向こう側の自分へ
朝海 有人
1
「○○町の○○病院までお願いします」
子連れの女性に言われ、俺はすぐさま車を出した。
タクシードライバー、それが俺の仕事だ。と言っても、まだ地元の道筋しかわからないような駆け出しのぺーぺーみたいなもので、稼ぎもさほど出てはいない。
今日もいつものように、少ない稼ぎを切り崩して昼食をとっていると、女性は俺のタクシーの前にやって来た。
幸いなことに、女性の目的地への道筋は頭の中に入っている。昼食を食べて少し眠くなった頭を起こすにはちょうどいい。
「ねーねー、おじさーん」
発車してからしばらくして、後ろから子供の声が聞こえてきた。
「おじさんもうんてんしゅさんなの? ぼくのおとうさんもうんてんしゅさんなんだよ! すごいかっこいいんだよ!」
「へー、そうなんだ」
嬉しそうに話す子供の声に、小さくそう答える。
タクシードライバー。実際にやっている人間からしてみれば何がかっこいいのかわからない。だけど純粋な子供が見ると、こうやって車を運転する姿はかっこよく映るのだろう。
「おじさんみてみて! かっこいいおとうさんかいたんだよ!」
そう言って、その子は自分の鞄から一枚の紙を出して俺に見せてきた。
そこには、幼い子供らしい稚拙な絵が描かれていた。手を繋いでいる女性と子供は、恐らく今乗っている二人のことだろう。そしてその二人から見送られるように、笑顔で車を運転している男の姿が描かれている。
「それがお父さんかい?」
「そうだよ! ぼくのおとうさん、かっこいいでしょ!?」
子供は嬉々として俺に絵を向けてそう言ってきた。ここまで屈託のない笑顔を向けられると、本当にお父さんの仕事をかっこいいと思っていることがよくわかる。子供とは本当に純粋なものだ。
改めて絵を見ると、描かれている三人の表情はとてもいいものに見える。よほど家族を大事に思っていることが見て取れる。
そう思っていると、俺はその絵の中の違和感に気付いた。
見送られている男の被っている帽子の部分を中心に、変な色のシミのようなものがあった。水で吹いたのだろうか、汚れている上に紙がふやけてしまっている。
「ねぇ、お父さんの帽子のところ、随分と汚れてるね?」
「あ、それね、えのぐこぼしっちゃったの」
そう言って、子供は見せていた絵を丸めて背負っていた鞄の中に押し込んだ。
「だからね! ぼくね、おとうさんのぼうしよごしちゃったからね、ごめんなさいしないといけないの!」
「……へー、そうなんだ」
俺はそこで言葉を切った。
子供の表情は、相変わらず混じり気のない天使のような笑顔だ。よほどお父さんにごめんなさい、と言いたいのだろう。
「ねーおかあさん、きょうもおとうさんおしごといそがしいのかな? きょうもしゅっちょーでかえってこないのかな?」
「……そうね」
「はやくおとうさんにみせたいな! ぼくがかいたえ!」
絵の入った鞄を見ながら嬉しそうに体を弾ませる子供。しかしその横の女性は、どこか浮かない感じだった。
子供の純粋さは時に大人を苦しめる、女性の表情はまさにそんな感じだった。
***
「着きました、二千円頂戴します」
結局、あれ以降会話は何もないまま目的地に着いた。あんな重い空気の中、無理やり話をしようとしてこなかったのがこちらとしてはありがたかった。
女性はすぐさま紙幣を俺に手渡すと、すぐさま子供の手を引いてタクシーを降りて行った。
降りた直後、子供は俺に向かって笑顔で手を振ってくれた。その後ろでは、女性は俺に柔らかな視線を送ってくれている。
それらを受けた俺は、女性と子供に精一杯の笑顔を向けてからその場を後にした。
「……ふう」
しばらく離れてから車を止めた俺は、スッと自分がかぶっていた帽子を見た。軽く汚れた帽子は、この帽子をもらってからそれほど時間が経っているのだということを証明してくれているようだった。
「そっか、もうそんなに経つんだな……」
そう呟くと、少しだけ嬉しくなるのと同時に、少しだけ悲しくなる。
あの日、俺はまだ話すことさえできない子供の親権を争い、独り身に戻ってしまった。もう二度と戻らないあの日々を、俺は何度思い返しては虚しくなっただろう。
俺が知らない場所で、子供は無事に暮らしている。そう思うことだけで俺は満足だった。
それなのに、偶然はなんて酷いのだろうか。会えなくても満足だったはずなのに、心に重くのし掛かったしこりはまた俺に苦しみと虚しさを蘇らせてくる。
俺は帽子を見ながら、フフッと自嘲気味に笑った。
「絵の中の俺は幸せ者だな、帽子を子供に汚してもらってよ」
誰も聞いてないただの一人言。そう思って俺は仕事のため車を出した。
絵の中で楽しそうに暮らしている俺に、小さな嫉妬を抱きながら。
向こう側の自分へ 朝海 有人 @oboromituki
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