序章2 おくびょうもののおう
「陛下、出陣のお支度が調っております」
『殿下』とは呼ばれず、『陛下』と呼ばれたことにヴェルミーは戸惑った。
「わかった」
王子であった時代と変わらず、老臣の言葉に応じたヴェルミーは自分が座っていた場所がかつて父王が座っていた玉座なのだと改めて実感した。
そして、軽く身震いした。
もう王子だった頃のように気軽な身分でもない。戦に負けても叱責と謹慎で許されたりはしない。
この国に自分より位の高い者はなく、後に続く者はもう誰もいない。
そもそも上に4人の兄がいた自分が王位につくことなどあり得ない話だと思っていた。
だが、皮肉にもその現実は目の前に広がっていた。もう、誰も後ろ盾になってくれる人間はいない。すっかり少なくなった家臣団を率いて合戦し、魔王に勝利しなければ400年続いた王家は滅亡する。不意に自分にのしかかった運命の重さにヴェルミーはいっそこれが夢かなにかであればと思わざるを得なかった。
なぜ、こんな事態になってしまったのだろう?
どこかの誰かが魔王の怒りを買った。
その結果、魔王は瞬く間に東方24カ国を灰燼に帰した。
メッテルナ河畔の会戦では各国から集った20万を超える大軍がただの一人も帰らなかった。その戦いで王国軍の精鋭騎士団を率いて参戦していた兄二人が戦死した。
戦死したことだけがわかっているだけでどのような戦いをし、どうして戦死したのか伝える者は皆無だった。
そもそもこれだけの力の差がありながら誰が戦いを挑もうとしたというのだ。挑発するにしても戦いを挑むにしても相手が悪すぎる。
そして、これだけの力がありながらリーアム・ポロニウスはなぜ今の今まで大人しく振る舞っていたというのだろう。
ヴェルミーが聞いていたのは東方の賢者リーアムの噂話だけだった。王国の宮廷魔術師が『我が師』は・・・と自慢げにその名を挙げていた。
いまやその者は牢獄の中にいる。かつての師に同調して国を裏切ることを警戒され、厳しい監視に置かれ魔法を使えないように手足を封じられていた。
不老不死、完全無欠。こと魔法を扱わせたら右に出る者は誰もいない。自在に移動し、魔術でありとあらゆるものを産み出す。だが、なにも欲さない。それゆえに賢者として名高かった。
賢者は狂ったのか・・・いや、本当に狂ってしまったのは我々の側かも知れない。
既に死者の数は甚大だ。魔王に屈して生き残るために王の首を差し出した者たちもいる。だが、王を騙し討ちにした家臣達も魔王の怒りに触れて惨殺されたという。
なにをしても無駄だという絶望的な空気が生き残るのに必要な情報さえも与えない。実際の戦いがどのようなものであったか、正確な報告もない。
せめて生還者が居れば良かった。
だが、噂が噂だけを呼び起こし、全軍全滅の地獄絵図という戦場跡だけが常に残っていた。その有様を見た人々が恐怖に駆られた。
魔王軍団の先頭には恐ろしげな悪魔がいるだとか、伝説の剣聖が魔王に味方してその先鋒役を担っているのだとか・・・
馬鹿馬鹿しいにもほどがあるとヴェルミーは内心怒鳴り散らしたい思いに駆られながら御前会議の様子に静かに聞き入る風を装うのはなによりの苦痛だった。
「私は戦いなど望んでいない。もはや私の他には女どもしか残っていない。それでどういう覚悟で、なにを守る為に戦いに臨めばいい?」
自分の他に誰もいない玉座の間でヴェルミーは思わず大声で怒鳴っていた。
「そんなに戦うのがイヤか」
誰だ?とは思わなかった。
なぜかヴェルミーにはその声の主がわかった。
「ああ、イヤだね。兄にも死んで欲しくなかった。父にもだ。王弟として王族外交官という体のいい人質として一生を異国の地で監視付きで過ごす方がよっぽどマシだ。場合によっては自分が死ぬことが祖国のためだと割り切ることも出来る。それにそうならないための最大限の努力を払うことだって出来る。わけのわからない戦いに巻き込まれて討ち死にするよりよっぽどマシだ。不肖の王子が400年続いた王家の最期の王になるだなんて・・・そもそも幼名のまま王の名さえも与えられない仮即位の私なんかが父祖の栄光を汚して良い筈なんてあるもんかっ」
玉座のカーテンからその男がすっと姿を現すのをヴェルミーは立ち上がって振り返り確認した。そして驚いた。
「・・・意外に若いのだな」
「若作りなだけだ。これでも1000年以上は生きている」
魔王リーアムが目の前に姿を現した。彼が彼本人であるとヴェルミーの直感が告げていた。
「なぜここに?」
「頼み事をしに来た」
「頼み事?」
「未だかつて誰もいないがね。どこの王族も即座にはねつけた。だから少々乱暴なやり方をせざるを得なかった」
「貴方の言う少々乱暴なやり方とは一方的な虐殺のことか!?」
「本当に私がそんなことを望んでいると思うのかい?ならなぜ自分の手で決着をつけようと思わない?“私は今ここにいる”というのに」
「笑わせるな、リーアム!!お前の力ならば私などたちどころに首と胴とを切り離すことが出来るだろうが」と言いさしてヴェルミーは違和感を感じた。
二人の間に一瞬の沈黙が過ぎっていく。
「私には貴方がそんな残酷な者には見えない。これでも私は武人だ。戦場に出たこともあるし、多くの敵兵を殺した兵士を見知っている。貴方には彼らにある特有の業が見えてこない」
「それでも人間ではないのだろう。お前は人間ではない。魔族を率いる『魔王』なのだと何処ででも言われてきたよ」
「その言葉に傷ついていることがなにより貴方もまたかつては人間だった証だろう?貴方はなにか伝えたいことがあってわざわざ危険を冒してここに来たように見える。それに酷く疲れてもいる」
立っていることもやっとというほどにリーアムは憔悴しきっていた。言葉の端々から疲労感がにじみ出ている。
「座れよ、魔王。そうしている貴方を誰も魔王だなんて思いもしないだろうさ」
「そいつは助かるな」
リーアムはぐったりと膝をつき、傍らに剣を置いた。斬りかかればあるいは討ち取れるという距離に魔王が片膝をついている。それでもそんな気にならなかった。かわりにカーテンの端に置かれた水差しの水をコップに注いで差し出した。
リーアムはそれを受け取り、喉を鳴らして一気に飲み干した。
「毒だとは思わないのか?」
「お前達の言う毒が私に毒だと思うのかい?それに美味かった」
口元を袖口で乱暴に拭き取り、うつろな眼差しを玉座の間の回廊に向けている。
「陛下、お支度は?」
「まだだ、しばし待て。今、重要な作戦会議の最中だ」
ヴェルミーの口からすらすらと嘘が並んだ。
「御意」
近衛の武官が扉越しにそう答えて下がる。それでいい。それで良かった。
「いいのか?」
リーアムの双眸はヴェルミーの様子を注意深く見つめていた。
「いいさ、多分この機を逃したら流血の事態は免れない。どんなとき、どんな相手にも対話が最優先する。それが私の信条だ」
リーアムの顔に驚いた表情が浮かぶ。そして、ヴェルミーの顔を見て少しだけ笑った。
「地上の王たちがお前のように聡明であればな。私も無益な真似をしないで済む」
「それで頼み事とは?」
「どうか我が軍の進路を妨げず領内の通過を許して欲しい。わずかにかすめるだけだ一昼夜で通過する」
「その見返りは?」
「なにもない。だが、なにも起きない。お前が嫌う戦も起きない。そして誰も死なない」
あまりにも単純明快な申し出だった。
ヴェルミーは思わず苦笑した。
「そんな簡単な取引に今までどこの誰も応じなかったのか」
「そうだ。最初の国が拒否し、後に続いた国は惰弱の汚名を嫌って頭からはねつけた。結果、夥しい血が流れた」
「馬鹿げている」
「そうだ馬鹿げている。私は合戦の素人だ。魔法使いではあったけれど今まで『戦い』というものに本気で臨んだこともない。東の塔で教師役をしていれば良かったのだからな。史書の編纂という道楽にうつつを抜かし、その傍らで多くの弟子たちを育てるだけで良かった」
リーアムはひどく疲れた遠い眼差しを彼方に向けて、何事かを思い返している様子だった。
「その合戦の素人とやらに負けて私の父や兄たちは惨めな屍を晒したのか!?」
「ああそうだ。合戦は合戦のプロに任せてある。だから彼らは誰にも恥じることのない強敵に屈して敗北したのだ」
ヴェルミーは唐突に理解した。この戦いを可能にしているリーアムのからくりがもしあのとき自分が想像したものと全く同じだったとしたら・・・。
そして、そのことと同時にこの男と戦う無益を悟った。
「以前、私はこの玉座の間で父王を前にして兄たちと20万の大軍と戦うための机上演習をやったことがある。兄たちはそれぞれ様々な戦略、軍略を語って父を喜ばせた。だが私には到底理解出来なかったことがある」
「ほう、それは?」
「果たして20万もの軍勢が軍勢として機能するのか。長丁場の戦いは出来ない。なぜなら、我が国程度の国なら20万人に一週間食わせるだけで国庫が空になる。それが一ヶ月も滞陣したら、一年分の収穫がパーだ。つまり、それだけ動員した時点で勝ち負け以前の深刻な問題が発生している。もし勝って占領した国に20万人に支払うに足る価値があるなら話は別だ。だが、そんなものがこの地上のどこにある。それこそ机上の空論だ。そう言った途端に隣に座っていた次兄から殴られたよ。お前は戦う前から戦いに背を向ける臆病者だと。そして、将軍の器が欠片もないとね」
そう語るとヴェルミーはクックと笑った。
「兄たちの言うとおりさ。だが、父だけは財政を任せられる器量はあると褒めてくれた。父が私を褒めたのは後にも先にもそのときだけだ」
「確かに。お前に将軍の器はないな。私にもそんなものはないがね」と言いつつもリーアムの眼が鋭く光る。「だが、将軍の器はなくてももっと恐ろしい才があるように見える。私がお前と腹蔵なく語りながらも決して警戒を緩めようとは思わないのは、お前が単に戦を嫌う惰弱な王ではなくもっと恐ろしい男だと警戒しているからだ」
その言葉にヴェルミーは小さく笑った。やはり魔王は魔王だ。恐るべき洞察力と胆力を備えている。だから皆この男に敗北を重ねたのだ。
「だがね、リーアム。か弱い私だからこそたった一つだけその大軍を打ち破る方法を思いついた。けれども、その方法は誰にも言ったことがない。王族としてはあまりに卑劣ととられかねない。だが、貴方と私は同類だ。勇気がないわけじゃない、戦が怖いわけでもない、ただ単に命を賭けて戦うに足るだけの理由が見出せないだけだ。無意味な戦いを勝って勇者と呼ばれることより、臆病者の誹りを受けてでも戦いを避ける方を選ぶ。そのために貴方の使ったカラクリが読めた。貴方が憔悴している訳も、本当は極力戦いを避けようとしてきたことも・・・」
ヴェルミーは真剣な眼差しでリーアムに向き直る。
「それでどうするのだ、王よ」
「そんなことは決まっている。お前の申し出を受ける。だが、私が惰弱ではない証も立ててみせよう。お前の眼力に狂いがなかったと、私には証明するだけの用意がある」
・・・そのわかい王さまはうまのせにまたがるとしずかにへいしたちを見まわしました。王国からかきあつめられた一万二千人のへいしたちはほとんどが年よりと少年とけがをしているへいしたちばかりでした。
わかい王さまは大きなこえで言いました。
「この中でけがをしているものと、年よりはいっぽ下がりなさい」
するとけがをしているへいしと年よりのへいしがわかい王さまのめいれいにしたがって下がりました。
「この中でつまと子どもがいるものと、しょうらいをやくそくしたこいびとがいるものはいっぽ下がりなさい」
するとおおくのへいしたちがいっぽさがりました。
「この中でわたしと同じようにきょうだいがせんししてほかにきょうだいが生きのこっていないものはいっぽさがりなさい」
するとまたおおくのへいしたちがいっぽ下がりました。
「この中でたたかったことがないもの、たたかいをきらうものはいっぽ下がりなさい」
こんどは少年のへいしたちがさがりました。一万二千人いたへいしたちはもう五百人ほどしかのこっていませんでした。
「この中でまおうとたたかってもへいきだというものいがいはいっぽ下がりなさい」
のこったへいしたちはおたがいにかおをみまわしてから半ぶんくらいが下がりました。
「それでは王としてめいれいする。いまいっぽ下がっているものたちはわたしが帰るまで、このしろと女たちをかならず守りなさい。前にのこったものたちはわたしに続き、わたしのめいれいにはかならずしたがうとちかいなさい」
へいしたちは王さまがつたえたかったことをようやくりかいしました。けれど、王さまのそっきんがたずねました。
「へいか、このように数が少ないへいしたちをつれて行ってどうするつもりなのですか?これではたたかいになりません」
するとわかい王さまは大きなこえでいいました。
「わたしはかならずこのしろに帰ってくる。そうやくそくする。だからお前たちはわたしがこのゆうしゃたちをつれてかえってくるのをまちなさい」
それだけいいのこして、わかい王さまはうまではしりだしました。二百人ほどのへいしたちがそれにつづきます。
ほかのものたちは王さまが出ていくのをみおくるとおしろのもんをしめて、それぞれみはりにつくなどしました。
しばらくうまではしってから王さまはとつぜん言いました。
「わたしはまおうのぐんぜいにきしゅうをかける。川をおよいでわたるのでよろいはおもいからぬぎなさい」
王さまはまずじぶんのきていたよろいをぬぎました。へいしたちもそれにしたがってよろいをぬぎました。王さまはへいしたちの中でいちばんつかれていそうなものたちにめいじました。
「おまえたちはここにのこってよろいがぬすまれないようにみはりなさい」
王さまはふたたびうまにまたがってはしりだしました。
またしばらくはしってから王さまはとつぜんいいました。
「きしゅうをかけるのに大きなぶきはじゃまになる。ゆみやもじゃまになる。だからここにおいていきなさい」
そして王さまはじぶんが手にしていたやりとうまのこしにつけていたゆみやをじめんにおきました。王さまはまたへいしたちのなかでいちばんつかれているものたちにめいじました。
「おまえたちはここにのこってだいじなぶきがぬすまれないようにみはりなさい」王さまはふたたびうまにまたがってはしりだしました。
王さまはくにのはずれの森にやってきました。へいしたちはみなしたぎすがたで剣だけをもっています。
王さまのめいれいでへいしたちみんなのしょくりょうはにぐるまにのせてもってきました。森をながれる川のほとりで王さまはへいしたちにじゅうぶん休むようにめいじました・・・
・・・そしてヴェルミー王は勇敢なる部下達とともに見た。
魔王リーアムの軍勢の真の姿を。
よろよろと疲れ切って力なく歩く魔王の軍勢。異形の悪魔や魔神、妖精族の戦士たち、小さくも勇敢な小鬼たち、大きな姿の巨人たち。空を舞う龍たち。そしてこれも大勢いる人間達。
魔王リーアムを奉じる多くの戦士たちが連戦の過程で傷を負い痛々しい姿になっていた。人間たちの中には老人や女子供も多くいた。だが、彼らは奴隷の扱いを受けてはいなかった。それどころか立って歩けない子供や老人たちは巨人の引く荷車の背に無言で揺られていた。
その中に立ち声をはげまして皆を叱咤しているヴェルミーには見慣れた姿の男の姿があった。
魔王リーアム。
リーアムはしばらくの間、ヴェルミー王の姿に気がつかなかった。それほどに疲れ切っていた。
ヴェルミーの率いていた兵士たちは最初は身構えたものの弓矢を射かけようにもすでにヴェルミーの命令で取り上げられていた。川を泳いでわたろうとすればすぐに彼らに気付かれてしまう。そのため物陰に身を隠してじっと様子を伺っていた。
ヴェルミーだけが平然と魔王の軍勢の隊列を見送るようにして立っている。突然ヴェルミーは隣にいた武官に告げた。
「あれを目にしてもまだお前達は彼らを憎いと思い、傷つき疲れ切っている彼らと戦いたいと思うか?」
誰もが言葉を失っていた。たとえ異形でもあんな惨めな姿で行進している者たちを襲う気になれなかった。手負いの彼らが死に物狂いで抵抗すれば人数では大きく劣る自分たちは簡単に潰されてしまうだろう。そして、戦う気のない相手にわざわざ戦を仕掛けた愚か者として死んでいくことになる。勇敢な兵士たちは勇敢であるがゆえに戦いを躊躇った。
若い一人の勇敢な騎士が進み出て王に告げた。
「戦いは無益です。彼らに停戦を申し入れ休息を与えるよう申し出ましょう。そして陛下が持って来るよう命じていた食糧と物資を彼らに提供してはいかがでしょうか」
別の一人がそれに同意した。
「あのように傷つき疲労している相手を見逃すことは恥でもなんでもありません。ですが、我らは選りすぐりの勇敢なる兵士です。あれらの敵軍を前にして荷車を押して浅瀬を渡り彼らに食糧を届けてみせましょう。それこそ真の武人の勇気と心意気というもの」
ヴェルミーはその言葉を待っていました。兵士達は王と彼らを代表する騎士の言葉に深く頷きました。
「その言やよし!それでこそ我が精鋭!私がまず馬で浅瀬を渡る。他のものたちは皆で協力して荷車を押して渡れ!」
彼ら兵士たちは自国を知り尽くしていました。特に国境に近い一帯は戦場になることを想定して訓練が行われることも多かったのです。王族として指揮官となるべく養育されたヴェルミーにしても同様でした。
ヴェルミーは剣を鞘ごと地面に突き立て、懐から取り出した白い布を森に生えていた手頃な小木にくくりつけ、それを手にして馬にまたがりました。
白旗を手にして現れた下着姿の騎士とその後に続いて浅瀬を押し渡ろうとしている兵士たちに魔王の軍勢もすぐに気がつきました。
小鬼達は警戒のため弓をつがえます。ですが、リーアムがそれを制しました。
「やめよ彼らに戦う意志はない。先頭の騎士が白旗を掲げている。誰か作業を助けてやれ」
人々を乗せた荷車を引いていた巨人が進み出て川に入りました。その巨体にヴェルミーの部下たちは動揺を隠せませんでした。ですが、すぐに意図を察して荷車を巨人に委ねました。巨人は注意深く荷車を受け取り自分たちの居る対岸に運び入れました。
騎乗して対岸に渡ったヴェルミーはうろんげな視線を向ける魔王軍の戦士たちの前に堂々と立ちはだかりました。
「我はこの国の王ヴェルミー!魔王リーアムとの約定に従い、そなたら軍勢の我が領内の通過を許可する。また約定とは別に我が好意により三日間領内に滞在する猶予を与える。その間、双方とも交戦を堅く禁ずる!荷車は手土産だ。好きにするがいい」
抑揚をつけたヴェルミーの高らかな宣言に両者の間に生じていた緊張が解けました。思わず涙を流す者、地上に膝をついて慈悲深き王にささやかな祈りを捧げる人間たちもいました。
またヴェルミーは続けました。
「見れば負傷している者も多い。心ある勇者たちよ!心あるならば我に続け!」
ヴェルミーは馬を下り、臆することなく率先して怪我をしている魔物たちに近づき、応急手当と治療を行いました。対岸に渡った兵士たちもそれに倣います。
魔王リーアムは軍勢の前に立ち、声を張り上げました。
「地上に名高きヴェルミー王の慈悲深き姿に我は感銘を受けた。彼らほどの勇気と慈悲を示した者はいまだかつてない。この者たちを決して傷つけてはならない。好意に感謝して彼らが提供してくれた食糧を皆に分け与えよ。そして可能な者は十分な休息をとるのだ。時間が惜しい。三日の間に軍を建て直し、この地に集結せよ。龍族、お前達は先行している者たちと後列にある者たちにこの旨を伝令せよ」
こうして三日間の停戦と魔王軍の駐留が認められました。また、ヴェルミーはそれらの一部始終を隣国の王にも伝えるよう早馬を立てました。
もちろん、戦いは起こることなく、三日の猶予の後にヴェルミーたちに見送られてリーアムとその軍勢は国境を越えて行きました。そして、ヴェルミーに率いられていた二百名余りの勇者たちは誰一人として欠けることなく王都への凱旋を果たし、やがて彼らを中心にして王国騎士団が再建されたのでした。
隣国の王もまた魔王の軍勢が襲来することに内心怯えていました。ヴェルミーの行為は数多の犠牲を払った国々にしてみれば人類全体への裏切りにも等しい行為でした。ですが、彼が僅かな兵士たちと共にその先頭に立って臆せず行動したことを卑怯だ、惰弱だと誹る者はいませんでした。
圧倒的な数の軍勢に丸腰同然で立ち向かった彼の行動は勇敢そのものでしたし、その行いはなにより慈悲深く、多くの者たちの心を打ちました。
約束を守るだけでなく、約束以上の好意を示す。
隣国とそのまた隣国。更にその先にあった国々もヴェルミーの例に倣いました。若きヴェルミー王の行為は誇り高き騎士道の手本として賞賛され、彼の物語は形を変え教訓譚として大陸諸国の伝説になりました。
幼名のまま国王になり、その高名が故に、ヴェルミーの行いに倣って生き残った各国の王が招かれる中、華々しく戴冠式を執り行ったヴェルミーは終生幼名の王として彼を慕い敬愛する国民の上に君臨し続けたのでした。
そしてヴェルミー王は戦乱で荒れ果てた祖国を建て直しただけでなく、すでに王なき国となっていた地域からの求めに応じて版図を拡大し、魔王戦争から人類が再起する中心となったのでした。父祖たちの伝統をそれ以上のものに変え、王家の輝かしい歴史に華を添え、年老いて子や孫に見送られ、その死を惜しまれながら、命を閉じたのでした。
「おくびょうもののおう」という物語は「真の勇者は誰も傷つけない」、「深き慈悲の心こそが人の上に立つ真の王」という教訓として、数世紀を経て子供たちに語り継がれることになったのでした。
・・・・
トワメルは目を醒ました。すでに朝の光が眩しく差し込んでいる。椅子に座ったまま眠りに落ちた彼のために毛布がかけられていた。ベルイーニとミーネ、そしてアニとディアら子供たちの姿もなかった。
ただ、一冊の童話集が彼の前に置かれていた。ベルイーニが手にして朗読していたものだ。
トワメルは慌ててその頁をめくった。「まおうのいかり」と「おくびょうもののおう」の話は確かにその童話集に収録されていた。だが、「おくびょうもののおう」ことヴェルミーの名はそこに記されていなかった。
また、ヴェルミーがリーアムと会見したやりとりも劇中には描かれていない。別の形で描かれ収録されていた。
それどころか夢の中での出来事でヴェルミーがリーアムにも語らなかった二十万の大軍を打ち破る方法をトワメルはなぜだか知っていた。
慈悲深き王としてその名を歴史に刻んだヴェルミー。
彼は同時に極めて聡明かつ軍事に精通した策謀家だった。だが、彼はその才能を埋もれさせたまま「賢王」としての生を終えたのだ。
知らない筈の名と知らない筈の記憶・・・残念ながらトワメルのかつての祖国シメンにはこのような童話集はなかった。「おくびょうもののおう」の逸話はなにかの機会に耳にしたことがある。
それでも当然名前は出て来なかったし、武人譚の一節として物語られたのを耳にしただけだった。そこで深い感銘を受けた記憶もなく、奇特で聡明な男がいたのだなとしか思わなかった。そして所詮は伝説で事実とは異なるだろうという印象を抱いた。
だが、トワメルの脳裏にははっきりと若作りの魔王リーアムの疲れた様、彼が彼を奉じて集まった魔族の大軍に対する稟とした態度。
それ以上にヴェルミー“だった”自分の記憶がその口から放たれた力強い言葉が、夢から醒めた後になっても確かな記憶としてはっきりと残っていた。
不意に遠き、失われた過去への郷愁が胸をついた。皮肉な話だ。
もしそれが『前世』だというのならばまたしてもトワメルは王族の末席で決断を迫られる立場に居ることになる。
ベルイーニ宅で一夜を過ごしたトワメルはその当日も出仕し、政務を終えて自宅への帰途についた。帰りがけに書店に立ち寄り、ベルイーニの所有する童話集と同じ内容の物を手に入れた。その際に少しだけ気になったのはベルイーニの所有している童話集は相当古い版だということだ。
(娘に読み聞かせる童話集が年代物の古書とは・・・)
大学者とはいえアイツも相当変わり者だなぁとトワメルは暢気に思った。
婚姻の話に動揺や躊躇はもうなかった。なにか憑き物が落ちてしまったかのようにトワメルが心を乱されることはなくなっていた。
思い返してみても、出来る限りの最善の策を行うにあたり“それ”が必要というだけの話だった。
自宅に戻ったトワメルはシメン人の家臣たちを一人残らず集めた上で、婚儀の意味を諭すように話して聞かせた。
一族の掟に反することになるトワメルの身に悔し涙や、動揺を見せる家臣たち。むしろ、トワメルは彼らを宥める側に回った。
「私は私個人の名誉とシメンの掟よりもお前達『大切な家族』の平穏と安定を大事にしたいと思うのだ。今の暮らしぶりに不満を持っている者、掟破りの不名誉な私に仕えるのを嫌うものは今すぐ立ち去っても構わない。だが、私の決断を受け入れてくれる者は同族に対する汚名と屈辱に共に耐えて欲しい。最早、私はアルテアの大臣であり、いずれ王族の列に並ぶことになる。残った者には今以上の暮らしを約束したい」
そう穏やかに語ったトワメルにもう誰も異を唱えたりはしなかった。泣き濡れた者も、常日頃トワメルに仕える少年従者も、かつてあてのない放浪を余儀なくされた惨めな境遇に戻りたいと思う者は誰一人としていなかった。
名誉のためにアルテアを退去するには既にこの地に深く根ざし、家族を弔う墓を持つ者やこの地の人間と婚姻した者。家族を養うため職を持つ者、事業を起こして一定の成功をおさめている者など、離れられないそれぞれの理由を持つ者が圧倒的に多かったからだった。
そして、アルテアの客人として病弱な夫に嫁いだあまりに若くして未亡人になったアン王女に同情を寄せる女たちも少なくなかった。
「王族の列に加われば、今も流浪の苦しみ、よそ者としての惨めな境遇に置かれたシメンの民を呼び寄せて、この国で穏やかに暮らせるよう取りはからうことも出来る。各地に居る兄妹達、親族たちも我が名の下に保護することが出来る。シメンの誇りはそれを誇りとしてその胸の内に抱き続ける者が一人でも居続ける限り、未来永劫続いていくのだ。また艱難辛苦を乗り越え、滅びの空しさや憂き目に遭ってでも国を再興しようとは思わない。もとより我ら一族は我らだけの国を持つには少々力不足だったのだ。一部族としてアルテアと共に在ることに異存も矛盾もない。父祖たちも草原を遊牧する民としてその地を治める王に貢ぎ物と女達を差し出して生き長らえてきたのだ。私は朝貢のみならず、この国の一員として大臣や王族としての職務と使命をも果たす。これより私の言う我が祖国とは滅び去ったシメン王国ではなく、このアルテア一国だ。だが、掟に背いてもシメンの一族としての誇りは一生涯守り続ける。それではいけないだろうか?」
「いえ、王子の大恩、この国に受けた大恩に進んで背くつもりは毛頭ありません。我らもアルテアを祖国としてこの国に暮らす他の民とも協調して盛り立てることに異存はありません」
最も年長の家臣がそう告げる。
「異議無し」
「異議無し」
一人も欠けることなく他の者たちも唱和した。
「ありがとう。私は公務のためしばらく都を離れる。お前達の中で可能な者は各国に居る縁者に我が決意とアルテア移住の意志を問うように取り計らって欲しい」
「御意」
一同は声を揃えた。
「では殿下、今宵は婚儀を祝うささやかな宴を用意致します」
老臣の言葉に従い、彼らはそれぞれ忙しく散って行った。
異郷の地で一族の掟に背いて「家族」を守った王子と、人類に敵対する魔王と和して国を滅亡から守り世界再建に全力を尽くした王・・・。
つくづく因果な運命に身を置いたものだとトワメルは静かに嗤うのだった。
続く
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