『夏の速度と、蒼い海症候群』

夏の速度と、蒼い海症候群①

「願いが叶う座礁船?」

 私がそう訊くと、彼は「うん」と鷹揚にうなずいた。

東京海とうきょうかいのどこかの海辺に打ち上げられた座礁船があって、それに願いを掛けると、戦火の夜に願いが叶うらしい」

 彼の吸い込むアイスコーヒーがずるずると音をたてる。持ち上げたSサイズのグラスには汗のようにきらりと雫が光る。

「座礁船が願いを叶えるって、なんだかおかしいね。岩とかにぶつかって使えなくなっちゃった船のことでしょ?」

「そう……だけど、厳密に言うとちがうかな。海面が上昇して港から押し流されてきた船だ」

「どっちでもいいかなあ。使えない船に変わりはないもの」

「それもそうだね」

「船が私たちの願いを叶えてくれるの? 戦火の夜に?」

「うん。水平線に“敵”の船が炎上する光が煌めく夜に、その願いが叶うんだってさ」

「へんなの。どうやって船が叶えるの? 『お金持ちになりたい』とかでもいいの?」

「さあ……まあ、ある種の都市伝説だし、そもそもその座礁船が実在する証拠なんてないんだよね。このご時世海辺なんて危なくて行けないから、実際に見た人なんていないんだ」

「ええー。なんだ、つまんないの」

「見てみたいのかい?」

「んん、どうだろ」

 私があいまいに返事をすると、彼はグラスの縁を指でなぞりながらくつくつと笑った。

れいが行く疎開先の田舎には、少なくとも座礁船はないだろうけどね」

「海ないんだから当たり前でしょ。それに秩父ちちぶは田舎じゃないし」

「どうだか」

「で、もし、それがほんとうだとしたら、こうくんはなにをお願いするの?」

「そうだなあ」

 彼は額に手を当てて考え込んだ。なんてことない些細なことを考えているときにも、深刻な悩みを抱えているときにも出る、彼の癖のひとつだ。

「たくさんありすぎて決められない。澪が決めてよ」

「なんでよ」

 あきれて笑うと、彼もつられて笑ってくれた。ふたりの笑い声が静かな喫茶店に響く。

「じゃあ、澪はなにをお願いするんだい?」

 そう言われて、私は逡巡した。なにをお願いするんだろう。もしも願いが叶うとしたら、それを叶えてくれる座礁船に、私はなにをお願いするんだろう。

「……はやく戦争が終わりますように、かな」

 戦争、と彼が私の言った言葉を繰り返した。窓から外を見上げると、空には燦然と輝く初夏の太陽があった。これから暑くなりそうだな、と私は思った。

 喫茶店のテレビでは、今日もニュースキャスターが視聴者にさわやかな声を振りまいている。

『ただいま、御茶ノ水防衛線の定点カメラからの映像をご覧いただいております。本日も真っ青な東京海に浮かぶスカイツリーがきれいですねー。本日は比較的“敵”の来襲が穏やかですが、安全のためにくれぐれも海岸には近づかないようにしてください。このあと一三時半から気になる天気予報、そしてそのあと週間“敵”来襲予報をお届けします。今年の夏も暑い日が続く見込みです、熱中症にはご注意ください。それではみなさん、よい週末を』



 地球温暖化により、この国は国土の多くを失った。海岸線は後退し、都市は海に沈んだ。東京の首都機能は完全に麻痺し、この国の発展の象徴であった超高層ビルは青い海に浮かぶ単なる金属の塊となった。

 そしてこの夏の始まりに、なんの前触れもなく”敵”は襲ってきた。”敵”は海から来襲し、建物や家屋を破壊し尽くして、沿岸部にあった都市の大多数は壊滅した。自衛隊やアメリカの軍隊が駆けつけたが、”敵”はそれらを上回る力で攻めてきた。温暖化による海面の上昇、海岸からの”敵”の来襲により、人間は海に近づくことができなくなった。私の住んでいた赤羽のアパートは、海に沈みこそしなかったものの、進出した海の目の前という立地により特定沿岸危険区域に指定され、住むことができなくなった。海からいつ”敵”が来てもおかしくはないのだ。必要最小限の荷物を持って、私は秩父にいる祖父たちのもとへ疎開することにした。

 ”敵”の正体は不明。はるかに発達した文明を持った宇宙人だとも言われているし、人間が海に放り投げた産業廃棄物の化け物だとも言われている。でも、私にとってはどっちでもよかった。私にとって”敵”は、赤羽のアパートを奪い、自分の生活をかき乱した——そして自分の両親を奪い去った存在だということにすぎないのだ。それ以上でも以下でもない。


   ◯


 秩父に引っ越しをする当日、いつもの喫茶店で久しぶりに彼と会うことにした。彼はかろうじて残っている「東京」の部分に住んでいて、引っ越すつもりはないんだという。これからあんまり逢えなくなるね、と私は言った。小振りのきれいなペンダントを渡して、「私がいない間、それを私だと思ってね。ぜったいになくしちゃだめだよ」というと、彼はゆっくりとうなずいた。

 ふいに彼が視線を落とした。

「澪はさ」

 めずらしく大きなLサイズのコーヒーをすすりながら、彼はふと言葉をこぼす。

「生命って、なんだと思う?」

 その言葉を聞いて、私の動きはとまった。店内には小じゃれたBGMが流れ、冷房で心地よく冷やされた空気を震わせている。私は自分のカフェオレをテーブルに置いて、彼を見据えた。

「航くん、それってどういうこと?」

「僕はね」私の問いかけに応えるようすもなく、彼はその奇妙な話を続ける。「病気だと思うんだ」

「病気?」

「そう。生命とは、性行為によって感染する、致死性の病」

 妙ちきりんなその彼の言葉を聞いて、私はすこし笑ってしまった。いや、なにかがおかしかったわけではない。きっとなにかの小説の受け売りなんであろうその言葉が、いまの私にとってはひどく他人事のように聞こえたからかもしれない。

「どういうことなの?」

「”I was born”、だよ」

「『わたしは、生まれた』?」

「うん、『生まれた』なんだ。”be born”、受動態なんだよ。この世に生まれることに、自分の意志は介在しない。『踏む』と『踏まれる』、『撃つ』と『撃たれる』。それと同じように、僕たちは両親の『生む』という行為によってしかこの世に現れることはできない。彼らの身勝手な性行為によってのみ、僕らは『生まれる』ことができる。それはある種の病気のようなものだ」

「ちょっと……よくわかんないんだけど」

「澪はどう思う?」

「どう思うって——」

「僕はいやなんだ」

 彼はもうほとんど空になったコーヒーのグラスをあおり、口のなかに黒い液体を流し込んだ。そして、注文前に店員が運んでいた水に手を伸ばす。彼がこんなに飲み物を欲しがるのをはじめて見た。のどが渇いてるんだろうか、それにしてもペースが異常だ。私がSサイズのカフェオレを飲み終わる前に、彼はもう水も飲み干そうとしている。

「僕はいやなんだよ」

「なにが?」

「いずれ戦争に巻き込まれて、死にたくもないときに死にたくもない場所で、死にたくもない方法で死ぬのが。いまこの国にはそんなやつらばかりじゃないか。きみの両親だってそうだろう」

「航くんっ!」

 私は思わず声を荒げた。彼はばつの悪そうな顔をした。からん、と彼の握るグラスの氷が渇いた音をたてる。

「……ねえ、どうしちゃったの。なんだか今日へんだよ? 熱でもあるの?」

「熱よりもっとひどい病気さ。このままではもうこの国は終わりなんだ。僕は自分で死に場所を選ぶよ」

「どうやって」

「志願兵だよ」

 まるでなにかに取り憑かれたような、こごりのたまった瞳。

「民間の軍事企業が、志願兵を募集してるんだ。”敵”に対抗するための強力な兵器も開発してる。自分たちの居場所を守るために、彼らはみずから生命を捧げようとしている」

「……航くんもそれに行くの?」

「うん。なにもできず部屋でじっとしているよりはよほどいい」

「……そう。勝手にして」

 私はカフェオレを飲み干した。彼もグラスに残った水をあおり、話は終わりだとでも言うようにテーブルに置いた。たん、とぶつかる音が店内に響く。彼は立ち上がり、レシートを持ってテーブルを去って行ってしまった。私にはもう、彼の後ろ姿を見つめることしかできなかった。

 その夜、私は祖父たちのいる秩父へ行った。彼にさよならも告げずに。きっと彼は彼で、東京の軍事企業に行くんだろう。

 でも、いつか戦争は終わると思っていた。めぐる季節とおんなじように、この夏がいつか終わるように。

 少し剣呑すぎたかもしれない。戦争が終わって彼が帰って来たら、私から謝ろう。そして、彼が取り戻した東京の海辺を、いっしょに歩こう。

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