序章5 焔の女剣聖
強くなるというのはなにかを失うことなのだ。
自分より強いものを、目指すべき処を、敗北への恐怖を、弱さ故の迷いを。
「無理だな。私は強くはなれない」
ファルローゼは瞑想を止めて顔を上げた。
その場所はある人物から教わった所だった。
かつて不敗の剣聖として歴史にその名を刻んだメッシュビル・スターンが籠もっていた山だという。
“かつて”は人里から離れ、なにもない土地だったのだろう。だが、時間の流れはそれを許さない。
現在では林業を中心とした産業で生計を立てる人々がそれなりに暮らすようになり、ファルローゼが起居している場所もエンリコという老人の構えた道場だった。
メッシュビル・スターンの名がまだそれなりに知られていた頃は道場もそれなりに賑わったらしい。
だが、今では門弟もほとんど居らず、躾を兼ねて近隣の子供たちに「剣術の真似事」を教える場所として利用されている。
「おや、随分珍しいこともあったものだわね」
エンリコの妻でファルローゼにとっては居てもらわなくてはならない大事な“おかみさん”のノルドが道場に丸い顔だけを覗かせる。
ノルドの顔にファルローゼは苦笑した。
「あたしにも集中出来ない日だってありますよ」
「おやっ、月のものかい」
「違いますよぉ」
ノルドと話していると自然に表情が柔らかくなる。気持ちも和らぐ。
「あんたも年頃なんだからもうちょっと色気を出してもいいと思うのだけれどねぇ」
「よしてください。こんな田舎で誰を相手に色気やら愛想を振り撒くっていうんです」
長く伸びた髪は縄で縛り、使い古した道着にはノルドが当ててくれたツギハギがあちらこちらにある。およそそこいらの人々に自然に紛れて居られる格好で目立ったところなんてない。
「それでもアンタに近付きたいって連中は多いよ、実際」
「やめてくださいよ。私はアイツらがガキの時分から知り尽くしているんですよ。それこそ下の毛がいつ頃生えたかってことまで。ヘタすると父親の代から」
「そうだったねぇ」
ファルローゼがここで修行を始めてからかれこれ60年ほどになる。
その頃はまだ先代の師匠ホドキンが存命だった。壮年期に入るまで傭兵として各地で剣を振るったホドキンの名前と名声を聞いてファルローゼは勢い勇んでここに来たのだった。
だが、時間は残酷なものでホドキンは足腰も利かなくなっており、それを娘のノルドと高弟のエンリコが“介護”していたのだった。
世に老剣客ほど厄介な老人はないようで、あまりにも傍若無人で身勝手な言動に弟子たちは呆れて出て行ってしまったのだ。惚れた弱みというヤツでエンリコはノルドを助けて道場を引き受けていたが、腕の方はといえば素人に毛が生えた程度のものでしかなかった。
そんなところに来てしまったのが運の尽きでファルローゼは腕試しに来たつもりが、その日のうちに師範代にされてしまった。
ごくたまにではあるが本当に腕試しに来る彼女自身のように物好きな武闘家も来訪する。そのときにエンリコでは話にならないからだった。
そんなわけでファルローゼの素性は詮索しない。村の人間にも余計な詮索をさせないことを条件に師範代を引き受けて現在に到っている。
幸いにして修行の材料にだけは事欠かなかった。道場にはメッシュビル・スターンの残した奥義秘伝書が大切に保管されていた。
彼が四宝剣の最初の所有者で極意を得るために体を虐め抜いた記録がそこには詳細に書き記されていた。
ファルローゼは不老を良いことに時間をかけ、その道を丹念に辿り続けている。
時には戦場に立つこともあった。この山深い国では生計の道が限られているせいもあり、課税を免除するかわりに兵役が課せられていた。そもそも国そのものが傭兵国家であり、他国に兵力を貸し出すことで見返りに不足がちの物資を得ていた。
当然のことだが、他国の戦に駆り出されることを村の人々は歓迎しておらず、ファルローゼが進んで引き受けることに安堵している面もあった。最低でも腕利きが一人は確保出来ることで村の面目も立っていたし、ファルローゼは運悪く同行することになってしまった若者を一人として死なせたりすることはなかった。
いつしか村の守り神のように思われるようになった節があり、誰からともなく剣聖と呼ばれるようになった。
かつてメッシュビルがそうであったように、自分も人々から剣聖と呼ばれるようになったことについて、ファルローゼには思うところが大きかった。
道を辿れば辿るほど、技を極めることの難しさや、その心の持ちようといった精神面の負担がその肩に重くのしかかる。その重圧もまた修行の一部なのではないかと考えるようになっていた。
小さな国ゆえにファルローゼの名はそれなりに知られるようになっていった。戦を通じて他国の武芸者や騎士との交流も増えた。
それだけにファルローゼは村の外で不老の噂が立つことを畏れて「その実、一族で定期的に代替わりしているのだ」という嘘をついていた。
傭兵の仕事は戦あってのこと故に、呼ばれていって一段落つくと国元に帰される。
次の機会まではしばらくの間が空くため、あまり間隔が開くようなら、別人を装った。相手がそう理解してくれればそれで済んでいた。
ファルローゼが心配し、恐れるようなことはなにも起きなかった。それについて深く考えても意味がないと思っていた。本人の知らないところで極めて大がかりな機関が彼女の秘密を葬り続けているという想像は流石に思い至らない。その意味で、彼女はまだまだひよっこで、父の域にはまだまだ到達しそうにない。
集中出来ないことでファルローゼは型通りの修行を断念する。
道場を片付けるファルローゼに洗濯物を干しながらノルドが暢気な声をかけてくる。
「たまにはのんびり過ごすのも修行のうちじゃないの?」
「そうですね。集中できないときは無理しない方が良さそうです」
なぜだか今日は特に心がざわついて集中が難しかった。
「散歩にでも行ってきます。夕刻には帰りますから」
「村の方に行くことがあったら買い物をお願いね」
「適当に見繕ってきます」
ノルドに笑顔で手を振り、ファルローゼは道場を出た。
暦は夏だというのに山深いこのあたりは暑いと感じることは少ない。標高が高いせいもあって夏の暑さとは無縁だが冬の厳しさは筆舌に尽くしがたい。
雪のないこの季節は農繁期としてどこの家でも忙しい。大抵の家がそれぞれ畑や菜園を持ち自給している。エンリコもこの時間は自宅裏の畑で汗を流している筈だ。
実際のところ道場の金回りは悪くない。それというのもファルローゼが傭兵として莫大な報酬を稼ぐからだった。
厳密に言うとファルローゼが傭兵仕事を引き受けても国からの報酬は一切無い。だが、派遣先では戦果に応じて懸賞金が与えられる。その四分の1はエンリコとノルドの夫婦に下宿代として支払い、残りのうち半分を村のために役立てるため寄付し、ファルローゼの手元には僅かばかり残るだけにしていた。それでも続けているうちにとんでもない金額になっていた。
ファルローゼの寄付により村には学校も建ち、道路も整備され、暮らしぶりは目に見えて豊かになっていた。
だが、ファルローゼは寄付についてよりむしろ村の青年たちを無事に連れ帰ったことに感謝される。やはり金よりも人が大事なのだ。特にこんな人の数が家畜の数よりも遙かに少ない田舎では。
家庭の事情で両親と共に各地を転々としていたファルローゼにとってはここが間違いなく故郷だと言えた。見知らぬ人は一人もいない。今や母親となっている女性も赤子の頃から知っている。その子供たちに剣術の手ほどきをしているのだ。
ファルローゼがベルイーニに抱いていた反感はその根無し草のような生き様にあったのだろうと思い返す。どこの国に暮らしてもどこか小狡く上手く立ち回る父に対して自分はそんな生き方をしたくはないと思ってきた。
不器用なりに自分の運命を受け入れて時を過ごすことを学んだ。人々と共に暮らし、彼らの誕生から死までを見届けながら地に拠って暮らす。それで女神のように敬われているのだから上出来だとも思えた。
村の人たちは彼女を外向きには剣聖ファルローゼと紹介し、内輪ではヴァル様と呼んでいる。ファルローゼの名を伝承の戦乙女ヴァルキリーになぞらえているのだ。それがすっかり耳に馴染んでしまい、逆に本名で声を掛けられると緊張してしまうほどだった。
その日はなんとなく、修行で出入りしている場所に足を向ける気になれず、かといって忙しい里の方へ行って作業の邪魔をしてしまうのも気が退け、村はずれの泉に足を向けた。
この時期は子供たちが水浴に励む場所だ。夏場とはいえ水は冷たいので大人たちはやりたがらないが元気が有り余る子供たちは裸ではしゃぎ回る。
ファルローゼは子供たちの笑顔がなにより好きだった。実家に居たときは妹たちの面倒をみていたこともあって、子供と一緒にいると自然心が落ち着くのだ。
けれど・・・
母性本能が豊かなファルローゼも自分の子供を持つことは生涯ないだろうと覚悟を決めていた。共に生きる伴侶は望み薄だったし、なにより自身に流れる不老の血を憎んでいた。どこか祖父であるリーアムの生き様をなぞっているようで彼女には祖父の苦悩と孤独が身近なものに感じられた。
聞くところによればリーアムも自分と同じように適度な距離感を保ちながら人々と共に生きているという。祖父の顔は見たことがなかったが、親元を離れて歳月を重ねるうちに親近感を感じるようになっていた。
いつか、祖父に会いに行ってみるのも悪くないと思いつつ、いつ国から非常招集されるとも分からぬ身であるため、傭兵として外地に赴く場合を除き、なるべくこの村から離れないことにしていた。
東の塔とリーアムのことを思いつつ歩くうちに目的の泉のほとりに到着していた。
「そうかしまったなぁ」
今日は学校のある日だった。子供たちは一人として居ない。学校に上がる前の子供たちは危険なため、大人たちの同伴がなければ泉で泳ぐことを禁じられていた。その大人たちも忙しい。従って誰も居ないというわけだった。
「まさか誰も居ないとはなぁ」
一瞬、がっかりしたファルローゼは逆にこれはチャンスかも知れないと思い返した。今なら誰の目も気にせず泳げる。
あたりを伺い、誰も居ないのを再度確認して服に手をかける。
そのとき凄まじい斬撃が背後から襲いかかった。
・・・がファルローゼは何事もないかのように素早く身をかわす。すぐさま手近な石を拾い上げて投げるが相手はそれを素早い身のこなしでかわした。
「出来るな」
咄嗟に前転した際に唇が切れ、流れ出す血を親指で拭う。
何者かなどとは問わない。恨みはあちこちで買っていたし、討ち取って名を上げようという輩も多い。
常時臨戦がファルローゼの信条だったし、そのために重ねた修行と研鑽だ。
ファルローゼは道着に丸腰だったがそれは問題にならない。獲物を手にした輩でも体術でどうとでも出来るという自信。そして・・・
襲撃者は顔を布で覆っていた。かなりの手練れで全く隙が見えない。
だが、ファルローゼは全く動じなかった。その程度のことは予測済みだったし、手の中にはまだ石が握られている。彼女のような達人にかかれば石つぶても立派な凶器になる。飛び道具を手にした相手に無闇に斬りかかるほど馬鹿でもあるまいと読んだ。
襲撃者は攻めるのが難しいと悟ったらしい。構えを切り替える。
その構えにファルローゼは一瞬動揺した。
「疾風剣の構えだと」
剣聖メッシュビルが産み出した四宝剣の極意。逆手に持ち替えた剣で素早く斬撃する。
そして襲撃者が手にしている剣に目を奪われる。自分の所有するものと同じ特有の波長。
「フローリンの名において命ずる。風よ、解き放てっ」
まずい。対峙してはじめてファルローゼに緊張が走る。
巻き上がった風が土砂を跳ね上げ、そのつむじ風の中から空気の塊がほとばしり出る。
ファルローゼは素早く左右に移動して空気の塊をかわす。触れればたちまちに腕が千切れてしまいそうなかまいたち。
二発かわしたが三発目がファルローゼの体を真っ二つに切り裂いた・・・。
ように見えたのは襲撃者の錯覚に過ぎない。
「残像?」
襲撃者が動揺をみせる。完全にファルローゼを見失い、左右に上と視線を巡らせる。
足元に視線を向けた襲撃者は細い炎の帯が自分に迫るのを見た。
「こっちさ」
ファルローゼの手刀が炎を纏っている。
手刀の間合いを避けるため襲撃者は風に乗って大きく背後に飛んだ。
「終わりよ」
その斬撃は手刀の間合いではなかった。そこに剣があるかのように伸びてくる。
それでもかわしたと思った襲撃者は敗北を悟った。覆面が真っ二つに切り裂かれていた。
「残炎それに紅蓮剣二の太刀よ。なんのつもりなの『風の聖剣使い』」
「お見事」
覆面の下から覗いたのは女性の顔だった。
「斬る途中で気づいたからやめたけど、発破をかけていればその美しい顔が台無しになるところよ」
「素晴らしい・・・。まさかミネルヴァなしでここまでだとは・・・」
「炎の聖剣の真の名まで知っている・・・となると答えは一つね。なんのつもりなのフローリン」
名前まで暴かれた襲撃者は観念したように目を伏せ、そして小さく微笑んだ。
「体捌きも技もマスターと比べてなんの遜色もない」
「マスターってまさか・・・剣聖メッシュビルのこと?」
「如何にも」
「ってちょっと、やだ、変なこと言わないでよ」
それまでの剛毅な振る舞いが嘘のようにファルローゼは小娘のように動揺し、顔を真っ赤にしてもじもじとしはじめる。フローリンはその豹変ぶりに呆気にとられてしまった。
「二度とそういうこと言わないで。私にとっては心の師匠。憧れの大切な人なんだから・・・」
フローリンはその仕草に思わず笑ってしまった。
「笑い事じゃないんだからね」
そう言って拗ねる様子も微笑ましい。
「しかし、ミネルヴァの子がこれほどの使い手に成長しているとは」
「そりゃね。私には母さんの名で四宝剣を解放することは出来ない。けれど、父さんもそれで戦い抜いたっていうじゃない。父さんにだけはゼッタイに負けたくないからね」
「心底羨ましい。使い手に恵まれ、子もなし、女としての人生を送れた妹が」
「どういうこと?」
「私にはなにもない。マスターと死に別れて以来、私は妹のフレイアと共に世界の監視者として流離ってきた。そのフレイアも行方をくらませてしまい、以来ずっと私は・・・」
「それはご愁傷様。でも、あたしだってこれからずっとそういう人生よ。孤独は友。そう自分に言い聞かせてきた」
「お願いだ。ファルローゼ、私のマスターとなってはくれぬか?」
「それはお断りよ」
即座に返答され、フローリンはビクっと体を震わせた。
「まだ私は真紅蓮剣を自分のものには出来ていないもの。疾風剣や不動剣の修練も積んでいる。けれども、それはメッシュビル様の足跡を辿りたかっただけのこと。極めるには更に時間がかかるし、一人で二本持つなんておこがましいわ」
「そんな・・・」
「気持ちはよくわかるわ。だから」
「だから?」
「たまに顔を見に来るぐらいのことなら許してあげる。私が旅先で出会った剣客フロイとしてだったらね」
「・・・わかった。だが、気が変わったらいつでも・・・」
「多分、それは望み薄ね。私は父に負けないぐらいに頑固だもの」
そう言ってファルローゼは屈託なく笑った。
初夏の出来事だった・・・。
続く
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