夏の速度と、蒼い海症候群③

 目を覚ますとそこは病院だった。

 どうやら、海辺でそのまま気を失い倒れてしまったらしい。海辺で眠るなんてなにを考えているんだ、死にたいのかと医師からも看護師からもひどく怒られた。

 死にたかったのだろうか。私はあの夜、みずからの生命が終わることを望んでいたんだろうか。たぶんそうではない。「死にたい」わけではないんだ。死ぬ時、死ぬ場所を自分で選びたいだけなんだ。「願いが叶う座礁船」は、まだ私の願いを叶えていない。死ぬのはそれからだ。

 彼と逢わなくなって、もう二週間近くがたっていた。もうすぐ夏は終わる。でも、いつまでたっても戦争は終わらない。

 窓の外を見た。青い空と深い木々の緑が濃い影をつくり、まるで油絵みたいに鮮やかに見える。飛行機が空を引き裂いた軌跡が、だんだんと空の青を白く塗り潰していく。なまあたたかい晩夏の風が、静かな時を運んでくる。この光景に名前をつけるとしたら、「この夏の終わりに」かな、と私は思った。私のまわりでたくさんの出来事が起こった、この夏の終わりにふさわしいほど鮮やかな光景だった。



『東京海に打ち上げられた“敵“の研究を進めている民間の軍事企業が、本日“敵“に関する驚くべき事実を発見したとのことです。放送予定を変更し、ただいまより緊急記者会見の模様をお送りいたします』

『——東京海で打ち上げられた複数の“敵“の遺骸を回収し調査したところ、当社は驚くべき事実を発見いたしました。“敵“の遺骸のDNAは、われわれ人間のDNAと酷似しておりました。これがどういうことかと申しますと、“敵“はもともとは人間であった可能性が高いということです。たいへん申し上げにくい事実ですが、“は人間のなれの果て・・・・・・・・・だということです。……みなさん落ち着いてください、質問はあとで受け付けます。順を追って説明しますと、“敵“は新種のウイルスへの感染により、脳や身体の組織が突然変異を起こして発生するものです。このウイルス——便宜上「UMウイルス」と命名します——は、人体に感染してから約二週間の潜伏期間をもって症状が現れはじめます。初期症状は、極度ののどの渇き。これはおそらく、水辺でしか活動できない“敵“の習性の前兆でしょう。そして、UMウイルスに感染してから約一ヶ月で、人体は完全に変異し、“敵“の姿になります。このときはすでに、「自我」や「人格」はないものと推定されます。自我を失った“敵“が人間を襲い、被害者はUMウイルスに二次感染して、“敵“となってふたたびべつの人間を襲う。この繰り返しによって、“敵“はその勢力を拡大しているのです。

 なお、現在当社では、このウイルスに対する抗体を研究中です。現在膠着状態にあるこの戦局を打破するべく、われわれは全社を上げて開発に取り組んでいます。この活動に賛同いただける方は、ぜひ当社への寄付金をご検討ください。また、当社では勇敢な志願兵の方々を募集し——』


『——次は本日の“敵“来週予報です。本日は東京海への“敵“の進撃が予想されます。決して海辺には近づかないように——』


   ◯


 私は静かに目を閉じた。

れい

 彼が呼ぶ声が聞こえる。彼の笑顔が脳裡に浮かんでくる。

こうくん」

 私はそれに応える。彼は私の名前を呼び続ける。「澪」とやさしい声で語りかけてくれる。

「航くん。いま行くよ」

 それに呼ばれるように、私は病院を抜け出した。

 夜の街はしんと静まり返っていた。点灯している街灯は少ないが、不思議と怖くはなかった。彼の呼ぶ声を聞いていると、ひとりじゃないように思えた。

 どのくらい歩いたのかはわからない。気が付くと、私は海辺にいた。ざあ、ざざあと波の寄せる音が響いている。銀色の月の光に照らされて、深い蒼に浮かぶ座礁船。遠く水平線にはきらきらと戦火が瞬いている。満月の銀、戦火の赤、深い海の蒼。そして、この夏の終わりに煌めく、かすかな生命の輝き。

「航くん」

 私は彼の名を呼んだ。すると彼は、ひらひらと手を振ってそれに応えてくれる。

「やあ、澪。久しぶりだね」

 そう言って彼は微笑んだ。久しぶりと言ってもたった二週間なのだが、なんだか何十年ものあいだ離ればなれだったようにも思えて、私はとくとくと早まる胸を抑えた。

「どうしてここがわかったんだい?」

「どうしてもなにも、航くんが呼んでくれたんじゃない」

「僕の声が届くとは思わなかったよ。元気?」

 それの言葉を聞いて、私は吹き出してしまう。

「『元気?』じゃないよ。だれのために歩き回ったと思ってんの」

「ごめんごめん」

 ざあ、ざざあ。

「いつ気づいたの?」

「今日テレビで見たの。発症するのは感染してから約一ヶ月だって聞いた。私が秩父に行ってから、まだ二週間しかたってない。計算が合わない」

「そうだね」

「初期症状として、『極端に水分をほしがる』ようになるみたい。水のあるところでしか活動できないから、その前兆としてたくさんお水を飲むんだって。それが発症の二週間前。ちょうど私たちが最後に会った日」

「うん」

「航くん、たくさんお水飲んでたね。コーヒーも珍しくLサイズだったし」

「そうだっけ」

「そうだよ。航くんのことならなんでも知ってるよ」

 彼は静かに顔を伏せた。

「……見せたかったんだ」

「……え?」

「『願いが叶う座礁船』。きみに見せたかったんだ。きみが秩父に行く前に、早く戦争が終わって東京に戻って来られるように、願いを叶えてやりたかったんだ。だから海辺に行った。そしたら——」

「……」

 私は彼を見つめた。わかっている、これは幻想だ。私がいま見ているのは、この夏の終わりに海のあおが見せる、蜃気楼のような儚い夢だ。

 群青症候群ウルトラマリン・シンドローム

 PTSDみたいなものだという。

 戦争で強い心的ストレスを受けると、“敵“を連想させる海の深い蒼が神経を刺激して、幻聴や幻覚を呼び起こす。これもその症状なんだろう。そう、それはある種の病気のようなもの。自分の意志では選び取ることのできない、「生命」という名前の致死性の病。

「私も見つけたんだよ」

「見つけた?」

「そう。『願いが叶う座礁船』。この場所で、見つけたの」

「……なにをお願いしたの?」

 私はひと呼吸おいて、彼にこう言った。

「また航くんに逢えますようにって。私の願い、叶ったね」

 遠く水平線に浮かぶ戦火。ひとつ、またひとつと輝いては消え、輝いては消えを繰り返している。

「叶ったんだよ、私の願い」

 ぽろぽろと大粒の涙が目から流れ落ちた。ざあ、ざざあと、波の音は私のすすり泣く声をかき消していく。

 そう、叶ったのだ。「彼に逢いたい」という私の願いは、この美しい戦火の夜に叶った。“敵“と化した彼に再会するという、考えうるかぎり最悪の形で。

 幻想が消えた。私の目の前には、変わり果てた“彼“の姿があった。“彼“のうなり声が海辺にこだまする。私はポケットから小振りのナイフを取り出した。月の光を受けてナイフが銀色に閃く。“彼“の紅い眼がナイフの閃きを捉えた。それと同時に、私は“彼“の喉元にその閃きを突き立てる。ぷしゅう、という間の抜けた音とともに、真っ赤な液体が夏の空に舞った。

「航くん」

 "I was born"。私たちは生まれてしまった。それは病気のようなものだ、と彼は言った。ううん、ちがうよ航くん。生きるということは祈りのようなものなんだよ。願いが叶うことを祈りながら、人々は与えられた生命を生きる。祈りの成就、それが生命の本質であり、終着点なんだ。

 “彼“が砂浜に倒れた。波打ち際の蒼はみるみるうちに赤く染まっていく。

 波をかき分けて、私は海を進んだ。座礁船はなにごともなかったかのように。静かにそこに佇んでいる。

 私は空に浮かぶ銀の月を見つめた。その下方には、赤く煌めく戦火が空から墜ちた星のように瞬く。ざあ、ざざあと海の断末魔のようなささやきが聞こえる。

 航くん、見て。この夏の終わりに見た蒼い海は、こんなにも美しい。

「航くん」

 私はもういちど彼の名を呼んだ。きっとまた逢える——そう信じて、私は自分の心臓にナイフを突き立てた。うすれゆく私の意識は、ゆっくりと深い海の蒼のなかに沈んでいった。

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