第9話

 グリューナーの低い唸り声で、ビリビリと木葉が振動した。

しかしフィリップは恐れることもめげることもなく、初めて会ったドラゴンを興味津々で観察し始める。

どうやら怪我をしているらしい。

「そのせいで警戒してるんだと思って。」

真顔で言っているが、グリューナーが警戒心をあらわにしたのは、まず間違いなく父本人だろう。

今でこれなのだ。幼少期など怪獣である。

目を輝かせて迫ったであろう姿が容易に想像出来て、イライザは心からグリューナーを不憫に思った。

可哀想に。どんなにか怖かったろう・・・。

傷ついた若いドラゴンに、フィリップは偶然持っていた軟膏を塗ってやろうとした。

警戒心を露わにしたドラゴンは、寄せ付けようともしない。

「首を怪我してたから薬を塗ってあげようと思ったんだけど、触るどころか、近づかせてもくれないんだ。威嚇して吼えるたびに傷口から血が滲む。オリビア梨の種から出来た軟膏は傷に良く効くんだけど、この森にはないものだから、信用してないのかも知れないと思って。」

やっぱり信用されてなかったのね、父さん・・・。

「さて。そろそろ先へ進もうか。話の続きは歩きながら。ごくろうさまセルフィム。おいで。」

火箱を差し出すと、眠そうなセルフィムは素直に入っていく。

イライザもパンパンとおしりをはらって立ちあがる。

ジョジョを肩に乗せ、もう一度家計図を眺めた。

この片翼の騎士ノーランを探しに行くのだ。

それがおじいちゃんの親友で、しかも王族だなんて!

手早く片づけをして立ち上がると、フィリップはイライザを促して洞窟を後にし、先へと進みながら続きを語った。


「で、急いで戻ってね。図書館へ行って薬草の辞典を探すと、両手に抱えてフォレストに引き返したんだ。

 不思議なことに、重くてゴリゴリ引きずっていたような本が、ひとたびフォレストに足を踏み入れると羽のように軽くなる。見えない誰かが手伝ってくれてる。森のみんながグリューナーを救ってほしいと思ってるんだ!そう思った僕は、大きな本を抱えて必死で歩いた。」

戻ってみるとグリューナーは再びうなり声を上げたが、父は相手にせず、近くの切り株に腰掛けて、抱えてきた本を一心に読み始めたらしい。そして湿気の多い森に生えるという薬草のページを見つけると、グリューナーに見せた。

「ねぇこれ見て。傷に効く薬草だよ。こんなのここにない?」

プイと顔を背けるグリューナーの代わりに、木々や草花が応えた。

おずおずと前へ進み出る薬草。

まだ幼い父の目線まで、実のついた枝をしならせる木々たち。

そうして薬となる草や実をいくつか集めると、背負ってきたリュックの中からすり鉢の実の殻を取り出して、父はドラゴンの前で軟膏を作ったのだという。

「硬い種なんかは、子供だった僕には潰せなくてねぇ。殻を割って中の種を取り出そうとしても、つるつる滑るばっかりで・・・。四苦八苦してると、転がった実をリスが拾ってかじりだした。思わず、食べちゃダメだよ!って叫んだんだけど、なんとかじり割ると返してくれたんだ。そして、両手が汚れて困ってる僕の代わりに、そっとウサギがページをめくってくれた。びっくりして周りをみると、いつの間にかたくさんの生き物達が集まっている。少し離れたところからそっと僕の様子を見ていたんだね。薬草たちがすぐに目の前にやって来たのもきっと彼らのおかげだ。

横たわったグリューナーの背にも小鳥が止まっている。みんな彼の事が大好きなんだと思うとがぜん力が湧いてきて、僕は本を頼りに必死で薬を作った。

一生懸命薬を作り終えて顔を上げると、綺麗な若葉色の瞳がこちらを見つめていた。また威嚇されるかと思いながらも、声に驚いて落とさないよう、薬の入った器を抱えて近寄った。

背伸びして差し出して見せると、グリューナーは軟膏ではなくピコの実で赤く染まった手をじっと見つめ、そっと首をもたげて傷口を差し出してくれたんだ。」

それからというもの、父は毎日のようにフォレストへ通うようになったらしい。もちろん誰にも内緒で。傷の様子を見るという名目があったものの、本心はグリューナーに魅せられて。

「言葉は通じなかったけど、そばに居てもいい気がしたから。」

いかにも父らしい、なんというか、まぁいつもの力業である。


 森の木々も、フィリップの話を聞いているような気がする。

続きを促すように、ひらひらと木の葉が舞い落ちてきた。

地面には落ち葉がたくさん積もっていて、歩くたびにかさこそ心地よい音がする。

葉の影から覗く木の実。虫食いが多い。

リスがお構いなしに、せっせと拾い集めてはどこかへ走り去っていく。不思議そうなジョジョにイライザは微笑んだ。

「もしかしたら、中の虫がお目当てなのかも知れないね。」


「そうだ、フォレストの神はそれぞれ護るものが違うんでしょ?グリューナーは何を護ってるの?」

フィリップは指を4本立てた。

「オリビアの近くにあるフォレストは4つだ。北は、じいさんが入ったブラックフォレスト。エフゲニーと呼ばれる暗黒の瞳を持ったブラックドラゴンの支配する森。光も差さず緑もない、朽ちた木々と湿った大地の続く不毛な暗い森。

東には赤い瞳のレッドドラゴン、ジャニック。炎を自在に操り命を激しく燃やす力があるとされ、パワー溢れる赤の森を支配している。逆鱗に触れた者は丸焼きにされるらしい。レッドフォレストには、火の鳥や炎の精、炎獣なんかがたくさん住んでいるといわれている。

そして南に位置するのがグリーンフォレスト。グリューナーという名の、緑の瞳のグリーンドラゴンがいる。命を育む力を持つとされる彼が支配するのは、生命力豊かな緑の森。僕がいくら歩いてもちっとも疲れなかったのも、そのせいだと思う。あと、グリューナーは雨が大好きなんだ。雨を自在に操ることが出来て、それも命を育む力なんだ。」

「雨?あぁ、だからいつもグリーンフォレストには雨が降っているのね!」

「そう!僕が行くと、グリューナーは気持ちよさそうに空を見上げててね。そんな時は決まって、フォレストには優しい雨が降ってた。大きな葉っぱから、まあるい水滴がぽたぽた落ちて、杉苔の絨毯を優しく濡らしている。細かい霧雨はグリューナーの体にも降り注いで、オリーブ色の羽が際立っていた。

だから僕はある日、雨の図鑑を持ってったんだ。」

「雨の図鑑?」

「そう。遠い西国に、四季を大切にする人たちが住んでいる。その国では季節や自然は言葉を持ち、雨や風、空を流れる雲ひとつにもたくさんの名前があって、自然を慈しみ敬いながら暮らしているそうだ。そこで生まれた雨の図鑑には、雨に関することがたくさん載っていてね。

細かい雨・強い雨・弱い雨に夏の雨。

雨の図鑑はページごとに名前と説明がついてて、めくるたびに、目の前に色んな雨が出現するのさ。

ある日僕は、その本を抱えてグリーンフォレストへ入った。

フォレストはどこもかしこも居心地がいいから、本来はグリューナーの居場所なんて判らない。傷が治った後は尚更さ。

それでも、彼のことを思いながら重い図鑑を抱えて一生懸命歩いていくと、何故か決まってグリューナーが丸まっているところにたどり着く。グリューナーは最初とても不思議そうだったよ。何故ばれたんだろう?って顔してた。だけど、図鑑を抱えながら息を切らして立っている僕の傍にいかにもな感じで切り株が出現したのを見ると、全て悟ったように辺りを見渡して、


ロンロン


と鈴のような綺麗な声で鳴いた。笑ってるようだった。

その時僕も初めて気づいたんだ。実は森のみんなが僕をグリューナーのところまで案内してくれてたんだって。

やっぱり、森の住人たちはみんなグリューナーのことが大好きなんだよ。

そして僕は切り株の椅子に座って分厚い本を開くと、彼が降らせている雨を探そうとしたんだ。

ぱらぱらと雨が降っては止んでいたら、

「これは時雨って言うんだって。」

「五月雨とか、山茶花雨とか、色々な名前があるんだよ。」

「グリューナーがいつも降らせている雨は、しとしとと降り、草木を育む雨だから、これが春だったら甘雨(かんう)って言うんだって。」

とか一方的だけど。

そうするとグリューナーもだんだん興味を持ったみたいで、色んな雨を僕の前で降らせるようになった。クイズみたいにね。僕は毎日のようにグリューナーの元へ通っては、日が暮れるまで一緒に過ごした。

やがて、どうしたわけか森へ入ってかグリューナーに会えるまでの距離が確実に短くなっていった。感謝した僕は、出入りする時に挨拶するようになった。

そんなある日のこと、いつものようにフォレストで過ごしていた僕が、そろそろ帰ろうとしたときにね。グリューナーが急に、ざざぁぁぁっ。と土砂降りの雨を降らせたんだ。

僕は、はっとして図鑑のページをめくった。

どんどんめくっていくと、目の前に同じ雨が出現した。

そのページにはこう書かれてあった。

「遣らず雨」客を帰したくないかのように、ざっと降るどしゃぶりの雨。

グリューナーはプイッとそっぽを向いてしまったけれど、またあの心地いい声で、ロンロン。と鳴いてくれた。

あの時の事は一生忘れない。

ガラス瓶に雨つぶが落ちる時みたいなグリューナーの綺麗な声も、木の葉にざぁざぁ落ちるたくさんの雨の音も、ここのところが熱くなってもう泣きそうだった自分のことも。」


少し明るくなってきた。森の外れにやってきたらしい。

前を歩く父は、差し込む光を浴びてきらきら輝いて、ピクリュックにぶら下がったマグがカタコトと揺れている。

きっと父は今、微笑んでいるのだろう。

「フォレストとは、神と呼ばれるドラゴンが支配する森だ。

だけどきちんと敬意を持って接すれば、決して食われたりしないし、出られない訳でも無い。

フォレストにまつわる様々な言い伝えは、ドラゴンを護るためでもあり、引いては我々を護ることにも繋がる。

だから、決して森を傷つけるようなことや、私利私欲の為に関わろうとするのではなく、どんなときも自分が来訪者であるという気持ちを忘れてはだめなんだ。守るべきことをきちんと守れば、そこは仲間を大切にする孤高の神と、彼を心から愛する者達の暮らす素敵な楽園なんだ。と、僕は思ってる。」

急に目の前が開けた。

父の横に立つと、イライザの視線の先に新たな森が見えた。

「4つ目のフォレスト。水源豊かな西の森。ブルーフォレストだよ。」


 フォレストには不可思議な空気が漂っていた。

まるで、木々がバリアを出して陽炎のように森を覆い、自分たちと外の世界とを遮断し拒絶しているようだ。

それなのに、迷い込ませようとも誘っているようにも見える。

 足元の下草はしっとりと澄み渡った空気をはらんで、さわさわと柔らかく揺れる。耳を澄ませば、小鳥の声と水のせせらぎ。歌うように。笑うように。警告するように。誘うように。

 マダムのところで見せた厳しい眼差しで、フィリップはフォレストを見つめていた。

「確かにクワトロの気配がするな。どうする?父さんはこれからフォレストに入ってみるが、ここで待っているかい?」

「え!やっぱりノーランが居るの?う~ん、怖いけど、行きたいけど、行きたいけど、怖いわよ。」

「なんだそりゃ。」

フィリップは傍らの木に歩み寄って小枝を2本拾い、こんもりした苔の足場にプスプスと並べ立てると膝を折った。

「お邪魔します。って挨拶しなさい。」

フードの中でジョジョが暴れる気配がする。

「父さん。ジョジョが怒ってる。」

「え?あぁ、ごめんごめん。ジョジョも出ておいで。」

フィリップはイライザの背後に回ってジョジョを出してやり、そっと足元へおろして爪楊枝くらいの枝を渡してやった。

「はい、どうぞ。ここへ刺してごらん。」

ジョジョは両手で枝を掴むと、ぷつんと二人の横に刺した。

尻尾を丸めて頭を垂れる。イライザも急いで膝を折り、心を鎮めるように、ゆっくり時間をかけて祈った。

どうか無事に出られますように。

父さんが無茶をして、ドラゴンを怒らせたりしませんように。おじいちゃんの為にもノーランが見つかりますように。

「いいかい?ここは王国にあるような森じゃない。ドラゴンが支配する特別な森だ。ここに入った瞬間から、いやもう既にブルードラゴンは我々の存在に気づいている。

何度も言うけど、決して森を傷つけたり侮辱するような振る舞いをしてはいけないよ。フォレストではその全て、木々や動物や空気や水さえも、あらゆるものがドラゴンの支配下にある。

もしもこれらを侮辱し傷つけるような行いをしたなら、絶対神であるドラゴンに忠誠を誓った者たちが、決して許してはくれないだろう。もちろんドラゴン自身も。」

二人が頷くと、フィリップは先に立ってゆっくりとブルーフォレストへ踏み込んだ。

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