小坂丈太郎の話(下)

 俺はスタンガンをかざし……


 その時。


「新条さん」


 男にしては高めの、しかし男に違いない声が飛んだ。

 心臓がぶっ飛ぶほどびっくりした俺は、あろうことかぴょんと飛び上がり、スタンガンは……床へ!

 カンカーン……プラスチックのくせにでかい音が響き、新条が俺を見上げた。

 1週間追い続けた男だが、面と向かって顔を合わせるのは初めてだった。白髪が多少目立つが、顔の色つやはいい。いくつくらいだろう、30後半……それとも40前半?

 おおっと、ぼうっとしてる場合じゃない。早く、早くスタンガンを拾わなければ……! 

 頭の中では「早く」という言葉が5倍速くらいで再生されているのだが、だめだ、体がまったく動かない!

 そうして俺が固まっている間に、カツカツと階段を駆け下りてくる音がして、長身の若い男が目の前までやってきた。

 新条は男の姿を認めると、「山崎か」と笑顔を見せて立ち上がる。呼ばれたそいつは、俳優のようなにやけ顔でさらににっと笑った。菜穂くらいの年の娘なら、悲鳴をあげて悶絶しそうな甘いマスクだ。


「お疲れ様です。今日はすみませんでした。課長自ら打ち合わせに来させてしまって」


「後でクレームくるよりよっぽどいいさ」


「助かりました。先方もとても満足してて」


「そいつはよかった」


 今やスタンガンは、その山崎なる男の足元にあった。いくら長い足だといっても、それがリンゴじゃないことくらいすぐにバレるに違いない。あああ……早く、早くなんとかして拾わなければ。


「で、新条さん、こんなところで何してたんです?」


 山崎は俺と新条とを交互に見る。

 ち、ちびりそうだ……!

 限界を迎えた俺は大きく息を吸い、くるりと背を向けて、地下通路を全速力で走り出した。


 足よ、止まるな! 走れ! お前はメロスだ! メロスになるんだ! 短かろうが、毛深かろうが、臭かろうが関係ない。俺のかわいい二本の足よ! 今、この時動いてくれる足よ、俺はお前を誇りに思う!

 スタンガンの行方を考えるだけの余裕ができたのは、家にたどりついた後だった。



 どこをどう歩いたのか、電車に乗ったのかバスかタクシーを使ったのか? 何もはっきりと思い出せない。

 とにかく、俺は大森のマンションに戻ってきていた。我に返ると、なんと手にはコンビニの袋まで握っている。中にはホイコーロー弁当とおにぎり2個、そして缶ビール。20円引きの弁当を選んでいるところが、なんとも悲しい。

 疲れた体をひきずって、暗闇の中ソファに倒れこむ。とたんにスプリングが錆びついた悲鳴をあげた。まるで70すぎたババアの喚き声みたいだ。こっちも疲れてるんだ、少しはいたわってくれてもいいだろうに……。

 マスクをむしりとると、冷たい空気になぶられて、唇がチリチリと痛む。顔は汗でぬれているのに、口の中は新品のスポンジみたいにカラッカラだ。

 まったく……今日一日で5年くらい寿命が縮まったような気がする。

 意識がはっきりしてくると、ジワジワと今日の失態が悔やまれた。これ以上ないっていうチャンスだったんだぞ! くそっ!

 時計を見ると、10時を指している。

 家の中に人の気配はない。菜穂は帰っていないようだ。いや、帰ってくるのかどうかさえ、わからない。前に会ったのはいつだったかな。親子なんてつまらんもんだ。

 俺の視界に鈍い光がひらめいた。月明かりを反射するその光の正体……でっかいトロフィーを、棚から取り出した。

「全国バレエコンクール第二位 小坂菜穂」全国で2番まで行ったのに、結局止めちまってさ。何も続かない、あきっぽい娘だった。

 俺は柔道一筋、初戦敗退したってやめようなんて思ったことはなかったぞ。とすると、明美に似たんだろうか?

 ぼんやり考えていると、突然ポケットの中の携帯が震えだした。メールじゃない、着信だ!


「も……もしもしっ?」


『小坂さん?』


「よ、米倉っ」


 喉の奥がねばついて、うまく発音できない。


『今日でお約束の1週間になりますね?』


「……わわわわわかってる」


『実行していただけないのなら、お貸しした5千万をすぐに……』


「きょっ、今日やろうとして」


『やろうとして?』


「その、腹の調子がよくなくて……。あ、昼に食ったカキフライがよくなかったのかもしれん」


『……』


「ででもっ! 明日は大丈夫だ! 今夜はホイコーローに……した、から」


 次第に声が小さくなる。不気味な沈黙が続いた。


「明日! 明日は必ずやる! だからもう1日だけ待ってくれ! 頼む!」


 もう何もかも手放した。もう俺に金を貸してくれる奴なんていない。米倉に見放されたら、終わりなんだ!

 感覚がなくなるほど携帯を握りしめ、返事を待った。すると、耳元でため息が聞こえた。


『これで、最後ですよ』


 言うなり、ブツッと通話が打ち切られた。


「わわわかった!」


 もう誰も聞いていない言葉を携帯に向かって叫んでから、へなへなと床に崩れた。

 米倉は俺よりたしか5つ下だから……43か。そんな奴にビビってどうする?

 一緒に働いてた頃のあいつは、それほどデキる奴とも思わなかったが……。やはり社長っていうイスに座ると、人は変わるものなのかもしれないなあ。

 正直……あいつに出会ってからの記憶で、いいことなんか一つもない。信じていた友人と女房がデキちまい家出、離婚、菜穂の子守りで出世をあきらめ、あげくにリストラ。そしてとどめは8年前、あの事件……。


「……さ、メシにしよう」


 つぶやいて、俺はよろめきながら立ち上がった。

 ベリベリッと弁当のラップを乱暴に引きはがして、暗がりの中、ガバッと肉と米つぶを一緒に口に放り込む。味もよくわからないままに噛み砕きながら辺りを見回すと、テーブルに出しっぱなしのスポーツ紙が見えた。昨日買ったやつだ。

 トップ記事は、歌舞伎町で起きた殺人事件を取り上げていた。「被害者少年(18)はカリスマホストだった!」の見出しが毒々しい。

 18でホストか。一晩でン百万とか稼ぐのかな。たしかビルの解体現場で、メッタ刺しになって見つかったんだったか。

 やっぱり刃物が一番確実だろうか?

 よっこらしょ、と立ち上がり、台所から包丁を取り出した。窓際までもっていって、月明かりにかざすと、買ってから一度も研いでいないせいか、ガタガタと刃こぼれが目立った。

 なあ、おいぼれのお前さん、あんた肉は肉でも、人間の肉を切ったことはあるかい? ない? そりゃそうだろうな。どんな感じなんだろうな?

 腕に刃を押し当てて……少し引いてみた。

 げ、なんと予想外に皮膚が切れ、ボタボタッと床に血だまりができちまった。


「ひぃっ!」


 くそっ! わかった! わかったよ! おいぼれちゃいるが、まだ現役だって言いたいんだな! 

 タオルで血を抑えながら、思わずため息が漏れた。ホスト殺しの犯人さんに教えてもらいたいよ。どうしたらメッタ刺しなんて芸当できるんだ? 

 ……やっぱり包丁はダメだ。ほかの方法にしよう。



 いつの間にかソファで眠っていたようだ。

目が開いたのは、人の気配のせいらしい。すりガラスのドアに廊下の明かりが映り、布が床をこするようなかすかな音がした。

 菜穂だ。あいつはバレエをやっていたせいか、いつも音をたてずに歩くくせがあるからな。


「菜穂?」


 ドアを開けて顔を出すと、黒ずくめの格好をした菜穂が振り返った。


「……いたんだ。脅かすなよ」


 レザーパンツとかいうんだろうか、足にぴったり張り付いたズボンは、白色灯の光を反射してテラテラと光って卑猥に見える。


「こんな時間まで、どこに行ってたんだ」


「……」


「学校は行ってるんだろうな? デザイナーになるんだろう?」


「……」


「まさかまたやめたのか?」


 本当に救いようがない飽きっぽさだな。ため息が聞こえたのか、菜穂がにらんだ。


「カエルの子はカエルって言うじゃん」


 おい、なんだと!?


「俺がいつ、何をやめたって? 父さんは、新しい仕事だって、その、いろいろ頑張ってだな……」


 いかん、動揺で口がうまくまわらない。

 菜穂の赤い唇が、皮肉っぽく歪んだ。


「闇金から借りまくって、一体何に使ってんのか知らないけどさ、こっちまで巻き込むなっつーの」


 言うなり、くるっと背を向けて歩きだす。ぷるんぷるんと尻が左右に揺れる。いい形の尻だ。明美によく似て……って、アホか俺は、何を考えてるんだ!


「あ、あのな、借金はもう大丈夫だぞ! ちゃんと支払い済みだ。父さんはな、やるときゃやる男なんだ!」


 胸を張ってみたが……いかん、でかい腹を突き出したようにしか見えてない……。

 菜穂はちらっとこちらを振り返った。


「……何やったんだよ?」


「へ?」


「人生終わったみたいな顔で言われても、全然説得力ねえし。わかってる? あんた、ガチでひどい顔してるよ」


 ギクリと背筋が凍った。

 言葉を失った俺に、菜穂は大きく舌打ちし、再び背を向けた。


「お、おい待て! まだ話は終わってない!」


 追いかけて肩をつかむ。ここは父親の威厳を見せておかないと……。と思ったのだが、


「シャワー浴びるんだけど」


「あ」


「変態」


 バン! と蝶番が外れるくらいの勢いでドアが閉まる。俺はしばらく、風呂場の前でぼんやり立っていた。



 次の日の夜、俺は車を運転して阿佐ヶ谷まで来ていた。

 運転している車は、旧式のカローラだ。米倉に連絡したら、すぐにこいつを届けてくれた。どうせ盗難車だろう。ナビもCDプレーヤーすらついていないオンボロだが関係ない。人を轢くために使うのだから……。

 新条の自宅からほど近い路上で車を止め、エンジンを切る。途端に音という音が消え、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。

 汗でぬるぬると滑る手をズボンで何度もぬぐう。くそっ落ち着かねえ。

 住宅街の中にある幅の狭い道路は、まだ7時だってのに人影もない。どこからか、かすかに子どもの声が聞こえるような気がする。夕食時だから、家族で鍋でも囲んでいるのかもしれない。

 そういえば……新条に子どもはいるんだろうか? 考えて、俺は初めて新条の家族について何も知らないことに気づいた。

 あんな高層ビルで働いてる奴のことだ、順調そのものの人生に見えるが……。家に帰れば女房の尻に敷かれてたりするんだろうか? 反抗期の子どもに悩んでいたりするんだろうか? 新条がいなくなったら、家族はどうするんだろう……。

 いや、考えるな! 考えたって今更どうしようもないじゃないか! 

 考えるな! 考えるな! 頭をガンガンと前後に振り、それを思いっきりハンドルに打ち付けた。


 ブーーーーーーーー!


 静かな空気を切り裂いてクラクションが鳴り響き、「ひいいっ」と慌てて頭をあげた。

 いかん、一体何をやっとるんだ俺は!

 コントなんかやってる場合か! いや、冗談抜きで相当痛かった……。こぶでもできてやしないだろうか。

 痛さに耐えながら、石像のように体を固くして呼吸を止め、様子をうかがう。

 ……大丈夫……か? どっくんどっくん、闇の中で、心臓の音だけが巨大に聞こえる。鳴門海峡の渦潮のようだ。見たことはないが。

 よ、よし……どうやら大丈夫のようだ。外まで様子を見にくる住民はいない。

 ふぅ、もうバカなことはしねえぞ。静かにおとなしくしていよう。

 体から力を抜いた時だった。

 コツコツコツ……足音が近づいてくる。バックミラーで確認すると……新条!

 間違いなく新条だ。慌てて俺は運転席のシートをぐいっと倒し、眠っているふりをする。

 新条は気づく様子もなく、俺の車を追い越して歩いていく。

 なんだあいつ……花束なんてもっていやがる。赤い花……バラか? もしかして結婚記念日なのか? 一瞬決心が揺らぎそうになって、ギュウッとハンドルを握りしめた。

 ダメだダメだ! ホトケ心なんて起こしたらダメだ! 悪魔にならなきゃならん!

 再び鳴門の渦潮だ……ごうごうと渦巻く奔流……。

 街路灯が途切れ、闇に沈んだコーナー部分に新条が入っていく。俺は慌ててエンジンをかけた。ライトはつけずにするすると追い上げる。

 さあ、カローラよ、お前とのつきあいは短かったが、これがお前の花道。見事に散ってくれよ!

 そしてすまん、新条。お前に恨みはないが、これが運命と思って成仏してくれ! 化けてでないでくれ、できれば!

 そうだ、迷いは無用だ。一気に行くしかない!

 足を持ち上げる。今だ! 行け! 進め! 突っ込め!

 アクセルをガーン!!!と踏んで……


 すさまじい衝撃が全身に突き上げる。


車が急停止し、何が起こったのかわからないままエアバックに顔面が突っ込んで、一瞬意識が遠のいた。

 食い込んだシートベルトの痛みで我に返り、辺りを見回して……ようやく、ブレーキとアクセルを踏み違えたんだと気づいた時、窓ガラスが軽くたたかれた。


「大丈夫ですか!? 救急車、呼びましょうか?」


 窓越しに新条が俺を覗き込んでいる。

 ……最悪だ。命を狙っている相手に、命の心配をされるとは! 俺は情けなくて、「大丈夫だ、さっさと行け」、と乱暴に手を振った。

 新条が怪訝そうにこちらを見ている。

 穴があったら入りたいとはこのことだ。

 俺は深く深く顔を伏せた。

 新条が離れていく気配がする。そうだ、そのまま行ってくれ。振り返るな! 

 昨日のスタンガン男と同一人物であることは気づいていないようだが……。

 俺はそろりそろりと顔をあげ、エアバックに体重をのせたまま、遠ざかっていく新条の背中を見つめた。

 ふう……とことん俺は殺人者にはむいていないらしい。


「パパっ!」


 ふいにパタパタッと軽いサンダルっぽい足音がして、新条の元に女が駆け寄るのが見えた。


「大丈夫? なんだかすごい音が聞こえて……」


 新条の背中越しに女が俺を見る。新条の女房だろうか? 新条は「大丈夫だ」とうなずいて、花束を渡した。


「今日は母の日だろ?」


 ……は? 聞き違いか? 2月だぞ今は。だが女の方も「さっき拓巳もカーネーションくれたの」なんて笑ってる。なんて変な家族だ。

 新条は女のほっそりした腰に手を回すと、促して歩き出した。


「ねえパパ、拓巳、そろそろ塾に行かせた方がよくない? 春から受験生になるんだし」


「そうだな。あいつ、結構のんびりしてるから……」


 寄り添う2人の影が長く伸びて、俺のところまで届こうとしていた。それはまるで、新婚当時の俺と明美のようだった。

 彼女のすべてがかわいくて愛しくて、有頂天になっていたあの頃。何をしても楽しくて、バラ色で、この幸せが永遠に続くと信じていたあの頃……。

 俺は新条に、強烈な嫉妬を覚えた。そして同時に、新条を殺さなかったことにホッとしていた。



 地下鉄大江戸線の東新宿駅に着いて、地上にでると、そいつは目の前に建っていた。

 秀英医科大学付属医療センターと書かれた建物の中に入ると、診察待ちの患者でごった返していた。目的地を探しながらよろめくじいさんばあさんの間をすり抜け、俺はできるだけ目立たないように素早く、裏口から外へ出た。

 敷地内に並んで建つ古びた研究棟へと入ると、一気に人影はなくなった。まるで夏休み中の学校みたいに閑散としている。

 俺はくすんだ壁をたどっていくつかの廊下を抜け、角を曲がり、階段を上った。

 目指す部屋は3階。

 「脳神経外科研究チーム」と書かれたプレートを通り過ぎて、3つ目、そのドアには、〈0071〉とだけ記されたプレートがはめ込まれてる。

 周囲に誰もいないことを何度も確認して、俺はそっとドアを開けた。


 そこは日当りのいい南向きの一人部屋だった。真冬とは思えない、温室のようにポカポカと温まった空気の中に、よくわからん機械とチューブに囲まれたベッドが一つ。女が横たわっている。


「明美」


 俺は小さく呼びかけた。……返事はない。

 胸は静かに上下し、呼吸はスムーズで、まるで昼寝をしているような穏やかさだ。

 この状態のまま8年も過ごしてきたなんて思えないほど、肌もなめらかで白く、変わらず美しい……。

 手を伸ばして、枕の上でうねる柔らかい髪の毛に触れながら話しかけた。


「すまんなぁ明美。俺にはやっぱり人殺しなんて無理だった……」


 戸籍上では、すでに他人になってしまった女。こっそり会いにくるしかない女。でも俺は……俺はまだ……。


「明美……」


 俺は穴があくんじゃないかってくらい、じっと飽きもせず明美を見つめた。


「キャアアアッ!」


 背後からとてつもない悲鳴が響いて、俺は飛び上がった。

 振り返ると、白衣を着た小柄な女が震えながらドアにすがりついている。たしか、明美の主治医の……


「あなた、そこで何してるんですか!」


 俺は女を突き飛ばし、廊下へ飛び出した。


「誰か! 誰か来てぇ! 不審者です!」


 悲鳴のような声は、すぐに小さくなった。

 ふぅ……危なかった。


 その足で俺は六本木にあるNAコーポレーションへと向かった。米倉に会うためだ。気が進まないが……まぁ仕方ない。

 追い返されるかと思ったが、予想に反して、すんなりと社長室に通された。

 2方向に開いた大きな窓からは、東京タワーとスカイツリーが一緒に見えるという、なんとも贅沢な景色が広がっている。

 ちくしょう、最高の眺めじゃねえか。

 こんな部屋が自分の部下だった男のものかと思うと、かなり複雑な気持ちだが。

 やめやめ、落ち込むだけソンだ。ソファにどんと腰を下ろした。


「うおっ」


 思わず声が出た。

 我が家のくたびれたババアとはまるで違う、しっとり濡れた美女の膝の上って感じのシートが心地いい。日本製じゃないだろう。きっとバカ高いどこぞの外国製にちがいない。

 ほれぼれとそれを撫でていると、ノックもなしに唐突にドアが開き、米倉が姿を見せた。


「まだ新条は生きているようですが?」


 開口一番、憮然とした口調で言い、俺を見下ろしてくる。案の定、怒りまくっているらしい。そりゃそうだろうな。

 俺は勢いよく頭を下げた。


「すまん!」


「……どういうことです?」


「その……やっぱり俺には人殺しなんかできん。それを言いにきた」


「……なるほど」


「新条にも家族がいる。それを壊すようなことは……俺にはできん」


「……」


「金は必ず返す。時間がかかるかもしれんが、待ってくれないか」


「もしかして、私がそれを承知するとでも思っていらっしゃるんですか?」


「……ほんとにすまないと思ってる。簀巻きにして海に放り投げたいなら、そうしてくれ。……コンクリ詰めはやめてほしい。……できるなら」


 俺はビクビクと上目づかいで米倉の様子をうかがった。


「そうですか。仕方ありませんね」


 へ……?

 なんだ、そのあっさり加減は。

 拍子抜けしてる俺の前を横切ると、米倉は窓辺に立ち、そしてふとこちらを振り返った。光を背にした米倉の表情は影がさして、よく見えない。


「明美さん、お元気ですか?」


「……は?」


 なんでこいつ、突然明美の話を……?

 腰を浮かして米倉をよっく見ると、その唇に笑みが浮かんでいるのがわかった。……いやな笑みだ。


「ほんとにお気の毒でしたね、8年前の事件は」


 8年前……。

 いったいこいつ、何を言うつもりなんだ?


「明美さんを植物状態にした、あの事件……。犯人が新条誠司だと言ったら、どうします?」


 三十分後、俺は再び街へでた。

 もう、迷わなかった。

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