白い痺れ
につき
白い痺れ
その男はなんでも云うことを聞いた。およそ逆らうということを知らなかった。子どものころはもちろんいじめにもあっていた。彼は恨むことを知らない。怒りが湧いたとしても、それが自分にとっての悲しみであると痛切に感じた。
「どうしてそんなことをするんだよ。」
彼には悪意が理解できない。人を傷つける心理が分からない。
そんな彼も大人になり仕事について金を稼いだ。そこで彼はまた理不尽に出会う。学歴の差異や要領の良さと云うようなことは、彼には到底理解できなかった。彼は素直であったし器用貧乏であったので、雇用者にとって使い勝手は良かったのであろう。それなりに仕事はあった。
「分かりました。今月一杯で終わりですか。」
ただし、景気が悪くなると人件費の削減のお題目の元に、彼は棄てられた。しかし例のごとく彼は恨みを知らなかったので、諄々と流れのまま職を探した。なかなかに職は見つからなかったが、彼はそれがどういう意味を持つのか理解しようとはしなかった。きっと踏み入れたくない世界が見えてきそうだった。
わずかなたくわえの中で彼の楽しみは本を読むことと音楽を聴くことだった。古いPCでオンラインの音楽を聴きながら、お気に入りの作家の作品を読んでいると、彼は何度か頭が真っ白になるような痺れを感じた。不意に意識が後ろへ引っ張られるような感覚だった。そのたびに彼はある満足を得た。それは懐かしいような、まるでかつていたかも知れない此方の世界の気配を感じるようだった。
ある日彼は、とあるバーガーショップで席に座っていた。デバイスで音楽を聴き、本を読んでいた。
――私の可能性。満ち足りた心には決して届かない思いの中にそれは眠る。暗い深い水の底から魚の形をした怪物が泳いでくる。やがて水面を割って躍り出たそいつを曇天を割って一瞬覗いた夜明けの光が鋭く射止めた。怪物はびりびりと痺れて、水面を跳ね回る。夜明けの光は怪物をトレースしたまま離れない。魚の形をした怪物は虹色に光って、世界に霧散した――。
彼はふと、視線を感じた。眼を上げると目の前に白い服が見えた。女のようだった。なんだかぼんやりとしていてはっきりしない。思わず顔を見上げてしまった彼は、女から目を離せなくなってしまった。
「迎えに来ました。」
女の鼻筋は細い。
「あなたはもうすぐです。」
瞳は黒曜石のように美しく優しげに彼の心臓を掴む。
「そのままでいいんですよ。」
眉はゆるやかにカーブを描き細からず太からずどこまでも夢のようだ。
「風を待って。」
唇は柔らかくふっくらとしていて薄い林檎の赤色だ。
「最後に望みはありますか。」
彼女の吐息が男の顔に触れたとき、彼の身体を白い痺れが襲った。
「――君が――この痺れなのか――」
その時、雷鳴が轟いた。突然の豪雨が降り出したようだ。
「――そうとも言えるわ。私たちは誰のそばにもいるの。ある人には虚栄。ある人には傲慢。ある人には貪欲。ある人には献身。人によっていろいろだけど、その人が一番大事にしている思いが常にそばにいるの。私もあなたのそばにいつもいたのよ。」
彼女は白いたおやかな指先で彼の肩に触れた。男は肩から全身が熱くなったように感じた。
「君の名前はなんなの。」
「私は、憧れ。あなただけの憧れ――。さあ、最後の望みを言って。」
雷鳴は続き、窓の外は真っ暗になってきた。叩きつけるような雨足が窓を叩いている。
「私の生まれて三日で死んでしまったかわいそうな弟にこの命をやって下さい。」
暗転の世界の中で、彼女の額には涼しげに知性の星が白く輝いていた。はっきりと真ん中で分けた肩を超える長い髪は烏の濡羽色だ。
「あなたは何を言っているか分かっているの……。その先は夜光灯に飛ぶ白い蛾になってしまう……。それでもいいの。」
ああ。いい香りがする。なんだかぼうっとしてきた。
「夜に飛ぶ蛾はそれっきり終りなのよ。もうそこまで。唯死んで消えるだけなの……。それでもいいの。」
華奢な肩にかかる髪のラインが溜め息のように優美だ。
「いいよ。それでいいよ。その方がいいよ。」
白い耳に光るピアスはアイオライト。揺れるたびに消えたり現れたりする色の本当は透明な藍色だ。
「分かったわ……。あなたの弟は誰かの子どもとして幸せに今生まれる。そしてあなたの年までは生きる。……その後は分からないけれど。そのようになるわ。」
「ありがとう――」
彼が少し甘いような微風を感じた時、死は彼にその美しく白い顔を近づけてゆっくりとキスをした。彼は驚きの中で今までで一番の真っ白な震えと痺れに覆われた。彼の意識は彼女の唇へと吸われていく。
最後に彼の意識の水面に映ったのは、数少ない幸せの記憶――日溜りの座敷の景色だった――。
「もしもし、すいません……。お客様?どうなさいましたか?」
バーガーショップの店員が、一人の男が眠るように座ったまま死んでいるのを発見した。その死に顔はとても穏やかだった――。
――同時刻に、ある産婦人科で男の子が産まれた。その両手には両親に待ち望まれた幸福を握りしめていた――。
男の子が6歳になった夜だった。その夜は好い天気だった。男の子の家を照らす電信柱に取り付けられた蛍光灯の周りを、ちかちかと真っ白い蛾が飛んでいた。
「お母さん。蝶々が飛んでいるよ。」母親に呼びかける。
「あれは蝶々ではないのよ。坊や、あれは蛾なのよ。」
「でも綺麗だよ。」
「そうね。あんがい綺麗なものね。もう寝る時間ですよ――」
やがて蛾は力尽きた。そうしてはらはらとアスファルトに落ちた。その時、少し甘いような微風が吹いてきて、蛾の死骸を吹きあげてどこかへ運んで行った――。
白い痺れ につき @nituki
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