海の底で、そばにいて

重原ニケ

海の底で、そばにいて

 悲しいことに、意外にも水は濁っていて、僕が想像していた世界とはかけ離れていた。シュノーケルのゴーグル越しから見る景色は文句を言いたくなるほど酷いわけではなくて、かといって感動できるほど美しいものでもない。それよりむしろ気になるのは慣れないシュノーケリングだ。うっかり顔を下げ過ぎると、すぐにチューブから海水が流れ込んできてしょっぱい目を見る羽目になるし、深く潜ることも叶わない。上級者ともなれば潜水も可能らしいけれど、初めからそううまくできるはずもなく、さっきから何度も海水を味わいながらむせている。

 それでもなんとか水面を泳ぎ回るくらいのことはできるようになって、僕は少し沖合――とはいってもブイで囲まれている範囲ではあるけれど――へと泳いでいた。

 宝石のように煌めく青の中に、宝石のようなサンゴや魚たち……。

 そんな空想を易々と打ち砕く目の前の風景。広がるのはひたすらに茶色の砂。時折切れ端のような海藻と、影しか見えないような小さな、しかもやたらとすばしっこい魚が見られるだけで、ここまでくるといっそ清々しい。なんてことのない貝殻の欠片を見つけた時になんとなく嬉しい気持ちになれるのはある意味では恵まれているのかもしれないが、ふと我に返ると虚しい。

 うまく呼吸ができなくなって、僕は一度水から顔を出す。砂浜が少し小さく見えるくらいには泳いでいて、戻るのが大変そうだ。ブイも近くになってきたし、そろそろ戻りたい。

 と、十メートルくらい先で水面から顔を出したのは、僕と一緒に来ている友人たちだった。僕を見つけたらしく、手を振ってから再び泳ぎ出す。僕もシュノーケルをつけ直して顔を水に沈めた。

 ゆったりと揺れる視界の中で、僕はあたりを見渡す。足元の少し深いところには海藻が生い茂っていて、触ると気持ちよさそうだ。時々冷たい水流が僕の爪先に触れる。どうやら下の方と上の方では温度が違うらしい。昔理科で習ったお風呂の話を思い出す。

 何となしにゆらゆらと揺れる海藻の森を眺めていると、ふと〝それ〟を見つけた。

 遊泳可能な区域の境界線ぎりぎりにあったそれは白く、でもその白さは貝とかそういった類の白さではなくて、色白、すなわち肌の色を示す時に言う「白」だった。まるで人がそこで眠っているような、そんなふうに思えた。錯覚かもしれないが、ワンピースのようなものを着ている人のように見えた。

 僕は興味を惹かれてそちらの方へと泳いでいこうとした。しかし、友人の一人が僕の腕を引き、昼ごはんを食べようと提案してきた。食べ終わってからでもいいか、と思った僕はひとまずそれに頷いて、浜辺へと戻ることにした。



 海の家で買った焼きそばや焼きいか、かき氷なんかを食べて、それを含めて一時間ほど休憩した。すでにそれなりの疲労感はあって、眠気も微かながら覚えていた。それでも、僕はさっき見たものが頭から離れず、もう一度シュノーケルをつけて海に臨んだ。

 他の海水浴客をかいくぐりながら真っ直ぐに目指したつもりだけど、思っていたより遠く感じて、方向を間違えたんじゃないかと不安になりながら泳ぐことになった。蓄積した疲れが僕の足に嫌な引っ掛かりを覚えさせるせいで、こまめに休憩を入れないといけない。それでも、僕はそこへ向かうことを止める気にはならなかった。なぜかはよく分からないけれど、気になって気になって仕方なかった。

 時々爪先に冷たい海流が触れるようになった。そろそろ目的地に近付いてきたらしい。少し先に、海藻の生い茂っているのが見えた。僕がそちらに近付くと、あたりを泳いでいた小魚たちが一斉に逃げ出した。身を隠すにはもってこいの場所だったのだろう。申し訳ない。

 一度水面から顔を出す。荒れていた呼吸を整え、うまく扱えていないせいで徐々に溜まっていた海水をホースから出して、顔に装着し直した。さて、さっきの正体を見極めてやろうじゃないか。

 生い茂る海藻が、水の流れに合わせてゆらゆらと揺れる。そこに覗くのは、あの「白」。

 足。何も履いていない、足。

 僕は直感した。それほど大きくはない足。形の綺麗な足が、揺れ動く海藻の隙間から見えた。

 ――もっと見たい。

 感情の赴くままに泳ぐ。すると、頭に何かが当たった。それは、遊泳可能な区域とそれ以外を区切るロープ。

 迷った。

 ルールを守るか否か。

 謎を謎のままにしておくか否か。


 そして僕は――


 ロープをくぐった。


   ……


 それは、夢のようだった。

 そこだけが透き通った宝石の青。

 そこだけが煌めいて、輝いていた。

 ぼやけたような海藻さえも、不思議と景色を彩っている。

 そして、夢のような景色の真ん中に、

 少女がいた。

 少女は、布団に寝転がるようにして、大の字になっていた。

 足と同じように、露出している肌は全て「白」かった。

 どうして気付かなかったのか分からないほどに鮮やかな青のワンピース。それこそテレビで見るような、熱帯の海の色。

 真っ黒な長い髪はまるで翼かなにかのように広がって揺らめいていた。

 その少女と目が合った。

 少女は、僕に向かって微笑んだ。


   ……


 呆然。

 海の底に、どうして。

 さも当然のように、あり得ない情景があった。

 少女は息苦しそうなそぶりも見せず、ただ微笑んでいた。目を半月状にして、にっこりと。

 僕はどうしていいのか分からずに、ただ浮かんでいた。まるで海月だった。

 少女が手を差し伸べてきた。握手でも求めるかのように。

 少女の口が動く。

《おいでよ。一緒に遊ぼう》

 なぜか口から泡が出ることはなく、しかし声だけはしっかりと届いていた。遊ぼう。僕は確かにそう聞いた。

 躊躇う。当然と言えば当然だ。こんな不可思議な現象に、そう即座に対応できるものでもない。ただ、躊躇っている間に、僕の中で一つの結論が出た。

 これが、彼女が、人魚の正体だ。

 多少姿は違えど、水中で暮らしている人型の生き物が何種類もいるはずがない。それならとっくに見つかって、図鑑に載っていることだろう。

 誰も知らない出会い。僕と彼女だけの秘密。

 そう考えると、いっそのこともっと秘密を共有したいと思うのは特別変な発想ではない気がする。

 僕は少女へと手を伸ばす。しかしそれなりに深度があるせいで届かない。

 できるか分からないが、やってみよう。

 僕は息を大きく吸う。

 そして、強く息を吐きながら水中へと潜っていった。

 奇跡的に成功して、僕は難なく水中を進む。少女の伸ばす白い指に触れる。白い手に触れる。しっかりと握り合う。少女はまた微笑んで、体を反転させると、僕を引っ張るようにして泳ぎ出した。



 少女の泳ぎ方は少し不思議だった。

 体の形は人間と全く同じはずなのに、まるで魚やイルカのように軽々と泳ぐ。ワンピースも長い髪も妨げになっていないようで、僕が必死でバタ足をしているのがむしろ不思議なくらいだった。僕を引っ張っているはずなのに、それでも明らかに速く、オリンピックに出場すれば確実に優勝できるだろう。

 沈んだり浮かんだり、曲がったり止まったり、自由自在に泳ぎ回るさまは彼女が人魚の正体であるという僕の結論を裏付けていった。普通の海水浴では絶対に行けないような深いところを泳ぐのはとても新鮮で、友人たちに自慢したいような、自分だけの秘密にしておきたいような、そんな複雑な気持ちになった。

 ふと違和感に気が付いて顔に手をやると、シュノーケルがなくなっていた。息苦しくもないし、視界も滲まない。そういえば長い間息継ぎもしていない。もしかして、と思う。

《あの、》

 予想通り、僕にも〝声〟が出せた。少女は泳ぐのを止めて振り返り、《なに?》と尋ねてくる。

《あなたは、人魚、ですか?》

 なぜかたどたどしくなってしまうのは、慣れていないせいだろうか。

 少女は首を振って笑う。

《人魚じゃないよ。人魚だったら、足はないでしょ》

《確かに、そう、ですね》

《そうでしょ?》

 彼女はこちらに笑みを残し、再び僕の手を引いて泳ぎ出す。深く追及するのは野暮かと思い、僕は黙ってそれに従う。

 かなり沖に出てきた。下を見れば、海底は見えずに暗闇があるだけだ。上を見れば、きらきらと光る水面と、泳ぎ回る魚たちの黒い影。スキューバダイビングでもしないと見られないような深さに、僕は生身で息継ぎもせず、何十分といた。

《どこに、行くつもりなんですか?》

 元いた海岸がどの方角にあるのかも分からないことが急に不安になった僕は、せめて彼女の目的を知ろうと思ったけれど、

《うーん。どこに行きたい?》

 彼女は何も考えていなかったかのようにそう問い返してきた。帰りたい。そう思う気持ちが出てきたけれど、それを打ち消すほどに、海の世界、そして彼女は魅力的だった。いたずらっ子のような無邪気な笑みを僕に向けた彼女は、どうやら答えを待っているようだ。

 僕はしばらく考えて、ある物語を思い出す。

《竜宮城に、行ってみたい》

 冗談のつもりだった。海から連想しただけで、本気で行こうとなんて思っているわけではなかった。ところが少女は頷いて、僕の手を引く。

《わかった。竜宮城だね? 案内するよ》

 彼女はくるりと向きを変えて、再び泳ぎ出す。なにやらきょろきょろと探しているような素振りを見せているのが気になっていたが、しばらくするとその疑問も氷解することになる。

《あ、いたいた。おーい!》

 彼女が腕を振って呼んだのは、大きなウミガメだった。少女の声を聞いたウミガメはこちらへ悠然と泳いできて、僕たちの前で止まった。

《この人を竜宮城まで連れて行ってくれる?》

 ウミガメはなにやら音を発した。どうやらそれは言語らしいけれど、僕には理解できなかった。海中の世界にも、陸と同様に色々な言語があるらしい。これはウミガメ語なのか爬虫類語なのか。それは僕に分かるわけはないけれど、とにかくウミガメは承諾してくれたらしい。僕に甲羅を向けて、ひれで乗るように指図してきた。

《ほら、甲羅に掴まって》

 少女に促され、僕はウミガメに掴まる。水中だというのに陸にいるような心地で、両足で軽く甲羅を挟めばそれなりに安定した。

《落ちないようにね》

 少女は僕の左腕、肘あたりを掴んで泳ぎ出す。のんびりした旅になるだろう。

 そう思っていたが、実際はそうでもなく、むしろ彼女と泳いでいるときの方がのんびりしていたくらいだった。急旋回のような動きはなかったものの、気を抜くと後ろに置いて行かれそうで、実際に少女の助けがなければ何度か置いてけぼりになっていたかもしれない。

 すい、と急に角度が変わって、ウミガメが深く潜り出す。海底に、大きな罅になっているところがあった。まさかそこに入るのかと思っているとそのまさかで、急激に明度の落ちた世界へと吸い込まれていく。

 距離感も分からないようなほどの暗闇を、どれくらい進んだだろう。永遠にも思えるほど長い時間をそこで過ごしたような気がする。

《まだ?》

《まだ》

《もうすぐ?》

《まだまだ》

《そろそろ?》

《今で半分》

《……もう、着く?》

《もうちょっと》

《…………》

《そろそろだよ――ほら!》

 少女が楽しそうに声を上げる。それと同時に光があたりに満ちはじめる。僕の周りにはマリンスノーが降っていて、海底からの光に照らされて幻想的だった。

 狭い通り道を抜けると、まるでくりぬいたように綺麗な半球状の空間があった。どういう仕組みか、空間の中は淡い光で満たされていて、とても深海とは思えなかった。そして、その光で満たされた空間の中心、僕たちの真下に、竜宮城とおぼしき建物があった。

 それは、とてつもなく大きく、広かった。主要な建物だけでなく、大小さまざまな建物が建てられていて、その全てが美しかった。岩から削り出したのだろうか。地上にある建物とはどこか違う雰囲気を湛えていた。深海だというのにサンゴが壁を飾っていて、宝石もあまた輝きを放っていた。庭のようなところにはワカメのような海藻が繁茂していて、小さくて色鮮やかな魚から、ウツボやサメといった凶暴な魚まで、様々な魚がそこを泳いでいた。僕たちの来訪に気付いたのか、海藻の中から出てきて、歓迎するかのように僕たちの周りを泳ぐ。タコやイカが脚を絡ませ合って妙な形のオブジェを作り、カニやエビがハサミを掲げて楽しそうに跳ねる。クラゲはというと、こちらに興味を示しているのかいないのか、実にマイペースな様子で水中を漂っていた。

 そして、この歓迎ぶりを見て僕は思う。

《もしかして、君が乙姫?》

《違うよ》

 少女はやはり否定する。それならば、と聞こうとすると、ウミガメが何やら音を発し、少女が翻訳する。

《「そろそろ降りろ」って》

《ああ、そうか。ありがとう。ウミガメさん》

 ウミガメは僕の方をちらりとも見ようとせず、また何か言うと、天井の溝へと泳いでいった。

《「せいぜい楽しめ。これが最後だからな。あと爪を切れ」だって》

《爪……》

 見てみれば、確かに長かった。もしかすると肉に当たっていたのかもしれない。それなのに今まで文句を言わずに送ってくれたのか。不愛想だけどいい奴だ。

《それじゃ、行くよ》

 僕は少女に手を引かれて、海底へと降り立つ。少女が先に一歩前へ出て、くるりと振り返る。黒髪とワンピースの裾がひらりと踊った。ざっ、と魚たちが集合する。

《ようこそ、竜宮城へ!》

 少女が僕の手を取って、門をくぐった。


 中に入るとやはり石を削り出したものだと分かった。けれど、灰色の無骨な石ではなく、白い、貝殻のような滑らかな石だった。足元には絨毯が敷かれていて、踏むとふわふわして気持ちよかった。

 入り口に入ってすぐは広間のようになっていて、色とりどりの魚たちが泳いでいた。いや、踊っていた。何匹かの魚が何かを咥えて僕の元に寄ってきて、それが浴衣のような服だと分かる。思えば僕はここまで海パン一丁だったわけで、今更ながら恥ずかしかった。

 服を受け取って帯を締め、少し前で僕を待っていた少女の元へと走る。そう、走った。不思議とほとんど浮力は感じず、水の抵抗もそれほど気にならなかった。それでも陸上と全く同じ走り方ではなく、少し弾むような走り方になる。

 少女は僕が追い付くと、案内するように歩き始めた。

《なにして遊ぶ?》

《遊ぶ前に、いろいろ教えて欲しい、かな》

《そうだね。……それじゃあ、一番上まで行こうか》

 彼女はそう提案して、僕の手を引いた。階段を弾むように上る。通り過ぎた階にある部屋から、僕には理解できない言語で話す声が聞こえた。これは魚語というやつだろうか。さっきのウミガメ語とは違うように聞こえる。

 最上階に到着した。あまり真剣に数えていなかったが、恐らく十四階。水中だからだろうか、ありがたいことに、それほど疲れなかった。

 一回はいわゆる天守閣のような様相だった。ただし広さはそんなものではなく、体育館くらいの高さと広さがあった。金色の天井がきらきらと外の光を反射し、それを受けて照り輝く魚たちもまた綺麗だった。

 少女がふわりと浮かび上がる。陸のように歩けるのでうっかりしていたが、泳げないわけではない。僕もつられて浮かび上がった。真ん中あたりまでくると、彼女はまるで三角座りのようなポーズを取る。

《それで、教えて欲しいことって?》

 僕は立ったまま――少女が三角座りの体勢なのに対して表現するならばの話だが――、一つ目の問いを口にする。

《君は、誰、いや、何なんだ?》

 不躾といえば不躾だけれど、どうしてもこれだけは知りたい。他の何を差し置いても知りたい。

《私? 私がなにかって?》

 少女は髪を弄ぶ。しばらくの間を置いて、彼女は答える。

《私は、人間。ただし、元だけど》

《もと?》

《そう、〝元〟人間。今は、海に暮らす……、なんて言うのかな。名前なんて特に決めてないからわかんない。でも、人魚じゃないよ》

 少しスカートをたくし上げ、ひらひら、と白い足を見せてくる。いまいち要領を得ない答えだけれど、僕は質問を重ねる。

《仲間は?》

《仲間? ……ああ、そういうことね。いるにはいるよ。滅多に会わないし、そもそも相当少ないと思うけど》

《〝元〟人間って言ったよね? どうやって今の――今の状態になったわけ?》

 この問いに、少女は考える素振りを見せる。答えるべきか否かを思案しているようだ。

 気まずい静寂ののち、少女は躊躇いがちに口を開く。

《あんまり、教えるものじゃないというか、教えても意味がないというか……。難しいことじゃないんだけど、たぶん怖がるだろうし……》

《つまり、どうなのさ》

 何かを隠していることが丸わかりの口ぶりに、僕は思わず強く言ってしまった。

《あ、いや……、ごめん》

 少女の表情を見て、僕は即座に謝る。すると彼女は首を振り、静かに笑う。

《こっちこそ、ごめんね。……やっぱり、これは教えられないかな。でも、》

 彼女は僕の方に少し近付いて、

《誰でもなれるし、君もなれるってことだけは言っておくね》

《誰でも……》

 だからだろうか。恐らく彼女の生活は陸上の人間の営みと比べれば平和で自由なのだろう。争いだとか犯罪だとか、そういうものとは無縁の生活。むやみにそれを乱されたくないというならば、できるだけその方法を教えようとしないのは懸命な判断だ。

 周囲を泳ぐ魚たちの、何を言っているか分からない話し声が耳に入って、ふと新たな疑問が湧く。

《……どうして僕は、君と会話できているの?》

 この会話が通常の会話ではないことはどう考えても明瞭だ。人間が水中で言葉を話せば空気の泡が口から溢れ出てまともな音にならない。ところが今の僕は彼女となんの障害もなく水中での会話を成立させている。僕はもうすでに彼女と同じ存在なのか?

《それは、君がちょっとこっち側に来ているからだよ》

 少女は、なんだか哲学的なことを言った。こっち側ってどういう意味だ。しかもちょっとって。

《まだウミガメや魚の言葉は分からないでしょ? 今の君は私の世界に片足を突っ込んでる、とでも言えばいいかな》

《それはつまり、このままいけば君と同じ存在になる?》

《ううん。このまま話したり遊んだりしてても私みたいにはならないよ》

《そうか……、それならよかった。まだ陸にはやり残したことがいろいろあるから》

 自分の言ったことのせいで、不安に駆られる。

《ここ、竜宮城って言ったよね? ということは、たった三日で――》

《それはないよ。ここにはむしろ時間なんてものがないって言った方が正しいくらい。『浦島太郎』に出てくる竜宮城から名前を取っただけで、実はあの竜宮城そのものじゃないんだ。というか、あれはフィクションだから》

 僕の不安は一笑に付され、安堵する。そして、またもや新たな疑問。

《じゃあ、ここは一体?》

《竜宮城だよ。私たちが作った、客人をもてなすための》

 つまり、浦島太郎の竜宮城をモチーフにしたものというわけか。それでこれだけの建造物が作れるというのはすごいものだ。もしかすると、消えた古代文明の人々は海中に暮らしているんじゃないか。

《いつからここが?》

《さあ、それは私も知らない。私が今の存在になった時にはもうあったよ》

 疑問は尽きない。謎は減らない。

《他に、聞きたいことはある?》

 僕はひとまず頷く。どれから聞くべきか、優先順位が定まらない。

《焦らないで、ゆっくり考えていいよ》

 時間というものがないと言っていた。その意味はよく分からないが、半球状の空間といい、この巨大建造物といい、なんでも可能にしてしまいそうなにおいがここにある。

 なんとなしに外を見る。窓から見える景色は、夜の美しさを醸し出していた。ほの暗い中にマリンスノーが降り、心が安らぐような静寂が満ちている。こんなに美しいものを、僕は見たことがない。

《……どうして、人間を辞めようと思ったわけ?》

《どうして、って聞かれると困るなあ……。成り行きというか、まあ、人間の生活に嫌気がさしたからっていうのが一番かな》

《そんな若いうちに?》

 まさかこの世界では外見さえ操作できるんじゃないだろうな、とふと不安になる。しかし少女は外見通りの年齢らしく、寂しそうに笑った。

《人生は人それぞれだから》

《まあ、そうだけど……》

 出家みたいなものと思えばいいのだろうか。頭を丸めるよりははるかにましだろうけれど、それでも今までの人とのつながりを切るというのは相当な覚悟がいることじゃないだろうか。

《また、人間に戻れたりは……》

 こんな質問をするのは、少女やこの世界に少なからず興味を持っているからなのかもしれない。心のどこかで憧れているのだ。気ままで自由な生活に。しかし同時に、陸上の生活にも未練を残している。だから、こんな質問が自然と口をついて出たんだろう。

 少女は困ったような表情を浮かべる。もしかすると、知らないのかもしれない。それか、人間に戻ることなど考えたことすらなかったか。

《確か……、戻れないわけではないけれど、むやみに戻ったりはできなかったはず……》

 自信なさげな回答。よくない質問をしてしまった。彼女はこの生活を楽しんでいるだろうに、よりにもよって、まるで人間の世界に戻そうと考えているふうに言ってしまうなんて。

《べつに、君を人間に戻そうと思って聞いたわけじゃないんだ。……僕がもしこの世界の住人になって、でもやっぱり陸の世界に戻りたい、なんて思ったときに戻れるのかなって思っただけだから》

 すると、少女は《ふふっ》と笑い声を漏らす。

《全然、そんなこと思ってなかったのに。初めから分かってたよ。興味で聞いてるだけだって》

 でも、と彼女は続ける。

《人間の世界に戻ろうと思ったことはなかったなあ。こっちのほうが断然楽しいし、自由だし、不便に思う時もないし。理想の世界だよ。ここは》

 そう言うと、少女は窓の外を見た。僕もつられて窓を見る。さっき見た景色に、新たな彩りが加えられていた。

 銀色の帯のようなものが漂っていた。

 漂っているわけではない。あまりにも長く、悠然としているせいでそう見えただけで、それは泳いでいた。

 だんだんとこちらに寄ってきて、その姿がさらにはっきりと見える。頭から背中にかけて赤いひれが付いていることに気が付いた。あれは、水族館で見た。泳いでいる姿ではなく、標本として。

《リュウグウノツカイ、だよ。見たことある?》

《……生きたのは初めてだ》

《綺麗でしょ》

 ゆったりと、くねくねと泳いで、僕たちの方へやって来る。少女はそれを迎えるように窓へと泳いでいき、リュウグウノツカイの顔に触れる。

《どう? もうすぐ?》

 彼もしくは彼女は口をぱくぱくと動かし、僕に理解できない言語で少女に何かを伝えた。

《そう、分かった。ありがとう》

 少女がそう言うと、リュウグウノツカイは体をくねらせて再びどこかへと泳いで行ってしまった。遠く離れても帯のように長い体がいつまでも輝いていて、いつまでも綺麗だった。

《そうだ、私の家で遊ぼうよ》

《家?》

 唐突に言われ、オウム返しになる。

《そう。ついて来て》

 少女は僕の腕を引き、すい、と泳ぎ始めた。


 不思議なことがひとつあった。

 ここは水中で、自由自在に泳げるはずなのに、少女はできるだけ建物の中を歩いて通るようにしていた。〝面白いもの〟を見に行くときもやはり律儀に歩いて、四階分の階段を下り、建物同士に建てられた橋をいくつも渡った。どうして泳がないのかと尋ねてみると、《だって、せっかく歩けるのに、泳いじゃったら建物がかわいそう》とのことだった。ちなみに、橋が十階でつなげられているのは、一番低い建物が十階だかららしい。

 そうして辿り着いたのは、その一番低い十階の建物だった。

《ここ全部が、君の家?》

《そうだよ。まだ使ったことのない部屋の方が多いんだけどね》

《これは、人間界で暮らすよりいいなあ》

 僕が一生死ぬ気で働いても、こんな家には暮らせないだろう。さすがにここまではいらないけれど、この半分だって実現できる気がしない。

 内装も派手やかで、赤と白を基調とした壁や柱で彩られ、ところどころに金色が見える。さらに、外部から差し込む光がそれを際立たせていた。

《いいでしょ? こっちこっち》

 少女が僕を手招きする。ワンピースを翻し、ひらりと部屋に入っていった。

 僕が部屋に入ると、大量の楽器が僕を迎えた。その真ん中にいるのは、もちろん少女だ。

《ここは……?》

《見ての通り、音楽室だよ》

《これ、全部弾けるのか!?》

《まさか。ほとんど弾けないよ。もしかしたら、君が弾けないかなって思ったんだけど、どうかな?》

 首を傾げて尋ねてきた。期待の眼差しも感じたが、残念ながら、僕にはピアノのピも弾けない。音階にそもそもなかった。

《ごめん。楽器は演奏できないんだ》

《そっか、残念》

 彼女は言葉のわりにうきうきとした様子で、手近にあった楽器を手に取る。三味線のような見た目の楽器だが、僕には詳しいことは分からない。少女は特に何も説明することなく、演奏を始めた。

 聞いたことのない曲だった。楽しげでも悲しげでもなく、かといって面白くないわけでもなく、引力のような、何か引っ張られるような感覚があった。いつまでも聞いていたいような、同時に聞いていてはいけないとどこかが叫んでいるような、両極の感情がごちゃ混ぜになる。

 時間を忘れるような陶酔状態にでもなっていたのだろうか。いつのまにか演奏は終わっていて、気が付いた時には少女が目の前にいた。

《よかったよ》

 僕は感想を求められているのだと思って、そう言った。不可解な感情は未だ渦巻いていたけれど、とても心地よかった。

 ところが彼女は僕の言葉に耳を貸さず、両手を強く握ってきた。

《君は、ここで暮らしたいと思う? それとも、ここで暮らすのは嫌?》

《急に、何を……?》

 まるでプロポーズのような言葉に、僕は混乱する。彼女の意図が全く見えなかった。

《そもそも僕は、まだ人間だよ?》

 彼女のような存在には憧れるけれど、彼女のようになりたいとはまだ思ってはいない。まだ人間としての未練はあるし、というより未練ばかりだ。彼女はいったい何をするつもりなのか、全く分からない。

《淋しい……》

 とても、小さな声だった。少女が俯いていたせいで、聞き取れたのは奇跡に近かった。

《みんなと……魚たちといるのは楽しいよ……。でも、やっぱり淋しい……。ずっと‟一人”なのは、辛い。淋しいのに、誰も私を見つけてくれない。ずっと、ずっと待ってるのに……》

 少女の頬に、涙が伝った。


 孤独。


 僕には、その悲しみは分からない。けれど、彼女が悲しんでいることは分かる。

 思い返せば、彼女と出会ったのは海水浴場の遊泳区域の外だった。あまり浅瀬には行きたくないのか行けないのか。そこまでは分からないけれど、彼女はあの場所で、いつも誰かに見つけてもらうのを待っているのだろう。

 気持ちが揺らぐ。

 彼女のためにここにいてやりたいという気持ちと、やはり人間世界での未練をできるだけなくしておきたいという気持ちと。

 揺らぐ気持ちをなんとか収めようとするが、なかなかうまくいかない。

《淋しい……》

 少女の握る力が強くなった。

 僕は、ひとつの答えに辿り着いた。

《あのさ》

 僕は、考えながら口を開く。

《僕はまだ、人間を辞めたくない。でも、君を一人で放っておくこともしたくない。だから……、だから、時々、会いに行くよ。……難しいけど、絶対に、一年に一回は、必ず。……どうかな? ……それで、僕の気持ちが固まったら、ここに住む。それまでは――》

《嫌だ》

 さらに力が強くなる。

《どうして、待たないといけないの? ずっといてよ……。今から、ずっと……》

 嗚咽が漏れ始める。少女の気持ちは痛いほど分かる。だけど、少女の望みは叶えられない。いつか時が経てば叶えられる日は来るかもしれないけれど、今は、まだ……。

《ごめん。……本当に、ごめん》

 謝ることしかできない。目の前に苦しんでいる人がいるというのに助けられないのは辛い。だけど、全てを犠牲にできる覚悟は、今の僕にはない。

《……うん。仕方ないね……》

 少女は僕から手を離し、自らの涙を拭う。何か言うべきかと迷っていると、銀色の帯が僕たちの間に入り込んできた。リュウグウノツカイだ。少女の体に巻きつくようにすると、銀色の無表情で、口だけを動かして少女に何かを伝える。

《うん、うん。ありがとう》

 少女は相槌を打ち、リュウグウノツカイに礼を言った。リュウグウノツカイはするりと少女から体をほどくと、再び海の中へと泳ぎ出していく。少女はそれを見送って、僕の方へ顔を向ける。

《ご飯の準備ができたって。宴会だよ》

 涙の乾ききっていない目のせいで、笑顔は泣き笑いのようだった。


 僕たちは初めにいた十四階建ての建物にいた。橋を渡り歩いたので、今は十階にいる。少女の手を握り、引かれるままに進む。階段を五階分下りて、祝宴の部屋のようなところへ連れてこられた。そこには既に料理が並べられ、そのほとんどが、

《魚たちの前で、魚を……?》

《そう》

《怒ったりはしない……?》

《大丈夫》

 彼女はそう言って、椅子が二つ並べられた、他とは離れた席に座る。僕も促されるまま、隣に座った。読めない文字の書かれた、何か液体の入った陶器製の瓶が置いてある。お猪口のようなものがあるから、たぶん酒だろう。さっき僕たちを迎えた魚たちもぞろぞろと入ってきて、長い机の前に座っていく。座るというか場所取りをしているだけというか。

《さあ、食べて。お客さんが食べ始めるのが、始まりの合図だから》

 少女がそう言って僕を促す。魚たちはやっぱり僕には分からない言語で騒いでいて、楽しそうだ。目の前に同胞の死体が並べられているようなものなのに。

 でも、よく考えてみると、共食いでなければ彼らは気にしないのかもしれない。サメが魚を食べずにいられるはずはないし、何も全ての魚が魚を食べるわけじゃない。

 そんなどうでもいいことを考えながら、料理を眺める。

 生のものから火の通ったものまで、たくさんの料理があった。魚だけでなく、エビやカニ、タコやイカも並んでいた。海藻も飾りつけとして使われていて、海限定でもそれなりに美味しそうになるんだな、とまたもやどうでもいいことを考える。

 初めは刺身から食べようか。

 特に理由はないけれど、そう決めた僕は箸を手に取る。

 刺身の一切れをつまんで口に運ぶ。

 あと少しのところで、急に視界が歪んだ。


   ……


 時が巻き戻るようだった。

 少女の泣く姿。

 少女が音楽を奏でる姿。

 少女が天守で笑う姿。

 少女が僕を竜宮城に迎える姿。

 闇から抜けた時の感動。

 海底にある大きなひび割れ。

 ウミガメの甲羅に跨った感覚。

 《人魚じゃないよ》と答えた少女の笑顔。

 海底で大の字になって笑う少女の姿。

 なんの感動も生まない海の景色。

 砂浜。

 真っ黒。

 真っ白。


   ……


 目が覚めると、そこは病院だった。

「おい! 目が覚めたぞ!」

 誰かが言った。

 どたどたと騒がしい足音がして、僕の視界に友人たちの姿が現れた。

「お前、自分がどうなってたか分かるか?」

 僕はうまく動かない首を何とか横に動かす。


 そして、友人の一人が、僕にそれを告げる。


「遊泳区域の外で、!」




――伊邪那岐命は死んだ伊邪那美命にどうしても会いたくなり、黄泉国へ追っていった。黄泉国の殿舎の塞がれた戸から出迎えた伊邪那美命に向かって、伊邪那岐命は「愛しい我が妻よ、私と君と一緒に作った国はまだ作り終わってはいない。だから一緒に帰ろう」といった。これに伊邪那美命は答えて「悔しいことです。なぜもっと速く来てくれなかったのです。私は黄泉国の竃で煮たものを食べてしまいました。もう現世には戻れません」――

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