小坂丈太郎の話(上)

……止まった。

 俺も慌てて足を止める。鼻水とも汗ともつかない水分でじっとり湿ったマスクの中で、ゼーハーゼーハーとにごった呼吸を繰り返した。まさか、気づかれたか?

 いや、違う……

 携帯を取り出している。どこかへ電話をかけるようだな。取引先か? ちくしょう、この距離じゃ、話の内容まではわからねえな。

 不自然にならないよう、ちょうど目の前にあった旅行代理店の店頭パンフレットに目をやった。選ぶふりをしながら、そろりそろりと数メートル先の男に目を戻す。

 今俺は、東京駅の八重洲口から出て、八重洲通りをまっすぐ八丁堀方面へ歩いている。あまり近づくのは危険かもしれないが、思いのほかヤツの歩調は速い。見失うおそれを考えると、まあこのくらいの距離が妥当ってところか。

 ……なんだか本物の探偵になった気分だ。「名探偵小坂丈太郎」。ふむ、語呂合わせも悪くない。おっと……いかんいかん、これは探偵「ごっこ」じゃない。男の正念場ってやつだ。

 やってやる……俺の熱い決意表明は、マスクにべたりと貼りつき、消えた。


「見てよあいつ、やばくない?」


 声の方を見ると、ピンク色のお仕着せを着たOLらしい二人連れが、露骨に目をそらした。くそっ、失礼な女どもめ! 派手に舌打ちしてから顔をあげると、窓ガラスに映った自分と目があった。そこには……おぉ、和製ハリソンフォードが……ま、いるわけねえよな……。

 まるまると膨らんだ腹をコートの下に押し込み、でっかいマスクで顔を隠し、頭皮がまばらに見える、いわゆるバーコード頭を汗びっしょりに光らせた男……。

 なるほど、まるで吉本芸人ってか? ふんっほっとけ! 余計なお世話だ!

 ピンクのスカートを揺らしながら笑う女の姿が、我が家の放蕩娘の姿にダブった。ちょうど同じ年頃か。今頃は渋谷か新宿か、どこかわからんが、とにかく遊びまくってるだろう。

 パンフレットをぐしゃぐしゃと丸め、酸っぱい胃液を紛らわすように、力をこめてつぶした。親の苦労も知らないで、いい気なもんだ。まったく子どもってやつは……

 しかし次の瞬間、俺は泡を食ってあたりを見回した。


「しまった……」


 ヤヤ……ヤツがいない!

 のんびり思い出なんぞに浸ってる場合じゃないだろうが! おいおいどっちへ行った? このまままっすぐ? それとも信号を渡って、あっちか? おい、誰か教えろ!

 カニのようにあっちを向きこっちを向きしていると、駅の方向からやってきたスーツ男の波が俺に押し寄せてきた。

 くそっ! 前が見えねえ……こっち来んな! 乱暴に波を押しのけていたら、ジロッと見下ろしてきやがって……ふん、女房の尻に敷かれてそうな顔してるくせに。こっちの背が小さいからってなぁ、バカにすんじゃねえぞ!

 俺は柔道部で鍛えた必殺コロシ目で睨み返してやった。途端に相手はオドオドと視線を外す。

 ふん、勝ったぜ!

 おとなしく通してくれりゃ、俺だってジェントルに、お上品に、歩いてやるっつんだ。いいやいやいや、いかん、だーかーら、こんなことをしてる場合じゃないっ!

 俺はあいつを尾行しているところであって、そして見失ってるところであって……またまたあっち向き、こっち向きしているうちに……時間が過ぎていく。

 くそぉっままよ! と俺はとにかくまっすぐ走り出した。

 そして……

 ああ……よかった。いた、いた! ツイてるぞ! 

 1区画先、横断歩道を渡ろうとしている茶色のコート姿の男を再び視界に認め、俺は体中の力を抜いた。途端に、背中に汗が吹き出し、肌着に張り付く。マスクをはぎとりたい衝動と戦いながら、ひぃひぃと呼吸を整えた。

 こんな時間稼ぎ続けたって、何の意味もないことはわかってるんだ。もう、この先のことは決めちまってるんだから。

 ……そうさ、俺に道はない。


 こいつを殺すしか。


 肩に下げたリュックの中身をちらりと見る。黒い塊……スタンガンだ。人気のないところでこいつを使って気絶させ、そして紐で首を一気に……それが俺の計画だ。

 これでも高校大学と柔道一筋、まぁ全国には行けなかったが、あんな細長いだけのゴボウ野郎に負けるはずはないさ。

 しかし……もしも、だ。もしも誰かに見られたら? 警察に捕まる、よな? そうしたら老後は刑務所か? マンションのローンはどうなるんだ? などと悶々と考えて、あっという間に時間がすぎてしまった。今日が米倉と約束した期日、1週間の最終日……時間はなかった。

 もうどうにでもなれ! 俺の人生なんか、とっくに終わってる。どのみち引き返すことなんかできねえんだ。

 そうとも!

 開き直って、俺は再び歩き出した。



 男は歩き続けている。後ろから物騒なことを考えている奴がつけてることなんてまるきり気づかない風に。人ごみをうまくかわしながら、颯爽と。

 緑色のカバンだと? かっこつけやがって。歩き方まで芸能人みたいにきどってるように見えるのは……考えすぎか。くそっどうせヤバい裏の仕事でもして稼いでるんじゃないのか? 命を狙われちまうような。


「自業自得さ」


 と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 しかし、一体どこでやろう? 人気のないところ……つったって、ここは東京だぞ。どこにそんな……。そんなこんなを考えていた時。


 ……そのあたりからだ。


 なんだかだんだん、少しずつ、次第に……う、うぅ……下っ腹が痛ぇぞ。

 急に走ったからか?

 うめき声がもれそうになる。痛みはどんどんひどくなって……。おいおい、ろくに食べてないのに、どうして便所に行きたくなるんだ! しかもよりによって今か! どこかに便所は……東京駅まで戻って探すだけの時間は……ない。絶対にない。

 そうする間にも、ごろごろと不気味なドラム音が腹の底から響き、それはあっという間に音量を増してくる。ああくそっ!

 俺はケツの穴に力を込めた。ぴょんぴょん不自然に跳ねながらあたりを見回す。

 ババアめ、こっち見てんじゃねえよ! 必殺コロシ目! いかん……今はパワーレベルがハンパなく急降下中、ガキの喧嘩にも役に立たねえレベルだ。

 グルグルッ! キュウ! 

 だんだんドラム以外の音が混じってきた!ヤバいぞ、本格的にヤバい。

 そうしている間にも、奴はどんどん先へ歩いていく。

 くそっくそっ! そうとも、クソがしてえんだよ!

 俺は遠ざかっていく男と腹とを交互に見た。そして……。

 仕方ない、尾行は一時中止だ!

 俺は爪先立ちながら目についたビルに駆け込んだ。

 居酒屋やスナックが入る雑居ビルのようだ。1階の店舗を力任せに叩く。誰も出てこない……なに、本日定休日だと!? バカタレ! こんな時に休んでいいと思ってんのか! 上だ、上の店だ! エレベーターは……ふざけんな! 一番上で止まってるじゃねえか、ちくしょう! どいつもこいつも! 

 仕方なく非常階段を使って2階に駆け上がる。1段足を上げるたびに、毛穴という毛穴から汗がダラダラと流れていくのがわかる。ヤバい、本当にヤバい。これが本当のクソ親父、ってシャレてる場合かっ! たのむ、ケツの穴からは何も出ないでくれ。とりあえず、あと5分は!

 本日の営業は終了しました、とかなんとか札がかかった2階のドアを「終了すんなぁ!」と何度も力任せに叩くと、口から魂半分抜けかかったみたいな、よぼよぼのじじいが顔を出した。


「営業はぁ、夜からなんだけど、ねえ」


「んなカタイこと言うな!」


 俺は力任せにじじいをドアから引っ張り出し、「わわわ」と泡を食うじ

じいにわめいた。


「便所はどこだ!」


 ふぅうううううう……

 便器に座り込んだ途端、ゴボゴボッ……派手な音をたてて、クソが俺の体から脱出していく。

 ま、間に合った……。一気に体中から力が抜けていった。

 おう、待たせて悪かったな。行け、飛び立て、クソよ。さらばだ。もう戻ってくるんじゃねえぞ。残らずいっちまえ。

 はあ……もう便器に尻が貼りついたように動かねえ……。



 それにしても、だ。

 最悪の危機を脱して気分がよくなった俺は、もう一度現実ってやつを見つめ直してみた。赤の他人を殺さなければならない、って現実だ。米倉は、なんだって俺にこんな依頼をしてきたんだろう? あの男、新条誠司は一体何をやらかしたんだ?

 米倉が教えてくれたのは、新条がYKDっつう広告代理店で働くサラリーマンってことだけ。

 娘に言わせると「クソ豚みてぇな」人生歩いてきた俺だが、そりゃできれば人殺しなんてしたくねえよ。

 どうして殺すのか、その理由がわかれば、殺さなくてもすむかもしれない……。なんて少しだけ期待して、尾行してみたものの。毎日クソまじめに新宿の会社と阿佐ヶ谷の自宅を往復する、ごく普通の会社員ってことがわかっただけ。

 一方の米倉は、六本木のでっかいビルにオフィスを構える大企業の社長だぞ。二人にどんな接点があるっていうんだ?

 俺は頭の中で、妄想を膨らませてみた。

 たとえば……新条は米倉の大学時代からの古い友人なんだ。家族ぐるみのつきあいとかで……そう、米倉の女房と不倫してるのかもしれない。派手好きっぽい美人だったからな、米倉一人じゃ満足できなかったとか? それを知った米倉が怒り狂って……。

 いやいや、それとも会社がらみか? YKDと米倉のNAコーポレーションの間に、何かトラブルがあったんじゃねえか? 

 あるいは、知られちゃまずいような秘密を新条が握ってしまった。そして、米倉は新条に強請られてるのかも!

 どれもありそうで……いや、なさそうか。わからん。まったくわからん。

 俺は脱力して、ねばつく汗をぬぐった。

 そういえば……

 米倉の奴、俺にこの話をした時妙なことを言ってたな。「あなたが適任なんです」だったか。

 俺はプロの殺し屋じゃない。友人に女房寝取られ、リストラされ、心機一転起こした事業は失敗続きで借金まみれ……彫り物しょってる奴から追われるような生活しちゃいるが、人を殺したことはない。とりあえず今のところはな。

 そんな俺が「適任」ってのはどういうことだ?

 俺の深い考察は、勢いよく個室を叩く音に破られた。

 じじいの声がした。


「ちょっと! あんた! 大丈夫かね! 救急車呼ぼうか! すごい匂いだけども!」


「すまんすまん、今出るから!」


 立ち上がろうとした時、俺はトイレットペーパーが補充されていないことに気づいた。



 尾行をあきらめた俺は丸ノ内線に乗り、YKDがある新宿に出ることにした。おそらく新条は、いずれ出先からこっちに戻るだろうからな。

 新宿駅に降りると、東京駅に負けず劣らずの人、人また人の波。観光客らしき連中もいる。平日の昼間っから、まぁ暇なヤツらだ。改札を通って地下道を延々と、都庁方面に歩いていく。

 地下に広がるショッピングモールには洋菓子の店なんかが並んで、マスクごしに甘い匂いがする。こんな時だっていうのに、人っていうのは恐ろしいもんだ。ちゃんと甘いってのがわかるんだもんなぁ。ぎゅううっと腹が音を立てる。さっききれいさっぱり出ちまって、空っぽになっちまったもんな。


「もう少し待ってろよ。ん? 今日は中華がいいか? そうかそうか、じゃあどっか駅前の食堂にでも入ろうか」


 なだめるようにつぶやいて、ポンポン太鼓腹を叩いてやった。

 おっと、変な奴に見えただろうか? 咳払いしながら体を起こした俺はあることに気づいた。

 ……誰も……誰のことにも、注意を払っていねえんだ!

 店先の品を眺めながら歩く主婦、携帯をいじりながら歩くOL、おしゃべりに夢中のカップル……みんな自分の注意する方向だけを見て歩き、今すれ違った男のことなんか、カケラも気に留めちゃいない。

 俺の中で……何かがひらめいた。

 もしかしたら、これは死角ってやつじゃないか? 

 おいおい丈太郎さんよ、しっかり考えな。

 にわかに浮かんだアイディアを何度も再生する。

 アリの巣みたいに広がった地下通路、その先にYKDが入る新宿ニュータワービル近くへ通じる細い出口があったはず。

 そう……ここだ。俺は足を止めた。

 脇道のようなそこは昼間でも薄暗く、人通りは少ない。監視カメラの類も……よし、ないようだな

 退社した新条は、今夜もきっとここを通るだろう。

 階段を上って外へ出る。もうそこがニュータワービルの真下だった。YKDは38階。そそりたつビルを見上げた。

 昔は俺も、エリートって呼ばれるサラリーマンだったんだがな。そこで明美と出会って結婚して……そう、明美はいい女だった。ほっそりした腰から丸く柔らかい尻、白く伸びた足へのラインがたまらなくて、毎晩……へへ、俺はもう……。


「ウげっ」


 首がつって、激痛が走った。



 怪しまれないようにいったん離れ、夕方戻ってきた俺は、植木の影に場所を決めると、入り口を張り込んだ。春のような陽気とは一転、やっぱり2月だ。夜はぐっと冷え込む。俺は鼻水をジュルジュルすすりながら、何度かその場で足踏みをし、寒さをこらえた。

 マッチ売りの少女みたいだな、と昔菜穂に読んでやった絵本を思い出した。が、慌てて首をブンブン振って想像を打ち消した。死んだらシャレにならん……。

 お願いしますよ、早く新条を返してくれよ。

ビルに向かって拝んでいると、8時半を過ぎた頃、ようやく新条が出てきた! 

 いつもは部下らしき連中と一緒だが、今日は一人じゃねえか。ますますいいぞ! ついてるついてる!

 思った通り、新条は地下へ続く入口へと向かっている。俺は慎重に後をつけた。よし、誰も見てねえな。

 次第に呼吸が難しくなってきた。ごくごくっと唾を飲み込む。奇妙な音が喉から漏れて、新条に気づかれるんじゃないかと飛び上がった。しかし新条は後ろを振り返ることもなく、軽い足取りで階段を下りていく。俺は昼間シミュレーションを繰り返した通りに、後ろからついていった。

 今だ、ここしかない……。

 脇の下に、冷たい汗が流れる気配がする。指先はカビの生えたパンか、ってくらい冷え切って、もう感覚はない。

 だがここまできたら、やるしかないんだ! 行け! 行け! 行けったら行け! 震える足で、階段を探りながら降りる。コケるなよ、踏み外すなよ……! そして。

 最後の一段を下りた!

 いい今だ!

 俺はスピードをあげ、追い越しざま新条にどんっとぶつかった。そしてポケットに入れていたコインを地面にぶちまけた。

 チャリンチャリン……!

 重なり合うような予想外に大きな金属音が響く。


「す、すみません!」


 慌てたふりでかがみこむと、「こっちにもありますよ」と新条が膝をついて拾ってくれた。新条よ、その優しさがお前の命を縮めるのだ! 

 背中は、すぐそば。茶色いコートの毛羽立ちまでくっきりと見える位置に、新条がいた。

 俺はリュックの中をまさぐった。ええい、早くスタンガンを! 出せ! 出せ! 出すんだ!

 出た!

 悪魔が味方しているのか、人影はない。耳元で何かがゴウゴウと唸っている。ああ、こいつは心臓の音か、俺の。

 さあスタンガンを……

 やるんだ、やるんだ、やれえっ!

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