クテンはどこへ消えた?③
締め切りの嵐は森の向こうから来ているようでした、この森はドツボの森といって、ソーサクの村の住人が立ち入ると「自分の物語はおもしろくない」「誰も認めてくれない」という闇の思考に苛ませる地獄のような場所なので、村の住人はここに近づいてはならないと古来より戒められてきました
夕方になると森の奥からカラスの啼き声がこだまします、これはゴジガラスの啼き声で、夕方五時の時刻を伝えるのではなく、物語の誤字や脱字を指摘してけちょんけちょんに貶めるという、世にも恐ろしい啼き声なのです
「まさか……この森のなかに……」
トーテンウサギが森の入り口で立ち尽くしていると、ふいに頭上の木の枝で物音がしました
「わっ!」
驚いたトーテンウサギがそちらの方を向くと、一羽の鳥の影がありました、あれが悪名高いゴジガラスか、と瞬時に身を固くしましたが、その影の正体はカラスではなくカギカッコウでした
「なんだ……カギカッコウさんか、びっくりしたなあ、もう」
「」
カギカッコウは物語中の会話文に鉤括弧をつけてくれるので、村の住人からとても重宝がられていますが、自分自身はしゃべれないため、こうやって村のはずれでのんびりしていることが多いようです
「そうだ、カギカッコウさん、クテンネコを見なかった?」トーテンウサギはカギカッコウに問いかけます、「今朝から姿が見当たらないんだ、もうすぐ締め切りが来るのに、物語から句点がなくなっちゃって」
「」
トーテンウサギはふたたび絶望しました、カギカッコウとの会話は、ハテナクマのときよりもよりいっそう成立しなくなっていたからです、ものをしゃべらない相手に話しかけるなんて、独り言をいっているのと同じことです
「」
そしてカギカッコウは、トーテンウサギの言っていることを聞いているのかいないのか、ずっと森のほうを向いています、トーテンウサギのほうを見てくれるのは、数秒に一度だけ、という有様でした
「ああ、どうすればいいんだろう……」
「」
カギカッコウはいまもずっと森のほうを向いています、そしてたびたびもの言いたげにこちらのほうを向くのです、森に巣食う闇に蝕まれていくような絶望のなか、しばらくカギカッコウを見つめていたトーテンウサギでしたが、しばらくしてカギカッコウの真意に気づきました
「そうか、カギカッコウさん、やっぱりクテンネコは森にいるんだね!?」
カギカッコウがこちらを向いている間は「きみの言葉を理解している」のサイン、そして森の方角を見つめていたのは「きみの探し人はあの方角にいる」のサインだったのです
「」
カギカッコウは無言でうなずきました
「そうか、ありがとう、カギカッコウさん!」
トーテンウサギがお礼を言うと、カギカッコウはばさばさと翼を羽ばたかせて飛び立っていきました
その姿を見送ってから、トーテンウサギはドツボの森の奥を見つめました
トーテンウサギもクテンネコも、幼いころは友人たちとおもしろ半分で近づいたこともありましたが、あまりの不気味さに入る勇気はありませんでした、見たこともないような怪物の姿を想像し、そら恐ろしい気配を感じ、いつもみんな一目散に逃げてゆくのでした
しかし今日は、逃げるわけにもいきません、クテンネコの身が危ないのです
トーテンウサギは深呼吸をし、意を決して森のなかへ入って行くのでした
○
森は深い闇に沈み、トーテンウサギは生と死の境目にいるような錯覚を覚えました、ここにいてはならない、と直感が呼びかけています、物語のなかに暮らす村の住人は、ここへ来てはならないと
しかしトーテンウサギは歩き続けました、カギカッコウが指し示してくれた方角に、クテンネコがいるのです
「おーい、クテンネコ」トーテンウサギは恐るおそる呼びかけました、「どこにいるんだ、返事をしてくれ」しかしその声に応えるのは、得体の知れない鳥の啼き声と、嵐の到来を予感させる物々しい風の音だけです
「もう……どこ行ったんだよ……」
トーテンウサギは早くも心が折れかけました、この場所にいては、ソーサクの村の住人である自分の人生が価値のあるものなのか、というように思考がドツボにはまってしまいます、トーテンウサギはあまりの自己嫌悪にうつむきました
しかしそこで奇跡が起きました
うつむくと、なんと自分の足許には、ネコの肉球の形をした足跡があったのです
「これは!」
トーテンウサギは足跡をたどって駆け出しました、しばらくすると木々の生い茂っていた森から、やや開けたような場所に出ました、淡い月明かりに照らされたその空間の真ん中に、トーテンウサギは探し人の姿を認めました
「クテンネコっ!」
トーテンウサギの呼びかけに、影はぴくりと反応しました
「トーテンウサギか」
「どうしたんだよクテンネコっ、今朝から姿が見えないからみんな心配してるんだよ」
「もういいよ」
冬場の鉄棒みたいに冷えきったクテンネコの声を聞いて、トーテンウサギは身を震わせました
「放っておいてくれよ。オレのことなんか、ほんとうは誰も心配してないだろ」
事態は思った異常に深刻なようです、一刻も早く連れ出さなければ……いまにも荒れ狂いそうな不気味な風が森を通り抜けて行きます
「そんなこと――」
「――そんなことないって、どうしてわかるんだ? 自分の人生に価値があるかどうかは、オレひとりじゃ決められない。じゃあ誰が決めるのか……?」
クテンネコは問いかけました、しかしその問いかけは、トーテンウサギに向けられたものではなく、不気味な鈍色をした虚空に、そしてクテンネコ自身に向けられているようでした
「それは世間様が決めるんだ。世間の目がひとの人生を、品定めして、評価して、値札をつける。値段がついた人生だけが市場に並び、誰かに選び取られることができる。じゃあ……」クテンネコはそこでひと呼吸おきました、「選ばれなかった人生は、価値が付かなかった物語は、そのあと、どうなるんだ? わかるか、トーテンウサギ」
クテンネコの言葉に、トーテンウサギは応えることができませんでした、ドツボの森に充満する瘴気に、ついに彼も当てられてしまったのです
――選ばれなかった人生は、価値が付かなかった物語は、そのあと、どうなるんだ?
トーテンウサギはクテンネコの言葉を反芻しました、なにも言葉を発することができません、ビックリリス、ハテナクマ、サンテンリーダー、カギカッコウ……村の住人たちの顔が脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消え、トーテンウサギの意識は薄れていきました、そのまま二人は森に立ち尽くし、ただ人生が、物語が朽ち果てて行くのを待つばかりでした……
「おーい! トーテンウサギ! クテンネコ!」
トーテンウサギは、森のなかからやかましい声が聞こえてくるのを感じ取りました、その声で彼ははっきりとした意識を取り戻しました、いけない、クテンネコを連れて、みんなのいる村へ帰らなくちゃ……!
トーテンウサギはクテンネコへ向かって言葉をかけました
「クテンネコ、確かにぼくらの人生は、誰にも評価されずに終わってしまうかもしれない、それはとても哀しく、とても怖いことだ、けれど、それってほんとうにつまらない人生なのか? たくさんの人たちに支えられて、たくさんの人たちと助け合って、たくさんの人たちと笑い合った人生が、ほんとうにつまらないものなのか?」
クテンネコは静かに虚空を見つめたままです、しかしトーテンウサギは語りかけ続けました
「きみの物語の登場人物は、きみだけじゃないんだ、きみの物語が終わるときには、たくさんの『名脇役』たちが一緒に立って、客席の拍手に応えてくれるだろう……そのとききみはどんな気持ちだい? 『ああ、つまらなかった、意味なんてなかった』って舞台を降りるのかい?」
そうじゃないだろう、とトーテンウサギが語りかけたときでした
「あ! いた! トーテンウサギだ、クテンネコもいるよ、みんな!」
「大丈夫クマー?」
「心配かけおって……カギカッコウがおらんかったら、いまごろどうなっていたか……」
「」
クテンネコは静かに顔を上げ、ビックリリス、ハテナクマ、サンテンリーダー、カギカッコウ、そしてトーテンウサギを順に見つめました……そしてその目には、確かな温度のある光が宿っているように見えました。
「あっ!」
ビックリリスが叫びました。相変わらずやかましい叫び声ですが、それを咎めるものはその場にはいませんでした。
だって、その場にいた全員が、目の前で起こった奇跡みたいな出来事を、祝福していたのですから。
「クテンネコが笑った! よかった、森に入ったって聞いたから、どうなることかと!」
「よかったクマ?」
「いや……ワシに訊かれてもなあ……」
「別に訊いてないクマ?」
「ああん……? 何じゃと……どういうことじゃ……?」
「」
そんな騒々しい森の住人たちを眺めながら、トーテンウサギとクテンネコは笑い合いました。
「どうだ、これでもつまらない人生か?」
「もうやめろよ、トーテンウサギ。オレが悪かったよ」
「ああ、昨日はぼくも悪かった。赦してくれよ」
「もうやめろって」
クテンネコがトーテンウサギを小突きます! 何とも微笑ましい光景! この雰囲気にはやはりびっくりマークがぴったりです! やった! 完全勝利! ビックリリス様天才すぎるっ!「うるせえっ!」
トーテンウサギはビックリリスをぶん殴りました? こんどはしっかりとヒットしたので、流れ弾に当たらなかったハテナクマは胸(みぞおちあたり)を撫で下ろしました? ああ? よかったよかった?「悪ノリするなよハテナクマ、せっかく物語に句点が戻ってきたのに……ていうかハテナクマ、そんなにぼくに殴られるのびびってたのか」
「お前ら相変わらずバカだなあ」
クテンネコがふざけ合う住人たちを見てまた笑いました。それにつられて住人たちも笑いました。そうして彼らは、いつまでもいつまでも笑い合いました。
「そうだ、もうすぐ締め切りが来ちゃうよ。みんな、早く村へ帰ろう」
ひとしきり笑い合ったあと、トーテンウサギがそう言い出しました。締め切りは恐ろしい嵐ですが、でももういまは怖いとは思いませんでした。
だってぼくには、みんなと一緒に帰る場所があるんだから。
トーテンウサギにとって、こんどの物語は、なんだかとても良いものになる気がしてなりませんでした。
めでたし、めでたし。
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