第10話
あぁダメだ、ドキドキする。
仲間を求めて、イライザはジョジョを見たが、ジョジョは興味深そうに辺りを見渡している。
裏切り者!余計緊張するわ!
自分だけがヘタレのようで情けない。
フォレストの空気は冷えていた。
コツコツ靴音を鳴らして歩く冬の早朝のようで気持ちがいい。
ドラゴンが羽を休めるためか、木々はどれも巨大だ。
樹齢100年を超える樹木はオリビアでも珍しくないが、フォレストを形作っている木々は、それを遥かに上回る巨大樹と言えるだろう。人の手は入っていないけれど、かといって荒れ放題でもない、美しい原始の森。
朽ちた小枝や枯葉が、時折パラパラと降ってくるが、何者かのせいか、自然に落ちたのかは、いくら見上げても判らない。
さらに驚くべきは水脈の多さだ。
そこらじゅうから水が沸き出ている。
「ブルーフォレストに蒼き瞳のドラゴンあり。水を司る彼のフォレストは、澄んだ水と静謐な空気流るる美しき森。巨大樹が落とす葉や木の実が浮き溜まることも無く、穏やかな水面は深く蒼く澄み渡る。本で読んだ通りだぞ!」
嬉しそうに叫んだフィリップは湧き水に駆け寄ると、マグに汲んで渡してくれた。自分は手でごくごく飲んでいる。
顔を近づけただけで冷気を感じる湧き水は、口に含むと、冷たい矢となって胃へ駆ける。
「おいしい!」
身体の中に神気が広がって、浄化されていくようだ。
ジョジョも尾をくるんと巻いて、美味しそうに飲んでいる。
「フォレストはそれ自体に癒しの力を持っているとされるけど、ここの水は飲んだり浸かったりすることでも、身体や心の傷を癒すと言われているんだ。ゲルクルがいつもいる沢の水は、なんと不老不死の効力があるらしい。あ、内緒な。」
また機密事項を喋ったフィリップは、もう忘れたとばかりに、ジャブジャブ顔を洗い出し、ぷひょ~と喜んでいる。
「父さんはすぐ喋っちゃうから駄目ね。」
「うむ。じいさんにもよく言われる。けど誰にでもじゃないぞ。イライザには正しい眼があると思う。だからもし誰かが悪意を持ってこの森を侵そうとしたなら、その時は父さんたちと一緒に守って欲しいんだ。」
新緑の木々が生い茂る谷間。
階段のような緩やかな傾斜に泉が並び、蒼く澄んだ水は、小さな飛沫を上げながら下流へと流れる。
イライザは、この美しい森が侵略者たちに荒され、壊される様子を想像して身震いした。
グー。
ジョジョが勇ましい。
「さすが男の子ね、ジョジョは怖くないみたい。もちろん私も出来ることなら何だってやるわ。」
何が出来るか解らないけれど、そんなことは絶対あってはならない、ってことは解るもの。
ただ。神の森と教え込まれて育ったぶん、やっぱり怖いのだ。
イライザは小声で聞いてみる。
「父さんは、まさかゲルクルにも会ったことがあるの?」
「いいや、残念ながら。いいやつだとよいけど。」
全くうちのお父さんときたら、本当にバチあたりなんだから!
勝手に入って怒られたりしないか、私なんかまだびくびくしているっていうのに!
「どうせ入ったことはバレてるしな。しつこいけどむやみに枝を折ったりしちゃだめだぞ。すぐに配下が襲ってくる。」
「うっ・・・わかった!」
祖父とノーランの話が脳裏をよぎる。
思わず身を引いたイライザは、足元でパキンと小枝が折れる乾いた音に飛び上がった。
「ひぃぃぃ!ごめんなさい!ごめんなさい!」
「イライザ。それはただの枯れ枝さ。落ち着きなさい。」
フィリップは緊張をほぐすように伸びをすると呟いた。
「こりゃ、少し驚かせすぎたかな。」
ピクリュックからタオルを取り出して顔を拭くと、辺りを見渡して満足そうに微笑む。
「だいじょうぶ。僕たちがこの森を、凄いなぁ、綺麗だなぁって感動してることも伝わってるさ。イライザもそう思うだろう?この森、とってもいい感じじゃないかい?」
言われるまま巨大樹に耳を当て目を閉じると、足元に張った根が、ゆっくりと水を吸う音が聞こえた気がした。
「そうね。少なくとも私は好きだわこの森。嫌な感じも、嫌われている感じもしない。」
フィリップはにっこり頷く。
「とにかく進んでみよう。」
奥には滝があるのだろうか。ざぁざぁと水の音が聞こえる。
目の前にある泉は、高い透明度を持って深みへ続いているようだが、手前の方は比較的浅いようで、水鳥が数羽、すいすいと泳いだり、熱心に羽の手入れをしていた。
深さが足首辺りの浅瀬では、今はカモが1羽、せっせと首とおしりを左右に振って、底に生えている苔をむしりとりながら、ぺたぺたと前進運動を続けている。
一定の速度で規則正しく進んでいくので、「イッチニイッチニ」と掛け声をかけてやりたくなる。
鴨を応援しながら進んでいたフィリップは、ふと足を止めた。
「ん?」
滑らかな水面から10センチほど顔を出した一本の細い筒が、泉の外周に沿って静かな波紋を引きながら、ゆっくりこちらへ進んでくる。
しゃがみこんで覗き込むと、細い筒は水中深くへと伸び、仔猫が乗った自転車へと繋がっていた。
シャボン玉のような球体に覆われたそれは、自転車と荷車が一体になった作りで、後部では丸に「吉」と白で抜かれた藍色の旗が、仔猫のこぎに合わせて揺れている。
フィリップは筒が目の前にやってくると、何を思ったかちょん。と指を当ててみた。
筒は止まり、水中の自転車も歩みを止める。
水面下の仔猫は何が起こったのか解らないようで、短い足を必死に踏ん張ってペダルをこいでいる。
筒に当てた指が、ちゅっ。と吸い込まれた。
「おぉぉ!?イライザ!早く早く!」
テンションが上がったフィリップがイライザを呼んだのとほぼ同時。
ざばり。
水面を割って、仔猫の乗った自転車が浮かび上がってきた。
「ちょっと!何してくれてんですか!」
プリプリしながら浮かび上がってきたのは、藍色の頭巾を被った茶トラ模様の仔猫だった。
「せっかくいい調子で進んでいたのに!竹筒ふさいじゃだめですよ!」
自転車に跨ったままぷんぷん怒っているが、短い手足も含めて可愛さが勝る。
「やぁ、ごめんごめん!水中を進む自転車なんて始めて見たものだから!」
フィリップが謝りながら、仔猫の顎の辺りを撫でてやると、
「全くもう。だめで・・す・・・にゃん。」
チビ猫は気持ち良さそうに、ごろごろ喉を鳴らし始めた。
動物と仲良くなることに関して右に出るものはいない。
仔猫など、正に赤子の手をひねるがごとしだ。
しかしすぐに我に返った仔猫は、
「あ!配達に遅れてしまいます!すみませぬが、ちょっと押してもらっていいですか?」
と声をかけてきた。
「うんいいよ。押し込めばいいのかい?」
「えぇ、そうなのです。潜るまでが一苦労で。」
フィリップが力を加えてやると自転車は、ちゃぷんと小さな水音をたてて水中へ沈んだ。
「かたじけない。では先を急ぎますので失礼いたします。」
丁寧にお辞儀をした仔猫は、キコキコとペダルをこいで行ってしまった。
「・・・何配達するのかしら。」
ぽかんと見つめるだけだったイライサが呟く。
「もっと話したかったな~。」
フィリップは、仔猫が消えていった水中をしばらく覗き込んでいた。
傍らでは、泉の側や巨大樹の根元にたくさん生えた苔たちが、温かい日差しを受け、気持ちよさそうに首を伸ばして、ポフポフと胞子を飛ばしている。気分に任せて進んでいくと、さっきまで視界を埋めていた木々が途切れた。
「おぉ!こんなところもあるんだ!」
「綺麗ね・・・!」
そこは、無数の泉が点在する空間だった。
大小様々な丸い泉は、周囲を滑らかな石で丁寧に囲ってある。明らかに誰かの手によるものだ。
頭上を覆う木々が少ない。泉には柔らかな陽の光がたくさん差し込んで、水面はきらきらと揺れていた。
「何かいるのかな?」
「大丈夫?小さいドラゴンのプールかも知れないわよ!」
「なら余計に見たいよ。」
フィリップは笑うと、一番近くの泉を覗き込んで、
「うわぁ!こいつは驚いた!」
と嬉しそうに声を上げた。
「いいから来てごらん!怖くないから!」
「なぁに?何かいるの?」
イライザは、こわごわ歩み寄って覗き込む。
ゆらり ゆうらり
その泉には、透明度の高い澄んだ水に身を任せて、小さな紅い魚が泳いでいた。
「わぁ、綺麗ね!」
イライザはフォレストにいることも忘れ、膝をついてゆらゆら泳ぐ魚たちを眺める。
「見てジョジョ。真っ赤なお魚がたくさんいるわ。」
ぱっ。とジョジョの身体が赤くなった。
「あら。きれいだけど負けてるわよ。なんだか切なくて儚い紅じゃない?ほら、あっちも見てみましょうよ。」
フィリップは既に次の泉を覗き込んでいる。
「どうやら品種ごとに分けているようだね。」
こちらの魚は白い身体に長い吹流しの尾を揺らめかせている。
「こっちは顔がもりもりしてて、小太りでかわいい。」
イライザが微笑んだ。
「おしりをフリフリして泳いでる。」
どの泉の魚も、決して泳ぎは速くないようだ。
この子なんて一生懸命泳いでいる風に見える。
「わぉ、目が飛び出てて珍妙だ。白地に少しの赤、尾びれは長くて、目元にはまだらに黒が入っている。イライザたちも見てごらんよ。これはジョジョでも真似できないぞ!」
フィリップは次々と新たな泉を覗き込んでいる。
「色んな種類がいるんだね。あぁ、図書館へ行って図鑑を持ってもう一度来たいなぁ。」
「ちょっと父さん。またよからぬことを企んでるんじゃないでしょうね!?」
「だって知りたいじゃないか。なんて名前なんだろう?」
目が輝いてる!図鑑持ってまた来るつもりだわ!
よく見張っとかなきゃ。どっちが子供だかわかりゃしない!
時間をかけて全ての泉を鑑賞し、一行はその場を離れた。
『見せてくれてありがとう、また案内しておくれ。』
フィリップが心で声をかけ、応えるように木の葉が揺れていたことに、イライザとジョジョは気付いていなかった。
「さっきも言ったけど、私はこの森が好きだわ。やっぱり嫌な感じも嫌われている感じもしない。ジョジョもそうでしょう?けど正直、ノーランがいる気配もしないわ。父さんはこんな大きな森でいったいどうやってノーランを探すつもりなの?」
「案内してもらうのさ。心を開いて通じ合うことができれば、必ず案内してくれる。」
通じあって森に案内してもらうねぇ・・・。
胸を張るフィリップほど夢みがちではない。
半信半疑のまま歩いていたイライザは、ふと顔を上げた。
「ねぇ、何か聞こえない?」
風か木の葉か、水音に紛れて聞き取りにくいけど・・・。
フィリップも、じっと神経を澄ませた。
ジョジョも真似をしている。
イライザは目を閉じて、さらに神経を集中させてみた。
ここからもっと奥深く、更に分け入った辺りから、さざなみのように何かが心に訴えてくる。
集中すればするほど、その声ははっきりと聞こえ始める。
・・ド・・・ワード・・・。
「やっぱり声がするわ。父さん、こっちよ。」
先導するように、イライザはさらに奥へと踏み込んだ。
その頃。
フォレストの外を見回るように歩いていた若者は足を止めた。
茂みに3本刺さった小枝を見つけたフランは、
「来たか。」
と呟いて空を仰ぐ。
視線の先で小さなつむじ風が生まれた。
ふわりと広がったつむじ風は、地面へ向けゆっくりと上空から森を包んでゆくと、終いには下草を揺らす程度のそよ風へと姿を変える。
「これでしばらくは気づかれまい。」
ただし油断は禁物だ。
やって来たのは恐らくフィリップだ。エドワードではあるまい。フィリップは時に、想像も付かないようなことを平気でやってのける。
こんな薄い結界では隠しきれないような突拍子もないことを。
フードをかぶりなおし、フランは腰を下ろした。
全てが終わるまで見届けてから行こう。
さらに前。
フォレストの主ゲルクルは、顔をしかめて空を見上げた。
どうやらまた誰か入ってきたらしい。
今は彼が作った泉の間にいるようだ。
泉の間はゲルクルの趣味の空間で、たくさんの金魚がいる。
その昔。いつものように天空を飛翔していたゲルクルは、界下で一人の男が金魚を育てている様子に目を留めた。
いくつものブロックに仕切られた、堀のような囲い。
白、赤、斑。様々な色形の金魚が泳いでいる。
ドラゴンは桁外れに視力がいいので、遥か先の羽虫をその目に捉えることが出来る。
額に汗して金魚の世話をする男から決してゲルクルの姿は見えないが、ゲルクルには男の手元やゆらゆら泳ぐ金魚の姿まで、はっきり見えていた。
興味を覚えしばらく空中にとどまって観察していると、いろいろなことが解ってきた。
まず、囲いには、同じ種類の金魚が入れられていること。
そのどれもが色艶やかで優雅で、なんとも言えず美しいこと。
紅白の更紗模様、赤青黒のまだら紋。
透明のうろこに、白地に少しの赤とまだらに入る黒。
白は白でも青みがかった白や、文字通りの真白。
赤でもはっきりした赤や、オレンジが強い赤。
身体も丸いものや細いもの。尾も様々。
ぽってりした身体に短い尾、同じような丸い身体でも長い尾をゆらゆらと優雅になびかせたもの。
赤ひとつ取っても濃い赤、刷毛で掃いたような淡い赤など千差万別で、どの固体も個性があり一様に美しい。
すっかり心を奪われたゲルクルは、透明な水が揺らめく様子をあきもせずに眺めていた。
それからというもの。
ゲルクルは幾度となくそこを訪れ、ゆらゆら泳ぐ金魚を天空から眺めるのを楽しみにするようになったのである。
そんなある日。
いつものようにフォレストの泉を見回っていたゲルクルの視界を、紅く掠めるものがあった。
近づいてみると、なんとそれは一匹の小さな金魚だった。
驚いたゲルクルはどうしたものかと思案したが、小さな泉を出現させ、そっと金魚を移してやったのである。
彼がそうしなければ、金魚はすぐに別の魚に食われただろう。
その日から、ゲルクルはこの泉を気にかけ、いつしか熱心に世話をするようになった。
下界の男をずっと見ていたから、見よう見まねではあったが、やり方は心得ていた。
強い光が苦手なようだったので、日差しの強い夏場には側の木々たちに命じて、泉の上に枝を伸ばして日陰を作らせた。
水が汚れないよう新しいものを循環させるのは、自分の得意とするところだった。
前にも増して男の元へ通い、熱心に観察するようになった。
男が水草を植えるのを見ると、自分の泉にも似たような草を出現させたし、うまく行かないときは取り寄せてみたりもした。
ゆらゆら揺れる水草の周りを、金魚たちが気持ち良さそうに泳いでいるのを見ると、ゲルクルは自分のことのように喜んだ。そうして、いつしか一つ二つと泉が増え、今の状態になったのである。
その金魚の泉に、新たな侵入者はいるようだ。
ひとつひとつ巡っては、彼が丹精込めて育てた金魚たちを、飽きもせずに笑顔で眺めている。
金魚たちも落ち着いているようだし、悪質な者ならば森の木々がそこまでたどり着かせることはなかっただろう。
すぐさま報告が入るはずだ。
それがないということは、害の無い者達なのだろう。
何故、木々たちが彼らを金魚の泉へ導いたのかゲルクルには解らなかったが、取り合えずこちらも放っておいて、別の気配へ意識を向けることにする。
全く。ここ数日の騒がしさはなんなのだ?
理由は判らないが、風渡りまでもが森の外に来て、森を覆うように結界を張っている。
外に潜む者の目をくらませて、金魚の泉にいる侵入者の手助けをしようとしているらしい。
静かな私の楽園がざわついて不愉快だ。
ここへきて何かが小さく警笛を鳴らし始めている。
ちゃぷん。
水音がして、泉の中から三又の槍を持った人魚が現れた。
解っている。というようにゲルクルは頷くと、警戒を強めるよう首を振った。
主の指示を受けた人魚が身を翻し、すばやく水中へ消える。
人魚たちは、自分と変わらないスピードで泳ぐことが出来る。
水路から水路へ、瞬く間に命令は伝わるだろう。
彼らの持つ、先が三つに分かれた槍は、ゲルクルの鱗を削って出来ている。
剣を交え打ち合ったところで、欠けることなど有り得ない。
鋼の鎧をも貫き通し、一撃で相手に致命傷を与えるだろう。
この森に住まう者たちのためにも、出来ることなら自分は姿を現さない方がよいとゲルクルは考えていた。
この森は自分そのものといってもよい。
万が一自分が倒れるようなことがあれば、一瞬で全てが朽ち果てるだろう。
ゲルクルは自身の強大な力を使って、自分を慕うものたちを影から護ってきた。
水を鉄砲玉のように使って攻撃したり、森の木々で相手を翻弄したりすることは、住人たちには訳は無い。
それでもどうにもならないような事態に陥ったときだけ、ゲルクルは瞬時に相手の前に躍り出るつもりでいた。
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