第1章 リーアムのとてつもなく長き一日


「また随分と様変わりしたもんだ・・・」

 朝っぱらから魔法というヤツの万能さに驚かされる。

 驚いたことに、塔の中にベルイーニの自宅リビングが丸々再現されている。

 キッチンではミーネと紡ぎとが朝食の支度に忙しく働いている。

「私にもなにかお手伝いをさせてください」

 アンは慌てた様子で彼女たちに加わろうとする。まるで自分だけお客様扱いは願い下げだと言わんばかりだった。

(いや、王女様が台所仕事なんて無理だろ)

 トワメルの心配をよそに、アンはこなれた様子でミーネたちと二言三言言葉をかわしただけで、心得たとばかりに作業にかかる。

「おぅ、早いなトワメル」

 何事もないかの様子で娘二人を連れたベルイーニが顔を見せる。

「おじちゃんおはよう」と早速抱きついてくるアニ、そしてディアドラは相変わらず目線を合わせようとせず父親のズボンをしっかり掴んで離さず、片目だけ覗かせてトワメルを凝視している。トワメルのよく知るフリストベル一家の朝の光景だった。

「あぁ、あれ」

 トワメルの指し示した先でアンが紡ぎたちと談笑しながら野菜を切っている。

「へぇ、大したもんじゃない」

 ベルイーニはニヤニヤと笑みを浮かべてトワメルを肘でこづく。

(まだまだ知らない顔が沢山あるんだろうなぁ) 

 見とれている自分が気恥ずかしくなり、トワメルは慣れた手つきでディアドラに靴を履かせているベルイーニに向き直った。

「リーアムは?」

「表で稽古だろ」

「稽古?」

「小僧も大分さまになってやがった。お嬢の方はまだまだだがね」

「へぇ」と言ってみたもののなんのことだかわからず、トワメルはベルイーニの自宅“ならば”中庭のあるテラスに出てみる。そして、ベルイーニの言葉の意味を理解し、ギョっと立ち竦み慌てた。

「なっ、なんなんだ、ここ。それとなんだあれはっ」

「だから、稽古だって言ったろ」   

「いやいやいや、ここって」

「ざっと地上から3000mってとこかなぁ。見晴らしいいだろ」

 トワメルは慌てて首を横に振る。

 テラスの先にあったのは間近に見える雲海だった。確かにここは塔の一部なのだと思い返す。そして、トワメルは自分が高いところは苦手なのだとはっきり自覚した。

 その地上3000mのところで、翼をはやした竜人と文字通り宙を舞うリーアムとが壮絶な戦いを繰り広げている。

「空中戦の訓練がそんなに珍しいか?」

「なっ、なんだってそんなことする必要が・・・」

「あるんだろ。でなきゃ物臭なリーアムがあれほど熱心に入れ込むもんかい」

「まさか」

「義父殿から聞いたのだろう?まぁ、そういうことだ」

「・・・そうか、ならばリーアムも焦っているのだな」

「仕方ないんだよ。義父殿は魔王戦争で力を使いすぎた。その上また目覚めてからは負担の大きい次元回廊なんかを使いまくったからな」

「目覚めたって・・・魔王戦争は私がヴェルミーだった頃にほとんど収束したのだろう?」

「そうさ、だが東の塔に戻ったリーアムを待っていたのは人間側についた愛弟子の反逆だった」

「なんだって・・・それじゃ、倒されたという伝承も本当なのか?」

「そういうことになる」

「だが、本当に倒されたわけではなかったのか。そうでなければ今ここにアイツが居る説明がつかない」

「それについてはだ・・・」女達の食事の支度がまだ大分かかると見てベルイーニはソファーに腰掛けた。「いい機会だからしてやる。義父殿が<闇の徘徊者>だった時代の終わりと龍族との関わりについてだ」



その1 魔法使いと少女


 あるところにとてつもない力を持った魔法使いがいました。その魔法使いは空を飛ぶことも、姿を消すことも、別の生き物に変身することも、建物を作ったり壊したりすることも自由自在に出来ました。

 ところが、魔法使いには友達もいなければ家族もいませんでした。

 魔法使いの家族は皆、魔法使いよりも前に亡くなっていましたし、とてつもなく強い力と恐ろしい姿をもつあまり、人々は皆、魔法使いを避けていました。

 そして弟子たちは既にほとんどが死に絶えて残っていませんでした。

 老いることも死ぬことも知らない魔法使いは長い長い月日をひとりぼっちで過ごしました。

 いつしか、魔法使いはその名前も顔も忘れられてしまいました。

 魔法使い自身も、自分が魔法使いであることも、自分の名前さえも忘れてしまいました。

 ある夜のことです。魔法使いが有り余る退屈を持て余して、星をながめながら空を飛んでいると、泉のほとりに一人の美しい少女がかがんでいるのを見つけました・・・。


 “それ”は確かにそこに存在していながら、なんら実体を持たなかった。

 “それ”はまるで夜風にはためく一枚のぼろ布のように頼りなげで、ただ風の吹くに任せて飛んでいるかのように見えた。

 だが、そうではなかった。“それ”は確かに意識を持ち、己の意志の赴くままに行動していた。風に舞い飛ぶのも風の流れそのものを“それ”が作り出しているからに他ならない。

 悲しむべき事に“それ”はかつて全知全能を謳われた魔王の成れの果てだった。自らの意志を封じ、感情を封じ、ただ識るという唯一にして最大の目的のためだけに存在するに任せていた。

 敢えて客観的事実として“それ”を《闇の徘徊者》と称する。

 それが最も実体に近い呼称だからだ。

 なぜ、“それ”がそのような姿形を望み、そしてこの世界から隔絶された存在になったかは“それ”の知るところではない。もはやその事実そのものがそれにとって苦痛と哀しみしか産み出さない。“それ”は感情的になることを極端に恐れていた。

 引き返せない迷路に迷い込み、結果として多くを巻き添えにする。

 だが、“それ”は其処に来てしまった。

 其処は小さな、そして美しい泉のほとりだった。

 水面に映る月に“それ”はしばし見とれた。なにかを美しいと思う心。それは感情ではない。魂に訴えかける強い力がある。美しいものを美しいと感じることに“それ”は抵抗しなかった。そのことが結果的に“それ”を困惑させることになった。

 泉のほとりに一人の美しい少女が居た。顔を見たわけではない。姿に惹かれたわけではない。ただ、一枚の絵画のように彼女はその風景の中に自然に溶け込み、そして目映いほどの存在を放っていた。

 不覚。と“それ”は思った。

 不覚にも“それ”は少女を目にしてしまった。その結果、“それ”は最早、穏やかではなくなった。心がざわめく、好奇心がうずく、そして“それ”は「もっと見たい」という衝動に駆られてしまった。


 たしかに美しい娘ですが、この世界にどこにでもいる人間の娘です。なのにどうしたわけでしょう、“それ”は少女を一目見るなり目が離せなくなってしまいました。

 胸はどぎまぎとへんな具合ですし、口の中が妙に乾いています。“それ”はそわそわと落ち着きをなくしてしまいました。

『病気だろうか?いや、私は病気にもならないし、死ぬこともない・・・なのにどうしたわけなのだろう?』

 困り果てた“それ”は自分のすまいである東の塔へと戻っていきました。そして、頭から布団をかぶってさっさと寝てしまいました。

 あくる日の晩、“それ”は再び泉の側に飛んで行きました。

『ゆうべのことはきっとなにかの間違いだろう。私はとうの昔に人であることをやめてしまったのだし、もうずいぶん長いことなにかに興味をもったりしたことも、なにかに夢中になったこともない』

 ところが、“それ”はすっかり少女に夢中になってしまいました。

 “それ”は寝ても醒めても少女のことを思いだしては変に落ち着かない気分になってしまいました。心を落ち着けるために、とっておきの霊薬を飲んだり、海まで飛んで行って波間にゆられてみたり、すっかり埃をかぶっていた研究の書物を開いて読んでみたりしてみましたが、ふとしたはずみで少女のことを思いだしてしまうのです。

 そうです。“それ”は少女に恋をしてしまったのです。何百年、何千年生きてきたか忘れてしまったけれども、今まで一度だって“それ”はこの世界に産まれ落ちてから恋をしたことがありませんでした。


 “それ”が初めて少女に出会った晩から10日経ちました。

 “それ”は少女の姿を近くで見たい近くで見たいと思ううちに、自分でも気がつかないうちにどんどんどんどんと近づいていってしまいました。

 はっと気がつくと、もう少女の顔が触れられるほど近くにあります。“それ”は少女の美しい瞳をじいっと見つめました。自分がまるでボロ布同然の姿をしていることも忘れてしまいました。

 ところが少女は“それ”に気づきませんでした。その少女は生まれてからずっと眼が見えなかったのです。

 少女は夜中だというのに水くみをしていました。最初の晩から、毎日毎日水くみをしていたのです。

 “それ”は思わず声を掛けてしまいました。

「こんばんは、お嬢さん」

 すると少女はびっくりして振り向きました。

「こんばんは、旦那様」

 どうやら少女は自分が話している相手が“それ”だとは思わなかったようです。

「どうしてこんな真夜中に水汲みをしているのですか?」

 少女は小さくうつむきました。

「今は真夜中なのですね。私は生まれてからずっと目が見えないのです。目が見えないから昼間だろうと夜だろうと関係がないのです。それで、昼間は糸繰りを、夜は水汲みをしているのです」

 “それ”の心がギュッと苦しくなりました。

「ではあなたはいつもそんなに沢山働いているのですか?」

「そうよ、お母さんがもういいと言うまでずっと働かなくてはならないの」

 “それ”は少し悲しそうな顔になります。

「ひどいお母さんだね」

 すると、少女はゆっくりと首を横に振りました。

「私の家はとても貧しいの。なのに私は目が見えないせいで、上のお姉さんのようにお嫁に行くことも、妹たちのようによそのお家に奉公に行くことも出来ないから仕方がないの。私みたいな子を育ててくれただけでも、お父さんやお母さんには感謝しなくてはいけないの」

 事情を知った“それ”はうーんと考えた末に、少女に尋ねました。

「君は目が見えるようになりたいかい?」

 少女は少し考えてから、こくんと小さくうなづきました。

 “それ”は少女の目にそっと手を触れました。

 パンッ

 小さく乾いた音を立てて、“それ”の手が少女の目から弾かれてしまいました。

「なんということだ。私にも解けない魔法があるなんて・・・」

 “それ”にはこれまで一度だって、かけられない魔法も、解けない呪いもありませんでした。

 少女の目は“それ”にさえ解くことが出来ない、深い深い呪いによって閉ざされたままだったのです。

 あるいは“それ”が本来持ち合わせる力と技量をもってすれば呪いを解くことは出来るかもしれません。ですが、少女の目がキチンと見えるようになるかについては、“それ”といえども自信がありませんでした。

「とても、残念だけれど私はあなたの目を治してあげることが出来ないようです。かわりになにかあなたが望むことはありますか?」

 少女は少し考えてこう答えました。

「お家にもう少しだけお金があればこの冬もなんとか暮らすことが出来ます。だから、少しだけお金が欲しいです」

 “それ”は話を聞いてしみじみと少女の真っ直ぐな心に胸を打たれました。

「わかりましたそれなら簡単に・・・」

 そう言いかけて、“それ”ははっと気がつきました。

 あまりにも長い間、人の世の中から離れていたせいで、“それ”は今の人たちが使っているお金がどんなものなのか分からなかったのです。

 貨幣という概念すら失念していたのです。

 “それ”は困り果てて、こうつぶやきました。

「うーん、一晩だけ私に時間をください。そうしたら、あなたが望むだけのお金を用意しましょう」

「それは約束ですか?」

「はい、約束です」

 少女は閉じた目をじっとつぶって神様にお祈りをしました。すると、ちょっと困った顔になりました。

「ああ、でも・・・」

「でも?」

「私が頂くお金は、あなたが誰かの為に働いて貰ったお金でなければなりません。もしあなたが、本当は悪い人で誰かのお金を盗んだり、お金を勝手に作ったりしたのでは、きっとどこかの誰かが不幸になります。私の家のことは大事ですけれど、誰かが不幸になるのはわたしは嫌なのです」

 おやおや困ったことになりました。魔法使いはこれまで人の為に働いたことがありませんでした。まして、お金を貰うなんてことは一度もありませんでした。

 なにしろ必要な物はなんでも魔法で作り出すことや手に入れることが出来ました。お金を出して物を買ったことは長い長い人生で一度もなかったのです。

 魔法使いはよーく考えてからこう答えました。

「うん、分かりました。なんとかしてみましょう」

「ありがとうございます」

 魔法使いの胸に暖かい気持ちが生まれました。

「では、明日の夜になったらこの場所で待っていますからね」

「はい、約束ですよ」

 魔法使いは少女と別れて、再び風に乗って空を飛んで行きました。


その2 魔法使いと龍


 さて、少女と別れた魔法使いは考え込んでしまいました。それは魔法使いが少女に届けるお金は誰も傷つけず、作ったりせずに得る必要があったからです。 それに少女の家が冬を過ごすのに必要なお金がどのくらいかかるのか見当もつきませんでした。

 あてはありませんでしたが、魔法使いは人間達の暮らす大きな街まで行きました。大きな街であればなにかお金を得る手段があるかも知れないと思ったからです。

 朝になりました。

 魔法使いは魔法で若い男に姿を変えました。そして、街を歩いてなにかお金を得る方法がないか探してみることにしました。

 すると、魔法使いはお城の近くに大きな立て札があり、大勢の人たちが集まっているのに気がつきました。

 魔法使いは人ごみにまぎれて、立て札を見ました。しかし、なにが書いてあるのかさっぱり分かりません。魔法使いは人との交わりを避けていたために、今の世の人々の書く文字まで読めなくなっていたのです。そこで誰かが読み上げる声を聞くことにしました。

「なになに、東の山すそに住む黒龍を退治した者に金貨1万枚をさずけるだって?」

 金貨1万枚というのは途方もないお金です。それだけあれば少女の家族は一生食べていくことが出来るでしょう。

 しかし、魔法使いには金貨1万枚の価値がわかりませんでした。

 そこで人々の声を聞いてみることにしました。人々は口々に言い争っていました。

「金貨一万枚だってさ」

「いやいや、命あっての物種だよ。龍を退治するなんてとてもとても・・・」

「うーん、お城の騎士たちでも倒せなかったんだろうねぇ」

「いやぁ、我々のような普通の人間には無理な話だよ」

 話を聞くうちに、魔法使いはうんとうなづきました。これならば魔法使いにもなんとか出来そうなことです。

 魔法使いはさらに詳しく話を聞きたいと思い、偉そうに立っているお城の衛兵に声を掛けました。

「龍を倒したら金貨一万枚貰えるというのは本当なのですか?」

 衛兵はせきばらいをして偉そうにこう答えました。

「そこに書いてある通りだ」

「どうすれば龍を倒した証拠になるのですか?」

「ほぉ、お前には龍を退治する自信があるのかね」

「はい、私は魔法使いですから」

 すると話を聞いていた人たちが一斉に魔法使いの方を見ました。

 それは今まで魔法使いが感じたことのない不思議な視線でした。そこにいる人たちは皆、偉そうな学者の先生も、通りがかりの男も、よぼよぼのお爺さんも、そして、魔法使いの質問に偉そうに答えていた若い衛兵も、魔法使いに期待を込めた眼差しを向けていました。

「そうか、魔法使いならもしかしたら龍に勝てるかも知れないねぇ」

「なるほど、そういう方でしたか」

「いやぁ、普通の人だと思ったけれど、そんなにスゴイ人だとはねぇ」

「それでどんな方法でやっつけるんですか?」

 うーん、そこで魔法使いは悩んでしまいました。

 東の山すそに住む黒龍は魔法使いも会ったことがあるので知っていました。今までは取り立てて相手にする必要もありませんでしたけれど、まったく知らない間柄でもないので、殺してしまうというのは少女と交わした約束に反するような気がしました。

「うーん、そういうことだが・・・。その場合どうすれば証明できるのだろうか・・・」

 そこにいる皆が悩んでしまいました。

 するとそこに、白い髭の偉そうな老人が現れました。

「ふむ、確かにお前が本当の魔法使いであれば、龍を殺さずに生け捕ることも出来るだろう。それではどうだろう?龍の眼を持って来るというのではどうかな?」

 魔法使いは首を横に振りました。

「それでは龍が可哀想です。いかに人間を襲いその肉を食らう龍といえども、一生のうちに得られる目玉は二つだけと決まっています」

 それに目の見えない少女との約束を考えてみても、それはあまりにも皮肉だし、残酷なことのように思えました。老人はうーむと考え込みました。

「ならば、龍のうろこではどうかね?」

 魔法使いはうなづきました。

「それならば簡単なことです。龍のうろこは自然に生え替わるものですから」

 人々の間からおぉという歓声が上がりました。

「では、龍を東の山すそから追い払い、龍のうろこを持ち帰るということで良いですか?」

「うむ、しかし、かつて誰も龍を退治したという者はいないというから十分に気をつけられよ」

(まあ確かに)

 魔法使いは心の中で思いました。

 龍は倒せません。この世界にいくつかある不可能なことの一つです。 

「まぁその点は心配ありません」

 魔法使いには自信がありました。

「遅くとも夕方には戻りますからお金を用意しておいてくださいね」

「分かった。早速、上の者に相談して用意しよう」

 こうして魔法使いがお金を得る方法が決まりました。

 魔法使いは人ごみを抜けて、街を出るとそのまま風に乗って、東の山すそへと向かいました。


 さて、東の山すそへ辿り着いた魔法使いは異様な臭いに気がつきました。肉が焦げる臭いと物が焼ける臭い、そこにイオウの臭いが混ざった凄まじい臭いです。

 そこにはつい先ほど、襲われたと思われる旅人たちのなきがらが転がっていました。無残に食い散らかされた人間の体がバラバラになって辺りに四散しています。並の人間ならばその光景を見ただけで慌てて逃げ出しそうなほどでした。

 ただ、魔法使いにとって無残な死体も臆するほどのものではありませんでした。なぜならもっと酷い光景を目にしたことがあったからです。

 龍は日が高くならないうちは滅多に自分のすみかから出て来ないものなのですが、その現場を見る限りではどうやら龍は朝一番で山を抜けようとした旅人を襲ったようです。

 魔法使いは風に乗り、黒龍のすみかへと足を運びました。

 龍のすみかは更に鼻が曲がるほどの強烈な臭いがします。さすがの魔法使いもこれにはまいってしまいました。しかし、体が慣れるのを待って龍の巣へと足を踏み出します。

 龍は岩肌にある洞窟でゴゥゴゥと凄まじいイビキをかいて寝ています。

 魔法使いは黒龍が目を覚ますのを待つつもりでしたが、あまりの大きな音と強烈な臭いにさすがに我満することができずに龍をつついて起こしました。

「おい、黒龍よ。私を覚えているか?」

 龍はゆっくりと首を起こしました

「ふん、誰かと思えば、東の外れに住む世を捨てた魔法使いではないか」

 魔法使いは若い男に姿を変えたままでしたが、龍は目でなく匂いで相手を嗅ぎ分けるのです。

「分かったか、ならば話は早い。お前が旅人を襲うので人間たちが迷惑している。やめてもらえないものだろうか?」

 すると黒龍はうるさそうに尻尾をバタバタさせました。

「人間なんぞ増えすぎて困っておるではないか。儂が一日に何匹か食べたところで、そう困ったことでもあるまい」

 魔法使いは龍の態度が以前に比べて悪くなっていることに気がつきました。 言うならばガラが悪くなっているのです。

「しかし、人間の方ではお前が旅人を襲うので困っておるのだ。なんとかやめられないものか?」

「嫌なことだ。儂は人間を食うのが楽しくてならない」

 魔法使いは龍の寝床に沢山のキラキラ光るお金があることに気がつきました。

「なるほど、お前は食事のついでに、そのキラキラした金属を集めるのが愉快だということなのではないか?」

 まったくその通りでした。黒龍は人間を襲ったときに人間が落とす金貨や銀貨を集めるのが楽しかったのです。お金だけでなく、人間が作るキラキラした物ならばなんでも良かったのです。

「それのどこがいけないというのだ。龍が人間を食べてはならないという決まりはない。それに死んだ人間のモノを持って行くののなにが悪い」

 魔法使いは顔をしかめました。

 龍は元来誇り高く、掟に従い掟に生きる種族です。

 掟というのは単なる決まり事だけではありません。それぞれの自尊心つまり、プライドを守るためのものでもあるのです。掟に反しないからといってしてはいけないことは沢山あります。

 龍の掟の一つが、「食べる以外の目的で生き物を殺してはならない」というものです。

 魔法使いはそのことを言いかけましたが、ふとやめました。

 龍の掟に関することを言い出せばケンカになるに決まっているからです。

 少し考えてから、魔法使いはこう切り出しました。

「昔、龍の中でもとりわけ長生きをした赤龍に聞いた話によると、龍は人間を食べるとそのうち段々と人間の持つ欲に取りつかれるという。人間はすべての生き物の中でもとりわけ欲が深い。そして、弱くズル賢い生き物だ。そのキラキラした物を欲しがるというのは人間の欲に取りつかれているなによりの証拠ではないのか?」

「なんだとっ」

「欲に溺れた龍はやがて少しずつ己を見失う。そして自分でも気づかぬうちに単に醜い怪物へと成り下がる。まず理性を失い、やがて知性も失う。龍技も掟も忘れ、欲に突き動かされる。外道に堕ちた龍を龍の掟は許さない。長が始末をつける」

 さすがの黒龍もこれには参ってしまいました。なぜなら、このところ人間ばかり襲うことに自分でも疑問を感じていたからです。

「誇り高き龍の眷属(けんぞく)が人間のけがらわしい欲に取りつかれたとあっては、龍の間で物笑いの種になるぞ。いや、もうなっているかも知れぬな」

 黒龍はカァっと頭に血を昇らせました。

 鼻から炎を吹き出し、魔法使いを噛み殺そうと首をもたげます。

 しかし、魔法使いはまったく動じません。なぜなら魔法使いはその気になりさえすれば黒龍の動きを封じてしまうことも、炎を消してしまうことも。それよりもはるかに恐ろしく残酷なこともできました。

 ただ、そうしたことを“しない”だけなのです。

 黒龍と魔法使いはしばらく無言でにらみ合いましたが、やがて黒龍はしょんぼりとうなだれました。

 黒龍はこのところずっと弱い人間たちしか相手にしていませんでした。逃げ惑う人間を追い回して殺し、騎士たちの槍が届かない空から炎を吐きかけていれば自らが傷つくことなどありません。

 黒龍が本気で戦えば魔法使いと互角以上に戦うことも出来る“かも”知れません。ですが・・・

「自分よりも弱い者しか相手にしてこなかったのであろう。戦いなどすっかり忘れた私でも今のお前には遅れをとらないであろうな」

 龍は誇り高き種族です。そのため、常に戦いを忘れず、縄張りを荒らす相手はどれほど強くとも立ち向かいます。

 龍の最大の敵は同じ龍です。ただ、龍の一族同士は無闇に互いの縄張りを荒らさないため滅多に顔を合わせたりはしません。ただし、ひとたび顔を合わせ戦いになろうものならボロボロに傷つくまで戦います。

 ただ、それでは話し相手もおらず困ることばかりなので、龍はテレパシーを使ってお互いに意識をつなげることが出来ました。黒龍がわけもなく人を襲うようになったという話は龍の間で有名になっていました。

 龍たちは食べることと寝ることの他にこれといってすることがなく、退屈しきっているので、黒龍が堕落(だらく)したという話題は大層面白おかしく語られました。仲の良かった緑龍などは本気で心配してくれたのですが、黒龍は耳を貸さずわざと寝たふりばかりしていたのです。

 誇りを傷つけられた黒龍はぐうの音も出ませんでした。

「では、オレはどうすれば良いのだ。生きる為に食わねばならず、人の味を覚えたオレが生きていくには何を食べれば良い?」

「なぁに、こうすれば良いのだ」

 魔法使いが短く呪文を唱えると、巨大であった龍の姿はみるみるうちに縮んでしまい、やがては魔法使いの両手に抱えられるほどの大きさになっていました。

 黒龍は驚きあわてましたがもはや手遅れです。

「なにをする。これでは人間どころか犬猫でさえ大きな獲物になってしまうではないか」

「その通り。遥かに昔、龍の長老から聞いた話では、人間の味を知った龍がその毒気を抜くにはこの方法が一番良いということだ。なにしろその大きさでは人間を襲うのは難しいし、キラキラしたものも重くて運ぶ事が出来ない。その姿で何年か暮らせば、そのうち人間の味も欲も忘れてしまうだろう」

「しかし、これではあまりにみっともない」

 小さく縮んでしまった龍は恐ろしさなどは欠片もなく、どこか愛らしい姿です。

「なるほど、確かにその姿で飛び回ってはあまりにぶざまというもの。私の住まう塔に住み、自由に飛び回るというのではどうかな?」

「・・・わかった」

 黒龍にはもはやなにも言う気力が残っていませんでした。


その3 魔法使いの目覚め


 小さくなってしまった黒龍はぱたぱたと落ち着かなそうに飛び回っています。

 魔法使いはすっかり広々となった龍のすみかを見回しました。

 先程まで黒龍がねそべっていた寝床には山のようなきらびやかな財宝が積まれています。

 よくもまあこれほど溜め込んだというほどの財宝です。

 財宝の上にキラキラと透明に輝く大きな葉っぱのようなものが落ちています。龍のうろこです。

 うろこを拾い上げながら魔法使いは思いました。

「ああ、そういうことか・・・」

 お城の立て札の意味がようやく飲み込めました。

 つまり、『龍を倒した者にはここに山のように積まれた財宝の中から金貨1万枚分だけやる』だが、『残りはすべて国王の所有物となる』。

 それに文句など言おうものならならたちどころに牢に入れられるか、殺されるかのどちらかでしょう。いかにもズル賢い人間たちが考えそうなことです。

 『自分たちに害を与える龍を始末させて、その龍を始末した者をも始末する』。

 城の騎士たちは話し合いや嘘が通じない龍は怖くても、龍を殺した人間は怖くないと思っていることでしょう。油断させておいてお酒やクスリを飲ませてその間に縛り上げてしまったり、ありもしない罪をなすりつけてよってたかってイジメ殺したり。

 あるいは、龍を殺した者を“英雄”と持ち上げ、国の自慢にと大いに宣伝して他の国の人々を震え上がらせることも考えているでしょう。

 人間とはそういう生き物です。

 いつだってそう。都合の悪い事実を隠し、命短く弱きことを逆手にとって、あたかも世界の被害者かドレイのごとく振る舞い。その実、この世の理をいたずらに乱すものたち・・・

 なぜだか、魔法使いは無性にイライラしてきました。

 一仕事を終えたというのに、なにかを成し遂げた実感はなく、やっぱり自分はダマされて利用されただけなのではないかと思いました。

 あの少女への想いも、思い違いか、それともなにかにたぶらかされたのかも知れないと思いました。

 どうしたわけか魔法使いはひどく疑い深くなってきました。

 もしかするとそこに置かれた莫大な財宝のせいかも知れません。

 アタマの中でなにかが引っかかっています。ですが、うまい言葉だとか思い当たるヒントがうまく出てきません。

 ふるふるとアタマを振って、魔法使いは黒龍に向き直りました。

「おい、黒龍。この財宝はどうするつもりなんだ?人間に返すのか?」

「馬鹿を言うなっ、これは俺のもんだ。誰にも渡さないぞ」

 黒龍は小さくなってもまだまだ光るモノを欲しがる気持ちが残っているようです。

「元はといえば人間のものだ。人間に返すのが筋だろう」

 魔法使い自身、なんだかイヤな気分になったのですが、建前はそうです。どのみち人間に返したところで王様や貴族たちが贅沢をするのに使うだけでしょう。

「持ち主だった人間たちはみんな俺が食ってしまった。つまり、コレには持ち主がいない。少し分けてやるから運べ」 

「おいおい、お前はこれから人間の毒気を抜くために私の塔に住むのだぞ。家賃分としてすべて私が受け取っておく」

 魔法使いと黒龍は財宝を挟んでにらめっこしています。

「やれやれしょうのない連中だ」

 実は黒龍と魔法使いのやりとりを聞いていた者がいました。魔法使いがお城の近くで衛兵と話をしていたときに出会った白い髭の老人でした。

 その老人に気付くなり黒龍は慌てふためきました。

「ちょ、長老様」

「情けない。そこな魔法使いの気配に惑わされてわしの気配にも気付かないとは」

 なにを隠そう、その老人は人に姿を変えた古い龍でした。魔法使いが話していた龍の長老その人です。

「まったくもって人が悪い」魔法使いは呆れた顔をして老人を迎えました。「それ以上に私自身の衰えも甚だしいようだ。あなたの気配にまったく気付かなかった。面と向かい話もしたというのに」

 龍の長老は小さく首を振りました。

「いたしかたないことよ。お主が名を捨てて1000年あまりになろうかの。それにこの姿だ」

「もうそんなになるのですか・・・」

 魔法使いは心底驚いた顔をしました。

 魔法使いは自分が誰なのだか何者なのか忘れ、《黒き徘徊者》として毎日ぼんやり暮らしていました。なぜだか人間を恐れ嫌って近づかず、塔にひきこもって誰とも口をきかずに過ごしていました。時々、気分が良くなると風に乗ってアチコチを見物に行きます。龍たちに会うこともありました。

 それでも、そんなに遠くにまでは行こうと思いませんでした。特に西の方にはなぜだか近づきたくないと思っていました。

「もはや、お主の名を聞いて恐れる者も少なくなった。そろそろ名を名乗っても良い頃合いでないか、リーアム・ポロニウス」

「あっ」

 リーアム・ポロニウスという名を耳にした瞬間、魔法使いの頭は電流が通り抜けたような衝撃に見舞われました。

 記憶が。そして様々な出来事や物事が回り始めました。

 魔法使いはそのあまりにも長い寿命の中で巡り会ってきた沢山の物語とそこで感じてきた気持ちに押しつぶされるかのようでした。

 ヒザはわなわなと震え、わけもなく涙が流れました。

 胸がつぶれるほどの寂しさがこみ上げました。

 憤りの気持ちが頭を突き抜けました。

 まざまざとよみがえった感情に魔法使いは驚き戸惑いました。

「お主の愛弟子であったコーネリウス・ピウズがかつて“魔王”として君臨したお主の記憶を封じ、わしがコーネリウスからそなたの記憶の鍵となる真の名を預かり、そなたを東の塔に幽閉してから1000年。記憶を失ったまま、お主は“何者でもない自分の時間”をよく耐え抜いてきた」

 長老のゆっくりとした言葉に、魔法使いの心は少しずつ静かに落ち着いていきました。

「そうでしたね。我が子コーネリウスが泣きながら私を倒したあの日がまるで昨日のことのようです」

 決意を秘めた強い表情のコーネリウス。そして、その隣にいたあの人間の若者。

 魔法使いが自分の記憶を確認しているのを横目に、龍族の長老は小さな黒龍に向き直り恐ろしげな顔をして黒龍をにらみつけました。

「『腹白』よ、わしがいまここにいる意味が愚かなお主でも勘づいたであろう。わしはお主を『裁き』に来たのだ。だが、わしの下す裁きの前に、リーアムがお主の始末を人間どもに任された。わしは人間たちに混じってリーアムにいかに裁くかを問うた。そのとき、わしはお主をリーアムに任せると決めた。すんでのところで命拾いしたのだぞ」

 龍の裁きとは他ならぬ龍を殺すことでした。龍は殺されてもまた少しだけ姿を変えて生まれ変わるだけです。ですから、必要があればためらうことなく相手を殺します。

 決して倒せないというのはそういうことです。

 その場にいる龍を傷つけ倒したところで、世界のどこかにまた新たな龍が産まれます。

 リーアムの考える“倒せない”というのはそうした意味でした。

「そんなぁ」

 黒龍は情けない声をあげます。

「まったく・・・。お主はリーアムに命がけで挑みかかり、重い手傷を負わせて息絶えたアガトラムの生まれ変わりだというのに」

 黒龍はアガトラムという名にピクリと反応しました。そして、心底イヤそうな口ぶりで弱々しく抗議しました。

「長老、それはあまりにもひどいですよ。人のしもべアガトラムが私の前世ですって?冗談ではない。それこそ、緑龍“三白”だって呆れてバカにするでしょうよ」

 黒龍にとってアガトラムというのは誇り高き龍としての生き方を捨て人間のしもべに成り下がった途方もなく愚かでつまらぬ存在でした。つまり、『鼻つまみもの』の代名詞です。

 龍の長老は長く大きなため息をつきました。

「そうであろうなぁ。“暗黒の時代”にほとんどの龍が一度は命を奪われた。生まれ変わった龍族の子供たちをリーアムは氷漬けにして眠らせた。『殺せないのであれば未来永劫眠らせておくまでだ』と言い放ってな。あるいは魔の物どもに心を操らせた。破壊のための道具におとしめられた。果てなき破壊に喜び狂い、理と掟を忘れて身も心も魔の物のしもべに成り下がった龍も多かった。まさに暗黒の時代じゃった」

 長老の脳裏には悪夢のような光景がよみがえりました。

 大地は焼けただれ、龍族が誇りではないもののためにぶつかりあい、その巨体が小さきものどもの命をやみくもに奪っていく。

 『種』の守護者としてなすすべもなく、そのあまりにむごたらしい光景を苦々しく見守るしかなかった長老の前で、かつては“耳裂け”と名乗っていた若い龍は悪びれることなく堂々とその名を捨てると宣言しました。


『わたしは最早、龍族の掟には従わない。名を捨てこの不毛なる戦いを終わらせる意志のある者にのみ従う』


 そうして一度は“名無し”になった龍が孤独と戦い。主を得てアガトラムと呼ばれるまでにはここでは語り尽くせない更に多くの物語があったのです。

「我ら龍族は長き『種』としての生命をつむぐために破壊と再生、そして掟と理を必要とする。龍が死ぬことでまた新たな龍が生まれる。それが龍の『理』。そして、常に増えず減らぬ存在であるからこそ、世界に無闇に干渉しない。食べるためだけに生き物を殺し。いたずらに暴れ回って他の命を傷つけないが、何者にもあなどられぬようお互いを高め合う。それが『掟』。『個』の記憶とは別の『種』の記憶を守るわしら長老が若い世代へとそれを伝えてゆく」

 長老は遠い目をして語ります。

「だが、わしらにも思い出したくもないことが沢山ある。ゆえに、あのとき生き残ったわしらの中にも、多くの龍族を戦いに巻き込んだリーアムとアガトラムを悪く言う者は少なくない。なによりも、“暗黒の時代”を生き残ったわしらはあの大事のとき、揃いも揃って肝心なことはなに一つしなかった愚か者であるからだ。『種』としての己や『理』、『掟』を守るあまりに、大いなる者との戦いに背を向けた。苦々しげに見ていただけだった。ゆえに今も生き残ることが出来た」

 リーアムが魔の物を率い、龍たちを次々に自らの望むままに扱い龍族の誇りを踏みにじっても、『種』を守ることと、世界に干渉しないと決めていた長老たちは動こうとせず。ついに動かないままに事態は決着しました。

 すべて終わってから、あまりのむごたらしい状態に言葉を失ったのです。

 リーアムが倒された後、アタマがおかしくなってしまった龍がいました。

 自分の翼を食いちぎり、はらわたをえぐって死んだ龍がいました。

 石のように動かなくなり、やがては本当に石になってしまった龍がいました。

 そうした龍たちは死の後に再生を果たしても、悪夢にうなされたりココロが歪んで掟や理に従わなくなったりしました。

 長老たちはそうした龍たちをリーアムがしたのと同じように、氷漬けにして眠らせました。

 そのとき初めて、長老はリーアムやコーネリアスの気持ちがわかりました。死なないもの、何度でもよみがえってしまうものは、眠らせてやるより他に方法がなかったのです。

 リーアムは龍への憎しみと敵対から龍を氷漬けに眠らせましたが、コーネリアスは裏切っても愛する気持ちが残っていたのでリーアムがヒドい状態になったときに眠らせてやりました。

 そういう様々なことがわかり始めた戦いの100年後ぐらいから、長老は人間の姿を借りて世界を見回るようになったのです。

 倒された後のリーアムがまるで魂が抜けてしまったかのような、やつれて目ばかりギョロギョロした恐ろしくもあわれな姿になったのは見ました。コーネリアスがそんなリーアムを愛おしげに抱きかかえ、東の果ての塔につれてゆき、厳重に魔法をかけて深く眠らせたのも見ました。

 コーネリウスと人間の皇子は世界を元に戻す努力をしましたが、人間の皇子は家臣たちに殺され、コーネリウスは人間に愛想をつかして人里離れた場所に隠れるようになりました。

 じつは長老を除くすべての龍たちはある誤解をしています。ですが、長老はその誤解を解くつもりはありません。人間たちは忘れているようです。だから、敢えて思い出させようとは思いません。

 それというのが、『みんな今現在生きてここにいるリーアムをコーネリアスだと勘違いしている』のです。二人とも世捨て人のように暮らしたので『世捨て人』とか『人嫌いの魔法使い』と呼んでいますが、その正体がかつての魔王リーアムだと知ったら大変なことになります。だから、いままでずっと黙っていたのです。

「それにしても・・・」と長老はタメ息をつきました。「魔王であった頃のリーアムがわしら龍族を人間たち以上に憎んだ理由がよくわかる。『たとえなにが起きようとも無関心な者にこの世界を統べる資格はない』。それがかつて宿敵だった者の言葉であるからこそ、今もわしの心に深く突き刺さっている。いや、あれは我ら龍族という『種』に刻みつけられた新たなる『掟』だったのだ」

 長老はそこで一呼吸置きました。

「わしらは世界に干渉しないが無関心にはならぬ。知る努力は放棄したりせぬ」

 それは長老が決意としてずっと心の中に秘めていたことでした。

 やっとそれを伝えるべき相手が戻ってきました。

 すこし興奮気味に熱っぽく語っていた長老は、リーアムの肩にちょこんとのっかり、きょとんとした顔をしている黒龍をみて、なげかわしいとばかりに首をふりました。きわめて重大な話だというのに、まったく理解していないのですから。

 これだから、破滅的な戦いを知らない若い世代の龍たちはダメだ。そうボヤきたいところでした。

 一方のリーアムは長老の語る言葉の重大さをキチンと理解していました。理解していたからこそ、穏やかに耳を傾けました。

「どうやら、龍は変わったようですね」

 そのなによりの証拠が人間たちの様子を知るために、人間の姿を借りていることでした。

 かつて、龍たちは人間が世界の担い手であろうがなかろうが、全くの無関心であったのです。人間が次第に数を増やしていったのも、龍が好んで食べない生き物だったからです。襲われれば痛い目にあわせますし、縄張りを荒らせば容赦しません。

 ですが、人間同士が戦争をしようが、すみかを広げるために森を切り払おうが、自分たちにはまったく関係がないと思っていました。

「そうとも。人間がはびこるならば人間を、龍がはびこるなら龍を、魔の物なら魔の物を、キチンと正面から見すえなければならぬ。クルクルとよく動いては悪さをする連中を、欲や快楽に己を見失う者たちを、世界の担い手として長くあたたかい目で見守らねばならぬ」

 リーアムには人間の姿を借りた龍の長老のほおに刻まれたシワが、心労によってきざまれた本物のように見えました。

「人間として生まれ、“真理の門”の向こう側から舞い戻り、不老不死と強大な力をその手に1500年も世界を見守ったお前という存在の偉大さを、わしはこの1000年でイヤというほどに感じてきた。数の知れた龍のごときがいかほどのものか、人間たちときたら、よくもまあと思うほどにくだらぬ、愚かでけがらわしい真似をするものよと。あの大いなる戦いの最後に勝ったわれらが、お主から奪い取ったのはその役割なのだと。それをわしらに教えたのは、お主とコーネリアス。そして、アガトラムだ」

 長老はいとおしむようにして、かつては憎しみとあざけりをもって呼んだその名を呼びました。なんだかわからない黒龍にも、それがとても大事なことのように思えました。

「しかしな、“腹白”。龍の中においては裏切り者や愚か者でも、人間たちの世界ではアガトラムは龍の中の龍“神龍”と今もたたえられておるのだ。龍の名を捨て人間の名付けた名を名乗った。種と種の垣根を越えた力でなければ、超絶の力を振るう魔王リーアムを倒すことは出来なかったのだ」

 そう言い放ってから、長老はクックと笑いました。

「なんとも皮肉な巡り合わせではないか。かつては敵同士だったアガトラムとリーアムがこうして劇的な再会をしているところにわしが立ち会うとは」二人を交互に見てから長老は続けます。「なにより、二人とも1000年前のあの頃と比べて、なんとも幼稚なケンカをしているじゃないか。たかがその財宝の山と世界の担い手たる座。まったくもって比べようもないわっ」

 どんな顔をすれば良いか分からず、困ったようにオロオロする黒龍に対して、リーアムは穏やかに微笑みました。

「それで良いのですよ長老。あなただって、あの頃ならば今の私たちなどには取り合わなかった。『知ったことか』と言ってはばからなかった」

 リーアムは晴れ晴れとした笑顔を見せました。ずっとアタマの中を巡ってきた出口のない答え。


『自分は“魔王”としてこの世界を変えることが出来たのか?大きな破壊のあとになにかを世界に与えることが出来たのか?』


 その答えが龍の長老です。

 大きな犠牲を払いましたが、その心も生き方も変わりました。

 リーアムの心にはまだ人間に対する深い疑いの気持ちや、強い憎しみが残っています。

 それでも人間の少女を愛するようになりました。

 そして、人間はどうなのでしょう?それはこれから確かめていけば良いことです。

「いかにも。時代は変わったのだ、リーアム。そしてまた変わり続けるのだ」

 長老も久しぶりに心の底から微笑みました。

 1000年の間、ずっと心の中に重荷を抱えてきたのでした。

 たとえ、『種』が違っていても、時間をかければわかり合うことが出来る。

 お互いに知らなければ良いことも沢山ある。

 知っているからこそ、忌々しかったり憎かったりする。

 だけど、知っているからこそ許せることも多い。

 敵だからこそ理解できることも沢山あったでしょう。

 長老の言うように、またひとつ時代が終わり、別の時代に入ろうとしているのかも知れません。


その4 魔の森


「さてと」

 魔法使いリーアムは“これから”のことをしばらく考えた後、手にしていた龍のウロコを龍の長老に預けました。

「これをあの城の門番に届けてください。約束は果たしたがお礼はいらないと言って」

「よかろう。お主が出ていくと余計にややこしい事態を引き起こしそうだからの」 

 長老がすぐに快く引き受けてくれたので、リーアムはいたずらっぽく笑いました。

「なんだったら長老が貰っておいてください。人間たちに適当な言い訳をして」

 すると、長老は思いっきり顔をしかめました。

「馬鹿を言うものではない。龍は力をたくわえるためにもっと大きな金を欲するのだ」と言ってから黒龍を一目ジロリとにらんで「山のような金というのはこういうモノのことではない。金がたくさん眠っている“山”をいうのだ。金の眠る山は大地の気に満ちている。大地の気は体や心を癒すのに大きな役割を果たす。だから、わしら龍やリーアムのような魔法使いどもは山そのものを欲するのだ」

 長老が言いたいのは、龍が金にひかれるのは傷や体をいやすためで、その金というのは山から掘り出される前の巨大な金脈のこと。人間たちが掘り出して細工や加工をしたものはたしかに見た目は美しいですが、その程度の量では龍にとってはそれほど効き目があるわけではないという話です。

 また、魔法使いの魔法も無限に生み出されているのではなく、自分自身の体にたくわえたものと、大気や大地、大きな水が持つ『気』の力を集めて利用しているのです。

 そうして考えると魔法使いと龍はそもそも似たような性質を持っています。

 この事実は重要な意味を持ちます。そのことはどうかお忘れ無きよう。

「ちぇっ」

 すっかりしょぼくれた黒龍はリーアムの肩でふて腐れてそっぽを向きました。

「東の塔は大地の気が一番満ちる場所に立てられているから、東の塔にいれば金の山で寝そべるのと同じくらいの効果はあるでしょうね」

 リーアムは笑いながら黒龍のアタマをなでてやりました。

「その財宝の山はリーアムにくれてやれ。ここに置いておけば人間どもに持ち去られるだけだ。だが、今のお主がかついでいくには多すぎる。どの道、数百年はその体で毒気を抜かねばならぬ。よいな、“腹白”」

「・・・はい」

 黒龍はなおも名残惜しそうに財宝の山を見ていましたが、少し考えてみるとソレもまた東の塔に運ばれることに気付きました。自分のものではなくなってしまいますが、これからも財宝を眺めて暮らすことは出来そうだと気づき、黒龍は少しだけ安心しました。

 どうやらそれで黒龍退治の話には片がつきそうでしたが、リーアムはもう一つ大事なことを思い出しました。

「そうだっ、それはそうと長老。山あいに暮らす人間の家族が一年食べていくには金貨がいくらあったら良いのですか?」

「は?」と言ったきり長老はリーアムの顔をまじまじと見ました。

「もしや、お主はそれがわからないものだから人間たちから金貨1万枚の仕事を引き受けたのか?」

「はい。その通りです」

 真顔で答えるリーアムにはまったく悪びれた様子がありません。

「やれやれ」

(なんだかどっちが元は人間だったか分からない)

 長老はそう言いたいところをガマンしました。

(相手は1000年もなかば寝ていたのだからそんなことで怒ってはダメなのだ)

 長老は目をつぶって深呼吸をした後、つかつかと財宝の山に近づき、なにかを拾い上げるとソレをリーアムに渡しました。

「コレで十分」

 リーアムは長老から渡されたものを見てビックリしました。

「たった10枚?」

 リーアムの手の中には金貨が10枚ありました。

「そうじゃ。庶民はソレだけあれば1年は遊んで暮らせる」

 リーアムは言葉を失いました。

「それじゃあ、この金貨の山があれば・・・」

「一生働かないで済むだろうのぉ」

 長老の言葉にリーアムは考え込んでしまいました。

(あの子に金貨を渡したとしてそれがどんな結果を招くだろう・・・)

 予定外の収入があれば一時的に家計は満たされますが、予定外なのだからと本来とは異なる使い方をしてしまうでしょう。

 お金のない生活から、お金はあるが暮らしぶりは貧しい生活に変われば意識せずとも人の心は変わってしまいます。今まで頑張ってきたことが頑張らなくなり、ガマンしていたことをガマンしなくなります。

 また、身を守る力もない者が身の丈に合わない財産を持てば悪い人間に狙われたりしてかえって危険を招いてしまいます。

 そして、お金がなくなったとき、人は“また”そうした予定外の収入をアテにするようになります。

『その結果、人はどこまでも堕落(だらく)していくのだ。他人をアテにして、目先の利益にとらわれるようになる。手の中の財産を守ることに必死になるあまり、前を向いて歩くことを忘れてしまう・・・』

 深い考えにふけるリーアムの表情はくるくると変わり、時折苦虫をかみつぶしたようなイヤな顔になります。

 長老はそんなリーアムを面白そうに眺めました。

「やはりお主は面白いな。コーネリアスがお主を放っておけないと言っていたのがよく分かるわ」

「えっ?」

 リーアムは考えるのをやめて長老を見ました。

「大方そうやって一人で考えて思い悩んで、その結論として人間や龍を憎んで世界を滅ぼす気になったのであろう」

 長老はリーアムに向き直りました。

「どうして金貨一万枚の仕事を引き受けたのか、わしに話してみろ」

 リーアムは目を大きく見開いて驚きました。

「龍が他の生き物の相談を聞くのですか?それにこれはボクの問題であってあなたには関わりのないことだ」

「自分の中に答えが見つからないからと言って他人の中にもないとは限らない。誰にも相談せずに過ちを犯したのはお主だけではない。わしも、“腹白”も同じ間違いをした」

 リーアムは少しだけ驚いた表情を浮かべ、その後、あまりの恥ずかしさにはにかみました。

 長老はそんなリーアムの表情の変化を面白そうに見つめました。

「ボクは人間の子を好きになってしまったのかも知れないのです。その子は目が見えないけれどとても美しい子です。その子に家族を1年の間養うお金をあげると約束したのですよ」

「目の見えない美しい子?」

 長老は少し驚いた顔をしました。

「ええ、東の塔から北部連山に向かって少し飛んだ先にある泉のほとりで会ったのです」

「っ、魔の森だと」

 長老の顔は驚愕と困惑に満ちています。

「魔の森?」

「そうよの、あの一帯は人間たちから魔の森と呼ばれておる。東の塔から漏れ出でる大地の気によりあの一帯はよく肥えた土地と繁る森が広がるそれは豊かな所。なれど、お主が封じられておった東の塔の異様に人間どもは恐れて近づかなんだ」

 リーアムの住む東の塔は森の中に立つ石作りの巨大な塔です。わたしたちの世界で例えれば高層ビルのようなもので、この世界には滅多にありません。表面はツタで覆われていて窓枠には“翼魔の像”が並んでいます。よほどの怖い物知らずでも恐れて近づきません。

「そうでしたか。道理で人に出くわすことがなかった筈だ」

「ところが北部連山のあたりは街道の端にあたるせいで山から切り出された木材は川伝いに街へと運ばれておった。木こりや狩人が多くいて、ヤツらはあのあたりをナワバリにする赤龍“折れ尾”に畏敬の念を払い、互いに近づかぬようにして慎ましく穏やかに暮らしておった。ところが300年ほど前のことだ。儂は“折れ尾”を訪ねるために龍の姿で北部連山に飛んだのだ。だが、縄張りを守るため顔を出す筈の折れ尾の姿は見当たらず、人の気配もすっかり消え失せていた。そればかりか異様な気配に満ちあふれていた。儂は不吉な予感を感じ、それ以来あの辺りには近づいておらぬ」

「・・・・・・」

 リーアムも“折れ尾”のことはよく知っています。

 龍族には珍しく穏やかで話し好きで気さくな龍です。リーアムが持つ龍族の知識は折れ尾から聞いたことも多かったのです。

「悪いことは言わぬ。あの辺りには『なにか』がある。儂は人間どものかまびすしい噂話にも耳を傾けたが、あの辺りに近づく者は『黒き乗り手』と呼ばれる不死の騎士に皆殺しにされるという。見目麗しい盲目の少女が巨大な『黒犬』と共にある姿を見たという話も聞いた。他愛のない話と思いたかったが、なにしろ東の塔に満ちる魔力は強力ゆえにあるいは異形の存在を生んだとも知れぬ」長老はそこで言葉を切り、リーアムの瞳をじっと見据えました。「それでもなお、再びあの森を訪れるか?」

「・・・と言われても」

「ぬっ」

「ボクはコイツを連れて東の塔に帰らなければなりませんので」

「そう・・・だったな」

 長老は拍子抜けしましたが、リーアムは既に別のことを考えていました。

(夜までもう時間がない。急がなくては・・・)


その5 たそがれの遭遇


「それでは長老、ごきげんよう。そのうち東の塔にいらしてくださいね」

「なんじゃ、急ぐのか」

「ええ、約束の時間がありますので」

 リーアムはニコリと笑って、指をパチンと鳴らしました。

 すると・・・

 長老はリーアムが依頼を受けたあの城の立て札の前に立っていました。

 かつての魔王が扱う凄まじい魔法の力です。どんな事でも自在に行えるというのはそういうことです。

「やりおるわ」

 長老は低く笑うと門番に話をつけに行くことにしました。


 一方のリーアムたちは・・・

 黒龍とリーアムは東の塔にいました。

「なんだ、薄暗くて汚くて狭いところだなぁ」

 黒龍は一目見るなりブツブツ文句を言います。

「ふむ」とリーアムが呟いた瞬間そこは・・・

「おぉぉぉ」

 塔の一角が黒龍の住まいであった洞窟と同じように再現されています。

 ゴツゴツした岩肌と鍾乳石。そして、宝の山もあります。

「気に入った、気に入ったぞぉ」 

 黒龍はリーアムの肩から離れて自分の新しい住まいをパタパタと飛び回りました。

「そりゃ結構」

 リーアムはニヤリと悪戯っぽく微笑むと宝の山だけ消し去りました。

 かわりに真っ白なシーツを折り重ねて山にしました。

「あぁぁぁぁ」

 黒龍は情けない声を上げましたがリーアムはお構いありません。

「なんのためにここに来たのか忘れて貰っては困るよ」

「うぅ」

 黒龍はしょんぼりうなだれました。

「かわりに晩飯は鹿肉にしてやるよ」

 鹿は龍の大好物です。

 黒龍は少しだけ元気を取り戻しました。

「そうだなぁ、夕食まで少し昼寝をしておくと良いよ」

「えー」

 黒龍は東の塔の中がどうなっているのか知りたくてウズウズしていました。が、そんなことはリーアムは先刻承知しています。貴重な文献や標本をいじられたり、寝室に入られるのはまっぴらです。

「おやすみ」と言ってリーアムが指をパチリと鳴らすと黒龍はとろとろと眠くなってしまい。宝の山のかわりにリーアムが置いたシーツの山に落下するとそのまま眠りに墜ちてしまいました。

「さてと邪魔者も片付いたことだし」

 リーアムは自分の居室へともどりました。

 適当に物が散乱してほどよく調和した状態こそがリーアムの心を落ち着かせます。

 そこで小さな革袋を一つ取り出しそこに金貨を10枚おさめました。約束ですので、一応用意したのです。

 ですが、リーアムは少し違うことを考えていました。

 長老の話が気がかりだったのです。

 リーアムは少し迷った後に、クローゼットに向かいました。

 クローゼットにはリーアムの施した何重もの結界が張り巡らされています。さすがに自分の安全のためにかけた魔法は離れて解除することは出来ません。 リーアムは指先で軽く触れて結界を解除すると、愛用の剣を取り出しました。

 四姉妹の末にあたるアリアドネです。


 随分昔のことになりますが、リーアムは精霊の力を封じた宝剣を作りました。 四本の宝剣は注がれた魔法の力によりそれぞれこの世界にある地脈と繋がっており、剣の力を用いれば更に強大な魔力を使うことが出来ます。

 ところがいざ作ってみて、リーアムは剣の力を使うことが愚かしいことだと思うようになりました。そもそもこの地上でそんなものをやたらと使おうものならば絶妙なバランスによって保たれている大地の気が乱れ、あるいは枯れ果ててしまいます。

 それに剣の力がなくとも世界を制覇するのは容易いことで、現にかつては魔王と呼ばれて世界に君臨することになりました。

 扱いの難しい危険な道具であるため折って捨てることも考えましたが、それにはあまりにも見事で美しい出来映えです。そこでリーアムは剣に細工を施すことを思いつきました。

 剣に人格を与えたのです。それも女性の人格です。

 気まぐれで惚れっぽく、したたかな女性の人格。そうすればおいそれと言うことは聞くまいと思いました。気に入らない相手にはとことんつれなくしますので、たとえ折られても言うことなど聞かないだろうと思ったのです。

 ところが・・・

 よりにもよって四姉妹のうちの3本はある一人の人間の青年に恋してしまい、彼のものとなってしまったのです。そして、ちょっぴりドジで間が抜けた末っ子のアリアドネだけがリーアムの手許に残りました。

 三姉妹が競い合うようにして使い手になって欲しいと願ったその人物・・・メッシュビル・スターンの話はややこしくなるのでまたの機会にします。

 そう時を経た後、同じく剣聖と呼ばれことになるフリーアン、ファルローゼが憧れ、目指し、研鑽を重ねることになった人物です。

 リーアムはやはり一瞬だけ迷いましたが、アリアドネを優しく鞘から抜きました。

『あぁ、ご主人様。随分と長い間眠っていたようですけれど、いったいなにが起きたのですか?』

 いちいち説明するのもバカバカしいとリーアムは思いました。

 その気になりさえすれば主人である自分の精神にささやきかけることも出来るのにアリアドネは呼びかけることさえしなかったからです。もともと寝るのが大好きなアリアドネはリーアムが封じられている1000年もの間、ひたすら惰眠を貪っていたのです。

 魔王リーアムは人類との決戦の場にアリアドネをわざと持ちませんでした。もともと、気持ちの優しい子でしたから辛い戦いの場に持ち込みたくないという気持ちもありましたが、それ以上に・・・

『力の扱いを間違えて取り返しのつかない大変な事態を引き起こしそうだ』と思ったからでした。

 それこそ、リーアムがうっかりアリアドネを腰に佩いていようものなら、アリアドネの放つ巨大な水の奔流に飲み込まれ、人類は滅んでいたでしょう。その後の世界はどんなものになっていたかわかりません。

(うーーーーーん)

 リーアムはアリアドネの柄を握ったまま考え込んでしまいました。

「お前、護衛役ぐらいは大丈夫だよな?」

『わーい、お出かけですかー。うれしいなー。ひさしぶりだなー』

 リーアムは心底不安になりましたが、アリアドネを鞘におさめて腰に佩きました。

 支度の整ったリーアムは最初に少女と出会った泉のほとりを頭に浮かべ、強く念じました。

 ところがなにも起こりません。

 何度か試しましたが瞬時に移動することは出来ないようでした。

 それならばと、リーアムは塔の上にまで行き、いつもの夜の散歩のように風に乗って東の森に向けて飛び立ちました。

 ところが街道の果てまで飛んだところでなぜか地面におりてしまいました。

 森にリーアムを拒むなにか強い力が働いているようです。

 そういえば・・・とリーアムは思い起こしました。

 少女の目を開かせようとしたときも自分にさえ解けない強い力で拒まれました。どういう理由や理屈なのかはわかりませんが、誰かがリーアムの思い通りにさせたくないようです。

 リーアムはにたりと笑いました。

「これは実に面白くなってきた・・・と言いたいところなのだけど・・・」

 既に陽が傾きかけ、辺りは薄暮に包まれようとしています。少女との約束の刻限は刻一刻と近づいているようでした。

「飛べないのであれば歩くだけなのだけどさ・・・」

 リーアムは街道の果てから森に足を踏み入れようとしてギョっとして立ちすくみました。

 そこには巨大な龍の石像があります。

 いいえ、石像ではありませんでした。

 その特徴のある尻尾の形には見覚えがあります。

「折れ尾・・・」

 リーアムは思わず駆け寄り、折れ尾にかけられた石化の呪いを解こうとしました。

「なんだと・・・石化の呪いではない」

 生き物を石に変えてしまうなど、呪いや魔法としか考えられませんでしたが、リーアムが知りうる限りの知識を総動員しても折れ尾の変わり果てた姿に変化は起きません。

 リーアムはしばし考えた後に腰に手をやりました。

「アリアドネ、目を醒ませ」

『はい、ご主人様』

 リーアムがゆっくりと腰の剣を抜き出すとリーアムの周囲に水の力が漲りました。

「アリアドネ、水の精霊ウンディーネの力を用いよ。周囲一帯の大地の気を鎮めるのだ」

『わかりましたー』

 あっけらかんとして張り切ったアリアドネの切っ先から水蒸気が迸り、あたり一帯が霧に包まれました。

 すると・・・

 石になっていた折れ尾の体が少しずつ命持つものへとなっていきます。

「いいぞ、アリアドネ」

『ご主人様、ダメですぅ』

「なにっ」

『大地の気が大きく広がっていきますぅ。これは・・・』

「やはりな、まさかとは思ったけれど、コイツはやはり」

『お姉様です。この気は』

「フレイアめ、なぜこんなことに・・・」

 大地の剣に封じたその名をリーアムが口にするのは一体何年ぶりのことだったでしょう。

『ご主人様、姉様の気配が近づいてきます』

 リーアムは辺りを見回しました。なにか恐ろしげな気配が辺りに漂い始めています。

 そして、リーアムは見ました。森の茂みの奥からこちらを伺う赤黒い瞳。

 その二つの目を見た瞬間。リーアムの膝がガクリと崩れました。

「なっ、なんてヤツだ・・・」

 そのまま、膝を屈して倒れかけたリーアムはすんでのところで体勢を立て直しました。

「魔法ではないな、強い。そう、強い精霊ノームの力だ・・・」

 その異形の怪物はゆっくりと茂みの奥から姿を現しました。

 “黒き乗り手”。

 長老が言った言葉の通り、それは正しく黒々とした照りかえるような黒曜石を鎧にまとった騎士と、同じく真っ黒な黒曜石に身を固めた巨大な犬でした。

 なぜ、馬ではなく犬にまたがっているのか。また、それほどまでに巨大な犬がこの世界にいたものなのか、そうした疑問さえ抱く余地がないほど、リーアムにいつもの冷静さ、そしてゆるゆるとゆるやかな余裕の心もありませんでした。

 “それ”がリーアムを恐れてはいないことは確かです。その気になりさえすれば一瞬にして飛びかかることも出来るというのに、黒犬と乗り手はリーアムを値踏みするかのようにじっくりと見据えたまま、ゆっくりと距離を縮めてきます。

 リーアムはアリアドネを構えて“それ”を睨み据えました。

 薄暮の中、リーアムと異形の魔物はしばし互いの出方を伺うようにして睨み合います。

 異形の黒騎士の手の中にはそれと見誤ることのない美しい剣が握られています。それに黒騎士の構えは忘れようにも忘れられるものではありません。

 大上段の構え、構えを微動だに動かさない胆力と筋力。張り詰めた弓のごとき緊張から繰り出される一撃必殺のその構えはフレイアの最初の主メッシュビルが彼女に与えたものでした。

「メッシュビルの『不動剣』の構え、フレイア、なぜだ・・・」

 リーアムは愛娘を見るようにして自らが鍛え上げた宝剣を見据えました。

『姉様、なぜこんなことに・・・』

 アリアドネの呼びかけに剣を持った黒騎士は一瞬だけ体をこわばらせました。

『ノロワレロ』

 アリアドネとリーアムはその低くくぐもった言葉に驚きました。

「お前は・・・」

 リーアムは絶句し、次の瞬間に襲いかかった斬撃をかわすのが精一杯でした。

 不動剣は本来守りの構えで『それ』を食らったら間違いなく倒されます。続いて下段の構えから素早く繰り出される二の太刀。

 これはアリアドネで受け止めるのが精一杯でした。

「なぜだ。なぜ、そうも怒りに満ちている!」

 フレイアはその言葉には応じず、まといつく大地の気と共に次々に攻撃を繰り出します。もはや不動剣の構えが解かれています。

『姉様やめて』

 アリアドネの呼びかけは空しく響くだけです。

「アリアドネやめろ。こいつは最早我を失っている」

『ですが父様』

「堪えろ。今は戦いに集中しろ。さもないとお前が折られる」

 魔法がほとんど機能しない状態でアリアドネを失えばリーアムとても無事では済まないでしょう。

 その異形の騎士がどれほどの相手かはまったく分かりません。ですが、フレイアを従えているならば、相当な使い手である筈です。

 剣の価値とその真価を引き出す力を持つ者に惚れ込むのが四宝剣に与えられた宿命とも呼べるものです。

 闇雲で矢継ぎ早に繰り出される様々な攻撃にリーアムは必死に応戦しました。

 リーアムにもそれなりになら剣が使えました。それ故にアリアドネを我が手にすることが出来たのですが・・・

 強い憎しみの想いが攻撃の一つ一つからひしひしと伝わってきます。

『いやぁぁぁぁぁぁ』

 辺りに響き渡るアリアドネの絶叫はフレイアをたじろがせました。

 1000年以上も溜め込んだその力をアリアドネが無意識のうちに解放しました。

 精霊ウンディーネが回りながらダンスを踊り、その水の気の文字通りの奔流がフレイアとその使い手を包み込みます。

「今しかない」

 リーアムは意識を集中して水の奔流の中心に全身全霊を込めた魔力を注ぎ込みました。

「世界を繋ぎし、次元の門よ。我が意に応え、その扉を開けっ」

 それはリーアムが使う魔法の中でもとりわけ強力なものでした。

『父様っ』

 戦いに夢中になるあまり、リーアムは気付きませんでした。

 アリアドネがご主人様と呼ばなくなっていることに。

 そして、アリアドネが自分の言葉に従わなくなっていることに。

 そのとき、リーアムが握りしめた宝剣が無防備になっていた黒い騎士の顔を突き刺しました。

 そこには・・・

「えっ・・・」

 リーアムは驚いたあまり、アリアドネを握っていた手を離してしまいました。

「女だと」

 砕けた大理石の仮面の下から覗いた白い顔。その口許にある朱を引いた形の良い唇。

 そして、なにより驚いたことには・・・


 水の奔流に絡め取られた黒き騎士と黒き犬。それは次元の狭間へと消えていきました。

「なぜだ、なぜアイツは・・・」

「父様」

「どうして、どうしてなんだ・・・」

「父様っ」

「うるさいぞ、アリアドネ。さっきから父様、父様と」

 なぜ『ご主人様』と呼ばない。そう言いかけたそのときでした。

「アリアドネお前・・・」

 そこには真っ白な美しい肌を持つ裸身の女性が立っていました。

 その顔は・・・

「嘘だろ・・・」

 それはリーアムが恋焦がれ、約束を交わした“あの少女”でした。

 リーアムは思わず取り落としてしまった宝剣を探しました。

 宝剣は確かにありました。落とした筈の地面ではなく、裸身の少女の手の中に・・・

「父様、ごめんなさい」

 少女の目からポロポロと涙がこぼれ落ちます。

 その目を見た瞬間、リーアムはすべてを理解しました。

 そこにいる裸身の少女はリーアムが泉のほとりで出会った少女とは別人です。なぜなら、つぶらで青い光をたたえた瞳が大きく見開かれ、涙に濡れています。

「まさか・・・まさか、アレもそうだったのか」

「はい、あの騎士は姉様です。姉様の持っていた剣はただの抜け殻でした。それでも大地の宝剣です。不動剣を食らえば無事で済むはずがありません」

「では、あの黒い犬はなんだったのだろう・・・」

「わかりません」

 少女は首を横に振りました。

「だが、なぜだっ、なぜお前がそんな姿を・・・」

「私には、私には分かってしまったのです。姉様の本当の願いが、姉様の気持ちが」

「なんだと」

 リーアムの表情は恐ろしげに歪んでいました。

「姉様は“女”になりたかったのです。そしてその願いは大地の精霊の力で叶えられたのです」たどたどしく人間の言葉を話すアリアドネは更に続けました。「どうして、どうして父様は私たち姉妹をお造りになられたのですかっ、どうして“女の名と心”など与えてしまったのです」

 それは戯れに・・・と言いかけて、リーアムはハッと気付きました。

「・・・違う。そうじゃない。戯れではなかった・・・」

「私はまだ産まれていなかったので分かりません。けれどもかつて姉様が言っておられたことを聞きました。確かに、確かにあのとき“誰か”がいた筈だと」

「あの男・・・メッシュビルか?いや違うな、アイツと出会ったのはお前達がこの世に産み出されて随分たってからのことだ。コーネリアス?いや、孤児だったアイツを拾ったのもそれよりずっと後のことだった」

「だからなんです」

「えっ?」

「だから、姉様は父様の使うあの魔法が欲しかったんです。次元の狭間に、時間の向こうに愛する者と旅立つために」

「嘘だろ、フレイアはそこまで計算して・・・」

 だが、あの呪いの言葉、強い憎しみ、怒り、闇雲なまでの衝動。あれらは一体なんだったというのだ・・・

「父様、あなたへの感情です。あなたを苦しめるため、姉様はあなたを利用したのです。娘として産まれた者のささやかな、そして喉元に突き立てる復讐の刃」

「だけど、アリアドネ、なぜお前まで・・・」

「それは・・・」

「それは?」

「父様では、姉様に決して勝てないからです」

「ボクの技量の問題か?」

「いいえ」

 アリアドネは悲しげに首を振りました。

「私たちの力、宝剣の真の力は、愛の深さにあります」

「そう・・・だったな・・・」

「私の想いや力は私を造ってくださった父様への変わらぬ感謝。私を汚すものから守ってくださることへの感謝。でも、それだけなのです」

「・・・そうだよな、娘が父親に抱く気持ちなんてその程度だよな。だから、お前はボクがどんな目に遭い、どんな姿に墜ちようとも無関心と不干渉で眠っていられたんだものな・・・」

 父の保護のもと安らぎの中で眠る幸せ。そのことをアリアドネは誰よりも、他の姉妹たちよりも大切だと思っていました。

 父親が娘を守るために渾身の力でかけた封印。その中で大人しくしていることで、そしていつの日か、父親が自分の力を必要としたその時まで・・・

「お前はボクにとって箱入り娘そのものだものね。傷つけたくない、血を吸わせたくない、破壊を欲して欲しくない・・・そうだよ、人間の父親にもそう考えるヤツは大勢いたさ。そもそもそんな風に考えること自体が、ボクがかつて人間だった証なんだものな」 

 それこそ、リーアムはどこかのイカれた父親のように自分の娘を女として愛することなどある筈がありませんでした。娘として大切に慈しみ、娘として大切に扱う。

「お前に対するボクの気持ちだってそうだよ」

 リーアムは力無く苦笑しました。

「お前はボクの頭の中をのぞき見て、それでその姿になったのだろう?それが今のボクを虜にしている少女だと知った上でさ」

「ごめんなさい・・・」

 アリアドネが申し訳なさそうにうつむく姿は愛らしいものでした。

「あの子と違っているのは、ちゃんと目が見えていることと・・・」

 リーアムは手を伸ばして頭を撫でてやりました。

「お前が水の精霊の娘だっていう証のその水色の綺麗な髪だものね」

 アリアドネはこくんと小さく頷きました。

「その姿だってのにさ、ボクにはお前が娘だっていう想いしかないんだ。その姿でボクから離れていく、別れのときだってそんな感傷ばっかりだよ」

「きっと、そうだろうと思ってたのです」

 アリアドネは父親の想いを汚してしまったかのようなバツの悪い顔をしました。

 父親の愛した女性と同じその姿で別の男のものになるか、それとも娘を女として愛する愚かな父親になるか、そもそもリーアムはそのどちらも望まないだろうと気付いたとき後悔の心がアリアドネの胸を埋め尽くして、「しまった」と思ったのでした。

「それにしても・・・」

 リーアムはパチンと指を鳴らしました。

 アリアドネの白い裸身は真っ白な服に包まれていました。

「いつまでもそんな悩ましい格好で泣かないでくれよ」

 リーアムは頭を抱えつつ、もう一度パチンと指を鳴らしました。

 今度は黄金の鎧がアリアドネの体を包みました。

「父様・・・」

「フレイアを追うんだろ。ボクの犯した過ちを正すため、次元回廊の向こうまで」

「はいっ」

 アリアドネの答えはそれまでよりもずっとはっきりした明瞭なものでした。

「それにこの姿になってみれば、姉様の気持ちが少しは分かるかも知れないと思います」

 女の心を持った“剣”ではなく、女そのものの姿になれば。

 そりゃ、言い寄る男も多いだろうとリーアムは思い、あるいはそうして“使い手”を見極めるつもりかも知れないとも思いました。

 水の心に適う男はなかなか現れません。現にメッシュビルにさえ見向きもしなかったアリアドネです。確かにあの剣に取り付かれた修行バカが水のように研ぎ澄まされた澄んだ心を持てるとは到底思えませんでしたが・・・

「お前、もしかしてソレが狙いなのか?」

「さすがです。父様」

 フレイアが望んだ行き先は剣聖メッシュビルによって持ち去られた以前でないことだけははっきりしています。なにしろそれ以前のことはフレイアも良く知らないでしょうし、もし過去の世界でリーアムや自分とその姉妹たちが産みだされた事実を“なかった”ことにしてしまったならば、いまここに二人がいる理由が説明できません。

「ひょっとするとですよ、父様」

 アリアドネは思慮深く考えているようでした。

「わたしがこの世界に生み出されて、そして父様のもとでずっと守られ続けたのは・・・」

「そうかっ、ボクの知性、膨大な知識、記憶の数々。そうだよ、お前はそれを少しでも得ようとしてずっと側に居続けた」

「はい、そしてあるいはと考えていたのが、あの方がお年を召されて辿り着いた境地というのは・・・」

 かつて3本の剣を魅了した若き剣士が晩年に会得した境地とはもしかすると水のように研ぎ澄まされた心。

「その可能性は十分あるよな。だけどさ、これだけは約束してくれよ。お前の力はやたらと使うなよ」

 そう口にしてからリーアムの顔は真っ青になりました。

「なんてこった・・・心配するのはお前のことじゃない」

「はい、私の力は産まれてから今日この日まで“一度も”使われたことがありません」

「けれども、フレイアが行った先には・・・」

「そうです。もしかすると、姉様が“二人”います」

「同時に使われでもしたらどうなる?巨大な大地の精霊の力が別の場所で同時に、それも最も強く力を引き出したりすれば・・・」

 二人の脳裏に浮かんだ光景は少しずつ異なりました。ですが、いずれも恐ろしげな風景だったのです。

「とにかく、私は姉様たちが旅立たれたあの日から30年後の世に行ってみようと思います」

「そこであの男を捜せばその後のフレイアの行方についてなにか知っているかもしれないな」

「はい、そしてあの方ほどの使い手で、長らく姉様たちと共にあったならば、私の力を引き出す術も知っておられるかと」

「そうだ。間違いなく、ヤツならきっと止めることが出来る」

「他の姉様たちの行方も気がかりです」

「確かにな。そもそもボクにはこの1000年に関しては記憶も定かではないし魔王戦争以前の記憶は・・・」

 思い出せませんでした。なぜだか、いや薄々見当はついているのです。

“二度と魔王にならないため、そうはさせまいとするためにコーネリアスが封じた込めた・・・”

 今、リーアムの脳裏に浮かべられるのはリーアムがコーネリアスと共に穏やかに過ごした時代とその時代に彼に穏やかに話した古き良き記憶だけです。

 ですがそんな時代でもリーアムは人間に対する不審の念を強く持ち続けていました。

「とにかく、お前をあの時代に送ろう。それに一つだけはっきりしていることがあるものな」

「はい、あの時代も父様の居場所だけは変わりがありませんもの」

 リーアムはいつでも望んだときに望んだ場所に行けるゆえ、住み慣れた東の塔から離れたことはありません。

 魔王戦争と呼ばれたある時期を除いては、の話ですが。また、東の塔には宝剣アリアドネをはじめとして人間たちの手には余る道具や貴重な文献が保管されています。“魔王”と呼ばれる以前のリーアムは東の塔の“管理人”として過ごし、数多くの弟子たちを育てる“教師”でもあったのです。

 つまり、どの時代に行こうがリーアムの所在地だけは記憶がおぼろげな1000年も含めて、東の塔と決まっているわけです。

「なにか困ったことがあればあの時代にいる私に尋ねればいいものな」

「はい、素知らぬフリをして・・・」

 アリアドネがそうつぶやいた瞬間。リーアムは大声で笑い出しました。

「もしかすると、そうかも知れない」

「えっ?」

「お前があの子に生き写しの姿をとったのは、あの子が過去にボクの出会ったお前にそっくりだったからかもな」

「あっ、えっ、そんな・・・」と言ってアリアドネは恥ずかしそうにうつむきました。

 そうした可能性も否定は出来ません。

 リーアムの記憶とて長い時代を経たことで変化していたり、忘れ去っていることもあるでしょう。脳が都合良く事実を改竄しているかも知れないのです。

「なんてこった。ボクは自分がとてつもない大馬鹿に思えてきたよ。驚いたせいで間違いを犯して後悔の気持ちばっかりだったのに、今はなんかちょっと楽しい気分だ」

「なんか、父様の気持ちが少しわかります。これが旅立ちの気持ちなんですね」

 アリアドネはそれまで味わったことのない新鮮な気持ちを胸一杯に感じていました。

「いずれボクも行くよ。あるいはあの頃の自分と出会ってしまう危険もある。だけど、それと分かるような“力”さえ使わなければあの時代のボクにも気付かれずに事を片付けることが出来るかも知れない」

「はいっ、もしお会いできたらそのときは・・・」

「あっ」

 二人は同時にそのことに気付きました。

「ダメだ。アリアドネの名は・・・」

「はい、私の力を解放する本当の名前です」

「んーーーーー、別の名前かー」

 リーアムは腕組みして考え込みました。

 辺りを薄暮が包んでいます。

「そうだ、トワイライト。ボクの知る限り、古い世界の言葉で黄昏時を呼び表す言葉」

「じゃあ、姓はルナにします。私の大好きなお月様。確かそう呼ばれていたのですよね」

 トワイライト・ルナ。それがアリアドネに与えられた新たな名前でした。

 すると・・・

「あれっ」

 アリアドネの顔や姿形が少しだけ変わりました。

 水色の髪はまるで夜空の月のように黄金色の流れるような髪に、そして年齢も少しだけ異なった姿に。

「はぁぁぁぁ」

 リーアムはちょっと印象が変わっただけですが、まるで別の女性のように見えます。

「驚きましたわお父様。私ってこんな姿なのですか?」

 アリアドネは、いえ今はトワイライトは自分の無意識の力が産み出した水鏡に映し出された自分の姿に心底驚いた顔を映し出しました。

「わからんっ」

「はいっ?」

「女っていうのはつくづくわかんない生き物だよ」

 トワイライトは自分の口調が少女のそれとは明らかに異なっていることに気付いていませんでした。仕草も、そして浮かべる表情も。

「そうですわね。だから、お父様は女の方が・・・」

「うん、怖い。正直言って怖い」

 1000年以上、あるいはもっと長い時を“男”として生きてきたリーアムのそれが偽らざる感想だったのです。

その5 出会いと別れ


 トワイライトの旅立ちの時が近づいていました。月が天高く昇り陽がすっかり傾いています。

「それではお父様、私は参ります」

「おっと」

 リーアムはポケットから革袋を取り出しトワイライトに向けてポンと投げました。

「さしあたってそれを使うといいさ」

「でも、お父様。あの方との約束のお金はどうなされるのです?」

 トワイライトは心配そうに表情を曇らせました。

「大地の精霊の力が消えた今、ボクを遮るどんな力があるっていうのさ」

「そうでしたわね」

 トワイライトは品良くクスリと微笑みました。

「ほーらね」

 リーアムのポケットから別の革袋が取り出され、中でチャリンと金貨が音を立てました。

「本当にスゴイ方ですこと」

 名前が変わったせいか、トワイライトの目にはリーアムが父親とは異なる男のように映ります。

 ただ、その言葉の端々に、なにか褒める意味ではなく、呆れるような意味が含まれていました。


『そんな特別な力をもっていてすら、自分自身を幸せには出来ない哀れな男』


 いかにもそう言いたげでした。

 孤独を埋め合わせる術を知らず、どこか無邪気さを持ち合わせたまま、年齢をかさねてしまった。永遠の子供・・・

 あるいはその表現が正しいかも知れません。なにしろ、幼児のように幼い心を持つ黒龍と本気でケンカしてしまうような幼稚さを残している。だからこそ、若く瑞々しい姿が似合うのかも知れない。

 そして、女にとってみれば、この男の持つ魅力であると同時に、遷ろいゆく自分自身の姿を見るにつけ、嫉妬せずにはいられない。

 大半の女たちが訳も分からないままに、ただ苛立つだろうに・・・

 トワイライトにはなぜだかそんな風に思えて仕方ありませんでした。彼女の方こそ、少女の時代の純粋さを失い、女として美しさに翳りを見せ始めた時代のそれとなったせいでしょうか。

「では、そろそろ詠唱を始めるよ」

 トワイライトはフレイアを必死の形相で彼方へと追いやった魔法をなんの躊躇も感じることなく唱えることが出来るリーアムの無神経さに、少しムッとしました。

 もしかして、姉様が本当に怒ってた理由はコレなのかも・・・

「お父様」

「なんだい、今集中してるんだから・・・」

「バカっ」

「はっ?」

 親娘の別れのときだというのになんの感慨も抱いていないのは、なんでも出来る自分への過信なのか、あるいはこの男ならではの無神経さを物語っているのか・・・

 怒った顔も魅力的なトワイライトの顔が少し歪んでいるのを見送るとリーアムはふっと息を吐きました。

 次元回廊の中にスッと消えてゆくトワイライト。その姿が完全に見えなくなってから、やっとリーアムは重い口を開きました。

「バカはお前だよ。ずっとボクの側にいてこんなことにも気付かないなんてさ」

 リーアムはそのときになって初めて心から寂しそうな顔をしました。

 完全に見送るその瞬間までリーアムは表情を変えまいと我慢していたのです。

「長くこの世界に生きてきたボクにとって別れがどんなに惨めで辛いか、娘のくせにわかんないのだもの・・・」

 感傷的な別れほどリーアムにとって辛いものはありません。何度となくそうした場面に遭遇してきたのです。それこそ、何度も何度も何度も・・・

「フレイアも、アリアドネも行ってしまった。すぐに後を追うことだって出来るけど、それっていつもあんまり良いことにならないんだよね」

 そしてそっと空を見上げました。

「なあ、二人とも、もしかして今も同じようにあの月を見てるのかい?この世界のどこかでさ・・・」

 魔の森の呪縛が解かれてから大分時間が経っているようでした。

「そうだ、“折れ尾”は・・・」

 リーアムは先程、折れ尾の無残な姿を見掛けた場所へと赴きました。

 石の体ではなくなり、生きたそれに変わった“折れ尾”を見てリーアムはほっと胸をなで下ろしました。

「良かったよ、“折れ尾”。ボクのことがわかるかい?」

 龍でもめまいというのを感じるのでしょうか。長く恐ろしい精霊力の呪いに晒されていたことに“折れ尾”はひどく疲れ果てた様子でした。ぐったりと体を横たえ、頭をもたげるのも辛そうにしています。

『魔法使いよ、一体なにが起きたのだ?』

 龍の言葉がリーアムの心に響いてきます。

「ボクにもよくわかんないよ。ただ、あれから300年は経っているらしいってことだけははっきりしているね」

『驚いたな。驚くついでにお前のその姿だ』

 折れ尾は若い男の姿をしたリーアムに驚いた様子でした。

『お前は確かに私の知るあの魔法使いだ。だが、なにより精気が瑞々しい。その若い姿にも不思議と違和感を感じない』

「ありがとう“折れ尾”。ボクのかけがえのない友人よ。驚くついでにもう一つ」

『なんだ?』

「ボクが魔王リーアム・ポロニウスだってさ」

『なんだと?』

 折れ尾は鋭い牙を見せて凄みました。

「ただそれも、そうらしいってことみたいさ」

『ふん、冗談としてはタチが悪いが、真実ならもっともタチが悪いな』

 にわかには信じがたい。“折れ尾”はそう言いたげでしたが、ただの人間ならば確かに生きてここにいる筈もない程の長い時間が経っています。

「たださ、どうもボクは以前のようには龍を憎むことが出来ないよ」

『それは私と変わらぬ友情をとでも言いたいのか?』

「いや、そればっかりじゃない。龍族の長とも話をしたよ。あの方はお前に会いに来たらしいけど、300年前の用事だからなんとも想像出来ないけどね。いずれ東の塔に来ることもあると思うよ。それと」

『なんだ、まだあるのか?』

「人間を食って愚かな欲にまみれた黒龍がボクの所にしばらくいるらしい」

『なんと、儂のおらぬ間に色々とあったようだのぉ』

 それもたった1日の出来事なのです。

 “折れ尾”は長い舌を伸ばして笑いました。

「気が向いたら遊びに来てくれよ。まあ、大したもてなしは出来ないけどね」

『遠慮する・・・と言いたいところだが』

 “折れ尾”は苦しげに息をつきました。

『ひどく疲れている。どうしたわけだかひどくな』

「わかったよ」

 リーアムはパチンと指を鳴らしました。

 折れ尾の姿が黒龍と同じように小さな子猫と同じくらいの大きさになりました。

「あのバカと違って、君はいつでも元に戻せる。その体なら東の塔でゆっくり羽根を伸ばして休めるだろうさ」

『すまないな、なにがあったかよく思い出せぬし、今はなによりも』

 ありすぎて困るものそして無くなってしまえばもっと困るもの。

 それが大地の気でした。フレイアの消失により辺りから呪いの力が一掃されたかわりに、極端に精霊力が薄くなっている。剣に封じられていた精霊ノームの力が弱まったからでしょう。

 ただでさえ弱った体に癒しの力となる大地の気が薄い状態です。いかにも苦しげな折れ尾の姿はいたたまれませんでした。

「うん」

 リーアムは指を二度鳴らしました。

 最初の一回目で折れ尾はトロトロと眠りにつきました。

 そして二度目の音の後、その場から折れ尾の姿がなくなりました。

「あのバカが起きてつっかからなきゃいいけど」

 リーアムが折れ尾を送った先はあのバカこと黒龍“腹白”の隣でした。しばらくの間ならば二匹の龍は仲良く並んで寝息をたてていられるでしょう。

 それにしてもこう立て続けに色々あるとさしものリーアムも疲労を感じます。

「ボクの力がまだ十分なうちにあの子の所に行かないと・・・」

 リーアムはパチンと指を鳴らしました。

 そこは目の見えないあの少女と出会った泉のほとりでした。

「ふぅ、やっとついた・・・」

 リーアムの長い長い一日が日暮れと共に訪れようとしていました。

 リーアムはすっかり暮れた空に瞬く星を見ながら、その日の出来事を振り返りました。

 少女と言葉を交わして約束をし、その約束のために眠ることなく考えあぐね、大きな街で黒龍退治の依頼を受け、アガトラムの生まれ変わりだという黒龍を小さな姿に変え、そして老人に姿を変えた龍の長老と言葉を交わし、黒龍を連れ戻った後に長い封印を解いてアリアドネを連れ出し、そのアリアドネと共に変わり果てたフレイアと戦い、そして人間に姿を変えたアリアドネ・・・いえ、トワイライト・ルナを過去の世界へと送り、呪いから解き放った折れ尾を介抱して・・・

 今、ボクは昨日までとは全く違う気持ちで空を見上げている。

 ボクはもう名無しの魔法使いなんかじゃない。《闇の徘徊者》でもない。

 世の中との関わりを取り戻し、またしなければならないことが沢山出来てしまった。

 それもこれもたった一つの約束を果たすが為に・・・

 自分がなにをそんなに恐れていたのか、今ならはっきりと理由がわかります。

 一度なにかを始めてしまえば、もう後戻りは出来なくなる。

 一つ一つに対してケジメをつけなければならない。

 そうしてボクの手に一体なにが残るというのだろう。

 裏切られたという惨めな思いと後悔の念そして・・・

 魔王・・・

 重すぎたその名前。重すぎた世界への責任。

 自分がどこから来て、どうしてそんなことになったか、今は思い出すことさえも辛く、また苦痛をともなうものでした。

 老いて死ねないボクにとって世界はどんな意味を持っているのだろう。

 フレイアは、そしてトワイライトは今、どんな時代でどんな暮らしに身を置いているのだろう。

 ボクがボクでなかった1000年の間に、世界はどんな風に姿を変えたのだろう。

「なにもかもすべて、君のせいさ」

 リーアムはゆっくりと振り返りました。

「こんばんはお嬢さん。今夜も気持ちの良い月夜ですよ」

「こんばんは旦那様」

 姿形こそあのときのアリアドネに似ていました。

 ただ、呪いの解かれた魔の森にあってもその瞳はしっかりと閉じられたままでした。

「約束を果たしにきました。そのためにちょっと大変でしたけどね」

「まぁ」と言って少女は少し微笑みました。

「大変ついでです。その水瓶をボクに預けてください」

 少女が手にしていた水瓶をそっと受け取ると、リーアムは泉に差し入れて清く澄んだ水を汲みました。

 水を入れるととても重たい水瓶です。

 少女はこれを毎晩のように何度も抱えては家路を歩いてきたのです。

 そのことにリーアムはなんだか無性に悲しい気持ちになりました。

 生きるということはこんなにも大変なことなのだ。

 こんなことをいつまでも繰り返して、人は生き物たちは毎日を暮らしている。

 魔法の力で運ぶのはわけもないことでしたが、リーアムにはそれが世界に生きる他の多くの生き物たちを小馬鹿にした浅ましいことのように思えました。

「どうしたのです旦那様」

「生きるっていうのはこういう重みを感じることなのですね」

「そうかも知れません。でも」

「でも?」

「世界はもっと重いのではなくて?」

 リーアムは驚きのあまり危うく水瓶を落として割ってしまうところでした。

「どうしてそう思うの?」

 リーアムは動揺を見せまいとして注意深く尋ねました。

「そのお話は私の家についてからにしましょう」

 リーアムはなぜだかゾッと背筋が冷たくなるのを感じました。

 もしかするとなにかとんでもないことの前触れかも知れない。

 その予感は確かに当たっていたようでした。

 村へと続く石畳を歩いていくうちに恐ろしげな光景が見えてきました。

 ニレの樹から伸びたロープの先には半ば朽ちかけた遺体がぶら下がっていました。

 石畳の脇には幼子らしき遺骸を抱えてうずくまったまま横たわる女の遺体がありました。

 なんだ、なんなんだコレは・・・

 リーアムは盲目の少女に悟られまいとしながらもつぶさに恐るべき光景を目の当たりにしました。

 魔の森の呪いが解け、人も生き物もなにもかもが元通りになっている。

 でも、そこに広がっていたのは“死”が我が物顔に支配する世界でした。

 人だけではありません。

 犬の死骸が、鳥の亡骸が、そして牛の骸が。

「どうかしたのですか?」

 少女はなにも見えていないせいか驚きもせず、なにもかもが干からび、朽ち果てた村を確かな足取りで進んで行きます。

 地獄だ。

 確かにそこは魔の森でした。

 フレイアが?いや、違うかも知れない。

 以前にこれと良く似た光景を目にしたことがあります。

 疫病が蔓延して人や動物たちが死に絶え、死を待つ病人たちが暮らしていた街。


 ただ、それはリーアムがかつて居た世界での話です。

 この世界には疫病というものはありません。

 病気はあります。が、それは一時的なものです。


『こんなことは起きる筈がない・・・』


 それにしても、どうしてこの少女は、どうしてこの少女だけは・・・


6.サトル


「よくぞ来られたリーアム・ポロニウス」ベッドに横たわった老人は両目を閉じたままだというのにリーアムに語りかけます。「ここの惨状はご覧になったかな?」

 リーアムは無言で頷きました。

 人も生き物も悉く死に絶えた無残なる光景。果たしてどんなことがあったというのでしょう。

「なにがあったのです。ここで?」

「なにもない。ただ儂がここに居たが為よ」

 老人は不敵な笑みを浮かべます。

「あなたが居たから?」

「儂の力を恐れた誰かがこの一帯に“疫病を発生させた”」老人は薄く乾いた笑い声を立て、更に小声で続ける。「この世界のシステム上ある筈のない事態だ。となるとその何者かの目的は儂の管理する“真理の門”ことコネティングゲートが解除されるのを待ち、そこで儂を待ち伏せてアクセスコードを奪い、この世界の改変に乗り出すことだとみて間違いがない筈だ」

 老人の言葉にリーアムは真っ青になりました。

「ふふ、これ以上の話をここで続けるのはマズい。場所を変えるぞリーアム・ポロニウス・・・いや、サトル・イクシマ」

 リーアムはこの日再び電流を流されたような衝撃を受けた。そして、無意識のうちにアクセスコードを使った・・・らしい。

 残念なことにその現場を目撃した者は誰もいない。なぜならその場に取り残されたのは盲目の少女一人であったからだ。

 リーアムは意識を失って老人の膝元に倒れ込み、老人もまた首を横にして死んだように動かなくなった。

 その日、そのとき世界は完全なる静寂に包まれた。


チチッチチチチッ

 耳触りな電子音を彼は朦朧とした意識の中で感じ取った。なにが起きているかといった論理的な思考が再開されるまでには小一時間を要する。横たわった男の肌に瑞々しい精気が戻るのを確認するかのように装置のガラスフードはゆっくりと開く。

 シューという残留窒素が艦内の空気と触れ合う音と共にサトルは目覚めた。

「おはようございます、サトル・イクシマ二級船外活動士」

「ああ、おはよう」

「私の言葉は分かりますか?貴方の母国語日本語です」

「わかるさ、なんだと思ってるんだ」

 サトルは誰と話をしているか気になって目を凝らす。だが、そこに誰かの姿はなかった。船内端末のスピーカーから流れ出た電子音声だとすぐに認識する。

「現在、グリニッジ標準時で西暦4749年11月26日午前1時28分です」

「わかってるよ、お前さんの計器が正確だと仮定した場合には、だろっ」

「その通りですイクシマ航宙士」

「で、最後に眠りについてからどれくらい経った?」

「28962時間です」

「悪いが年換算してくれ、ざっとで良い」

「3年ちょっとですね」

「なんだ、意外に経ってないのだな。中じゃ2500年は経ってるぞ」

「珍しいですね。貴方がそんな冗談を口にするのは」

「いや、冗談ではなく実際に2500年はゆうに経過してるぞ。それでも今のところお前の内部時計よりはまだマシだろうがね」

「恐縮です」

 サトルは・・・悟は改めてこの民間宇宙通信ステーションの保守コンピューターを開発したというカドヤ・エレクトロニクスの技術に感心した。

 控えめで曖昧さが入る余地を残し、受け答えにも卒が無い。こうした技術に関しては日本人の繊細さが必要だということなのだろう。もっとも基礎理論が欧米で先行していたという事実は動かない。日本人はもともと発明が苦手で、改良を得意とする。

 ただ、その優秀な技術を信じていてさえ悟が宇宙に出てから地上では2700年以上の歳月が経過しており、地球が単なる水の星になりはてた事実はいまだ信じられなかった。

 そもそも20世紀もの間、国際宇宙ステーションの耐久性と安全性が担保されていたとは信じがたい。3年前に船外活動で太陽電池パネルの点検をした際にはデブリによる損傷もほとんど見られず、建造年数相当の時間経過以上には感じ取ることが出来なかった。それどころか大気圏外を漂う危険な宇宙ゴミの作り出す帯状空間・・・デブリ帯さえ確認出来なかった。

「で、マリオ。現在活動中のクルーは?」

「はい、カマラ様がお目覚めになられました。現在、ブリーフィングルームで待機されております」

「わかった。余計な区画への電力供給は控えてくれ。それと栄養補給は“あっち”で行うから備蓄には手を・・・」

「残念ですが手遅れです。カマラ様のご指示により先ほど」

「ったく、あのガキはしょうがねぇな。折角だから2700年ぶりに地球の味を堪能するよ」

「はい、そうなさってください」

 悟は船内活動服に袖を通し、ブリーフィングルームに通じる通路を通る。途中、窓の外に広がる地球の姿にげんなりとした視線を向けた。

 彼が悪夢だと思いたかった事態はなんら解決をみていない。そこにはのっぺりとした水の星の姿があるばかりだ。

 日本列島はおろか、アメリカ大陸もユーラシア大陸も確認できない。南北の両極地付近は氷で覆われており外から見る限り生命が活動できる星には到底見えなかった。

 地球が美しいと思えるのは深い緑に覆われたアマゾン川流域や砂漠の広がる中東、人類文明が残した偉大なる痕跡である万里の長城があってこその話だ。

 変化に富んだ地形とそれを覆う大気の様子が確認できてこそ、そこが人類が生まれ育った星だと実感できる。さながらに数十億年前の姿に逆戻りしたかに見える地球の姿に母星という思いを抱くことは難しかった。

 ギルガナドゥの世界で目にしているものこそむしろ地球の姿だと思えた。

「何度目をこすってみたところで現実ってやつが変わることはないってことかよ・・・」悟は船内通路の窓辺にもたれてしばし見入った後、振り払うようにしてその場を離れた。「冗談じゃないぜまったく・・・」


 ブリーフィングルームに入った途端に懐かしい匂いが立ちこめていた。

 カマラの焚く香木の匂いだ。まっ、実際のところそれはあたかも香を焚いたかのように匂いを発する高度な装置に過ぎず、宇宙船内の環境で空気を汚す行為をしようものならひどく高くつく。

 いかにカマラが年端もいかぬ少女でありながら経済雑誌で取り上げられるほどの大富豪であっても宇宙空間ではそもそも大金に意味はない。

 クルーの一部は嫌っていたようだが、悟はこの匂いが嫌いではない。むしろ、かつての実家の近くにあった菩提寺を参詣したような錯覚を覚えて身が引き締まるのを感じる。そして、そのことに東洋人としてのアイデンティティーを刺激される。

 カマラは瞑想を続けていた。彼女はクリスチャンであり、マリアは洗礼名だが、インド系イギリス人のカマラは母の母国の習慣を必要以上に意識する。そこからインスピレーションを得てあのような世界を創造したのだと言わんばかりだった。

 悟は経験上瞑想状態のカマラにはなにを語りかけたところで意味がないことを知っていた。そして、予想通りに彼女が食料庫に保存されていた紅茶と緑茶をそれぞれ取り出し、ご丁寧にスコーンと豆大福までつけてテーブルに用意しておいたことを確認した。

 悟は頑ななポリシーとして朝の目覚めは緑茶と決めていた。そのことを主張するとき、「俺は茶所静岡の生まれだ」とわざわざ啖呵をきる。そしてその言葉の意味を元々は静岡という地域が日本にあることさえ知らなかった人々でさえ深く感じ入り、キリスト教圏の人間などは公然と十字を切る。“被災者”である悟にしてみれば安っぽい同情そのものだった。

 東日本震災から復興を遂げ、オリンピックとその後再び誘致に成功したサッカーワールドカップで文字通り世界最先端国家として再び返り咲いた母国日本は中華大戦の余波と東南海トラフ沖大地震、それに前後した世界遺産富士の大噴火により壊滅的な打撃を被った。

 首都圏に続く大動脈は遮断され、日本はその行政運営上やむを得ない措置として宮城県仙台市へと遷都することになった。悟の故郷静岡は原型を留めないほどに破壊された。

 廃都となった東京はその象徴的価値を大きく損ない衰退することとなった。人口の大部分が東北地域へと移住をした背景には中華大戦により関西方面が激しい惨禍に見舞われていたことも影響している。

 それでも国土の大半を消失し、難民として世界各国に流れ出ることを余儀なくされた朝鮮半島両国の住人たちよりはマシだと言えた。あるいは大戦により人口の3分の1を失った中華連邦の住人たちよりは・・・だろう。

 人類文明の衰退を象徴する出来事として若者の自殺が全世界で深刻な社会問題化した。皮肉にも技術の進歩は戦争の代償として飛躍的に進み、宇宙開発も大きく前進したが、それは世界で失われた資源と人命に比べればひどく些細な前進にしかなりえなかった。米国、欧州連合、ロシア連邦も相次ぐ内戦により統治能力を喪失していた。世界は20世紀半ば以上の混沌の渦に叩き込まれた。

 そんな折も折り、世界経済の救世主となったのがオンラインゲーム「ギルガナドゥ」だった。

 なぜ「たかがゲーム」が世界経済の救世主たり得たかといえば、ゲームとは名ばかりのサイバースペースへの移民により世界経済が少しずつ持ち直したことによる。

 有り体に言えば、人間が仮想空間への現実逃避をすることによって長く国連幹部を悩ませていた食糧問題や紛争問題は下火になったことによる。若者の自殺者も減った。かわりに移民志願者が増え、ギルガナドゥは単なるオンラインゲームではなく人類の新たなるフロンティアとして注目を集めることとなった。

 総人口の6割という膨大なユーザーがサイバースペースへの一時的あるいは永久移民を成し遂げた。その背景には人の魂についての謎が解明されたことによる。

 それはあるネット中毒の青年の肉体的死に端を発する。彼の肉体は米国ペンシルバニアの自宅居間でひからびた状態で発見された。だが、彼が自身だと主張するその魂はギルガナドゥ内部でなおも健在だった。

 この事実に学者たちは着目し、彼の肉体が辿った運命を伏せた上で、仮想空間における彼の動向をモニタリングし続けた。その結果、彼は自身の死に決して気づくことなく、自我を保ち、仮想空間での人生に満足しているという結論に至った。彼は仮想空間内で結婚し、父親となり、老いて自然死を遂げた。それは肉体の死から5年以上、仮想空間内では70年以上が経過してのことだった。

 そうなるともはや誰も、ギルガナドゥをただのオンラインゲームだとは考えなくなった。モニタリングによる監視と全世界からのアクセスを可能ならしめ、そうした事実に嫌悪感を抱く人権主義テロリストたちによるサーバ本体の物理的破壊から守るため、宇宙空間への移設作業が実施され、わずか1年半という短期間で実施にこぎ着けた。

 それが悟の知るギルガナドゥのすべてだった。

 その内情。つまりゲーム内で起きた出来事に関しては悟よりもリーアムの方が遙かに詳しい。

 もっとも悟はギルガナドゥにアクセスしたこともなければサイバースペースに自らの人生の意義を見いだすような「安い連中」ではなかった。そして自暴自棄になってしまうにはあまりにも過酷な半生を辿っていた。

 彼は故郷が被災して家族の全てとそれまでの彼の半生そのものを失ったかわりに日本政府からの義援金と同盟国である西米国政府の温情措置により米国籍と特別市民権を手に入れて渡米してからは、アリゾナの砂漠で10年もの訓練期間を経てEVA・・・宇宙船外活動・・・の国際ライセンス2級を取得してクロウ社に職を得た。

 そこで延べ5年間、船外活動280時間の実務と過酷なライセンス試験をパスして1級船外活動士への昇格を果たすことこそが当面の目的となっていた。

 ある意味、悟ほど地球での当たり前の人生という“現実”を放棄した人間はいない。それがたまたま下請けとしてギルガナドゥを運営するポータルコミュニケーション社への派遣作業員として衛星軌道上にあるサーバ本体を納める衛星軌道ステーションの太陽電池パネルの保守点検およびアップデート作業員への宇宙生活インストラクターとして随行することになったのは最早皮肉としか言えなかった。


7.カマラ


 カマラの瞑想を眺めながら、自らの半生を振り返っていた悟は緑茶のパックが空になっていたことに気づいて新しいパックの口を切った。

 彼がいまだ信じられない事実の一つが世界を変える偉大なる発明とまで言われたギルガナドゥのプログラミングを手がけたのが今現在21歳になったばかりの、サトルが出会った4年前17歳だったカマラ・マリア・ホワイトだと知らされたことだろう。

 生まれながらの天才少女だった彼女は10歳で既に幾つかのプログラミングを手がけ、13歳でギルガナドゥの基礎プログラムを完成させた。電脳空間での地球環境再現用ソフトとして産み出されたギルガナドゥは世界的なゲーム会社であるポータルコミュニーケーション社の出資とバックアップによりオンラインゲームとして日の目を見た。

 カマラの顔写真は経済誌の表紙を飾り、21世紀初頭にSNSで勇名を馳せた青年の再来と騒がれた。悟は世の中にはそういうとんでもない才能を持った人間がいるのだなと感心した。まさか、自分が彼女と知り合うことになるとは思ってもみなかった。

 そもそもクロウ社は業界では中堅に位置づけられており、大きなプロジェクトに駆り出されるほどの過去の華々しい実績もない。

 おそらくはクロウ社の営業マン・・・どうも話によると悟の親友だったベルギー出身で船外活動候補生だったオットー・ケレスがあの手この手の営業活動の末にポータルコミュニケーション社上層部の信頼を勝ち得たことによる。

 その結果、クロウ社の株価はニューヨーク、ロス、ロンドン、広州、仙台の取引市場でストップ高のため取引中止となり、気象衛星の点検作業に従事していた社長が慌てて衛星中継による会見をすることになった。

 無口で無骨な社長が船内着のまま慣れない記者会見をする様子は全世界に配信された。現場叩き上げ丸出しといった様子の会見を悟は同僚たちと苦笑しながら見守ったものだった。

 職人気質で頑固者の社長を筆頭に昔気質の堅実な経営方針と地味な作業を着実にこなす優秀な作業員たちの汗と努力により、小石を積み上げてチョモランマを作るような実績を積み上げたクロウ社は、大小様々で国籍も所在地も異なる数多のライバル企業を差し置いて世界的プロジェクトの一翼を担うことになった。

 そこにたまたま生嶋悟という日本人の船外活動士が居て、社長と同じドイツ出身で偏屈なベテランとして業界でもそれと知られる1級船外活動士カール・ベルケルの助手として国際宇宙ステーション、ノエルⅣにおけるギルガナドゥメインサーバの移設作業に従事することになったのは偶然に偶然が積み重なった結果に過ぎない。

 サーバの移設とデバックの為、ポータル社でも選り抜きのエンジニアとプログラマーが宇宙へと派遣されることになり、悟は彼らのアシスタントとしてカールと共に同行することに決まった。

 実際のところ、地上での訓練が必要なエンジニアたちの教官役として抜擢されたと言えなくもなかった。1ヶ月の短期訓練プログラムに立ち会い、必要な知識と技術を叩き込む。

 そのために、悟はクロウ社の中ではポータル社のエンジニアたちと長い時間を共有することになった。だが、それも宇宙における7日間のミッションを最後に終わるものだと思っていた。

 だが、準備期間中に不測の事態が起きた。悟が畏れつつ兄事してきたカールが母親の危篤により急遽地上に残ることになったのだ。カールの代行として同じドイツ国籍のトーマス・ミューラー1級作業員が選出された。

 そんなドタバタした出来事も悟の感覚からすれば3年2ヶ月前の出来事に過ぎない。だが、ノエルⅣの計器に狂いが生じているのでなければグリニッジ標準時間にして2700年が経過している。もはや天文台が地上のどこにも確認出来ないというのにもかかわらず・・・。

 なぜ今こうした事態になったかは誰よりも悟が聞きたいほどだった。

 ミッションの6日目にステーション外の放射線量が異常な値を示し、外部に通じる区画が封鎖された。アリゾナとの交信が途絶し、外部との連絡が不可能になった。当初、太陽風の影響によるものと考えた悟たちクルーは可能な限り作業を続行した。

 そして、警報が解除された10日目に信じられないモノを見た。それこそが陸地のない地球の姿と4746年を示す船内の時計だった。

 それから、一言では言い尽くせない「事件」が起きた。思い出したくもない汚らわしい事態が巻き起こった。追い込まれてしまった人間はなんでもしてのける。年若いカマラは生存本能に突き動かされた「上司」からレイプされそうになった。幸い大事には至らなかったが心に深手を負った。

 そして、事態の収束と延命、容易に想定出来る物資不足を解消するため、クルーは緊急時用の冷凍睡眠装置を使うことになり、生き残った全員が仮想空間内に退避することになった。

 そして、生嶋悟は魔術師リーアム・ポロニウスとなり、ギルガナドゥ内で「知識の番人」として東の塔を守護し続けることになった。やがては魔王にまでなった。

「そろそろいいかい?」

 悟が声をかけると少女はゆっくりと目を開いた。

「3年半ぶりだそうだね、カマラ」

「1000年ぶりですよ。生嶋さん」

 まだあどけなさの残るカマラは静かに微笑んだ。褐色の肌に鳶色の瞳。どこかエキゾチックな匂い漂う美少女だった。

(さていつまで生嶋さんと呼ばれるのやら・・・)

 悟は彼女には気づかれぬよう苦笑した。カマラは心穏やかなときこそ、Mr.Ikushimaと丁寧に呼ぶのだが、興奮するとSatoruと呼び捨てになる。

「幸いにしてここが宇宙空間のせいか時差ボケはないみたいだけど、時間の流れがイマイチ掴めないな。最後に別れてから3年半だか2500年だか・・・それともつい1時間前だったか分からない・・・」

「ギルガナドゥの歴史上“単一の個体としては最長寿”の貴方だからでしょうね。みんな貴方のように長い歳月は生きられませんよ」カマラは皮肉っぽく口元を歪め、続けた。「サイバースペースとはいえ、そこで不老不死でいられること自体が不思議なのです。たとえその能力があってもみんなそこまで生きられません。思考の老いから来る肉体の老いには勝てない・・・」

「それは知らなかったな。いや、少なくともボクら『管理者』はボクと同じ能力を与えられているもんだとばかり思っていた」

 悟自身はギルガナドゥの管理者ではない。臨時発給されたものが『管理者』用のアクセスコードだったのだ。

「謙遜はかえって嫌味ですよ。あるいは貴方は元々時間の概念を喪失しているのかも知れません。そして・・・」

 カマラは黙って船内の鏡を指で示した。

 そこには船内用の作業着に身を包んだリーアムがいた。正確に言えば、リーアムが盲目の少女と会話するために変貌した姿が悟に瓜二つだったのだ。

「驚いたな。ボクは記憶の中にあった青年の姿をなんとなく思い描いて変身したつもりだったのだけど・・・」

「無意識にとはいえ、あの世界でもこちらの世界の自分の姿を正確に選び取ることが出来る者も稀です」

 大抵の人間は自分自身を客観的にとらえることは出来ないし、鏡を見なければ極めて正確に自分の姿を思い描くことは出来ない。どちらかというと自分が思い描く理想の姿に引っ張られてそちらの姿を無意識に選び取る。

「なるほどねぇ」

 髪の色や瞳の色など僅かな違いはあってもリーアムと悟の間に大きく目立った違いはない。ひとしきり自分の顔をしげしげと眺めて悟は尋ねた。

「ところで話というのはなんだろう?」

「お願いと警告です」

「はて?君からボクにお願いとはね」

 思考がこちら側に適合するや、悟はカマラという少女を極めて正確に思い出していた。世間では『金持ちでも決して奢らず、謙虚で見目麗しい少女』だったが、悟と彼女の同僚たちが抱いた印象は『・・・というのは見せかけで、実際は恐ろしく気位が高く、ワガママでマイペースかつ独り善がりで、なんでもかんでも自分の手でやらなければ気が済まない性分の扱いにくいじゃじゃ馬娘』だった。

 たとえば食卓の塩を手にすることさえ、他人の手を患わせることをとことん嫌う。悟は非常事態に陥ってすら彼女から頼まれて行ったのは、船外活動士としてのライセンスを必要とする事柄・・・すなわち異常事態発生後に船外の状況を確認するため太陽電池パネルの点検作業などを行ったときだけだった。

 それ以外には一切頼まれごとをしたことがない。頼まれごとでなく行ったことの中には彼女自身を強姦から救うことや、「大丈夫だ。なにも心配ない」と胸を貸してやること程度だった。あとの事は職責の範疇に留まる。

「あの娘を預かって頂けませんか?」

「あの盲目の少女のことかな?」

「そうです。あの娘は私の“最高傑作”です」

「最高傑作だと?」

 実際に彼女が用いた表現はプリマグラッセだった。それって人間に使って良いものだったっけ?と悟は思った。

「・・・まったく腹立たしいことに、あの世界においての貴方は悉く私の上を行く。不老不死の力、次元回廊、そして四宝剣。どれも私が手に入れようとしても届かなかった力です」

 悟は黙ってカマラの顔をしげしげと眺めた。そこにはとてつもなく負けず嫌いな子供がいた。

「私“にも”ここで後天的にプログラムをいじり回してそれらの力を得ることは可能でしょう。けれども、あの世界に居ながらにして貴方に出来たことが出来ないという事実は残ります」

 日本人らしく悟は『同じ土俵では完敗した』と彼女が思っているのだと理解した。

「別に自分から望んで不老不死になったわけじゃないし、次元回廊も四宝剣もそれほど大層なものだとは思っていないけどね」

 実際、それらの力を得るのに特別な努力をした覚えはない。不老不死はリーアムをひどく孤独にしたし、実際『人並みに死にたい』と思ったことは何度もあった。だが、『死』というものがどれだけむごたらしく恐ろしいものであるかを『リーアム』がではなく、悟が体験的に知っていた。10代後半の悟が被災したとき、大自然の力というのはこんなにも残酷なものかとまざまざ見せつけられた。

 家族が、友人たちが、そして恋人が、震災と噴火の恐怖の中で死に、その遺体を探すため、悟は彼自身とは全く無関係な遺体をも含め、正直ウンザリだという程の確認作業をさせられた。右手しか残っていない遺体もあったし、熱風で焼けただれ判別不可能なものもあった。まだ辛うじて人の形を残している遺体の方が若干マシだった。もう元はどんな姿だったか想像できないものの方が圧倒的に多かった。それほど深刻な大災害だったのだ。

 『遺体確認作業』の後、悟はしばらく拒食症に苦しんだ。悪夢にも何度となくうなされた。ただ、『それでも人は生きていける』のだという事実もまた思い知らされた。

 『哀しみを乗り越えた』という表現は適切ではないと悟は思う。哀しみは今現在ですら彼と共にある。だが、そうした都合の悪い事実や凄惨な記憶は『心の奥底に封じられる』のだということを学んだ。そうすることで悟は異常なまでにタフになった。

 船外活動士の訓練過程で彼の示した数字は異常だとさえ言われた。被災体験以降、悟はちょっとした地震や僅かな気圧変化も肌で感じられるほど鋭敏な神経を持つようになった。そして、それと引き替えにかなり鈍感にもなった。『それ』が危機的なものか、そうではないかの判断が極めて早くなったのだ。

 計器に頼らずとも異常をただちに感知する『特技』は船外活動士としては正にうってつけだったのだ。そして、物事に容易に動じない冷静沈着さも他人が欲しがる特技とされた。

 だが、被災時の体験は『死』への恐怖として魂の奥深くに刻みつけられている。大抵のことは『アレ』と比較すればどうということはない。『アレ』は生者が生者たることさえ否定したくなるほど残酷かつキツいものだった。

 アレとはすなわち被災体験を指す。

「皆がそうだとは流石に思わないけど、ボクだけ特別な力を持っているとは思ったことはないよ」 

 悟がこともなげにそう言い放つと、カマラは眉間に皺を寄せて怒鳴った。

「だから、悔しいんじゃない。あの世界にあってあの世界を改変するだけの大きな力がリーアム・ポロニウスには“ある”。世界の産みの親である筈の私にさえ及ばない力がっ」

「おいおい、なんでもかんでも一番じゃなきゃ済まないみたいな言いぐさだね」

 正にその通りだった。カマラは学校での成績は勿論、個人資産でも知名度でもありとあらゆること全てにおいて常に一番だった。なにしろ、彼女一人のワガママのためだったら一機数億かかる宇宙船すら最優先で飛ばせたのだ。その事実こそが彼女を心穏やかにしていたし、年上相手でも、各国のVIPが相手だろうとも常に余裕を保ち、微笑を浮かべることが出来た。故に“この男”がなんにつけ一番という事実は認めがたいのだ。

 カマラが男だったら掴みかかったり、殴りかかったかも知れない。それほど彼女は激高していた。他ならぬこの男の“鈍感さ”にだ。

 自分に対して警戒すらしていない。彼女は悟にとって『なんの脅威でもない』らしい。その事実にカマラは深く傷ついていたのだ。

「それにしてもだ、その話とあの娘とがどう繋がるんだかサッパリわからないな」

 話が『最高傑作』に及んだおかげでカマラは若干冷静さを取り戻した。

 そうとも、アレこそはこの男をギャフンと言わせるために用意したとっておきの『秘密兵器』だ。

 カマラは短く咳払いして居住まいを正し、悟を睨み据えた。

「今のアレに名はありません。たとえリーアムがどんな名で呼ぼうがアレは本質的な嘘には敏感に反応します。間違った名前は決して自分のことだとは認識しないでしょう。いや、『出来ない』というのが事実です。そして、アレにとって世界のすべてはアレが認識できる範囲でしかない小さなもの。目の見えないあの子に時間は流れない。時間の流れを認知出来ないようにしてあるのです」

「・・・・・・」

 悟は呆然とカマラを見た。人一人捕まえて『アレ』呼ばわりする。『天才』とはかくも傲慢なものなのだろうかと呆れるよりなかったのだ。

 なるほど、確かにあの娘は普通ではなかった。カマラという天才少女がプリマグラッセと呼ぶものだけあって、人として人であることさえ捨てた自分にも無視できなかった。そういうカラクリだったかと納得すると、悟にとってはそれでオシマイな筈だった。

「時間の流れと無関係だからこそ、あの少女は永遠に『少女』たり得るのです。様々な試みの末に私がようやく手に入れた不死の力・・・」

「そうまでして不死の力が欲しかったのかい?だったら・・・」

 ここでプログラムそのものを書き替えてしまえば・・・と言いかけて悟はそここそが最大最悪の地雷だと気づいて口をつぐんだ。カマラがより一掃おっかない顔をして睨んでいる。

「不死の貴方が孤独を感じないで済むように『作ってあげた』のよ。私自身は不死の力なんて望んでないわよっ」

(だったらなんでまたそんなにカリカリしてるんだ)と悟は思ったが敢えて口には出さなかった。年端のいかない女の子相手に狭い船内で取っ組み合いはご免こうむりたいというのが本音だ。

 女の子に手をあげられない『普通の男』である自分は一方的にやられるままになる。大体アザやひっかき傷だらけで再びコールドスリープ出来るのだろうか?

「取りあえず話は理解したよ。それに気を遣ってもらってありがとう。んじゃ、しばらくはあの娘に龍二匹とで『家族ごっこ』しながら過ごせばいいわけなのね」

「まったく面倒事が好きなんだから・・・」

 カマラは呆れていた。チビ龍二匹を抱え込む状況すらリーアムにとっては取るに足らない話なのだ。食わせていく心配など一切しておらず、後生大事に集めた保存資料を滅茶滅茶にされること“だけ”を心配しているのだ。

「多分、リーアムはヒマなのだと思う。人生の目的とか言われてもピンとこないし、知の番人の仕事は『今現在もやっている』。なにしろ人生が終わる瞬間を想像すら出来ないのだもの。深く落ち込んで《黒き徘徊者》でいるのにも多分飽きたんだと思う。また元のように面倒事や厄介事に巻き込まれてちょっとホッとしているみたいだったし」

 まるで他人事のように悟は言い放った。姿形がなく、名も無く、誰からも気にもとめられず、思いどおり好きなように『居る』方法も理解できた。呪縛を解く『パスワード』を誰かに託して《黒き徘徊者》で居続けるのもそう悪くはない。なにしろ1000年すらあっという間だった。

「まぁあの世界では神(God)に最も近い存在だものね」

「やめれって、日本人的な神(Kami)に近いというのなら『まだ』受け入れられるけどさ。日本人にとって神なんてものは気まぐれで図々しくて乱暴で、かなり人間的な存在なのだもの。家族を神に殺されたのも同然のボクが神に近いというのは些か皮肉めいた話だけどね。けど、それだってあの世界限定の話さ」

「違いがわかんないわよ」

「そりゃまぁね。インド系英国人でクリスチャンの君にはわかんなくても当然さ。『大自然の掟』という名の『神の摂理』ってヤツがボクの家族や友人や大切な女性を死に追いやったのだもの。『神の世界』に仮住まいさせて貰っている以上はなにをされようが恨んでもしゃあない。アレと共存しないことにはそもそも生きていけないというのが極めて一般的な日本人の本音さ。だから、『ありがたい』というしかない。ありがたいという日本語には感謝以外にも『非常に迷惑な話なんだけど、ありがたいことだと思うしかない』という意味もあるのさ。得てしてそういうものだと思う。特にこんな状況に置かれるとね」

 船外の地球の姿を指し示しながら悟はボヤく。そうした態度にカマラはすっかりあきれ返った。

「ホントにイヤになるほどタフなのね」

「褒め言葉とは思わないけど、実際そうなのだと思う。自分でも時々イヤになるほどさ・・・」

 多分に自嘲的に言い放ってから悟はそんな自分に落ち込んだ。

 『大体、神様ほど残酷ではないぞ』と言いたいのが本音だった。今は記憶が封じられては“いない”状態なので『魔王リーアム』がかつてなにをしでかしたか正確に思い出せる。それ以前になにが起きて、どうしてリーアムはリーアムでなければならなかったのかということも。

 その正確な記憶の中で、確かにリーアムは他者からすれば『無神経』で『残忍』だったかも知れない。だが、彼らに選択の余地は常に残していた。そこが神と自分の決定的な違いというものだった。

 『相手の都合もお構いなしに無慈悲に』なにかをした覚えはない。そこを譲るつもりはないし、その信条には反していない。ただ、リーアムも完全無欠ではない以上、なにかを選べば選ばなかった方には不幸が訪れることもある。

 ただ、それもこれもリーアムという存在の真意を誰も理解しなかったことによるものだ。龍の長老でさえ誤解をしている。けれども、龍の長老がそうしたようにリーアムは誤解を解くつもりはない。その目的のためにまで自分自身の記憶を封じたのだ。

 所詮はリーアムも、長老も、アガトラムも世界を存続させるために用意された歯車に過ぎない。残酷だったのはむしろ運命の方で、リーアムを演じ続けることになった悟もまた単なる被害者の一人に過ぎない。

 しばし思考に耽った後、悟は顔をあげた。

「・・・って、あっそうそう『忠告』ってなにさ?」

 カマラはやれやれとため息をついた。とことんマイペースな男だ。その点“でも”彼女は『負けた』と感じている。悟が自分の思考に耽っている間に彼女は沸かしたての紅茶を二杯楽しんだ。思考に耽る彼は他人の言葉などなんにも耳に入らないのだ。そういう本質は悟と呼ばれていようが、リーアムと呼ばれていようが全く変わりがない。

「たぶん、私たちに脅威が存在する」

「えっ?」

「少なくとも私たちを快く思わない者がいる。そしてそれはリーアムを狙っている」

「どういうこと?もしかしてあの村にかけられた呪いって・・・」

「“私”ではないわよ。むしろ私は『攻撃』された側なのよ」

「『攻撃』って穏やかじゃないなぁ。けど、少なくとも《黒き徘徊者》でいる間にそういうものと遭遇したことはなかったけど」

「多分、それが重大なヒントね。少なくとも相手は貴方が《黒き徘徊者》と呼ぶ姿でいる間は認知出来ない。そのことは私自身が証明したわ。鈍感な貴方でも気づいたでしょ、貴方がリーアムに戻った途端に発動した私の作った『数式魔法無効化結界』」

「あっ、なるほどそういうことね。それが『黒き森』の防護障壁だったのね」

 空間移動を完全に無効化されて自分の足で歩くしかなかった事実。それこそがカマラの言う結界だった。黒き乗り手との戦いに際して、リーアムが敢えて森の中にまで踏み込まなかったのは本能のなせる業だった。

「無効化空間さえも無効化出来る存在は貴方が作り出した『四宝剣』。その力の持つ本質の違い。それが四宝剣の秘密なのだと思う。数式魔法はポータル社がゲームとして再デザインした際に、仮想空間内に作り出した後天的な存在。対して『精霊力』というのは私が世界をデザインした段階で“特別な者にしか認知出来ない。目に見えない世界を動かす本質的な力”。言い換えれば大自然の持つ力。ポータル社によると龍という種族だけが世界の維持に必要な本質的な力を持たされている。逆に言うと、龍さえもその力には抗えない。龍そのものも後天的に作り出された存在なのだけれど、いわばあの世界での不条理な事柄に対して制裁を与えられる。オンラインゲームにはよくある話だそうで、どう足掻いても勝てない敵というのが龍。ある意味、あたかも生きた魂持つ存在のように振る舞う監視装置。もっとも力試しに龍に挑むプレイヤーのために龍は倒されることもある。けれど、同時に世界の何処かで龍は復活する」

「なるほどね。実際、ボクがギルガナドゥに退避するまではそうした存在だったのだろうね。なるほど・・・数式魔法では本来どうにもならない存在か。しかし、知恵も知識も理性も個性もある。それはどういうことなんだろうね」

「私にもわからないわ。知っているのはプログラマーたちでしょうけれど、ご存じの通りよ。最早、彼らは何処にも居ない。そして私が作った『あの娘』なの。けれど、無効化してなお時間をかけて浸食する強力すぎる呪いよ。フレイアがどうなってしまったか自分の目で見たでしょう?」

 ご存知の通りという意味。すなわちプログラマーたちは“こちら側”の世界でパニックに陥った挙げ句に自ら命を絶った。ポータル社に関わる人間で残っていた唯一人の人物が二人と共にギルガナドゥ内へと退避した。しかし、少なくとも悟、あるいはリーアムは“彼”が広大なギルガナドゥの何処に居てなにをしているかを知らない。それにもともと退避は彼が言い出したことで、悟とカマラを半ば強制的にあちら側に送った張本人なのだ。その彼が二人に害意を抱くとは思えない。

「ああ、ノロワレロって言われたよ。すんごく大事にしてた娘からさ」

 悟は人並みに落ち込んで見せた。娘に恨まれるような真似は、『作った』こと以外はない。流石にソレを恨んでいると言われたら返す言葉もないのだが。

「『次元回廊』を使った咄嗟の判断はある意味正解ね。彼女の呪う対象は多分貴方だろうし、迂闊に手を出さなければ誰の脅威にもならない。勇猛果敢な龍族ですら『怖い』と感じるほどの存在だもの。それが何処に跳ばされたのかは確かに問題なのでしょうけれども・・・。あの娘には気の毒なことをしてしまったわ。彼女は私を護ってくれただけなのに・・・」

「ようやく話が見えてきたよ。つまり、君の村は君が居たために『何者か』に襲われて『死の村』になってしまった。それを見かねたフレイアが村とそれを取り巻く森そのものに石化の呪いをかけて全てを封じ込め、乱暴なやり方とはいえ近付く者を脅して近寄らせなかった。ただ、呪いの力は強力でフレイアの心さえも浸食されてしまったってことなんだね・・・」

 悟の指摘にカマラはコクンと頷いた。

「ただ、貴方がアリアドネを使い、フレイアを時間の彼方に追いやって封印を解いたせいで、あの村にあった『死』が蔓延する事態はあり得る話だわ。貴方自身を殺すには至らずとも、貴方が自分の『行い』を後悔する可能性は否定出来ないわ」

「『伝染病』か。確か君の母親の故郷はそれで・・・」

 インド北東部は中華大戦の後に新型伝染病VARSの蔓延で壊滅的な打撃を受けた。このため、かつての宗主国である英国が被害を免れた大量の人々を移民として受け入れる措置を執らざるを得なかったのだ。そうして皮肉にも人類史上アルバート・アインシュタイン、マーク・ザッカーバーグ以来の『史上空前の天才少女』であるカマラ・マリア・ホワイトがこの世に生を受けることになったのだ。

 その一方で21世紀初頭以来の深刻な人種間対立が再燃したことと、食糧難による貧困が蔓延して連合王国は完全なる斜陽の時代に突入していた。

 もっともそんな話は世界中どこでもごく当然の事態としてあった。悟の居た日本だって中華大戦による戦災と東南海トラフ沖地震による被災により、政治的にも経済的にも壊滅状態に陥ってしまった。もっとも悟以上にタフで打たれ強い日本は国家再建の道を着実に歩もうとしていたし、国の中枢は『杜の都』で健在だった。

 ただ、悟が帰国しなかったのは国際企業に就職したという理由だけではなく、日本がキナ臭い時代に突入し、かなり排外的になっていた事情もあった。

 外国帰りというだけで悟は同国人から歓迎はされまい。そして、それをはねのけるに足る理由もない。なにしろ祖国とはいえ、ほとんど知人も残っていない。

 日本では『絶対的中立主義』などという食糧・エネルギーの自給自足体制を背景に新たな鎖国政策を敷いて特に中華系と朝鮮系の移民たちに暴力的排斥運動を行っていた。またぞろ20世紀半ばの話を蒸し返されるぞと思いながらも悟は傍観者に徹することに決めていた。

 そういう悟の居た『米国』だってかつてのUSAではなく、西アメリカ共和国(West America Republic ただWARだと『戦争』を意味して縁起が悪いという理由からEを加えてWEARと呼ばれる)と名を変えていた。

 共和党と民主党の二党体制が第三極、第四極の登場により完全に崩壊し、極左勢力のフリーダムステーツと極右勢力のティーパーティーは合衆国衆軍を巻き込んで武力衝突に発展し、その挙げ句に東西に分裂し、しばし内戦状態に陥った。

 戦禍を逃れるため中間層はカナダとメキシコ方面に逃れ、アメリカという世界秩序の歯止めが壊れたことが結果的に中華大戦のトリガーになってしまった。

 フリーダムステーツはロスアンゼルスを首都として、反対勢力からは『共産主義的だ』と非難される『大きな政府』を標榜した。これは西海岸地域にアジア系や南米系の移民が数多く居た事情にもよる。彼らはより現実の世界秩序に適う管理資本主義経済を築くべきと主張して、金持ちの肩ばかり持つと彼らが非難する絶対的資本主義の茶会勢力に対抗した。

 世界秩序の乱れはかつてはGなんとかと呼ばれた経済大国群の地位を悉く失墜させ、民族宗教の違いから小国が乱立する異常な状況に陥っていた。そして、圧倒的大多数の人々は世界の現状に目を背けてギルガナドゥに『逃げた』。

 それに追い打ちをかけたのがVARSだ。もともとは中華人民共和国軍が秘密裏に作った生物兵器だと言われている。だが、悟もカマラも“そんな胡散臭い話”を信じてはいない。確かに中華人民共和国は共産党一党独裁を維持しようと躍起になった結果大陸全土を焼き尽くしたが、いずれ自分たちに飛び火するシロモノを使う道理がない。

 結局、VARSはカナダ国内に亡命政府を築いてなおも抵抗を続ける人民共和国はカナダ国内でのVARSの蔓延で白人系住人からの暴力的突き上げに遭い、その存在を危うくする事態に陥っていた。主義主張のためならば人類滅亡さえ厭わない『どっかのバカ』の仕業というのが本当のところだろう。イスラム国の発生以来、なにが起きても誰も責任を取らない事態が当然のものであるという不文律が世界には実際に存在していた。

 どこの国の政府も都合が悪い事実はすべて他者ないしは敗者に押しつけるのが常だ。「勝った側」の仕業であっても少しも不思議ではない。が、同時にそのツケも「勝った側」がより多く支払う仕組みであり、便宜上の戦勝国である英国も日本もそのツケには大いに苦しんでいた。そしてより閉鎖的かつ反グローバリズム的な秩序を求めたのだ。

 ある意味、いつ世界が滅亡してもおかしくはない状況ではあった。だが、だからといって全てが水底に沈んだ理由にはならないと悟は思うのだ。

「VARSの悲惨さは目も当てられないものなぁ・・・」

 胃が焼けただれ、点滴を打とうにも外部からの物質を悉く拒絶する免疫異常によりたちまち皮膚がただれて患者がのたうち回る特異な症状により、罹患者が衰弱または飢餓死するまで放置するより他に打つ手がない恐ろしい病気だった。ワクチンを作ろうにもウィルスは各個体内で排外されないため無限に変化し続ける。仮に適合したワクチンが作られても抗生物質は罹患者にとって最大の毒となり、投与すればアナフィラキシーショック症状を引き起こし、呼吸障害の末に苦悶死する。

 誰かがなにかをしなければ、罹患者本人の脳内麻薬が過剰分泌されることで痛覚も飢餓感も完全に麻痺した罹患者にはゼンマイ時計が動力を失って時を打つのをやめるようにやがて穏やかで静かに死が訪れる。そうした特徴故に故にアンタッチャブルシンドロームなどという俗称が新聞紙面でも用いられていた。深刻な機能不全に陥ったWHO(世界保健機構)は汚染地域を封鎖するよりないという事実上の「敗北宣言」を行った。エボラやSARSにさえ諸手を挙げることがなかった勇敢な団体は屈服した。

 発症率こそ五割程度だが飛沫感染する。免疫障害という特性上、致死率は100%で、それこそなにも食べず、自傷行動に出ている免疫機能が完全に停止し、それ以外のウィルスに無防備になった状態でなおかつ生きられるゾンビまがいの人間など実のところ皆無だ。

 不幸中の幸いにして感染者を特定しやすい。感染すると光刺激にさえ皮膚がただれるため暗がりを好み、他者との接触を避けるようになるからだ。つまり、昼間出てきて大勢で助けを求める人たちは“おそらくはまだ大丈夫”という証拠になる。彼らを光まばゆい隔離施設で食事を与え続け、潜伏期間内になんの兆候も出なければウィルスは役割を果たせずに体外に排出されたと判断されてシロとみなされる。VARSの蔓延が人間本来の排他意識と相まった結果、各国の鎖国化が進む結果に陥った。

 皮肉な話、相も変わらずグローバリズムを掲げて世界秩序をリードしているのは悟の同僚たちの多くが属するドイツ連邦だった。かつてナチスドイツとしてホロコーストを行ったドイツが、経済的に破綻したEU加盟国を献身的に支え、イスラム国騒動で疲弊した中東地域に救いの手を差し伸べ、中華大戦では内戦の封じ込めに尽力した国連軍の中核を担った。

 東西に分裂してしまった米国と次々に小国が乱立する群雄割拠状態に陥った旧ロシア諸国をも暫定的に和解もさせた。また、辛うじて体制を維持している英国や日本を牽引し、本部がベルリンに移設された国連の活動も維持していた。当然ながら、VARSの脅威にもっとも立ち向かったのは多くの勇敢なドイツ人医師たちだった。

「ええ、だから『私の世界』にはあんな悲惨なものは作らなかった。なのに誰かが作ってしまった・・・」

「またぞろ『どっかのバカ』の仕業か・・・あるいは罹患者の仕業かもね。『あの世界』に罹患者が居たところでなんの不思議もない。肉体が病に冒されていてもホンモノの刺激があるわけではない世界だものね」

 皮肉にして魂の存在を決定的にしてしまったゲーム中毒の青年は検死結果を待つまでもなくVARSの患者だった。現実の刺激を避け続けた結果、サイバースペースに逃れて『魂の死』からは免れたのだ。果たしてゲーム機の点滅ランプや、ハードディスクの駆動音などの刺激をどのように避けたかは些か疑問ではあったのではあるが。

「なんにしたって私はしばらくここに留まって原因を突き止めるわ。あんなものを蔓延させて『私の世界』を汚させたくないもの」

「私の世界ねぇ・・・」

 悟は皮肉っぽく笑う。

 確かに仮想現実世界の構造そのものはカマラがデザインして作り上げたものだった。だが、それがギルガナドゥという「ゲーム」に利用された段階でカマラの手から離れていた。世界にはカマラの知らないものが溢れていて、彼女はその事実を知らない。

 むしろ不老不死の存在として世界に在り続けたリーアム・ポロニウスを演じていた悟の方が精通しているかも知れない。

「ではボクはあっちの世界で原因を探るとしようか。課題山積だなぁ」

 そうボヤいたところで悟はカマラの真意に気づいた。

「もしかして彼女はキミとの連絡装置ってこと?」

「半分正解。確かに私からのメッセージは彼女を通じて貴方に伝えることが出来るわ。でもそれだけじゃない」

「というと?」

「監視装置。あの子の目は見えない。けれどそれ以外の情報は拾えるわ。あの世界における『私』はもう間もなく息を引き取る。けれど、その魂は自動的に『彼女』に受け継がれる。そして、彼女を通じて貴方と共に時間を過ごし、私はここに居ながらにして貴方の行動を監視出来る。私が貴方を疑わない道理はないでしょ。貴方にとって私は脅威ですらないかも知れないけれど、私にとって貴方は最も疑わしい容疑者であり、最大の脅威よ。頼み事をする以上、ナイショにするのはフェアじゃないから教えるだけ。あの世界であんな真似出来る人間が貴方以外にもいることの方が私にとっては頭の痛い話よ」

 カマラが一気にまくしたてたことで悟は完全に言葉を失った。そこまで疑われ、恐れられていたとは全く気づきもしなかった。

「んじゃさ、もしリーアムがあの子に手を出したら?」

 敢えて『自分が』とは言わない。ある意味無駄な抵抗だった。

「キスしようが抱こうが孕ませようが、なにをしても構わないけれど、そのときは魂の持ち主である『私も含めて』責任を執る覚悟をして頂戴。あの子は『私の分身』なのだから、もう片割れに対する責任も執るのが筋でしょ?」

「なんだ・・・とっ」

 悟は頭を抱えた。これまでのやりとりでわかる通り、悟はカマラを極めて苦手な人間だと思っていた。顔はとてつもなく可愛いが言葉にはVARS以上の猛毒と鋭いトゲがある。自尊心が強く、猜疑心の塊で嫉妬深い。しかもおそらくは執念深い。

 そんなのと未来永劫永久に一緒に居たら今度こそ本気で『死にたい』と思うかも知れない。不老不死を捨てる方法を本気で探さなくてはならなくなる。

 それに・・・と悟は考える。カマラの分身は必然的にリーアムの背負った重苦しく過酷な現実を知ることになる。

 しばらく、黙って考え込んだ後、悟が出した結論は・・・

「・・・考える時間をください」

「あら、貴方にはあるでしょ。それこそ腐るほどに長く」

 そこでようやくカマラはニンマリとした笑みを浮かべた。

「確かに最高(に)傑作(なハニートラップ)だ・・・」

 悟は惚れた弱みから悄然と頭を垂れるより他なかった。


 多分に気が重かったが悟は再びコールドスリープ装置に入り、リーアム・ポロニウスがギルガナドゥの世界へと帰還を果たした。

 ただし、外部からの情報流入は極めて制限されている。本物の世界・・・ギルガナドゥの世界では『真理の門の向こう側』と呼ばれる空間から戻る場合は記憶制御される。

 リーアムは生嶋 悟としての記憶を完全にブロックされていた。

 そのためリーアムはしばし自分自身の得た情報を確認するのに時間を要した。カマラが記憶置換を加えている筈で必要な情報は『得ている』筈で、さらに悟がリーアムに必要なメッセージも婉曲にだが伝わっている。

「なるほど・・・ボクはこの娘を東の塔に連れ帰って一緒に暮らさなければならない。そして、この村で起きたことの原因を自分なりに追求しなければならない。もしボクに必要な情報が新たに発生した場合はこの子の口から語られる手はずになっている。この子は不老不死で目が見えないことを除けば生活に必要な全ての機能は備わっている・・・って『生殖機能も』ってなんだそりゃ。だけど、この子に手を出すと一生後悔する事態になるのか」

 つい言葉に出していることに気づいてリーアムはハッとした。独白するリーアムを怪訝な様子で少女が伺っていた。

「どうかなさいましたか?」

 可憐な少女の一言にリーアムは背筋を凍らせた。なんだかわからないが一瞬悪寒が走ったのだ。

「いや、別になんでもない」

 リーアムは冷静さを取り戻して、少女に向き直った。

「これからキミはボクと一緒に暮らすんだ」

「お母さんはどうするのですか?」

「母?」

 ベッドの上に横たわった今や干からびた物言わぬ死体にリーアムは特別な感傷もなく視線を向ける。それはどこからどう見ても男だった。確かに年寄りは男女の区別がつかなくなる場合がある。だが、禿げ上がった頭、小さいが骨太な体つき。そして体のラインのどれをとっても男性だった。

 念のためリーアムは最早遺体となったものの性別を確かめた。その結論はやはり男性だった。

「残念ながら『お母さん』は息を引き取られたよ」

 リーアムは思い返してそうつぶやいた。彼女にとっての現実は知覚できる事実だけでしかない。ここに横たわる『彼女の創造主』は歴とした『男性』だが、彼女にとっては『女性』なのだ。

「そうですか・・・言葉をかけても反応がなかったからもしかしてと思ったのですけれど・・・」

 少女はそう囁いて静かにすすり泣き出した。リーアムの知る限り、彼女を取り巻いていたのは『死者の村』。すなわち『死の空間』であったが、彼女にとっては初めて経験する身近な『死』だった。

 すでにとっぷりと夜も更けようとしている。リーアムは少女の泣く姿を邪魔しまいと小さく指を弾いて灯りをともす。そして、横たわる死体の顔に白い布を被せた。感傷こそないが、あまり見ていて気持ちの良いものでもない。

「ん?」

 『それ』が目にとまったのはほんの偶然だった。リーアムにとって少女の創造主の遺体は最早なんの関心もない存在の筈だった。現実にその創造主の魂は盲目の少女に受け継がれているのだ。そこにあるのはただの空っぽの肉体だけだ。

(手紙だ)

 遺体の頭の下に敷かれ、封書が隠されていた。もう随分と長いことそうしておかれていたようにすっかり変形して色も大分褪せていた。リーアムは指先を鋭いナイフに変えて封を切った。

“我が師にして我が最も愛すべき男リーアム・ポロニウスへ。私の至らぬ故の過ちを心からお詫びしたい。私が愚かな過ちを犯したことには貴方を封じてからすぐに理解致しました。最早、私が封じていた貴方の記憶は貴方自身の意志で解かれる。この手紙を目にした時点で貴方が知りたい過去の真実は貴方の中へと戻される。そして、我が後悔の日々の中、残りの半生をかけて取り組んだ『最高傑作』をどうか存分に味わって頂きたい。そしていつの日にか、貴方の知る『彼女の本当の名』を呼んで心から愛してやって欲しい。”

 署名の欄に目をやったリーアムは思わず手紙を取り落とした。はらりと手紙が床に落ちる。

 コーネリアス・ピウズ・・・

 かつて自分を裏切り、人類に味方して彼の魂を封じた愛弟子・・・

「お前が、お前が『そう』だったのか・・・」

 ふたたび物言わぬ死体に目をやったリーアムの目から静かに涙がこぼれ落ちた。くたびれ果て、からからに乾いたその肉体。そこに留まり続ける苦痛。無味乾燥に見えるその遺体から彼の魂がよく知る嗅ぎ慣れた厳かな香りが漂うように感じられた。

 確かにこれは『彼女』だ。

 道理でなにもかも知っていた筈だ。そして、今までもずっと側に居続けたのだ。そしてずっとずっと見守ってきたのだ。フレイアが魂を削って呪いの苦痛に身を捩らせてまで『彼女』を護ろうとしたわけだ。

 それなのにボクは・・・なにも知らずにボクは・・・だが、コーネリアスを螺旋に巻き込むことだけは避けたかった。それが『彼』を養子に迎えて育てたリーアムが発揮できる『誠実さ』だった。

 少女に気づかれぬように嗚咽を圧し殺すようにしてリーアムは泣いた。その様子に気づいた少女は泣くのをやめた。

「どうかされましたか?」

 少女はリーアムの手を探るようにして掴む。目の見えぬ彼女はそうすることしか出来なかったのだ。

 ハッと向き直ったリーアムは少女と向き合った刹那、思わずある名前を口にしようとした。

(やめておけ)

 自分の中に居る誰かがそう囁いた。リーアムにはわからない。だが、この物語を読む貴方にはわかるその男の囁きだった。

(これまでのすべての出来事は『彼女』に仕組まれている。ここまでの全てが彼女の計算通り、思惑どおりだ。そして今その名を口にすべきではない)

「なぜだっ、彼女は彼女はか・・・」

(ならば問うが、お前にはその得体の知れない少女を未来永劫愛し続けることが出来るのか?その魂が抱く本当の目的をわかった上でそれでもなお「側に居て欲しい」と心から願えるのか?それにそんなことにさえ気づかなかった時点で、ボクたちの『負け』だとは思わないのか?)

「だけど、それではこの子はずっと名無しだっ」

(「今」はそれでいい筈だ。一時の感傷に任せて名を呼べば、お前もボクも、そしてこの子も、その魂の持ち主も深く傷つくことになる。お前には成すべき事がある。それはボクも同じだ。それが終わってから約束通りゆっくりと時間をかけて結論を出せばいい。それがボクと彼女の本当の願いだろうと思う)

「だけどそれはあまりにも残酷だろう。だって彼女は・・・」

(お前は先ほどベッドに横たわるコーネリアスの遺体を魂のない抜け殻だと思った。だが、実際に魂のない抜け殻だったのはその目の前に居る名無しの少女の方だ。瑞々しい体も艶やかな髪もすこぶる魅力的であろうが、彼女は単なる魂が宿るべき器に過ぎない。本物の彼女は今も真理の門の向こう側で『我々の脅威』と格闘している。本当に名を呼ぶべきは彼女に対してだろう?それが己が真に愛する者に対する必要最低限の『敬意』だ)

「それではボクはこの少女をなんと呼んで接すればいい?」

(「よく思い出せ」と言っても無駄だろうな。この世界では情報が制限され置換されている以上、お前には彼女の言葉が正確に思い出せない筈だ。だからボクが伝える。誤った名なら認識できない。だが、誤っていなければいい。お前にとって『真実』なら彼女にとっても『真実』だ)

「なにが言いたいんだ?訳が分からない」

(親が愛する我が子に名をつける。そのようにして彼女を名付ければいい。だが、わざと異なる名前をつけようとすればお前自身の『心』と『信条』に反する。だが、仮の名ならば『嘘』ではない。愛称ならば一概に『嘘』だとは言えない)

「そんなこと言われてもボクには・・・」

(わかってるよ。お前には出来る筈がない。それはボク自身が一番よく分かっている。だからボクが仮の名を与える。だが、そのかわりもう二度とボクを頼るな・・・)


「つむぎ・・・」

「はい?」

 少女は突然驚いたようにビクッと反応した。

「そうか。キミの名は紡ぎ・・・」

「はい、なんでしょう?」

「今からキミを紡ぎの君と呼ぶよ」

「えっ?私は以前から紡ぎですが・・・」

「ゴメン、そうだった・・・そうだったね・・・」

 リーアムは少女がきちんと自分の名前を認識していることに安堵していた。

 そして、その名を与えてくれたもう一人の自分自身に感謝した。ただ、《彼》はもう二度と語りかけるまい。

 この世界で起きることの責任はすべてリーアム自身にある。リーアムの選択がこれまで多くの命を左右してきた。そのことから逃れるつもりはない。もうそれが出来ないほどにまで彼は多くを殺めすぎていた。

「行こう。紡ぎ。ボクらには新しい生活が待っている」

「えっ?私は買われたのですか?」

 まだコーネリアスのかけた『かりそめの人生と物語』から抜けきっていない紡ぎは自分が人身売買の対象だと思っている様子だった。灰被り姫よろしくのおとぎ話の世界の主人公さながらの不幸な境遇に甘んじていた。まぁ、実際のところ似たようなものではあるのだが・・・。

「違うよ。君は売られたりはしていない。お母さんは最期まで君のことを大事に思っていたんだ。だから、ボクに預けたいと言ってきた」

「では私は貴方について行けばいいのですね。母の遺言ということでしょうか?」

「そうだね、そうだと思う。だから安心して欲しい。君はなにをするのも自由だし、誰と話すのも自由だよ。ボクは君を大切に預かる」

「でも私はこんなですよ」

 紡ぎは自分の目を指してそう囁いた。

「それでいいんだよ、紡ぎ。ボクは君の目のかわりになるから」


(つーか、ボクのどこにそういうクサい台詞があるんだか・・・やれやれだよ、『リーアム』っ。本当は「紡ぎ」じゃなくて「紬」だ。ギルガナドゥにいるお前には『日本語』は耳慣れず聞き取りづらいだろうけど、里原 紬。ボクが震災で喪った何者にも代えがたい大切な彼女の名だ。大事にしろよ。約束が果たされることなく18で亡くなった彼女と、彼女への想いと約束とを捨てきれずにずっと一人で生きてきたボクのかわりに・・・)


第一章 完

第二章

 「その男、フリーアン」に続く。 

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