放たれる③

「——ここにいるよ」

 学校の屋上。

 ここから見る街の眺めは、なんだか知らないべつの場所のように思えた。

 遠く西の空はまるでカルシウムの炎色反応みたいに、鮮やかなオレンジ色に染まっていた。三月の肌寒い風が髪をなでる。知らない街の知らない地平線が、はっきりと私と世界とを分かつ。

 今日は卒業式の日。高校生活最後の日。

 巣立ち行く若者たちが、限りのない真っ白な「自由」と、覚悟と責任という「制約」を手にした日。

 遠い惑星に迷い込んだみたいに静かだった。卒業式も終わり、お互いの門出を祝い合う生徒たちの騒ぎ声が、惑星の大気のいちばん外側をなでるように響く。ぜんぶ他人事だ。私にとってはぜんぶ無関係だ。あるいはその逆か。この惑星にひとりぼっちでいる私のことなんか、世界にとっては関係のない他人事なんだ。

 そう、世界は私とは無関係。私が胸のなかにどんな想いを秘めていようと、一分一秒違わず、世界は回り続けている。

 その正しく公平な世界のなかで、卒業式は粛々と執り行われた。和泉はたくさんの友人たちと言葉を掛け合い、卒業を祝い合っていた。私はその輪のなかに入らなかった。たびたび和泉がこちらを気にするそぶりを見せたが、私は応えないようにした。私の望むのは一時の慰め合いではない。和泉と一緒に永遠の自由を手に入れることなんだ。和泉、あなたならわかってくれるよね。これはあなたのためなんだよ。

 そして、やはり両親は式に来なかった。それももうどうでもよかった。私という物語のなかで、句点の場所はもう決まっている。あとはそのときを待つだけだ。

 式が終わったあとに向かった屋上で、私はオレンジ色に煌めく夕陽を見た。

 鞄からスマートフォンを取り出し、画面に映った時刻を確認した。

「そろそろかな」

 電話アプリを呼び出して、着信履歴にたくさん表示されている、ひとつの名前に触れる。しばらくのコール音のあとに、『もしもし』と電話口から声が聞こえた。

『小夜子? どうしたの?』

 電話の向こうからでも、和泉は私の心臓に触れる声でささやいてくれる。

「……ううん、なんでもない。ちょっと声が聞きたくなっただけ。和泉、いまどこにいるの」

『そう? 小夜子から電話なんて珍しいね。部活の最後の集まりが終わっていま帰るとこ。このあと……待ち合わせがあるから』

「……うん」

 私は視線を落とし、眼鏡を弄んだ。

 何も知らなければよかった、と思った。知らない街の知らない空。すべてが他人事でできている世界。

「卒業おめでとう」

『うん、小夜子も卒業、おめでとう……小夜子、昨日はごめんね』

「どうして謝るの」

『突然だったからつい……あたし、そういうの、まだわからなくて』

 まだ、と言ったのは、きっと彼女の優しさだ。「あたしにはわからない」ではなく「あたしには『まだ』わからない」。異質なものに対しての、否定ではなく単なる無理解。でもその「まだ」が永久に訪れないことは私にもわかっていた。本質的には同じ拒絶だ。

「いいよ。私もごめんね」

 長い沈黙があった。

『……小夜子はどこにいるの』

「自由が見える場所だよ」

『……え?』

「自由が見える場所だよ。和泉も来る?」

 ふたたび沈黙があった。

『どういうこと? 自由が見える場所って?』

「和泉」

『なんかへんだよ、小夜子。そうだ、このあと時間ある? ちょっと会おうよ」

「だめだよ。和泉には、行くべきところがあるでしょ。逢うべきひとがいるでしょ」

『でも——』

「私にも行くべきところがあるの」

 私の行くべきところ。それは和泉が教えてくれた。

「和泉、私ね……自由になるの」

 何度目かの沈黙。電話口からは、私が屋上でいま聞いているのと同じ、卒業生たちのたてる雑音がかすかに漏れ聞こえてくる。

『……自由? 自由って、どういうこと? 小夜子が昨日言ってた、丸だとか、制約とか限界とかの話?」

「そう。そうでもあるし、自由は和泉が好きなものだよね」

『そうだけど……』

「和泉が好きなもの、私も好きになりたいの」

 屋上に吹く風は、次第に冷たくなってきた。三階建ての校舎の屋上からは、生徒の姿は小豆くらいにしか見えない。

「和泉が好きなものに、私はなりたい」

『ちょっと待って、小夜子。その話はもうやめよう? いまどこにいるのか教えて』

「生きてると制約ばっかりだよね。ああしなさいとか、こうしなさいとか、あれはだめとか、それはだめとか。決められたルールに従って、敷かれたレールに沿って、ただただ手と足を動かしていればいいの。私はその方が楽だった。なんにも逆らわず、すべては無関係な他人事だと思って、感情は檻に閉じ込めておけばよかった。そうすれば先生は褒めてくれるし、親は束の間は安心してくれる。私はそれでよかった」

 すべては句点の向こう。どんなに声高に自分の感情を叫んでも、句点の向こうの外の世界には届かない。

『小夜子』

「でも、ほんとうはちがったんだね。ほんとうに私が声を聞いて欲しかったのは、先生でも両親でもなかった——和泉、あなただったの。昨日あなたに告白して、よかったと思ってる」

『ねえ、小夜子』

「和泉、見てて。私はいまから自由になるの。何事にも縛られない自由な世界へ羽ばたくの。和泉言ってたよね、職業選択の自由、宗教の自由……それから、レンアイの自由! 自由って素敵ね、どんな苦しみからも悩みからも解き放たれて、私は和泉の好きな私になるの」

 和泉、私を見てて。

 そしてあなたも、私の好きを受け止めて。

 だって、私はこんなにもあなたのことが愛おしいのだから。

 ねえ和泉、「自由」の意味って知ってる? おおむかしでは「わがまま放題」の意味だったんだって。自由が好きな和泉なら、私の最後のわがまま、聞いてくれるかな。

 私は立ち上がった。屋上の縁から覗き込むと、ちょうど真下に彼女の姿が見えた。

『小夜子! いまどこにいるの? お願い、答えて!』

 電話の向こうで和泉が叫んだ。

 きれいな声。

 瞳、指、口、髪、声——彼女のすべてが愛おしい。そう自覚したときから、私の物語から句点という制約はなくなっていた。世界は無関係ではなくなっていた。檻の鉄棒はへし折られ、私の感情は外の世界に放たれていった。

 和泉、愛してる。

 愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる

「愛してるよ、和泉」

 でも物語はいつか終わりが来なければならない。制約に縛られないあなたの自由な物語にも、私が句点を打ってあげる。私があなたを閉じ込めてあげる。やっぱり自由は怖いの。私と一緒に、二人だけの檻のなかに入りましょう? 私は和泉の好きなものになるんだから、和泉も私の好きなもの、受け止めてくれるよね。

 もう「制約」じゃない……これは私と和泉の、二人のあいだの「誓約」だよ。

 スマートフォンを足下に置いた。電話の向こうでは、まだ和泉の声が私の名前を叫んでいた。

「すぐにそこに行くよ、和泉。だから、私を見ててね」

 下のほうで誰かがなにかを叫んだのが聞こえた。でももうそれも、またすぐに他人事になる。私は和泉の物語に句点を穿ち、彼女を閉じ込め、私たちだけの檻のなかで永遠に暮らすのだ。

 和泉が見上げたのが見えた。

 私の視線と彼女のそれが重なった。

 私の両脚は屋上を離れた。その瞬間に、私は自分だけの檻から放たれる。

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