聖家族

門戸明子

はじまり

 信号の色が変わり、おびただしい数の靴が一斉に動き出した。

 歩道の片隅、遺跡のように取り残された電話ボックスの中で、拓巳は途切れることなく続くその行列をぼんやり見つめていた。

 革靴、スニーカー、ハイヒール、ブーツ……ドロドロに汚れたもの、ピカピカのもの、ひもがほどけかかったもの……その数だけの生きざまをのせて、すり減らされていくものたち……。

 一体何度信号の色が変わっただろう。ふいに、甲高い声が拓巳の耳を突き刺した。


「恵まれない子どもたちに愛の手を!」


 いつからそこにいたのか、顔をあげると、厚紙で作った箱を捧げ持ち、「お願いします!」と声をあげる若者たちの姿が見えた。拓巳と同じくらいの年ごろだろうか。


「恵まれない、子どもたち……」


 口の中でつぶやいた拓巳は、ようやく自分が今ここに立っていることの意味を思い出したように、薄汚れた灰色の電話に焦点を合わせた。そしてゆっくり、手を伸ばす。

 チャリン……コインの跳ねる音にかぶせるようにナンバーをプッシュした。

 1回、2回と続くコール音。

 相手が出てほしいのかどうか、もはや拓巳にもはっきりとわからない。このまま相手がでなければ……。

 しかし音は突然途切れ、若い女の声が耳元で響いた。


『お電話ありがとうございます。NAコーポレーションでございます』


 とっさに何を言うべきだったか思い出せず、拓巳はパクパクと口を開閉させる。乾いた喉からは、ヒュウヒュウと正体不明の擬音が漏れた。


『あのぅ……?』


 女の声が、明らかな不信感とともに低くなる。


「えっと……」


 ようやく声がでた。


「す……すすみません。米倉さ……米倉社長はいますか?」


『……あの、失礼ですが……?』


 みなまで言わないが、名乗れという意味であることくらいはわかる。

 拓巳はごくりと唾を飲み込むと、迷いを振り切るように一気に言葉をつなぐ。


「8年前の件でお話したいことがあるっていえば、わかるはずです」



 のちに拓巳は思い出す。

 あの日、あの時、あの一本の電話をかけなければ、あるいは自分たち家族は、今も一緒に暮らしていたのではないだろうかと。


 しかしもう、すべてが遅かった。

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