夏の速度と、蒼い海症候群②

 秩父での暮らしは穏やかに過ぎていった。

 ”敵”の戦力は強大だが、どうやら水のそばでないと活動できないらしく、内陸部の町は戦争の影響を受けることがない。沿岸の都市は壊滅したが、内陸は安全だということで、私はここ秩父に疎開することに決めたのだ。

 テレビのニュースは、はじめのころは連日戦争の話題を報道していたものの、戦争が膠着状態となると、しだいに報道しなくなった。芸能人の不倫報道、政治家のカネの問題……公共の電波に乗せて垂れ流される下衆な話題の数々をぼうっと眺めながら、私は過ぎ行く日々を過ごしていた。

 その日も私は、垂れ流されるニュース番組の映像をなんとはなしに見つめていた。自衛隊の軍備強化のための財源を確保できるよう、首相が増税を検討している、と言っている。祖父がとなりで「今月もきついってのに、政治家はなにをやっとるんだ」と不満を垂れている。そろそろこっちで仕事みつけないとなあ、とのんきに考えごとをしていると、ニュースは次の話題に切り替わった。

『特定沿岸危険区域に指定されている東京都赤羽地区で、本日未明、“敵“の遺骸と思われる物体が複数発見されました。物体は海岸に打ち上げられており、昨日の東京海とうきょうかい海上での戦闘で発生したものと思われます。“敵“の打ち上げは今夏で四件目であり、研究機関は“敵“の正体究明に全力を挙げています。また、打ち上げられた物体のうちのひとつにはペンダントが絡み付いており、警察は戦闘での被害者の所有物である可能性を視野に入れ、被害者の捜索に当たっています』

 私は溜息をついた。「被害者の捜索」といっても、いつも被害者の身体は発見されないのだ。“敵“に襲われたと思われる人々は、決まって忽然と姿を消してしまう。“敵“に襲われた遺体が見つかったことなんていままでない。“敵“に襲われた人には、永遠の眠りについたその安らかな姿にさえ、二度と逢うことはできない。

 テレビの映像に視線を向けたとき、私の目に飛び込んできたものを見て、私の心臓は震え上がった。

 テレビの映像には、私があのとき彼にあげた、小振りのペンダントが映っていた。

 まさか、彼が——。

 いや、落ち着け、私。被害者の確認はできていないというんだ。だいいち、あのペンダントが彼のものであるかどうかなんてわからないんだ。もしかしたらまったくおなじものを赤の他人が持っていたのかもしれない。ありきたりなペンダントだ。私とおんなじような思考回路を持った人が、しばらく逢えない恋人に贈ったものだという可能性もありえる。

 でも、ほんとうにそうなのか? 見つかったのは赤羽だ。以前私が住んでいたアパートのある街だ。これはほんとうに偶然の一致なのか? 私の住んでいた街の海岸で、私の贈ったペンダントとまったくおなじものが見つかるなんて、ほんとうにありえるのか?

 もし仮にあれが彼のものだとしても、被害者自身はまだ見つかっていない。もしかしたらペンダントを落としただけかもしれない。赤羽の海岸を歩いているときにペンダントを落として、それが偶然“敵“の遺骸に絡み付いて……。

 私の頭ははち切れそうだった。これ以上なにかを考えたら、容量不足で破裂してしまいそうだった。

こうくん」

 私は彼の名前を呼ぶ。すると、あのとき喫茶店で聞いた彼の言葉をふいに思い出す。

 ——僕はいやなんだ。

 ——なにもできず部屋でじっとしているよりはよほどいい。

 ——れいはどう思う?

 いつのまにか私は、荷物をまとめて出かける準備をしていた。祖父が「どこ行く、澪」と訊ねてきたが、それにちゃんと応えている余裕はなかった。「ちょっと」とだけ言い残すと、私は祖父の家を飛び出した。


   ◯


 池袋にあるアパートに彼の姿はなかった。ついさっきまで人間が生活をしていたにおいはある。しばらく部屋のなかで待っていたが、彼が帰ってくる気配はなかった。このあたりは、海沿いではないため特定沿岸危険区域にこそ指定されていないが、海は近いため川を上ってきた“敵“に襲われる危険性は高い。はやくこんなところ引っ越せばいいのに、と私は彼の頑固さを恨めしく思ったが、それどころではないことを思い出して、アパートを後にした。帰り際、部屋のなかをすこし物色してみても、あのペンダントは見つからなかった。

 東京の交通網はほとんど分断されていて、京浜東北線や埼京線は海に沈み、山手線も内陸側の一部だけがかろうじて動いている。バスやタクシー事業も東京から撤退し、池袋から赤羽まで移動できる手段は徒歩だけだった。

 私は赤羽まで歩き続けた。戦争の爪痕は街のいたるところに残っている。舗装された道路はでこぼこと波打ち、まともに歩くこともままならない。池袋を発って二時間ほどたっただろうか、幾度となくつまづきながらも、私はようやく赤羽にたどり着いた。

 街は変わり果てていた。建物は破壊され、残骸が道路に散乱している。信号機の多くはへし折られ、一本も灯りが点いていなかった。歩いている人もいない。「特定沿岸危険区域」といってもその範囲は沿岸地域のほぼ全域なので、自衛隊の警備の手も行き届いておらず、区域への立ち入りは容易だ。でも、やはりみずから進んで死にたい人もいないのだろう。こんな危険な街に暮らし続けたいと思うような人はいないようで、街は水を打ったように静かだった。

 アパートはまだその原型を残していた。海岸からすこし距離があるため、周辺は街なかと比べると被害は少ないように思えた。私は自分の部屋のドアを開け、中のようすをうかがった。街とおなじように、私の部屋は静寂に支配されていた。写真立てやアルバムなど、一次避難のときには持つことのできなかった品々をかばんに詰め、アパートを出た。

 私は東京をさまよい歩いた。彼の残した足跡をたどるように、彼の存在の残像を確かめるように、思いつく限りの「彼がいそうなところ」をたずねて回った。以前の勤め先、学生のときにバイトしていた店、そして東京の民間軍事会社。どこにも彼の姿はなかった。まるで暗礁に乗り上げた船のように、彼の捜索は行き詰まっていた。

 座礁船。

 まるで座礁船みたいだな、と私は思った。岩にぶつかって使えなくなった船。広い海の上で、私はもうどうすることもできない。こんなときに誰かが願いを叶えてくれるとしたら、私はなにをお願いするんだろう。

 東京海とうきょうかいのどこかの海辺にあるという、願いが叶う座礁船。

 それを見つけることができたとしたら、私はなにをお願いするんだろう。

 この戦争の終わりだろうか。果てのない彼の捜索の終わりだろうか。それとも、両親の身勝手な行為によってはじまってしまった、この「生命」という名の病気の終わりだろうか。

 ——熱よりもっとひどい病気さ。僕は自分で死に場所を選ぶよ。

 疲れたな、と思った。さんざん歩き回ってすっかり疲れてしまった。でも、たぶんそれだけじゃないんだろう。この夏の始まりに、両親を失い、自分の住む場所を失い、そして愛する人を失おうとしているこの人生に、私は疲れてしまったのかもしれない。

 秩父への電車が発着する池袋へと戻る山手線、その静かな車内で、私は重くなった身体を椅子に預けながら、ゆっくりと目を閉じた。



 大きな物音で目が覚めた。どうやら電車のなかですこし眠ってしまったようだ。外を見ると、池袋のひとつ手前の高田馬場あたり。物音の出どころを探そうと立ち上がると、電車が大きく傾き、ぎしぎしといやな音をたてた。よろめいて転びそうになったが、なんとかつり革につかまった。どうしたんだろう、脱線かなにかだろうか。電車のなかは人々の悲鳴で溢れかえっている。車内アナウンスが響いた。

『現在、この電車は“敵“の襲撃を受けています! ご乗車の皆さまは、安全のためにぜったいに車外へ出ないでください! この車両は“敵“の攻撃に耐えうる設計となっております、くれぐれも車外へ出ないようにお願いします!』

「ふざけるなっ! ここで死ねって言うのか!」

「出して、死にたくないっ!」

 まるで地獄のようだった。車内は泣き叫ぶ女性や子どもの悲鳴、怒り狂う男性の怒声に満たされ、それに“敵“のあげるうなり声が重なる。寝覚めの音楽には最悪だ。

 “敵“の襲撃。

 気が遠くなりそうだった。

 この高田馬場の近辺は、神田川で海と繋がっている。きっと海から川を上ってきた“敵“が、この電車を見つけて襲撃したのだろう。

 しびれを切らした人々が、手動で開閉できる窓を開け、そこへ身体をねじ込んで車外への脱出を試みた。ひとりが成功すると、もうひとり、またひとりと車外に出て行く。私も持ち物をまとめ、車外へと出る人々の流れに乗って、車窓へと身を投じた。

 疲れきった身体を必死に動かしながら、線路をたどって池袋へ向かった。太陽は西の空に沈み、あたりはすっかり暗くなった。まるで私の恐怖や絶望をめいっぱいかき混ぜてできた色みたいに、夏の東京の空は真っ暗闇に染まっていた。遠くからはまだ“敵“の吠える不気味な音が聞こえてくる。

「だめだ、ここは通れない」

 前を歩く人の焦燥した声が聞こえた。見ると、大きな建物が崩れ落ちて線路を塞いでいた。夕方まではふつうに電車が動いていたので、この被害も先ほどの“敵“の襲撃と同時間に起こったものだろう。

「迂回ルートを探そう」

 そう言って乗客たちはもと来た道を引き返しはじめる。なんだか足が痛むので、その場にうずくまって足許を見てみた。右足が靴擦れを起こして出血している。ふくらはぎが発熱でもしているかのように痛む。今日一日じゅう歩きづめだったのだ。不安による心労も重なって、もう限界だった。

 このままここで眠ってしまおうか、そうすれば夢のなかで彼に逢える気がする……そんなことも考えたが、私は必死で邪念を振り払った。だめだ、こんなところで眠ってはだめだ。池袋まで行けば、あとは電車が秩父まで運んでくれる。池袋まであとすこしなんだ。くじけないで、前を向かなきゃ。

「……あれ?」

 気づくとまわりにだれもいなかった。みんな自分のことに必死で、ひとり靴擦れを気にしている私のことなんて気に留めていなかったのだ。

 私は憔悴した。池袋は彼のアパートに寄るくらいで、地理にはあまり明るくない。それに加え、すでに陽は沈んでしまった。“敵“の襲撃を受けた街にはところどころしか電気が通っておらず、街は重苦しい闇に沈んでいる。まるで陽の光の届かない深海に沈み込んだかのように、私は息が止まってしまいそうな思いだった。

 無心に足を動かした。付近の基地局がやられてしまったのか、スマホの電波がつながらないため、自分がいまどこにいるのかもわからない。それでも歩き続けるしかなかった。それがどれだけ危険なことなのかわかっていても、私には歩を進め続けるしかなかった。

 でも、もうどうでもよくなった。どれだけ捜し歩いたって彼は見つからない。両親だって帰ってこない。帰る場所も意味も見失ったこの人生に、私は疲れてしまったのだ。

 生命はある種の病気だ、と彼は言っていた。『生まれる』ことに対して、人間は自分の意志を介在させることはできない。それは病気のようなものだ。自分の意志で生まれることができないなら、死ぬときくらい自分の意志で死にたい……なんだかいまなら、彼の言っていることがわかるような気がした。

 なら、私の死に場所はどこだろう? 赤羽のアパートだろうか。秩父の祖父たちの家だろうか。それとも——。

 ざあ、ざざあ。

 波の音が聞こえる。

 渇いた瞳でしっかりと前を見据えると、目の前には水が広がっていた。ほのかな月明かりを反射した水面は、深いふかいあおの色。

 海。

 いつしか私は、どこかの海辺へたどり着いていたのだ。

「……きれい」

 思わずつぶやいた。久しぶりに見た夜の海は、荒廃した東京の夏を深い蒼に染めている。その上に輝く銀色の月。どこかべつの惑星に迷い込んだみたいな気分で、私はその光景にしばらく見とれた。

 しばらく眺めているうち、海の上にぽつんと浮かぶ、あるものを見つけた。

 願いが叶う座礁船。

 海が反射する銀色の月光に包まれながら、座礁船は静かな影を海面に落としている。ざあ、ざざあ、と波の音が東京海の海辺に響く。私はそっと目を閉じて、座礁船に祈った。べつに都市伝説を信じていたわけではない。藁にも縋る思いだったというわけでもない。ただ私は、彼の残した言葉を信じたかっただけなのかもしれない。彼の存在とのつながりを示すあらゆる事柄を、私の胸のなかに留めておきたかっただけなのかもしれない。

 ——じゃあ、澪はなにをお願いするんだい?

 決めたよ、航くん。たったひとつの、いまの私の願いごと。

 夏の東京の海辺で、私は「願いが叶う座礁船」に祈る。

「どうか、どうか……もういちどだけ、航くんに逢わせてください」

 私の声は波音にかき消えた。そろそろ夏も終わろうとしている。夏の速度——それはだれかの帰りを待ち続けるにはあまりにも遅く、だれかを喪った哀しみを癒すには、あまりにも速すぎるのだ。

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