序章3 喪服の王女

 旅支度にかかったトワメルは雑務の整理のため泊まり込むこともありながら尚も王都に留まっていた。

 トワメルの執務を代行するためゲールの長子であるヤーデが抜擢された。

 ヤーデはベルイーニと同世代でトワメルからすれば一回り年かさではあったが、まだ補佐官クラスに留め置かれている。ただ、いずれ父親に替わることが期待されていた。

「トワメル、それにしてもこの書類の山といったら」

 さすがのヤーデさえも呆れるほどにトワメルの執務室には堆く書類が積み上げられている。陳情、別の省庁からの要望、裁可を待つだけの書類こそ毎日速やかに処理されていたが財務大臣の重責は執務の膨大さにあるのではないかと思われるほどだった。

「すみませんね、ヤーデ様。少しでも減らすようにと思ってはいるのですが、とても出発までには片付きません」

 苦笑しながら書類の山をポンポンと崩れぬように叩いたトワメルは連日の執務にすっかり憔悴している。

「いや、私なんぞでは減らすどころか更に高くしてしまいそうだ」とヤーデは恨めしそうに書類の山を見やる。「留守居役も楽じゃなさそうだ」

「大臣はみんなこうでしょう。親父様のところだって似たようなものではないですか」

「確かに。だがここまで酷くもない。勿論お前が無能だというのではないぞ。親父はいつも一番面倒なのは財務大臣で出来ることなら二度と引き受けたくないといつもこぼしていたからな。・・・それにしてもどこからどう手をつけてよいものやら」

 トワメルは留守居役が気の置けないヤーデに選ばれたことに内心ホッとしていた。

 出来ることならばこのまま彼に職務を押しつけてしまいたいとさえ思ってしまう。

 彼は聡明で優秀だし血筋については改めて語るまでもない。トワメルがアルテアに来訪して以来、実の兄弟同然に接してきた仲だった。

「そうだ、親父からの伝言を伝えそこなっていた。時間を作ってアン王女にご機嫌伺いをするようにとの話だ。確かに伝えたぞ」

 ニヤニヤしながらトワメルを見るヤーデも、おおかた事情を知っているのだろう。トワメルは軽く嘆息した。

「そういうところは親父様にそっくりだ。これを前にして尚、時間を作れという話からしてほとんどイヤミだ。・・・まぁ、なんとかしましょう」

「まったく羨ましい限りだ」

「なにをおっしゃる。私からすれば妻子と慎ましく暮らしておられるヤーデ様の方こそ羨ましい」

「その慎ましやかな生活をぶっ壊しかねない量の仕事を押しつけておいてそれか。それこそイヤミだ」

 二人は顔を見合わせてひとしきり笑った後、揃って悄然とため息をついた。

「多忙に忘れるとエライ事になりそうですね。取り急ぎ準備します」

「わかった。不在の間に少しでも減らす努力をさせて貰おう」

 そして二人はまた大きなため息をつくのだった。


 トワメルは山のような決済をヤーデに任せて執務室を出た。既にアン王女の暮らす外宮には知らせを送っている。

 外宮は城から僅かのところにあり、歩いた方が早い。

 早急に裁可が必要な書類を手にしたまま執務室を出て、歩きながら眼を通してサインを加えていく。

 ご機嫌伺いについては考えるのも面倒であった。

 そもそもトワメルとアン王女とはそれほど面識や深い親交があるわけでもなかった。

 行事では遠目に見るか他の大臣たちと同様に社交辞令を交わす程度の仲に過ぎない。

 まずは自己紹介と軽い挨拶程度で良いだろうと考えていた。婚姻に関する事情については推して知るべしだろうし、仰々しくしてしまえばかえって噂が立つ。書類を手に忙しくしていれば執務の一環と思われて逆に怪しまれる心配もなかろうとトワメルは考えていた。

 連絡通路で衛士や官僚たちとすれ違い挨拶されながら、トワメルは何事もない風を装って書類に目を落としながら歩いていく。

 忙しいのは見ればわかりそうなものなので誰も呼び止めようとはしない。

 そんなこんなするうちに外宮に続く庭園にトワメルは立っていた。さすがにここから先に進むのに書類片手ではまずいだろうと後ろ手にする。

 庭園を臨む二階の一番見晴らしの良い部屋に貴婦人の影が見えた。トワメルは軽く会釈して通り過ぎ、回廊の端で外宮入り口を護る女衛士に来訪を告げた。

「承っております」

「では、なるべく内密に願います」

 いかにも味気ない官僚然としてトワメルは表情を取り繕わない。衛士たちも心得たもので改めてトワメルに目的を問うこともなく招じ入れる。

 教えられた通りに階段を進むうちに表情を柔らかくする。なるべくお互いに緊張しないように済ませてしまいたい。トワメルはそんなことを考えながら階段を昇っていく。

 部屋の前にも女衛士が二人並んでいた。トワメルは今度は物柔らかに来訪を告げた。衛士の一人が軽いノックをして室内に消える。トワメルはもう一人の衛士に柔らかな口調で尋ねる。

「王女殿下のご様子はいかがかな?」

 すると女衛士は表情を曇らせる。

「どうか内密に願いますが、あまりよろしくありませぬ」あたりを憚るような小声で衛士は続ける。「ご様子こそ何事もないかのようですが、我らに対してもあまりにも余所余所しく、古株の女官たちも少しは気を晴らして頂きたいとこぼしています」

「そうですか、残念なことです」

「ティグレーン卿、どうか姫さ・・・いえ王女殿下をよろしくお頼み申します」

「心得ました」

 二人のやりとりが終わった丁度そのとき扉が開いた。

「どうぞ、中へお進みください」

「ありがとう」

 トワメルは軽く微笑み、衛士と入れ替わりに室内に進んだ。


「トワメル・ヒルム・ティグレーンです。本日はご機嫌伺いに参りました」

 『予行演習』という言葉が頭を過ぎる。そうだった魔王リーアムを訪ねるのも名目的には『ご機嫌伺い』だった。

 軽く微笑むトワメルは改めてアン王女を見据えた。

「アンです。本日はご多忙の中、わざわざ足を運んで頂き光栄です」

 形式通りの挨拶をしたその女性の一番目を引く点は黒いドレスと顔を覆うヴェールだった。

 喪服・・・夫の死から二年は経つだろうに彼女はいまだに喪に服していた。いまだそれを理由として宮廷の公式行事参加も見合わせている。ただ、夫と母親の周忌にのみその姿を見せ、その伏し目がちな様子とやせ細った姿は国民の同情を買っていた。

「立ち話もなんです。座っても宜しいでしょうか?」

「よしなに」

 先にアンが座すのを待ってからトワメルは恭しくテーブルについた。

 そして、しばらく沈黙が流れる。

 トワメルはアンの態度を見てから言葉を選ぶつもりだったが、あまりにも取り付く島のない様子に驚きを隠せなかった。ヴェールに遮られて表情もよく読み取れない。話の端緒を掴もうにも、王族としての訓練の賜物で委細なく受け答えするだけだろう。

 どうしたものかなぁと考えるうちに、ふとリーアムのことが頭を過ぎった。

「王女殿下は近々私が東に赴くことをご存じでしょうか?」

「詳しいことは存じませぬが、都にお戻りになられたときに・・・」

 最後を濁す様子に婚姻の事情だけは父王から聞き知っているのだろうと当たりをつける。

「帰らないかも知れませんよ。なにしろ相手は『あのお方』ですから。怒らせてしまい灰にされるとも、首から下がおさらばしてしまうかも知れません。なにしろ大変な方だそうなので」

「・・・まぁ」

「貴方はどちらがお望みですか?私が無事に都に戻ること、骸となって戻ること」

「・・・それは・・・」と言ったきりアンは表情を変えて黙り込んだ。

 トワメルがなにを言いたいのか理解したからだった。遠回しに婚姻について彼女自身が賛成か反対かを問うているのだ。

 口籠もっているアンを見かねてトワメルは先に口を開いた。

「失礼、あまりにも嫌な言い方でしたね。ただ、私も忙しい中訪れて手ぶらで帰るわけにもいかない。せめてそのヴェールをとって頂き、ご尊顔を眼にしたいところです」

 アンははっとしたように顔を上げ、静かにヴェールをめくる。

「お噂通り、間近にすると緊張してしまうほどですね」

 トワメルは軽く苦笑する。アンはやややつれた表情だったが都で評判が立つほどの絶世の美女だった。

「・・・それでも一度はお断りになられたと伺っていますが」

 アンは美しくつぶらな眼で睨むようにトワメルを見据える。

 あぁ、とトワメルは思った。内心そのことが引っかかっているのだろう。一度は断ったトワメルがなぜ今になって了承したのかと。

 トワメルは言い逃れは無駄だと悟った。

「私も王女殿下もその実同じ立場です。私には王女殿下の年頃で妻子がありました。ですが、この国に辿り着く前に妻には先立たれ、一人息子も病で喪っています」

「えっ・・・」

 本当に事情を聞かされていなかったのであろうアンは明らかに驚き、狼狽していた。

「ですから、お断りしたのです。幸いにしてこの国に拾って頂き、今日まで健やかに生きて参りました。ですが後添えを得ようとは思いませんでした。縁談のお話に関しては誰が相手であろうとお断りしようと思ってきました。まぁ、異国人で少数民族の出自という特殊な事情もあります。ですが、それだけが理由ではなく、むしろ亡くなった妻子のことが片時も忘れられないからですね」

「・・・奥様は幸せな方ですね。貴方は今もこうして愛しておられる」

「違います。むしろ逆です」

 トワメルはきっぱりと言い放つ。

「私と妻の間には子供を作る時間こそあれ、愛を育むに足る時間がなかった。お互いにお互いを本当はどう思っていたのか確かめるだけの時間が足りなかった。妻は慣習に基づき、私が都を落ち延びる際に自ら喉を突いてお腹にいた子供と共に命を絶ちました。妻の行い自体は責められるものではありません。ですが、それが私を愛するが故だったか、ただ自身の責務に駆られてのことなのか、今となっては誰にもわかりません。私を本当に愛していて、私と共に死ぬことを選ぶ。あるいは流浪の憂き目に遭っても共に生きることを選ぶ。それも出来た筈ではなかったろうかとも思うのです。今となっては・・・」

 トワメルの唐突な告白にアンは呆然となった。そうした過酷な選択を迫られることも、まして自身の命を責務として絶つことなど、平和なアルテアに生まれ育った彼女には無縁の世界の出来事だったのだ。

「私たちシメン人はなににつけてもそんな調子です。なにより慣習やら体裁、伝統のくびきを重んじてしまう。感傷や感情に溺れることをつとめて抑えてしまうのです。それが栄光と破滅を隣り合わせにする大陸人の在り方。その一つの帰結だとお思いください。それゆえ、妻を亡くした当時の私は今のようには考えなかった。むしろ、愛する息子と母親まで喪ってはじめて、この国の人々と同様に感傷的に、それと同時に懐疑的にも考えるようになりました。平和ボケでしょうかね・・・」

 自戒の意味も踏まえ、トワメルは自嘲気味に顔を伏せた。

 トワメルの話を聞くうちにアンは頬に涙を溜めていた。

「貴方の場合はいかがですか?病に倒れた旦那様を深く愛されていたのでしょうか?そうだとしたら私が入り込む余地はないかも知れません」

 アンは顔を伏せ、喪服の膝に涙が落ちるのを見届けるようにしている。

 しばらくの沈黙の後にアンは小声で震えるように呟いた。

「・・・わかりません。ですが、私がどうして今もこうして悲しみが晴れることがないか、貴方のお話を伺ううちに分かった気が致します。私も愛し、愛されているかなんて分からないうちに・・・」

 それだけ呟くと堰を切ったかのようにボロボロと泣き崩れた。

「さぞ、苦しかったことでしょう・・・」

 トワメルは自然に席を立ち、アンの隣に移ると彼女を横から抱いてその頭を撫でていた。アンはトワメルの胸に顔を埋めて激しく嗚咽し続けた。

「おそらくは、貴方が思う以上に貴方が亡き殿方に向けた愛情は深かったのでしょう。私もまたあるいは私が普段思う以上に妻子を愛していたのかも知れない。それを過去に封じ込めてしまう術を私は知らないのです。今となってさえも・・・」

 トワメルの頬を熱い涙が伝い落ちた。未来に起きることは勿論誰にもわからない。過去に起きたことさえ、本当にわかっていると言い切れる者がどれだけ居るかは分からない。分からないからこそ人は生きていけるのだし、わからないからこそ、愛しいと思うことが出来る。

「・・・生きてください・・・なにがあっても・・・」

「えっ?」

 トワメルには一瞬なんのことだか分かりかねた。だが、それが自身の口から出たリーアムとの対面により生きて帰らない可能性を示したことを指すのだと悟って愕然となった。

 そうだ。自分自身で指摘した通り、リーアムとの対面によりなにが起きてどうなるかは全くわからないのだった。そのことについて深く考えなかったのは、トワメル自身が自らの命そのものを軽くみていた証拠だった。

 リーアムの放った炎の魔法で焼かれ、燃え崩れていく自身の姿を想像してトワメルは軽く身震いした。そのことが抱き寄せているアンにも伝わってしまった。不安に曇るアンにトワメルは真顔で迫った。

「・・・約束しましょう。生きて帰るために最大限の努力を払うと。でなければ今日この問いに対する答えも永久に出せなくなる。私はまだ貴方を深く知ったわけでも愛したわけでもない。けれど、答えを見つけるためには私も貴方も生きて探し続けるしかないのでしょう。どんなに苦しくても・・・」

「喪服はもうやめに致します。貴方の前途を思えば縁起でもない。それに格好だけつけてもなんの答えにもならない。答えを探すためには前を向いて歩くしかないのでしょう?でも・・・」

「でも?」

「もし、私と貴方との愛に始まりがあるとするならば、間違いなく今日このときからです。それだけははっきり分かる。その深さや大きさは今はまだわからない。けれども、私は貴方の話を伺って、今の自分が置かれた状況だけはわかりました。そのことに深く感謝し、聡明で心優しい貴方からまだまだ沢山のお話を伺いたいと思い、そのためにできる限り貴方には長く生きて欲しいと心から願った。私も異国アルテアに辿り着いた貴方と同じように、今もまた職務のためあの恐ろしい方と邂逅するという困難に立ち向かわれているように、不意に見知らぬ土地に投げ出された気持ちです。大きな不安で胸が押しつぶされてしまいそう。でも、道だけは続いていて、そこには確かに今までの人生を送ってきた、過去を抱えた私が立っている。貴方が父に仕える大臣に過ぎず、私との婚姻が父に強要されてやむを得ないことなのか、それともきっかけはそうだとしても、いずれ私を貴方の亡き妻子の如く愛するようになるのか・・・私にはきちんと見極めるための時間が必要なのです。そして、亡き夫の存在がどれほどのものだったかを確かめる。そのこともまた私の使命と務めなのでしょう。王女ではなく、人として当たり前の務め、その務めが私を本当の私に立ち返らせてくれた」

「・・・・・・」

 アンは静かに立ち上がり、トワメルもまた静かに立ち上がった。アンが静かに手をかざすのに対して、トワメルは恭しく膝をつき頭を垂れた。

「シメンの王子、トワメル・ヒルム・ティグレーン。貴方に命じます。必ずもう一度私の前に立つと約束しなさい。そして話の続きをしましょう」

「御意。その御心に敵うよう精一杯努力致します」

 二人は言い交わし、誓いを立てるかのようにして抱き合い、熱い抱擁と口づけを交わした。


 このときの二人は知らない。この後待ち受けている更に困難で過酷な運命を。

 そして、彼ら二人がやがてアルテアの存亡を左右することになることを。

 ともあれ、こうして役者だけは揃った。

 我が父ベルイーニ・フリストベル。我が母ミーネ・フリストベル。

 我が愛する『おじさま』トワメル・ヒルム・ティグレーン・アルテニア公爵。

 おじさまがこの先の生涯最も深く愛し続けた女性アン・ヒルム・ティグレーン・アルテニア公爵夫人。

 おじさまを支えることになる盟友ヤーデ・シエストロ・ボンパール侯爵。

 そして、このときのおじさまにとって正式な名前さえうろ覚えという無口な少年従者ことベルクール・アンホルト・ラディアス騎士卿。

 アン夫人の忠実な僕で今はまだ女衛士の一人に過ぎないジャンヌ・モート・トラディス女騎士卿。

 皆が愛し護るべく行動するアルテアの困難に彼らは力を合わせて立ち向かっていくことになるのだった。そのためにどのような犠牲といかなる惨禍が待つのか、本当のことは誰も知らない。我が祖父で魔王リーアム・ポロニウスさえも・・・

 語り部として物語を紡ぐ、私以外には誰一人として・・・


 ただ、この時代を生きた人々にとって、はっきり知覚出来たことがある。

 それは、アン王女がトワメルの来訪の翌日から喪服をやめ、凜として毅然とした立ち居振る舞いを見せ始めたこと。公式行事に参加し、王族の務めを果たしていくこと。

 アン王女の心境の変化にティグレーン卿が果たした役割の大きさに感じ入り、二人のためならば命を捧げても構わないとジャンヌが決意し、ある任務に就くため職を辞したこと。

 そして、おじさまがうっかり手にしていたせいで皺くちゃになってしまった書類の束がそれぞれ珍しいこともあったものだと苦笑する官僚たちに処理されたこと。

 またおじさまの顔が険しさを日々増していきながらも、ある女性に手紙を届けることをいかに忙しい職務の最中でも忘れないようになるということ。

 その変化が意味するところは二人の他には私だけしか気づいていない。


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