう一人だけ友達がいた。いや、友達と言って良いのかはわからない。それでも今は、その友達の話をしようと思う。
―――― ―― ―
その日、僕は担任に呼び出されいつもよりも下校が遅くなった。僕の机を見るたびに顔をしかめる大嫌いな教師だった。高校教師には幼い頃から憧れていたのだが彼を見てその夢を諦めたことはこれからの人生で忘れないだろう。
テスト期間なのに呼び出されるだなんてなんて災難だろう。そう思いながら荷物を取りに教室へ戻ると、そこには誰一人いなかった。僕にとって教室が社会ではなくなったはじめての瞬間だ。教室は名前を聞くだけで腹痛がする程嫌いだったが、その教室はとても綺麗で、輝いていた。
窓からさした夕日は淡々と窓際の机を照らし、反対側にできた影と対照的でとても美しい。鞄からルーズリーフの入った袋を取り出して、焦ってしまったがために少し皺になったそれを落書きだらけの机の上に乗せた。そしてそのまま、胸ポケットに入れていたボールペンで詩を殴るように書く。脳裏を淡々と流れていくメロディとともにペンを走らせて、時には電子辞書を用いながら感じたことをそのままに表して行った。これこそが僕の生きがいだ。曲を作ってそれに合わせて詩をつけること。気に入ればインターネットの動画サイトにアップロードすることもある。作曲だけが僕を支えてくれる唯一無二の趣味だった。
「あ、ごめん忘れ物したー。先行っててくんない?」
「うぃー」
だから僕は、彼女の声が聞こえなかったのだ。教室の引き戸が開く音とともに、一人の女子高生が入ってくる。僕を散々馬鹿にしている生徒たちといつも一緒にいる、また制服を着崩して化粧をして髪の毛をくるくると巻いた可愛らしい女子高生だ。彼女の名前は舞原という。当時の僕はそれしかわからなかった。うかつに下の名前など呼んでしまえば何を言われるかわからないからだった。
「あ…………」
「お、本田じゃん」
そのまま彼女はこちらに寄ってくる。とっさにルーズリーフを隠そうとするが間に合うわけもない。
「居残りかなんか? てか何書いてんの?」
さっとルーズリーフを取られる。喉がきゅう、と鳴ったのがわかった。彼女が左から右へ視線を移すたびに胸が苦しくなっていく。手が震えた。落書きだらけの机に押し付けていたシャーペンの芯が折れて、左手の人差し指に当たった。
「…………あんたが書いたん? これ」
「あ、はい」
「へー」
それを聞いた彼女の表情は、真剣そうな顔から珍しいものを発見したような随分と嬉しそうなものに変わった。
「超感動したんだけど! 本田すげぇじゃん! てかやばくね!?」
「え」
「こんなんやってたんなら言ってくれればよかったのに」
そんなことできるはずがない。そう言えれば楽だった。"感動した"と言われるのはとても嬉しい。けれど僕はまた馬鹿にされるのだろうと思い、ズボンを握りしめる。どうせ"そんなこというわけないじゃん"と、そう言われておしまいだと、ひどく卑屈になっていたのだ。
そう言われるに、違いないはずだったのだ。
つづく
違和感のはざま @ourmiura
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